「どうして、名前があったんですか、翔琉さん」
パソコンに向かう翔琉さんにはなしかけても、返事はない。じっと熱い視線を注いでみても、私は見向きもされない。
『出席日数、足りてなかったからね』
「沢見くんは知ってたの?」
『まあ。年が明けた時点で、分かっていたし』
だから保健室を自分の部屋のように使っていたのか、と納得する。いや、そもそもずっと保健室にいたのかもしれないけれど。
あの一件があってから、保健室にはよく来るようになった。彼女たちが私たちの顛末を一から百まで話してなかったにせよ、グループに所属しないというのは、思いのほか肩身の狭い思いをした。
暁の間は、そういう人のために開かれているから、という沢見くんの言葉に励まされ、お昼休みはたいてい保健室にいた。そして、沢見くんと手話の勉強をしていた。
『でも僕、来年も同じクラスでうれしいよ』
その言葉に、私も笑顔で応える。
高校二年生、私は沢見くん、そして翔琉さんと一緒に過ごすことになる。
かつての居場所だった四人とは離れ、その四人もそれぞれ異なるクラスに名前があった。あれだけ結束しているように見えた彼女たちは、来年も一緒にいるのだろうか。はたまた、別のグループに所属するようになるのだろうか。
いずれにせよ、今までそうだったように、きっとうまくやるのだろう。けれど、できるだけ傷つかない日々を過ごせるよう、願わずにはいられない。
『来年は文化祭もあるし、楽しみなことたくさんだ』
ね、翔琉。と沢見くんが話しかけても、翔琉さんはパソコンから顔を上げようとしない。
『やっぱ返事ないね』
保健室に来るようになってから、どうしたら翔琉さんの気が引けるのか試行錯誤を繰り返しているのだが、一週間経っても私には一向に興味を示してくれない。沢見くんは幼馴染だし、「声」の製作者だしということで、私よりも翔琉さんとの親密度は高いし、沢見くんは翔琉さんの扱いに慣れていた。翔琉さんのそっけない態度にも、いつだって嬉しそうにする。でも、その腹の内はいつだって翔琉さんを困らせたくてしょうがないようで。
『それじゃあ、必殺奥の手で』
「奥の手?」
沢見くんは暁の間に入り、パティスリーエレのドラジェの箱を手に戻ってきた。
『はい、辛島さん』
口を開けるように促すから素直に従うと、コロンとドラジェを放りこまれる。舌の上で溶ける砂糖の甘さと、噛み砕いたアーモンドの香ばしさが口の中で合わさる。改めて沢見くんから、傘のお礼は何がいいかと聞かれて再度ドラジェをお願いしたほど、今では私の好物になっていた。
ふと、翔琉さんから視線を感じて振り返るが、さっと逸らされてしまった。不思議に思ってそのまま見つめていても、翔琉さんは何事もなかったように、またパソコンに向き直る。沢見くんは笑いを噛み殺していた。
『翔琉のやつ、僕らがキスすると思ったんだよ』
沢見くんがそう打った画面を私に見せてくる。どこに目がついてるのか見当もつかないが、翔琉さんは「見えてんぞ」と注意してくるものの、否定はしなかった。
デビルアイ、と沢見くんが唇を動かすと、今度は「聞こえてんぞ」と返ってくる。漫才のような二人のやり取りに小さく吹き出してしまう。
『翔琉がいじめるから、僕すごく傷付いた』
「いい迷惑だよ、少しは反省しろ」
『えーん、こうなったらやっぱり奥の手だな』
「だからなんだよ、その奥の手って」
泣き真似をしていた沢見くんが、スマホに何かを打ち始める。そしてスマホが話し出したのは、いつかの真相だった。
『辛島さんがアーモンド苦手だってこと、実は翔琉から聞いたんだ』
「え?」
驚いて翔琉さんを見ると、翔琉は片眉をぴくりと上げて、ポーカーフェイスのまま「亮雅」と話を切り上げるよう名前を呼ぶ。でも沢見くんはそんなことお構いなしに続けた。
『フードコートで、ドラジェに手を伸ばさないのを翔琉が見かけたらしくて。それで、僕に教えてくれたんだ。すっごく言いづらそうだったけど』
