帰り支度を済ませたみんなといつものように駅まで歩き「これから携帯ショップに行くから」と別れる。四人の背中を見送ってから、学校まで引き返した。その間も、もしかしたら彼女たちにばれてしまうかもしれない。そんな不安感と焦燥感を抱きながら急いだ。
昇降口で上履きに履き替え、早鐘を打つ胸を手で押さえつつ、保健室を目指す。
『明日。放課後。保健室で』
入学初日の校内見学以来、保健室に詩を踏み入れたことはない。私たちの教室がある棟の隣の棟、一階の角。外からも出入りできる位置にあることくらいしか知らない。沢見くんがどうしてここをわざわざ指定したのかはわからないけれど、追及もしなかった。
彼の壊れたスマホを手に、扉にぶら下がっている小さなホワイトボードには「保健室」と書かれていて、彼の壊れたスマホを持つ手と逆の手で扉をノックをした。
中からの返事はない。
『たぶん返事ないかもだけど、そのまま扉開けて大丈夫だから』
昨日沢見くんにいわれた通り「失礼します」と断って、扉を引いた。
勝手に消毒液の匂いがすると思っていたが、予想もしなかったラベンダーのようなほっと心が落ち着くような花の香りが鼻腔をくすぐる。消毒液の匂いは微かにするかしないかくらいだった。オルゴールの音色で満ちる白い部屋には、長テーブルと、パイプ椅子があって、ベッドが二台カーテンに仕切られて並んでいる。正面の奥には、先生用のオフィスデスクがあるが先生は不在。
右の端、パーテーションで区切られている一角に、人の気配がして背筋を伸ばした。
「沢見くん……います、か?」
誰かいるかと試しに声をかけてみるけれど、返事はない。来てみたはいいけれど、沢見くんは見当たらない。
どうしようかと考えあぐねていると、パーテーションの中から壁を三度、たたく音が聞こえた。それから少しして扉のようなものが開く気配がして、パーテーションから顔を出したのは、沢見くんだった。
『申し訳ない、ちょっと待ってて』
そう「言った」のは、私の携帯じゃなかった。
「あ、いえ……」
(もしかして、無視、されてた?)
一瞬よぎった疑いはすぐに晴れる。
「ちょっと待て」
パーテーションの向こうから、もう一つ、知らない男性の声が聞こえた。普段聞く沢見くんの声よりも癖のある、落ち着いた声。そっちは肉声だ、と思った。機械を通さずに、今同じ空間で声帯を振るわせて発せられた、生身の人間の声。
『もう終わってんじゃなかったの』
「今からやんだよ」
『来るって、ちゃんといったよね?』
沢見くんはパーテーションの向こうから出てくると『座って』とテーブル前の椅子を引いてくれた。
『申し訳ない、もう少し時間かかるけど、大丈夫?』
「あ、いえ……問題、ないです。……あ、あと」
腰を下ろす前に、私は頭を下げてスマホを差し出した。
「これ……ありがとう、ございました」
けれど、スマホは受け取られない。不思議に思って顔を上げると、沢見くんは怪訝そうな顔をしていた。
『なんで、ありがとう?』
「……え?」
『おかしくない?』
私のではない、全く別の新しいスマホから指摘されて、体がこわばる。
『だって僕、全く辛島さんのためになること、してないよ? むしろ、僕のほうがスマホ貸してくれてありがとう、っていうべきなのに。なんで?』
思いもよらない返答に口をつぐむ。なんで、と問われても、そうするのが当たり前のように感じたから、つい反射的に言ってしまっただけで、特別深い意味があるわけではない。
けれど、沢見くんは続けた。
『スマホ。もしかして、壊れてほしいって、思ってたの?』
何かに喉を絞められたように、ひゅっと息がもれた。息が、苦しい。
沢見くんはからかうようでもなく、いたって真剣に私を見ていた。まるで、私の何かを知っているような口ぶりに、何かを見透かすような、あるいは探ろうとするまなざしを向けられて、彼から目をそらした。
入学式を経て、同じクラスになってからずっと思っていたことだが、私は彼が苦手だった。半年以上も同じクラスで過ごしてきても一度も「会話」をしたことがなかったのは、私が意図的に避けていたというのもある。彼が手にするスマホが「しゃべる」度に複雑な昏い感情が、ひそかに確実に胸の中でとぐろを巻いていった。謎の罪悪感や劣等感があって、それが誰かに伝わってしまうのが嫌で、目も合わせないようにしてきた。
