『さっきは、ありがとう』
放課後、保健室まで行く途中に突然お礼を言われて、何のことかと首をかしげる。
『ひとりだけ、僕の考えを肯定してくれたじゃん』
そう言われて、美術の時間を思い出し、再び憂鬱になる。
「あれはもう黒歴史だから、思い出させないでもらえると……」
『なんで? 僕はうれしかったのに』
力なく垂れさがる私の左手の小指に、自分の小指を絡めてくる沢見くんははにかんだ。
(まあ、沢見くんがいいならそれでいいか。)
そうやって気を取り直せる私は、ずいぶんと単純になったようだ。
保健室までやってくると、沢見くんが「どうぞ」と扉を開けてくれるので、「失礼します」と断ってから入室した。
ホワイトデイのお返し作りを、保健室でやったらどうかと言ったのは沢見くんだった。
バレンタインデイに話をした後、チョコレートが苦手だと言った私を見かねて引き取ろうとしてくれた沢見くんの申し出は断った。彼女たちが友チョコをくれたのは事実だし、それは彼女たちのために買ったチョコレートだったから。でも家に帰っても、そのチョコレートたちをどうこうすることはできずにいて、そんなとき沢見くんが名案を思い付いてくれた。
チョコレートを扱うのが難しいのであれば、レンジを使った簡単なものに絞ったらいい、と提案してくれたのがきっかけで、保健室の先生にも事前に話をつけてくれた。なぜ許可が下りたのか問えば、翔琉の家のお菓子で買収した、といたずらっぽく教えてくれた。
「あれ、翔琉さんは?」
ラベンダーの香りがする部屋に入ると、私がここを訪れるときにはいつもある気配を、パーテーションの向こうから感じなかった。材料を並べるために、長テーブルにテーブルクロスを引いてくれていた沢見くんが頷いて、唇が『帰った』と動いた。
「そうなんだ」
道具や材料は教室に置いていたら目立つから、先生に言って登校してから保健室に置かせてもらっていた。長ターブルの上に、家から持ってきた道具と、冷蔵庫にしまっていた材料並べる。
『お菓子作りするって言ったら、気が散るだろうからって』
「そんなことは全くなかったけど……甘いもの、好きだったりする?」
『お菓子屋の息子らしく、甘いものには目がないよ』
そしたら、翔琉さんにも作ろう。一応材料は多めに持っている。
作るのはフォンダンショコラ。彼女たちが作ってくれたものとかぶらない、かつレンジでできる簡単なものを探していたら、フォンダンショコラのレシピがヒットした。
『じゃあ、やりますか?』
「やり、ましょう」
気合を入れて、エプロンをつける。
第一関門は、アソートボックスのチョコレートをレンジで溶かすこと。だが、ボックスの封を開けないと始まらないのに、どうしても体がこわばってしまう。
『辛島さん』
名前を呼ばれて、呼吸が浅くなっていることに気づいた。
『大丈夫だよ』
チョコレートの箱を掴む手に沢見くんの手を添えられて、少しずつ力が抜けていく。
『誰も、辛島さんがチョコレートを使うことを、咎めたりしないよ』
「誰も……」
『そう、誰も』
粉々にされたチョコクッキーが脳裏をよぎる。風がさらっていく甘くて苦い香りは、忘れることができないでいた。忘れることさえ、許されなかった。その季節が巡ってくるたびに、自分の犯した罪を再認識させられてきた。
もし、また、拒絶されたらどうしよう。
そんな考えについ力が入ってしまう。
でも、私も変わりたい。
(大丈夫。大丈夫だよ、佳純)
ただその場にとどまることでしか自分を保てなかった今までの自分とは、もう違う。少しずつ時間を進めて、一歩を踏み出していける。
大きく深呼吸をして、蓋を止めてあるテープを少しずつはがしていく。四角い箱の角を、一つずつ開放していって、テープがはがれる。またもう一度、大きく息を吸って、止めて、蓋を開いた。
買ったときに「かわいい」と思ったままの形で、チョコレートは並んでいた。
(そうだ。私、「かわいい」と思えていた。)
チョコレートに対して、嫌な感情ばかり持っていたわけではない。このチョコレートはちゃんと自分でかわいいと感じて、彼女たちへプレゼントしようとしていた。
息を吸うと、チョコレートのにおいが一気に肺まで入ってくる。甘ったるくてほんのり苦い香りに、胃のあたりがムカムカしてくる。