あの当時、私は翔琉さんの声は知っていたけれど、姿を見たことはなかった。あの場にいたとしても、気づかないわけだ。本人に見られていたとは思わず、申し訳ない気持ちと、そんな私への気遣いに感謝が込み上げてくる。
「翔琉さん、ドラジェ本当に美味しいです。今では好きなもの、って胸張って言えます」
翔琉さんは私を無視して、ニタニタと笑みを浮かべている沢見くんを睨みつける。
『だって、こういうのは知っててほしいじゃん』
「知らなくていいこともあんだよ」
『僕は知っててほしかったよ。だって翔琉が教えてくれなかったら、僕らは付き合ってなかったかもしれないし』
沢見くんの言う通りだ。沢見くんが私に苦手なものをプレゼントしてしまったと落ち込まなければ、バスケットボールを顔面キャッチすることもなく、保健室に運ばれることはなかったし、その時に落としたペンを私が拾って届けることも、暁の間で二人きりの時間を持つこともなかった。振り返ればあの出来事が、私たちの転機だったのかもしれない。
「そう、ですね」
翔琉さんに向かって告げると、今度はちゃんと目を合わせてくれた。そう言えば今日は、いつもヘッドホンをつけているのに外している。
「ありがとうございました」
翔琉さんは何かを答える代わりに、口に力を入れて口角を下げる。
沢見くんはそれを見て、右手の親指を立てそれを左手で指出した後、右手の指先を鼻に向けて開いたりすぼめたりさせた。
――翔琉、照れてるんだよ。
ついさっき教えてもらった「照れる」の手話。当然翔琉さんもそれを見て理解して「うるさい」とヘッドホンを装着してしまった。
『そういえば、辛島さん知ってる?』
沢見くんはまた、ドラジェの箱から水色の粒を一粒摘まみ上げた。
『ドラジェって、『幸福の種』っていう意味なんだって。だから、辛島さんにも、幸福のおすそ分け』
沢見くんが先ほどのように促すから、私はまた大人しく口を開いてた。甘くて香ばしく、ほんのり苦い、幸福の種は、カリッと良い音を立てる。
「おい、イチャつくな」
『なに僻み? それならもっと見せつけてやる』
そう言って沢見くんが顔を近づけて来ようとするから、私は咄嗟に両手のひらを沢見くんに向けて阻止した。驚いて口の中のドラジェを慌てて飲みこむ。
(さすがに、人前では無理!)
沢見くんの方も本気でキスをしようとしたわけではなかったようだが、思いの外に私の行動が不満だったようで、向けた手のひらに唇を落としてきた。
「さ、沢見くん⁉︎」
頬が燃えるように熱い。手を引っ込めて沢見くんを見ると、イタズラっぽくその瞳が光る。
『辛島さんがイジワルするから」
「だ、だって沢見くんが」
『だって最初からフリだったのに、そんなあからさまに防がなくても』
「だって恥ずかしいもん」
『でも翔琉しか見てないよ?』
「翔琉さんだから、恥ずかしいに決まってんじゃん!」
『でも確かに、翔琉に辛島さんのキス顔見せるの嫌かも』
「な、何言ってんの⁉︎」
不毛なやり取りが続く中、ふっと花が綻ぶような笑い声が聞こえて、私たちはぴたりと口をつぐむ。見ると翔琉さんが顎に軽く手を添えて、口を開けて笑っていた。
「お前ら、うるさい」
もちろん私は初めて翔琉さんの笑顔を見た。いつもの気だるそうな雰囲気とは打って変わって、明るい大きな笑顔がよく似合う。はっとわずかに息を呑む声が聞こえて沢見くんを見やると、翔琉さんの笑顔なんて見慣れているはずなのに、沢見くんは泣きそうな目をしていた。二人の今までに思いを馳せて、これが何を意味するかがなんとなく理解できて、心がほっと温かくなる。
『でも、翔琉も見たかったでしょ?』
沢見くんは、込み上げてくるもの抑えるように軽口を叩く。翔琉さんは我に返ったようで、またポーカーフェイスに戻ってしまった。
「見たいわけねーだろ、バカ」
『だってずっと気にしてたじゃん』
「別に気にしてない」
『えー、ホントかな?』
「うるさいな。もう、どっかいけ」
手を振って追い払うような仕草をした後、翔琉さんの視線はまたパソコンの画面に奪われてしまう。でもその声は綿菓子のように甘く優しくて、沢見くんと顔を見合わせて笑った。
私今、ちゃんと幸せだ。