そんな相手に――いや、そんな相手だからこそ、気づかれてしまったのだろうか。
「亮雅」
その声は、諫めるような強さを含んでいた。名前を呼ばれた沢見くんは、ハッとした様子で何かを画面に打ったけれど、次には難しい顔をして、全部消した、のだと思う。
『怖がらせたかったわけじゃないんだ。申し訳ない』
沢見くんは私と目を合わせると、頭を下げてきた。私は首を左右に振った。
「大丈夫、です」
話題を変えようと思案して、私は沢見くんの持つスマホに目を留めた。
「それ、新しいスマホですか?」
沢見くんは頷いて、その手にあるスマホを見せてくれた。
『最新モデル、ではないけど。だから、ちゃんと辛島さんのスマホはお返しします』
「でも……あの、やっぱり……弁償させてくれませんか?」
新しいものをすでに手に入れたのであれば、お金を払うことはできる。スマホを見た感じ、そのモデルであれば自分の貯金額では足りないが、両親に相談すれば工面できるだろう。
けれど、沢見くんの返事は変わらなかった。
『本当に、大丈夫です』
「で、でも……」
『これ、僕は一銭も出してないから。だから、本当に大丈夫です』
言葉を変えたって、事実は変わらない。自分が出していないということであれば、当然親御さんが払っているわけで。また食い下がろうとしたけれど、『ちがう、ちがう』と止められた。
『僕、いわゆる被検体だから』
「ひけん、たい……?」
『そう。早い話が……まあ、体のいいおもちゃ?』
沢見くんがおどけると「おい」と、パーテーションの向こうから咎めるような声が飛んできた。
『あれ、怒った? すまんて、悪気はない』
「終わったから、もってけ」
沢見くんはパーテーションの向こうにいる誰かのもとへ行くと、私のスマホを手に戻ってきた。
『貸してくれて、ありがとうございました。助かりました』
沢見くんに貸すにあたって画面ロックは解除していたから、簡単にホーム画面が開かれる。一番見えるところにあるメッセージアプリの通知は上限を超えたようで、プラス表示のみになっていた。
『SNSは一切見てないから、安心してください』
律儀に報告してくれる沢見くんに、もう一度謝罪を込めて頭を下げた。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
『いいえ、こちらこそ。じゃあ……また、明日』
「……また……」
明日以降、沢見くんと話す機会なんて、あるだろうか。なんとなく、そんな想像はできなくて「明日」という言葉は言えずに保健室を後にした。
昇降口で上履きに履き替え、早鐘を打つ胸を手で押さえつつ、保健室を目指す。
『明日。放課後。保健室で』
入学初日の校内見学以来、保健室に詩を踏み入れたことはない。私たちの教室がある棟の隣の棟、一階の角。外からも出入りできる位置にあることくらいしか知らない。沢見くんがどうしてここをわざわざ指定したのかはわからないけれど、追及もしなかった。
彼の壊れたスマホを手に、扉にぶら下がっている小さなホワイトボードには「保健室」と書かれていて、彼の壊れたスマホを持つ手と逆の手で扉をノックをした。
中からの返事はない。
『たぶん返事ないかもだけど、そのまま扉開けて大丈夫だから』
昨日沢見くんにいわれた通り「失礼します」と断って、扉を引いた。
勝手に消毒液の匂いがすると思っていたが、予想もしなかったラベンダーのようなほっと心が落ち着くような花の香りが鼻腔をくすぐる。消毒液の匂いは微かにするかしないかくらいだった。オルゴールの音色で満ちる白い部屋には、長テーブルと、パイプ椅子があって、ベッドが二台カーテンに仕切られて並んでいる。正面の奥には、先生用のオフィスデスクがあるが先生は不在。
右の端、パーテーションで区切られている一角に、人の気配がして背筋を伸ばした。
「沢見くん……います、か?」
誰かいるかと試しに声をかけてみるけれど、返事はない。来てみたはいいけれど、沢見くんは見当たらない。
どうしようかと考えあぐねていると、パーテーションの中から壁を三度、たたく音が聞こえた。それから少しして扉のようなものが開く気配がして、パーテーションから顔を出したのは、沢見くんだった。
『申し訳ない、ちょっと待ってて』
そう「言った」のは、私の携帯じゃなかった。
「あ、いえ……」
(もしかして、無視、されてた?)