(でも、今の私なら、大丈夫。)
何度も、何度も自分に言い聞かせる。
箱の中のチョコレートを一気に耐熱ボウルに放り込み、においが漂うのを防ぐようにラップをかける。電子レンジに入庫して、ボタンを押すと、橙色のライトに照らされながら、耐熱ボウルはくるくると回り始めた。
『できたじゃん』
レンジの扉に、私と、沢見くんの顔が映っていた。
「でき、ちゃった……」
沢見くんが拍手をするので、私もつられて手を合わせる。
(なんだ。私にも、できるじゃん。)
溶かされたチョコレートは溶けていくにつれて強いにおいを放つ。顔をしかめると、忘れてた、と沢見くんが窓を開けてくれていくらかましになる。
加熱終了の音が鳴り、レンジからとり出した熱々のボウルを少し冷ましてから、ホットケーキミックスと、牛乳、サラダ油を加えて混ぜる。出来上がった生地を専用の紙カップの中に入れたら、まだ残っている箱からチョコレートを一粒ずつ取り出して、生地の中央に入れていく。チョコレートが体温で溶けて指につくのが気持ち悪くて、手を止めてすぐさま洗い流したい衝動に駆られるが、ぐっとこらえた。すべての生地にチョコレートを入れ終わったら、紙カップの乗った天板をレンジに再入庫する。
「かんたん、だったかも」
レンジを中で生地が膨らんでいくのを見守りながらつぶやくと、扉越しに見えた沢見くんは『難しくなかったね』と、労ってくれた。
出来上がりを知らせる音がなって、扉を開けると、チョコレートを溶かした時とは比べ物にならないくらいのチョコレートの私の顔を無遠慮に撫でていったが、焼きあがった生地が見えたら不快感はどこかに消え去ってしまった。
「味見してもらえる?」
沢見くんが翔琉さんから借りてきてくれたケーキクーラーの上に、フォンダンショコラを並べながら尋ねると、沢見くんは準備万端にナイフを手にしていた。沢見くんは熱々の紙カップを一つ、紙皿の上に乗っけると丁寧にカップをはがし、フォンダンショコラにそっとナイフを入れた。断面からはとろりとチョコレートが溶け出して、私たちは興奮気味に顔を見合わせた。それから沢見くんは、ふーっと息を吹きかけてフォンダンショコラを冷まし、一口ほおばる。その目はきらりと光り、親指を立てて、それが成功だと教えてくれた。
「よかった」
安堵のため息が出る。
『そういえばなんだけど、もらった友チョコはどうしたの?』
沢見くんが、咀嚼しながら聞いてきた。食べながら話せるのは、彼の特権だ。
「お母さんとお父さんに、食べてもらったよ」
あのバレンタインデイの事件のあと、中学入学と当時に両親の仕事の都合で転勤することになり、真っ白な寄せ書きコーナーの卒業アルバムを抱えて、全く新しい場所でのスタートを切ることになった。公立の中学校と言えば、同じ小学校上がりの人間が大多数を占めるわけで、すでに仲良しグループが出来上がっているところに飛びこむのは相当な勇気がいった。でもだからこそ、同じ轍は踏まないように細心の注意を払った。誰からも嫌われたくない一心で、みんなに平等に親切に接していたら「みんなにやさしい佳純ちゃん」と居場所を作ることに成功した。
それでもバレンタインデイは私にとってのトラウマで、学校を毎年休んでいた。翌日学校に行くと、友チョコをくれる奇特な人がいたけれど、結局食べられずに両親にあげた。そしてホワイトデイにはチョコレートではない別のものをお返しに贈った。
『味見、してみる?』
沢見くんが小さな一口分を切り分けれくれたが、私は首を横に振った。
「まだちょっと、遠慮しておく。今日は、匂いをかいで、触れたことで、おなかいっぱい」
『ちゃんとおいしいよ。それは間違いない。保証する』
「ありがとう」
出来上がったものは粗熱を取った後、ラッピングを施した。
保健室の先生と、翔琉さんと、そして、四人に。
『明日、四人とは話をするの?』
汚れた道具は家に帰ってから洗おうと片づけて、保健室の中からチョコレートレートのにおいを追い出すために、窓開けていた。見上げる空はすっかり夜の顔をしていて、星も輝いている。
「まだちょっと、悩んでる」
明日、バレンタインデイのお返しを渡す際に、私の心のうちを打ち明けるか、否か。