そう思った。
完
パソコンに向かう翔琉さんにはなしかけても、返事はない。じっと熱い視線を注いでみても、私は見向きもされない。
『出席日数、足りてなかったからね』
「沢見くんは知ってたの?」
『まあ。年が明けた時点で、分かっていたし』
だから保健室を自分の部屋のように使っていたのか、と納得する。いや、そもそもずっと保健室にいたのかもしれないけれど。
あの一件があってから、保健室にはよく来るようになった。彼女たちが私たちの顛末を一から百まで話してなかったにせよ、グループに所属しないというのは、思いのほか肩身の狭い思いをした。
暁の間は、そういう人のために開かれているから、という沢見くんの言葉に励まされ、お昼休みはたいてい保健室にいた。そして、沢見くんと手話の勉強をしていた。
『でも僕、来年も同じクラスでうれしいよ』
その言葉に、私も笑顔で応える。
高校二年生、私は沢見くん、そして翔琉さんと一緒に過ごすことになる。
かつての居場所だった四人とは離れ、その四人もそれぞれ異なるクラスに名前があった。あれだけ結束しているように見えた彼女たちは、来年も一緒にいるのだろうか。はたまた、別のグループに所属するようになるのだろうか。
いずれにせよ、今までそうだったように、きっとうまくやるのだろう。けれど、できるだけ傷つかない日々を過ごせるよう、願わずにはいられない。
『来年は文化祭もあるし、楽しみなことたくさんだ』
ね、翔琉。と沢見くんが話しかけても、翔琉さんはパソコンから顔を上げようとしない。
『やっぱ返事ないね』
保健室に来るようになってから、どうしたら翔琉さんの気が引けるのか試行錯誤を繰り返しているのだが、一週間経っても私には一向に興味を示してくれない。沢見くんは幼馴染だし、「声」の製作者だしということで、私よりも翔琉さんとの親密度は高いし、沢見くんは翔琉さんの扱いに慣れていた。翔琉さんのそっけない態度にも、いつだって嬉しそうにする。でも、その腹の内はいつだって翔琉さんを困らせたくてしょうがないようで。
『それじゃあ、必殺奥の手で』
「奥の手?」
沢見くんは暁の間に入り、パティスリーエレのドラジェの箱を手に戻ってきた。
『はい、辛島さん』
口を開けるように促すから素直に従うと、コロンとドラジェを放りこまれる。舌の上で溶ける砂糖の甘さと、噛み砕いたアーモンドの香ばしさが口の中で合わさる。改めて沢見くんから、傘のお礼は何がいいかと聞かれて再度ドラジェをお願いしたほど、今では私の好物になっていた。
ふと、翔琉さんから視線を感じて振り返るが、さっと逸らされてしまった。不思議に思ってそのまま見つめていても、翔琉さんは何事もなかったように、またパソコンに向き直る。沢見くんは笑いを噛み殺していた。
『翔琉のやつ、僕らがキスすると思ったんだよ』
沢見くんがそう打った画面を私に見せてくる。どこに目がついてるのか見当もつかないが、翔琉さんは「見えてんぞ」と注意してくるものの、否定はしなかった。
デビルアイ、と沢見くんが唇を動かすと、今度は「聞こえてんぞ」と返ってくる。漫才のような二人のやり取りに小さく吹き出してしまう。
『翔琉がいじめるから、僕すごく傷付いた』
「いい迷惑だよ、少しは反省しろ」
『えーん、こうなったらやっぱり奥の手だな』
「だからなんだよ、その奥の手って」
泣き真似をしていた沢見くんが、スマホに何かを打ち始める。そしてスマホが話し出したのは、いつかの真相だった。
『辛島さんがアーモンド苦手だってこと、実は翔琉から聞いたんだ』
「え?」
驚いて翔琉さんを見ると、翔琉は片眉をぴくりと上げて、ポーカーフェイスのまま「亮雅」と話を切り上げるよう名前を呼ぶ。でも沢見くんはそんなことお構いなしに続けた。
『フードコートで、ドラジェに手を伸ばさないのを翔琉が見かけたらしくて。それで、僕に教えてくれたんだ。すっごく言いづらそうだったけど』
あの当時、私は翔琉さんの声は知っていたけれど、姿を見たことはなかった。あの場にいたとしても、気づかないわけだ。本人に見られていたとは思わず、申し訳ない気持ちと、そんな私への気遣いに感謝が込み上げてくる。