一瞬よぎった疑いはすぐに晴れる。
「ちょっと待て」
パーテーションの向こうから、もう一つ、知らない男性の声が聞こえた。普段聞く沢見くんの声よりも癖のある、落ち着いた声。そっちは肉声だ、と思った。機械を通さずに、今同じ空間で声帯を振るわせて発せられた、生身の人間の声。
『もう終わってんじゃなかったの』
「今からやんだよ」
『来るって、ちゃんといったよね?』
沢見くんはパーテーションの向こうから出てくると『座って』とテーブル前の椅子を引いてくれた。
『申し訳ない、もう少し時間かかるけど、大丈夫?』
「あ、いえ……問題、ないです。……あ、あと」
腰を下ろす前に、私は頭を下げてスマホを差し出した。
「これ……ありがとう、ございました」
けれど、スマホは受け取られない。不思議に思って顔を上げると、沢見くんは怪訝そうな顔をしていた。
『なんで、ありがとう?』
「……え?」
『おかしくない?』
私のではない、全く別の新しいスマホから指摘されて、体がこわばる。
『だって僕、全く辛島さんのためになること、してないよ? むしろ、僕のほうがスマホ貸してくれてありがとう、っていうべきなのに。なんで?』
思いもよらない返答に口をつぐむ。なんで、と問われても、そうするのが当たり前のように感じたから、つい反射的に言ってしまっただけで、特別深い意味があるわけではない。
けれど、沢見くんは続けた。
『スマホ。もしかして、壊れてほしいって、思ってたの?』
何かに喉を絞められたように、ひゅっと息がもれた。息が、苦しい。
沢見くんはからかうようでもなく、いたって真剣に私を見ていた。まるで、私の何かを知っているような口ぶりに、何かを見透かすような、あるいは探ろうとするまなざしを向けられて、彼から目をそらした。
入学式を経て、同じクラスになってからずっと思っていたことだが、私は彼が苦手だった。半年以上も同じクラスで過ごしてきても一度も「会話」をしたことがなかったのは、私が意図的に避けていたというのもある。彼が手にするスマホが「しゃべる」度に複雑な昏い感情が、ひそかに確実に胸の中でとぐろを巻いていった。謎の罪悪感や劣等感があって、それが誰かに伝わってしまうのが嫌で、目も合わせないようにしてきた。
そんな相手に――いや、そんな相手だからこそ、気づかれてしまったのだろうか。
「亮雅」
その声は、諫めるような強さを含んでいた。名前を呼ばれた沢見くんは、ハッとした様子で何かを画面に打ったけれど、次には難しい顔をして、全部消した、のだと思う。
『怖がらせたかったわけじゃないんだ。申し訳ない』
沢見くんは私と目を合わせると、頭を下げてきた。私は首を左右に振った。
「大丈夫、です」
話題を変えようと思案して、私は沢見くんの持つスマホに目を留めた。
「それ、新しいスマホですか?」
沢見くんは頷いて、その手にあるスマホを見せてくれた。
『最新モデル、ではないけど。だから、ちゃんと辛島さんのスマホはお返しします』
「でも……あの、やっぱり……弁償させてくれませんか?」
新しいものをすでに手に入れたのであれば、お金を払うことはできる。スマホを見た感じ、そのモデルであれば自分の貯金額では足りないが、両親に相談すれば工面できるだろう。
けれど、沢見くんの返事は変わらなかった。
『本当に、大丈夫です』
「で、でも……」
『これ、僕は一銭も出してないから。だから、本当に大丈夫です』
言葉を変えたって、事実は変わらない。自分が出していないということであれば、当然親御さんが払っているわけで。また食い下がろうとしたけれど、『ちがう、ちがう』と止められた。
『僕、いわゆる被検体だから』
「ひけん、たい……?」
『そう。早い話が……まあ、体のいいおもちゃ?』
沢見くんがおどけると「おい」と、パーテーションの向こうから咎めるような声が飛んできた。
『あれ、怒った? すまんて、悪気はない』
「終わったから、もってけ」
沢見くんはパーテーションの向こうにいる誰かのもとへ行くと、私のスマホを手に戻ってきた。
『貸してくれて、ありがとうございました。助かりました』
沢見くんに貸すにあたって画面ロックは解除していたから、簡単にホーム画面が開かれる。一番見えるところにあるメッセージアプリの通知は上限を超えたようで、プラス表示のみになっていた。
『SNSは一切見てないから、安心してください』
律儀に報告してくれる沢見くんに、もう一度謝罪を込めて頭を下げた。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
『いいえ、こちらこそ。じゃあ……また、明日』
「……また……」
明日以降、沢見くんと話す機会なんて、あるだろうか。なんとなく、そんな想像はできなくて「明日」という言葉は言えずに保健室を後にした。

