――パチン。
誰もいない教室では、ホッチキスの音がやけに響く。私の手には、数学のプリントがまとめられたものがあった。
「ちょっと頼めないか」と先生に声をかけられたのは、ホームルーム前に日誌を提出した時だった。明日の授業で使うプリントを、人数分ホチキスでまとめてほしいとのことだった。
友達に手伝ってもらったら、できるだろ。
 胸にわずかな痛みを覚えて一瞬言葉に詰まったが、取り繕うように「わかりました」と答えた。
無駄だとわかっていても、懲りない私は、ほんの少し期待して「先生に頼まれごとをされたから、女子会には遅れる」と伝えてみた。案の定、彼女たちは「じゃあ、終わったら連絡して」と帰り支度を始めた。すぐさま恥ずかしさと後悔とに襲われ、かあっと頬に熱が集まるのがわかって、私はそそくさと職員室に向かったのだ。
(手伝ってくれる素振りくらい、見せてくれてもよかったのにな。)
 なんて考える私は、自分勝手だ。手伝ってほしいなら、自分から頼めばいいのに、もしかすると拒否されるかも、なんて考えて、言葉にできない。バカで学習しないから、時々少し欲を出してみるけれど、必ず撃沈する。
でもかえって良かったのかもしれない。もも恵の話の続きは、授業中に確認できている。みんなが女子会でほかにどんな話題を出すのかを知ることができないのは、少し怖くはあるけれど、つかの間でも悪意の輪に加わらなくても済む。解散したら、またトークルームが動くのだと思う。今日はたぶん、もも恵を除いたグループで。
 空いている机に先生から預かったプリント束を置き、一枚ずつ取ってまとめては、ホッチキスで留める。彼女たちに合流しなくてもいいように、できるだけ時間をかけて、丁寧にプリントをまとめていった。
他人の望む自分を生きるのは、正直楽だ。敷かれたレールの上を、引かれるままトロッコに乗り続けていればいい。
でも時々、自分は本当にこの世に存在できているのか、不安になることがある。
自分で自分のことを考えなくなったら、本当の私はどこに存在するのだろう、と。そんなこと考えてもしかたがないことなのに、彼――沢見くんを見ていると、つい思案してしまうのだ。
ふいに、パチン、とホチキスの音によって、現実に引き戻される。どうやら今持っていたもので、最後だったらしい。
出来上がったプリント冊子を抱えて職員室に行くと、担任の先生は帰宅したそうで、机の上に置いて退室した。
一月の日は短い。太陽はすっかり西の水平線の向こうに沈んでしまっている。渡り廊下のガラス窓に私が反射して見えて、ふと立ち止まる。
一直線に結ばれた唇、何の表情も読み取れない、冴えない顔。口角を上げてみると、張り付けたような「笑顔」になる。試しに目じりまで下げてみると、もう少し口角が上がる。頬の筋肉がひきつれるのを感じ、緩めると、無表情の自分が映る。
最後に思いっきり笑ったのは、いつだっけ。なんの感情も読み取れない顔が、自分の顔なのに自分のものではない錯覚に襲われ、かぶりを振る。あまり窓を見ないように、教室に急いだ。
 ダッフルコートを着込んで、戸締りと忘れ物を確認してから、蛍光灯のスイッチをすべて消す。教室を出ると、その存在を示すように、スカートのポケットに入れていたスマートフォンが震えた。それを皮切りに、ブブっ、ブブっとスマホが振動を繰り返す。
ポケットからスマホを取り出して確認すると、もも恵を除いたトークルームに次から次へと会話が生まれている。
器用だな、と思う。相手に好意があるふりをしながら、同時に悪口を言えるだなんて。今のところ、その人のいるトークルームにうっかり悪口を投下してしまうような間違いは起きていないけれど、いつかそれが起こった時に、彼女たちはどうするんだろう。
私は、どうなるんだろう。
『結局奈々未に嫉妬してるだけでしょ』
『そんなにイイカンジなんだったら、自分から告ればいいのにね』
『振られたときに、いいわけできないからじゃない?』
『でも話聞いてる感じ、そんなにイイカンジそうでもないけど』
『なにそれ、リア充の余裕?』
『そうともいう』
『ドやるな』
『わかる。ヒトリズモウ? っていうんだっけ、こういうの』
