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修了式も、大掃除も終えた私たちは、来年度のクラス発表の前に席についている。このクラスで最後だからということで、入学当時の席に着くよう指示された。引き出しが空っぽの机の上には、教科書がたくさん入ったリュックを乗っけている人もいれば、筆箱だけが入ったスクールバッグを置いているひと、部活用のナップサックを置いている人と様々。
私も、空気だけを含んだリュックに身体を預けて、二年生では私たちを受け持たないという、担任の先生の最後の話に耳を傾けていた。
「それじゃあ、新しいクラスを発表する前に。ひとつやりたいことがあるんだけど」
連絡事項も全て終わって、先生はニコニコと何か企んでいるような笑顔を向けてきた。周りは「えーなにー?」「そういうめんどくさいこといいからー」「早くクラス教えてー」と一見愚痴っているようだが、その目は今から始まる何かに期待もしているようだった。
先生はその瞳の奥に隠れた好奇心を見抜いて、口の端をあげた。
「今からひとりずつ、これからの抱負を一言、言ってもらおうと思います」
みんなの頭の上にはてなが浮かんだのが見えたし、私も首を傾げた。
抱負、って、なんだろう。
先生は新品のように綺麗になった黒板に紙でできた横断幕を貼り付けた。それには「わたしの夢」と習字の師範の資格を持っている人らしく、丁寧な字で書かれていた。
「今からひとりずつここの教壇に立って、一言でいいから自分の夢を語ってください」
「えー、なんかそれたるくない?」
先生の言葉に突っ込む生徒に、そこかしこから同調の声が上がる。けれど、声音からも、みんなそわそわしているのが分かって、案外まんざらでもないのだろう。
否定的な意見が教室を占める中、『はい』とある声が室内を静寂に導いた。
沢見くんが、手をあげていた。
『僕が最初にやります』
みんなを見渡して、にっこりと笑顔を作ると、沢見くんは教壇に一直線に歩いていった。これには先生もちょっと驚いていて、教壇の前にきた沢見くんに道を譲った。
沢見くんは教壇に立つと、スマホに文字を打ち込んだ。
『今の僕には、夢とか抱負とか、そんな大層なもの持ち合わせていません』
何言ってんだ、あいつ。やっぱ変な奴だな、なんて声が聞こえる。それも全部分かったうえでの行動なのだろう。『夢なんてなくたって死ぬわけじゃないし』と言い放ったので、周囲からにぎやかにブーイングが起こる。
『でも』と沢見くんは続けた。
『誰にとっても生きやすい明日が、来ればいいな、と願ってます』
水を打ったようにしん、と静まり返った教室で、各々何を思ったのだろう。沢見くんは一番バッターとしてふさわしい行動を示した。
自然と拍手をしてしまった。私の拍手を皮切りに、教室内が喝采に包まれる。さすがのこれには、沢見くんも照れくさそうに、頭をかいていた。
「誰にとっても、明日がいいものであるように、先生も願ってるよ」
新しい学年になってもがんばれよ、との担任の激励に、沢見くんははにかんでいた。
「そしたら次は……」
担任はクラスを見渡して、沢見くんに目を留めた。
「じゃあ、教壇に立った人が好きな人を指名していい、ってことにしよう」
『僕が決めていいんですか?』
「最後のクラス交流ってことで。いいか、みんな。こんな風に全員やってくからな」
笑顔で腕を組む担任の言葉に、にわかに教室内に緊張が走った。そわそわ、落ち着かないけれど、胸を躍らせているような、そんな雰囲気。
何を言おうか。どう言おうか。誰に指名されるのだろうか。
(私は、何を言おう。)
考え始めたところで、すぐにぶった切られた。なぜなら沢見くんが迷いなく私を指名したからだ。
『じゃあ、次は辛島さんで』
沢見くんは高らかに告げた。一点、私に視線が集まる。ひそひそと周囲が言葉を交わし始める。沢見くんは目が合うと、口角を上げた。
まだ何も考えていなかったけれど、呼ばれた手前席を立たなければいけない。
どうしよう、何を言おう。できるだけゆっくりと教壇に向かうと、沢見くんが片手をあげてきた。
「え?」
上げていない方の手には、スマホを持っていた。
『順番交代のハイタッチ』
ずいっと手を出してくる。ハイタッチなんて、しばらくしたことがない。正解がわからなくて逡巡したのち、沢見くんは私のてのひらに、自分のを当てた。パンっと軽い音が響くと沢見くんは『交代』と自分の席に戻っていく。