「翔琉さん、ドラジェ本当に美味しいです。今では好きなもの、って胸張って言えます」
翔琉さんは私を無視して、ニタニタと笑みを浮かべている沢見くんを睨みつける。
『だって、こういうのは知っててほしいじゃん』
「知らなくていいこともあんだよ」
『僕は知っててほしかったよ。だって翔琉が教えてくれなかったら、僕らは付き合ってなかったかもしれないし』
沢見くんの言う通りだ。沢見くんが私に苦手なものをプレゼントしてしまったと落ち込まなければ、バスケットボールを顔面キャッチすることもなく、保健室に運ばれることはなかったし、その時に落としたペンを私が拾って届けることも、暁の間で二人きりの時間を持つこともなかった。振り返ればあの出来事が、私たちの転機だったのかもしれない。
「そう、ですね」
翔琉さんに向かって告げると、今度はちゃんと目を合わせてくれた。そう言えば今日は、いつもヘッドホンをつけているのに外している。
「ありがとうございました」
翔琉さんは何かを答える代わりに、口に力を入れて口角を下げる。
沢見くんはそれを見て、右手の親指を立てそれを左手で指出した後、右手の指先を鼻に向けて開いたりすぼめたりさせた。
――翔琉、照れてるんだよ。
ついさっき教えてもらった「照れる」の手話。当然翔琉さんもそれを見て理解して「うるさい」とヘッドホンを装着してしまった。
『そういえば、辛島さん知ってる?』
沢見くんはまた、ドラジェの箱から水色の粒を一粒摘まみ上げた。
『ドラジェって、『幸福の種』っていう意味なんだって。だから、辛島さんにも、幸福のおすそ分け』
沢見くんが先ほどのように促すから、私はまた大人しく口を開いてた。甘くて香ばしく、ほんのり苦い、幸福の種は、カリッと良い音を立てる。
「おい、イチャつくな」
『なに僻み? それならもっと見せつけてやる』
そう言って沢見くんが顔を近づけて来ようとするから、私は咄嗟に両手のひらを沢見くんに向けて阻止した。驚いて口の中のドラジェを慌てて飲みこむ。
(さすがに、人前では無理!)
沢見くんの方も本気でキスをしようとしたわけではなかったようだが、思いの外に私の行動が不満だったようで、向けた手のひらに唇を落としてきた。
「さ、沢見くん⁉︎」
頬が燃えるように熱い。手を引っ込めて沢見くんを見ると、イタズラっぽくその瞳が光る。
『辛島さんがイジワルするから」
「だ、だって沢見くんが」
『だって最初からフリだったのに、そんなあからさまに防がなくても』
「だって恥ずかしいもん」
『でも翔琉しか見てないよ?』
「翔琉さんだから、恥ずかしいに決まってんじゃん!」
『でも確かに、翔琉に辛島さんのキス顔見せるの嫌かも』
「な、何言ってんの⁉︎」
不毛なやり取りが続く中、ふっと花が綻ぶような笑い声が聞こえて、私たちはぴたりと口をつぐむ。見ると翔琉さんが顎に軽く手を添えて、口を開けて笑っていた。
「お前ら、うるさい」
もちろん私は初めて翔琉さんの笑顔を見た。いつもの気だるそうな雰囲気とは打って変わって、明るい大きな笑顔がよく似合う。はっとわずかに息を呑む声が聞こえて沢見くんを見やると、翔琉さんの笑顔なんて見慣れているはずなのに、沢見くんは泣きそうな目をしていた。二人の今までに思いを馳せて、これが何を意味するかがなんとなく理解できて、心がほっと温かくなる。
『でも、翔琉も見たかったでしょ?』
沢見くんは、込み上げてくるもの抑えるように軽口を叩く。翔琉さんは我に返ったようで、またポーカーフェイスに戻ってしまった。
「見たいわけねーだろ、バカ」
『だってずっと気にしてたじゃん』
「別に気にしてない」
『えー、ホントかな?』
「うるさいな。もう、どっかいけ」
手を振って追い払うような仕草をした後、翔琉さんの視線はまたパソコンの画面に奪われてしまう。でもその声は綿菓子のように甘く優しくて、沢見くんと顔を見合わせて笑った。
私今、ちゃんと幸せだ。
そう思った。
完

