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「みんなくじは引き終わったかー? そしたら各自場所確認してさっさと席移動しろー」
 先生の監視のもとに、毎月初め恒例の席替えが行われた。廊下側一番前の席の人から順番に教卓のくじを引いて、黒板に示された座席表を確認する。番号順に前から順に席が決まるのではなく、先生が毎回ランダムに数字を配置していくので、一番を引いたからと言って一番前の席になるわけではない。しかも男女混合の席配置にされるから、女子ばかり、男子ばかりのブロックができたりする。
「ねー! みんな席どこだったの?」
「真ん中の一番前? ご愁傷様」
「後ろの角席だったー、ラッキー」
 くじ引きに一喜一憂するクラスメイトの声を聞きながら、私の心臓はせわしなく動いていた。さっきから冷や汗が止まらない。
朝、登校してから私はずっと絶望の淵に立っていた。
思えば目を覚ました時から不吉な予兆があった。
目覚まし時計のセットを忘れて、今朝起きた時には予定の起床時間を三〇分もすぎていた。いつもの電車を逃すと、登校時間ギリギリになってしまうものだから、それだけは避けたい一心で、電車を逃さないために大急ぎで準備をした。命からがら電車に乗り込めたのはいいものの、一時間目の英語表現の教科書を机の上に忘れてきたことに、さっき気が付いた。
英語表現の教科担当は忘れ物にうるさい。だからいつも忘れないように気を付けていたはずなのに。私は敢えて地元の同級生がほとんど来ないような学校を選んでいた。だから他クラスに仲のいい友人はおろか、大した知り合いもいない。隣のクラスの女子は、体育の授業で一緒になるけれど、教科書の貸し借りができるような仲ではない。
登校したときから今日席替えがあるのは分かっていた。隣に来るのがせめて、沙菜たちのうちの一人であることを願いながら、一つ隣の席に荷物を移動させて周りを見渡した。
もも恵と沙菜が前後になったみたい、サエリと奈々未は斜め同士で窓際の席に。
誰も私の真ん中列一番後ろの席、私の席の隣にはならない。
そうなったらせめて、女子が隣に来てくれとの願いも虚しく、左隣は学級委員長の男子だった。「一か月よろしくね、辛島さん」と律義に挨拶してくれるのに、愛想笑いで返す。こんな精神状態でなければ、もう少し心をこめられたというのに。ごめんなさい委員長、と心の中で謝りながら、右隣りは女の子が来るように祈った。
徐々にクラスメイトの移動する波が収まってきたところで、隣にやってきたのは。
「え……」
 思わず声が漏れて、慌てて口を手で押さえた。それに気づいた沢見くんがこちらを見た気がしたけれど、慌てて顔をそらしてごまかした。
 英語表現のノートを机の上に出すと、一時間目開始の本鈴が鳴った。まだ少しにぎわう教室も、廊下を歩いてくる教科担任が見えると、水を打ったように静かになる。
「正座、礼」
「よろしくお願いします」
「そしたら前回の続きで……」
 学級委員長の号令を合図に、先生が授業を始める。私は机の中に、あるわけがない教科書を探していた。前回、チャプターの途中で授業が終わってしまったから、先生はその文章の文法の説明をしている。まだ朗読のターンではないから、板書で乗り切れる。でも次のチャプターに移れば、ランダムで指され、英文を読み上げるように言われてしまう。
 どうしよう、ここは素直に、先生に教科書を忘れたことを言うべきか。でもそれなら、授業の始まったタイミングで言った方が、いくらかましだったかもしれない。
 声をかけるなら、委員長一択だけれど、タイミングがわからない。さっき挨拶をしてもらったときにそれとなく頼めばよかったと後悔する。
 板書の手が止まって、変な汗が全身に噴き出す。先生の声がどんどん遠ざかっていく。
『先生』
 突然、声をあげたのは、沢見くんだった。
『すみません、教科書忘れてしまったので、隣の人から見せてもらってもいいですか?』
先生が眉間にしわを深く刻んで、空気が一瞬にして凍る。先生は出席簿に鉛筆で何かを記し「次からは授業が始まる前に言え」と言い放つと、また黒板に向き直った。
(どうか、お願いだから、反対側の男子に頼んで……!)