ひとり、教壇の上に立つ。
教壇から教室を見渡すのは初めてだった。緊張がどっと押し寄せて、動悸がやまない。けれど、後戻りもできない。
今ここに私はたったひとり。倒れないように、教卓に両手を置いた。いつかのように不安定な足場に、どんどん下へと引きずり込まれていきそうになる。
それでも私は、一人で立つことを選んだのだ。指名されたとはいえ、自分の意思でここに立った。自分の存在を、肯定するために。
ふと、見定めるような視線が飛んでくる。沙菜や、奈々未、もも恵、そしてサエリ。私が離れることを選んだ、かつての友人たち。
(そうだ。彼女たちに、証明しないといけない。)
大きく深呼吸を一つ。
もしかしたら、ここにいるみんなも私のように、うまくいかない日々に枕を濡らした夜があっただろうか。これ以上は無理だと歩みを止めそうになる朝が、あっただろうか。それぞれに思い描いている未来があるのだろうか。あるいはそれを探している、まだ道半ばだろうか。
今までは自分が悲劇のヒロインぶって他人のことなんて、考えようとも思ったことがなかった。けれど――。
沢見くんと視線がかち合う。唇が『がんばれ』と動いた。
「私は、自分に自信が持てるように、なりたいです」
明日はもう少し、自分が好きになれるように。
今日は無理でも、明日なら。
そんな希望を持つことを、あきらめないでいたい。
一番最初に拍手をしてくれたのは沢見くんで、それに続いて拍手の連鎖が起こった。
「人生において、自分に自信を持つということは一つの課題かもしれないな。辛島はおとなしいところあるから、もっと自分に自信が持てるように、先生も応援してるよ」
先生の激励に、ありがとうございます、と頭を下げる。沙菜たちは、もう私のことなんて見ていなくて、机の中の小さな画面に集中しているようだった。
それを見て、ちょっとしたいたずら心が芽生えた。
「それじゃあ、辛島は誰を指名するんだ?」
「じゃあ、森口サエリさん、で」
呼ばれると思っていなかったのか、サエリは正気か、とでも訴えるように勢いよく顔を上げた。
「それじゃあ、次は森口。こっちこーい」
これ見よがしにため息をついて見せたり、などはしていなかったけれど、心底いやそうなのが手に取るように分かった。
あの話し合い依頼、彼女たちとは言葉を交わしていない。教室内で私は所属するグループをなくして、ひとりになった。私たちに何かがあったらしいことは、女子は察していたようで「大丈夫?」と心配してくれる声さえあったほど。
彼女たちは、私と何があったのか、言いふらしたりはしていないようだった。ただ、もう一緒にはいられないという拒絶を示すだけにとどめていてくれた。それにはひそかに感謝している。
サエリが私の前にやってきた。沢見くんにされたように、手を出せば、一瞬のためらいはあったものの、サエリの手は私に触れて、清々しい音を立てた。
これで最後だ、と示すように。
サエリの夢は「自分だけを溺愛してくれる、彼氏をつくること」だった。それに教室はどっと沸いて、サエリの必死の弁明が始まった。友達みんなが彼氏持ちだから、自分も相応に恋愛がしたい! と、いくらかの切実さまで見せていて、私はうれしく思う反面、切なさも感じた。
それからひとりづつ、教壇に上がって各々の抱負、や夢を語った。
世界旅行したい。
外国語喋れるようになりたい。
研究者になりたい。
彼氏が欲しい。彼女が欲しい。
まだ夢はないけど、そのうち探せるようになりたい。
友人、付き合ってる人、気になる人、と同性を指名したり、異性を指名したり、クラス総勢四十人で、夢を語りあった。
最後の一人を終えたあとの不思議な余韻の中、私たちは全員顔を伏せるように言われて、それぞれの夢を思い起こしながら、軽くなった机の上に突っ伏した。パイプ椅子の軋む音と、担任の足音が教壇にこだまするのが聞こえて、止まった。
静かな教室に、マグネットを付け替える音がする。教室の外からは、賑やかな声が聞こえ始めた。他のクラスは最後のホームルームを終えたようだった。
「今夢がある人も、そうじゃない人も、何かを願うことは人生において、何かしらの原動力になると思う。だからこの先もみんな、各々『何かに向かって、進んで行く』という気持ちを忘れないでください。それじゃあ、解散! とっとと来年のクラス確認して帰れ!」
