嘘は、一度ついてしまえば、二度目のハードルは下がったように思う。適当に「先生に呼ばれた」とついた嘘をみんなは簡単に信じて、「またお人よし発揮して」と呆れながらも帰っていった。今回は、さっさと帰ってしまう背中が、ありがたいと思った。
 放課後の図書館は、時間をつぶすにはもってこいだった。彼女たちはあまり本を読むわけでもないから、ここを訪れる心配もない。頭上の掛け時計を確認すると、午後六時をちょうどすぎたところだった。膝の上の置いていた本を返して教室に戻る途中、雨が降っていることに気づいた。
 いつか放課後に聞こえてきた音楽室からの音色が今日は控えめな理由はこれか、と納得する。今日は午後から雨予報で、いつの間にか振り出していたようだ。冬の雨はあまり得意ではない。しとしとと降ってくれればいくらかましだが、今日のような雨脚の強さ座度、傘をさしていてもどうしても濡れてしまう。皮膚に水滴がついたそこから体温を奪われていく感じが、なんとも不快だ。家に着くまでに靴下は浸水してしまうことを考えるとため息が出そうになるが、今は心臓のほうが飛び出してしまいそう。
改めて教室内を確認する。私のスクールバッグだけがまだ机のフックにかかっていた。
結局あの後は、タイミングが無くて、沢見くん本人に教科書を返すことができなかった。だから、返すなら、今。もう一度、周囲に人がいないのを確認して「ありがとうございました」と書いた付箋を表紙に張り付けた。好みは全く知らないけれど、お昼休みに購買で買ってきたお菓子も一緒に、沢見くんの机の中に入れる。
閑散としている廊下からは、校舎にはほとんど生徒は残っていない印象だが、念には念を。教室を後にするときも、各教室にひとがいないかどうかを確認しながら、昇降口に向かった。
階段をおりようとして、靴箱の前に人影を認める。外履きに履き替えて、体育座りでガラスドアの向こうを眺めている――沢見くんだ。
(何をしているんだろう?)
 なんとなく下に降りづらくなって、頬杖を突く沢見くんを上から眺める。
一度教室に戻って、出直すか。それとも、降りるまで気づかなかったふりをして、何事もなかったようにふるまうか。あるいは、教科書を貸してくれたお礼を、ここで今いうべきか。
 そんなことを考えていたら、沢見くんがふいに顔をあげて、目が合った。その目が見開かれて沢見くんが形式的にお辞儀をしてくるから、私も反射的に頭を下げた。
視線が交わったのは、ほんの数秒。それは私たちの関係値を示しているようだった。スマホを壊し、壊されて、教科書を忘れて、見せてあげた。それだけの関係。
沢見くんの視線はすぐにまた、ガラスドアの向こうの降りしきる雨に戻り――ため息が漏れていくのが聞こえた。
(ため息って、声が出なくても、吐けるんだ。)
と、当然のような、不思議なような感想を持った。
 沢見くんは、傘立てから傘を取る気配もなければ、ここを今すぐ出て行くような雰囲気でもない。
(もしかして、傘がないのかな。)
 私の傘は傘立てに一本ある。そして、教室のロッカーにも一本、折り畳み傘がある。以前サエリに貸した折り畳み傘を、今日ちょうど返してもらったのだ。
昇降口で座り込む沢見くんには、傘を貸してくれる友人の一人や二人はいるだろう。今ならまだ部活をやっている友達もいるだろうし、声をかければ一人ぐらい置き傘を貸してくれるはず。それに、玄関の傘立てに立ててある名前のない傘を勝手に拝借したって、沢見くんを咎める人はいないだろうに。
しかし、沢見くんは依然として静かに外を眺めているだけだった。
このままいつ止むか分からない雨を待つのだろうか。
(――でも、今が一番恩返しのチャンスなんじゃない?)