板書に必死なふりをして、特に意味もない蛍光ラインを引きながら、神に祈った。
しかし、沢見くんが声をかけてきたのは私だった。
『申し訳ないんだけど、教科書見せてもらってもいい?』
 沢見くんはアプリに文章を読み上げさせることはせずに、スマホに打った文面を見せてきた。ごめんなさい、私も教科書持ってないんです。口の中で何度か練習し、意を決して顔を上げると、沢見くんの机の上には英語表現の教科書が出ていた。
 混乱して、その教科書と沢見くんを見比べると、またスマホの画面を見せられた。
『机の中に入ってたの、僕のじゃなくて辛島さんのだったんだ。だから、見せてもらってもいい?』
「……え?」
そんなはずはない。だって私はちゃんと教科書を家に忘れている。けれど、沢見君が有無を言わさず自分の机を私の方に寄せてくるから、現実を受け入れざるを得なかった。
――ありがとう。
沢見くんの唇がそう動いた。そして机の端と端をくっつけた境目に教科書が開かれた。好奇、期待、そして怪訝と不満を含んだまなざしが飛んでくるのを感じると同時に、ポケットの中のスマホが震えたのが分かった。でも私にはスマホを見る余裕なんてなくて、ただ視線を必死にノートと黒板の間を行きさせた。
 授業の合間にこっそり裏表紙を確認したが、そこにははらうような筆遣いで「沢見亮雅」と書かれていた。
どうして沢見くんは、私が教科書を忘れたことに気づいたのだろう。どうしてかばってくれたのだろう。そうしてもらう理由はわからなかったけれど、胸が熱くなって、授業中であることを忘れて泣いてしまいそうだった。
 授業が終わると、沢見くんは『ありがとうございました』と私に教科書を渡して、机を離した。私は、裏表紙の名前を誰にも気づかれないよう、机の中に教科書をしまった。代わりに出したスマホの画面には『どういうこと?』『ねえ、沢見と仲良かったの?』『佳純』と質問が次々に送られてきていた。私が既読をつけようとしないことに気づいてからは『昼休み、逃げないように!』ともも恵からの返信で終わっていた。
やってきたお昼休み。私は予告通り、尋問にあった。
「沢見って、もしかして佳純のこと狙ってるんじゃない?」
 沙菜の発言にぎょっとして周りを見渡すけれど、沢見くんは離れた場所で友人たちに囲まれていた。
「なに、言って……」
 やんわりと否定してみても、彼女たちは面白がるばかり。
「えー、でもわかんないよ。こういうとこから始まるんだから」
「そうだよ、だって右隣は男子なのに、わざわざ女子に行くってことはさ」
「ね、そういうことだよね?」
 離れているとは言っても同じ教室内。沢見くんたちに、会話が聞こえているのではないかと気が気じゃない。私は「ちがうよ」と力なく否定する。
 この前までは、私と恋愛を切り離しているようだったのに、今は獲物を見つけたようだ。でもきっと、万が一にでも私が誰かと付き合い始めたら、面白くなくなるのだろう。
 そしたら私は、完全にハブられてしまうだろうか。
「ぶっちゃけどう?」
「ありか、なしかで言ったら?」
「え……」
 苦し紛れに私が出した答えは「わからないよ」だった。
 正直に、分からない。今の自分の気持ちはもちろん、沢見くんのこと、よく知らないし、私は自分が誰かと恋愛関係になる想像を、もう長いことしていない――しないと、決めているから。
「えー、つまんない。ただの話なのに」
 口をとがらせる沙菜の言葉に、ぎくりとする。けれど、ほかのメンバーにとってはこの私の正直な回答は、どうやら正解だったみたいで。
「まあ、佳純だし。そりゃわかんないか」
「そうだよね。佳純のひとめぼれ、はちょっと違うかも」
 ひとめぼれといえばさ、と奈々未が仕入れた最新のゴシップを披露するからみんなの興味はすぐに移った。
ほら、と内心で思う。話題を続けて、私にその自覚が芽生える前に、なんていう魂胆なんだろう。
(そこまで警戒しなくても、私は間違えたりしないのに。)
気づかれないように、小さくため息をついた。