『頭いいフリすんな』
 もも恵への悪口を餌に、盛り上がるトークルーム。きっと女子会では「付き合うまで秒読みだ」というもも恵を大いに励ましたんだと思う。でも本心は、こっち。
人間に二面性があるなんてことは重々承知している。それなのに、受け入れられないと思ってしまう気持ちの方が大きい。私だって、醜い心を持っているはずなのに、彼女たちのことを「嫌だ」と思っている気持ちも、同じような種類のもののはずなのに、棚に上げてしまう。
『佳純、見てるかな?』
『佳純おつかれー』
 そんなことを思っていたら、私へのメッセージが飛んできて動揺した。
 だから、気づけなかった。
目の前に人がいたことに。
 ドン、と鈍い音がしたかと思えば、次に何かゴトっと硬質な音を立てて落ちていくのが聞こえて。とっさに顔をあげて目に入ったのは、ひび割れた液晶画面を仰向けに転がった、スマホだった。
 は、っと息を吐き出すのが聞こえて、影が差す。見上げると、彼――沢見くんと目があった。
沢見くんは弾かれたように階段を下りていって、踊り場に転がったスマホを拾い上げた。カチ、カチとボタンを押して起動させようとするけれど、真っ黒い画面が光る気配は一向にない。
私の手のうちにあったスマホが、存在を示すように一度、震えた。
「え……?」
私は手にスマホを持っている。でも、沢見くんは持ってない。
ということは、私の不注意で、沢見くんの携帯が壊れてしまったことになる。沢見くんの生活に一番必要な、スマホを。
血の気が引いて、慌てて階段を下りた。
あまりの事態にパニックになってしまって、口から出たのは「ごめんなさい」というか細い声。俯いて、頭を下げることしかできない。
落とした視線の先にある自分のスマホの画面には何度か落としてしまったせいで、多少の日々が入っているけれど、蜘蛛の巣のように割れ目が広がっている沢見くんのよりはるかにマシ。その画面には、ポン、ポン、と次々にメッセージの受信通知が浮かび上がる。
まだメッセージの返信もできてない。そんな焦燥感にも駆られ、目頭がジワリと熱を帯びる。
 ふと、つま先が何かに隠された。
『顔を上げてください。僕も不注意だったので、申し訳ない』
それはスケッチブックで、はらうような筆跡でそう書かれていた。
沢見くんは私と目が合うと、困ったように笑って見せた。
『ちゃんと前を見ていなかったので、不注意でした。申し訳ない』
沢見くんもそういって、頭を下げてくる。周りがすっかり見えてなかったから、沢見くんと、どうぶつかったのかはわからないけれど、私に気を遣ってくれているのが分かって、さらに申し訳なさが募る。
「弁償、します。……むしろさせてください」
頭を下げて、懇願する。さすがにこんな重罪、それ相応の償いをしなければ気が済まない。今までのお年玉、お小遣いの貯金なんかを全部合わせたら、何とかなるかもしれないが、大金を使うとなれば両親に話を通さなければならない。その点においては気が重いけれど、スマホを壊された沢見くんへの償いであればどんなお咎めも覚悟しなければ。
沢見くんまた『顔を上げてください』というページを私に見せて『弁償はしなくて大丈夫です』と、そのすぐ下に付け足した。
「でも……」
引き下がる私に、沢見くん苦笑する。弁償しない以外の方法が思い浮かばなくて、もう一度提案するも、沢見くんは首を横に振るだけだった。
『買い替える口実になるし、むしろラッキーだから、大丈夫』
スケッチブックに書かれた文章を目で追って、もう一度沢見くんに向き直る。これ以上は何を言っても沢見くんを困らせてしまうのだろうか。罪を償おうとする行為がだんだんと自己満足なように思えてきて、心苦しくなってくる。
沢見くんは、何も言えずに黙ってしまった私を気遣うようにこの場を離れようとしない。首をかしげて笑って見せると、唇が「帰りましょ」と動いた。
このまま頷いてしまっていいのだろうか。逡巡して、一つの考えに至った。
「あの、だったら……私のスマホ、貸します」
 手の中のスマホがまた、震えた。
 瞬きを二三回繰り返して目を丸くした沢見くんのきょとんとした表情に、かわいい、と思った。