教室は先生の合図で一斉に顔を上げ、黒板前に集った。
修了式も、大掃除も終えた私たちは、来年度のクラス発表の前に席についている。このクラスで最後だからということで、入学当時の席に着くよう指示された。引き出しが空っぽの机の上には、教科書がたくさん入ったリュックを乗っけている人もいれば、筆箱だけが入ったスクールバッグを置いているひと、部活用のナップサックを置いている人と様々。
私も、空気だけを含んだリュックに身体を預けて、二年生では私たちを受け持たないという、担任の先生の最後の話に耳を傾けていた。
「それじゃあ、新しいクラスを発表する前に。ひとつやりたいことがあるんだけど」
連絡事項も全て終わって、先生はニコニコと何か企んでいるような笑顔を向けてきた。周りは「えーなにー?」「そういうめんどくさいこといいからー」「早くクラス教えてー」と一見愚痴っているようだが、その目は今から始まる何かに期待もしているようだった。
先生はその瞳の奥に隠れた好奇心を見抜いて、口の端をあげた。
「今からひとりずつ、これからの抱負を一言、言ってもらおうと思います」
みんなの頭の上にはてなが浮かんだのが見えたし、私も首を傾げた。
抱負、って、なんだろう。
先生は新品のように綺麗になった黒板に紙でできた横断幕を貼り付けた。それには「わたしの夢」と習字の師範の資格を持っている人らしく、丁寧な字で書かれていた。
「今からひとりずつここの教壇に立って、一言でいいから自分の夢を語ってください」
「えー、なんかそれたるくない?」
先生の言葉に突っ込む生徒に、そこかしこから同調の声が上がる。けれど、声音からも、みんなそわそわしているのが分かって、案外まんざらでもないのだろう。
否定的な意見が教室を占める中、『はい』とある声が室内を静寂に導いた。
沢見くんが、手をあげていた。
『僕が最初にやります』
みんなを見渡して、にっこりと笑顔を作ると、沢見くんは教壇に一直線に歩いていった。これには先生もちょっと驚いていて、教壇の前にきた沢見くんに道を譲った。
沢見くんは教壇に立つと、スマホに文字を打ち込んだ。
『今の僕には、夢とか抱負とか、そんな大層なもの持ち合わせていません』
何言ってんだ、あいつ。やっぱ変な奴だな、なんて声が聞こえる。それも全部分かったうえでの行動なのだろう。『夢なんてなくたって死ぬわけじゃないし』と言い放ったので、周囲からにぎやかにブーイングが起こる。
『でも』と沢見くんは続けた。
『誰にとっても生きやすい明日が、来ればいいな、と願ってます』
水を打ったようにしん、と静まり返った教室で、各々何を思ったのだろう。沢見くんは一番バッターとしてふさわしい行動を示した。
自然と拍手をしてしまった。私の拍手を皮切りに、教室内が喝采に包まれる。さすがのこれには、沢見くんも照れくさそうに、頭をかいていた。
「誰にとっても、明日がいいものであるように、先生も願ってるよ」
新しい学年になってもがんばれよ、との担任の激励に、沢見くんははにかんでいた。
「そしたら次は……」
担任はクラスを見渡して、沢見くんに目を留めた。
「じゃあ、教壇に立った人が好きな人を指名していい、ってことにしよう」
『僕が決めていいんですか?』
「最後のクラス交流ってことで。いいか、みんな。こんな風に全員やってくからな」
笑顔で腕を組む担任の言葉に、にわかに教室内に緊張が走った。そわそわ、落ち着かないけれど、胸を躍らせているような、そんな雰囲気。
何を言おうか。どう言おうか。誰に指名されるのだろうか。
(私は、何を言おう。)
考え始めたところで、すぐにぶった切られた。なぜなら沢見くんが迷いなく私を指名したからだ。
『じゃあ、次は辛島さんで』
沢見くんは高らかに告げた。一点、私に視線が集まる。ひそひそと周囲が言葉を交わし始める。沢見くんは目が合うと、口角を上げた。
まだ何も考えていなかったけれど、呼ばれた手前席を立たなければいけない。
どうしよう、何を言おう。できるだけゆっくりと教壇に向かうと、沢見くんが片手をあげてきた。
「え?」
上げていない方の手には、スマホを持っていた。
『順番交代のハイタッチ』
ずいっと手を出してくる。ハイタッチなんて、しばらくしたことがない。正解がわからなくて逡巡したのち、沢見くんは私のてのひらに、自分のを当てた。パンっと軽い音が響くと沢見くんは『交代』と自分の席に戻っていく。