 これは好機だと頭ではわかっているけれど、体はすぐに動いてはくれない。いつか浅田くんに教科書を貸したように、そうさせる口実が出来上がっていない。つまり自分その機会を作り出すというのは、今の私にとって嘘を吐くよりハードルが、高い。
 足踏みしている間にも、時間は無情に過ぎていく。
ついに沢見くんは着ていたダウンコートのフードを目深く被り、立ち上がった。
「あの!」
衝動的に、自分でも驚くぐらい大きな声が出た。壁という壁に声が反響して、いつかの沢見くんの笑い声、まではいかないにしても、なかなかの音量だった。耳の奥で自分の声がぐらんぐらんと響いている。
フードをかぶったまま、沢見くんは私を見上げた。
「あの! そこで、待っててください!」
 私は大慌てで教室に引き返し、沢見くんの机に入れたはずの教科書とお菓子を胸に抱き、ロッカーの折り畳み傘をひっつかむ。急いで戻ると、玄関にまだ沢見くんの姿があってほっとするとともに、胸が早鐘を打った。ばたばたと音を立てて階段を降り、沢見くんの前に立つと、紺色に白のストライプが入った折り畳み傘、教科書とお菓子を差し出した。
「もしよければ……どうぞ」
 声が上ずって、手は震えていた。
沢見くんはフードを取って、私と傘を見比べた。
(もしかして、間違えた……?)
なかなか沢見くんが受け取らないから、後悔が一気に押し寄せて、私は出した手を引っ込める。
(まちがえた、まちがえた、まちがえた。)
何てことしたんだろう。今すぐここから逃げ去りたい。でも、足がすくんでしまって、動けない。どうしよう、代わりに沢見くんがこの場から立ち去ってくれないかな。
頭の中は真っ白になって、羞恥に顔がどんどん熱を持っていく。
(消え去りたい……!)
俯いて、ぎゅっと目を瞑った。
『でも、辛島さんは?』
沢見くんは、困った表情で私を見ていた。
「傘は、あって……」
 とっさに傘立てに目を遣る。沢見くんも私の視線を追って、確認するけれど、承服しかねるようだった。
『でも』
「あ、あの」
 何か言いたげな沢見くんを遮る。ぐっと手に力が入った。
「教科書のお礼、です……だから」
 ひっこめた傘、教科書とお菓子をもう一度差し出す。
「ありがとう、ございます。……本当に」
 これでもダメなら……あと五秒数えて、受け取らなかったら、無理やり押し付けてここを去ろう。出過ぎた真似だったと謝って、一旦落ち着くために教室に戻ろう。
そうやって心の中で「いち」と数えた。
 沢見くんは私が「に」「さん」と数えてもそのままで。「よん」と胸の内でつぶやいて、「ご」と言いかけた。
『それじゃあ』
沢見くんの声に顔を上げた。
『甘えさせてもらってもいいですか? 助かります。ありがとう』
あたらめて聞くと、沢見くんはこんな「声」だったのか、と妙に感動を覚えた。少し幼さを含んだような、それでいて穏やかな優しい声。
申し訳なさそうに笑うその目元は、三日月のように弧を描いた。真っ暗闇の中に浮かぶ月明りを見つけて、自然と笑顔になるような、そんな気分になった。
「じゃ、じゃあ……」
 ほとんど逃げるように、私は教室への階段を駆け上がった。下からこちらが見えない位置から玄関を見下ろすと、しばらくこちらを見ていた沢見くんは、私の貸した傘を開いて、校舎を後にした。
 制服がぐしゃぐしゃになるのもお構いなしに、心臓を抑えつけるように自分の胸元をぎゅーっとつかんだ。大きく胸打つ鼓動が、耳の奥から聞こえてくるようだった。
誰かに手を伸ばして、だれかがそれを取ってくれるだなんて、久しぶりだった。今なら何でもできそうな、感情の昂ぶりを覚える。その割には頬が冷たく感じるなと思い、震える手でそのまま顔に触れると、しっとりと湿っていた。
こんな些細なことで泣けてしまう自分が、可笑しくて、緊張を吐き出すように笑いがこみ上げた。