ひとり、教壇の上に立つ。
教壇から教室を見渡すのは初めてだった。緊張がどっと押し寄せて、動悸がやまない。けれど、後戻りもできない。
今ここに私はたったひとり。倒れないように、教卓に両手を置いた。いつかのように不安定な足場に、どんどん下へと引きずり込まれていきそうになる。
それでも私は、一人で立つことを選んだのだ。指名されたとはいえ、自分の意思でここに立った。自分の存在を、肯定するために。
ふと、見定めるような視線が飛んでくる。沙菜や、奈々未、もも恵、そしてサエリ。私が離れることを選んだ、かつての友人たち。
(そうだ。彼女たちに、証明しないといけない。)
大きく深呼吸を一つ。
もしかしたら、ここにいるみんなも私のように、うまくいかない日々に枕を濡らした夜があっただろうか。これ以上は無理だと歩みを止めそうになる朝が、あっただろうか。それぞれに思い描いている未来があるのだろうか。あるいはそれを探している、まだ道半ばだろうか。
今までは自分が悲劇のヒロインぶって他人のことなんて、考えようとも思ったことがなかった。けれど――。
沢見くんと視線がかち合う。唇が『がんばれ』と動いた。
「私は、自分に自信が持てるように、なりたいです」
明日はもう少し、自分が好きになれるように。
今日は無理でも、明日なら。
そんな希望を持つことを、あきらめないでいたい。
一番最初に拍手をしてくれたのは沢見くんで、それに続いて拍手の連鎖が起こった。
「人生において、自分に自信を持つということは一つの課題かもしれないな。辛島はおとなしいところあるから、もっと自分に自信が持てるように、先生も応援してるよ」
先生の激励に、ありがとうございます、と頭を下げる。沙菜たちは、もう私のことなんて見ていなくて、机の中の小さな画面に集中しているようだった。
それを見て、ちょっとしたいたずら心が芽生えた。
「それじゃあ、辛島は誰を指名するんだ?」
「じゃあ、森口サエリさん、で」
呼ばれると思っていなかったのか、サエリは正気か、とでも訴えるように勢いよく顔を上げた。
「それじゃあ、次は森口。こっちこーい」
これ見よがしにため息をついて見せたり、などはしていなかったけれど、心底いやそうなのが手に取るように分かった。
あの話し合い依頼、彼女たちとは言葉を交わしていない。教室内で私は所属するグループをなくして、ひとりになった。私たちに何かがあったらしいことは、女子は察していたようで「大丈夫?」と心配してくれる声さえあったほど。
彼女たちは、私と何があったのか、言いふらしたりはしていないようだった。ただ、もう一緒にはいられないという拒絶を示すだけにとどめていてくれた。それにはひそかに感謝している。
サエリが私の前にやってきた。沢見くんにされたように、手を出せば、一瞬のためらいはあったものの、サエリの手は私に触れて、清々しい音を立てた。
これで最後だ、と示すように。
サエリの夢は「自分だけを溺愛してくれる、彼氏をつくること」だった。それに教室はどっと沸いて、サエリの必死の弁明が始まった。友達みんなが彼氏持ちだから、自分も相応に恋愛がしたい! と、いくらかの切実さまで見せていて、私はうれしく思う反面、切なさも感じた。
それからひとりづつ、教壇に上がって各々の抱負、や夢を語った。
世界旅行したい。
外国語喋れるようになりたい。
研究者になりたい。
彼氏が欲しい。彼女が欲しい。
まだ夢はないけど、そのうち探せるようになりたい。
友人、付き合ってる人、気になる人、と同性を指名したり、異性を指名したり、クラス総勢四十人で、夢を語りあった。
最後の一人を終えたあとの不思議な余韻の中、私たちは全員顔を伏せるように言われて、それぞれの夢を思い起こしながら、軽くなった机の上に突っ伏した。パイプ椅子の軋む音と、担任の足音が教壇にこだまするのが聞こえて、止まった。
静かな教室に、マグネットを付け替える音がする。教室の外からは、賑やかな声が聞こえ始めた。他のクラスは最後のホームルームを終えたようだった。
「今夢がある人も、そうじゃない人も、何かを願うことは人生において、何かしらの原動力になると思う。だからこの先もみんな、各々『何かに向かって、進んで行く』という気持ちを忘れないでください。それじゃあ、解散! とっとと来年のクラス確認して帰れ!」
教室は先生の合図で一斉に顔を上げ、黒板前に集った。