この学年が終わるまで、あと一週間ほど。新学期が始まれば、クラス分け次第では彼女たちとの交流はなくなる。もし別々のクラスになれば、何も言わずに徐々に離れていこうと考えていた。そして、来年度も同じクラスになった際には、その時に改めて伝えても、遅くはないのではと感じていた。
だからお返しを、登校時にさらっと渡すか。
あるいは、「話がある」と放課後に呼び出して渡すか、今も悩んで決めきれない。
『今だから言うけど。実はずっと気になってたんだ、辛島さんのこと』
「え?」
『いつも暗い顔をして、机の中でスマホ見てるな、と思って』
いつ先生にばれるかと気が気でなかったのに、すでに沢見くんにばれていたなんて。今更ながらに知って冷や汗をかく私に、沢見くんは訂正した。
『いや、大抵の人はそんなこと思っていないだろうけど。あけすけに言うと、正直『死にそう』って思ってたんだ。兄貴や、翔琉と、同じような顔してたから』
死にそう。
オブラートに包まずはっきりと口にされて、怯む。
確かに憂鬱だったことは何度もあるけれど、明確に「死にたい」と願ったことは、なかったように思う。もっともそれは私の意識の中での話で、「無意識的」にどうだったかはわからない。人間は己のことが一番よく見えていないから、案外沢見くんの言うことは正しかったのかもしれない。
「少なくとも、今の私は、望んでいないよ」
今はもっと、自分にも、相手にも、向き合っていきたいという気持ちが大きい。
『そんな顔、してる』
沢見くんにつられて、口角が上がる。
『だからさ、辛島さんがどんな選択をしたとしても、僕は応援してるよ』
沢見くんの「声」が、そっと寄り添ってくれる。
「ありがとう」
テーブルの上に並んだフォンダンショコラ。粉砂糖のお化粧までしたそれの行く末を案じながら、私は丁寧に仕上げの「for you」と印字されたシールを貼り付けた。
放課後、保健室まで行く途中に突然お礼を言われて、何のことかと首をかしげる。
『ひとりだけ、僕の考えを肯定してくれたじゃん』
そう言われて、美術の時間を思い出し、再び憂鬱になる。
「あれはもう黒歴史だから、思い出させないでもらえると……」
『なんで? 僕はうれしかったのに』
力なく垂れさがる私の左手の小指に、自分の小指を絡めてくる沢見くんははにかんだ。
(まあ、沢見くんがいいならそれでいいか。)
そうやって気を取り直せる私は、ずいぶんと単純になったようだ。
保健室までやってくると、沢見くんが「どうぞ」と扉を開けてくれるので、「失礼します」と断ってから入室した。
ホワイトデイのお返し作りを、保健室でやったらどうかと言ったのは沢見くんだった。
バレンタインデイに話をした後、チョコレートが苦手だと言った私を見かねて引き取ろうとしてくれた沢見くんの申し出は断った。彼女たちが友チョコをくれたのは事実だし、それは彼女たちのために買ったチョコレートだったから。でも家に帰っても、そのチョコレートたちをどうこうすることはできずにいて、そんなとき沢見くんが名案を思い付いてくれた。
チョコレートを扱うのが難しいのであれば、レンジを使った簡単なものに絞ったらいい、と提案してくれたのがきっかけで、保健室の先生にも事前に話をつけてくれた。なぜ許可が下りたのか問えば、翔琉の家のお菓子で買収した、といたずらっぽく教えてくれた。
「あれ、翔琉さんは?」
ラベンダーの香りがする部屋に入ると、私がここを訪れるときにはいつもある気配を、パーテーションの向こうから感じなかった。材料を並べるために、長テーブルにテーブルクロスを引いてくれていた沢見くんが頷いて、唇が『帰った』と動いた。
「そうなんだ」
道具や材料は教室に置いていたら目立つから、先生に言って登校してから保健室に置かせてもらっていた。長ターブルの上に、家から持ってきた道具と、冷蔵庫にしまっていた材料並べる。
『お菓子作りするって言ったら、気が散るだろうからって』
「そんなことは全くなかったけど……甘いもの、好きだったりする?」
『お菓子屋の息子らしく、甘いものには目がないよ』
そしたら、翔琉さんにも作ろう。一応材料は多めに持っている。
作るのはフォンダンショコラ。彼女たちが作ってくれたものとかぶらない、かつレンジでできる簡単なものを探していたら、フォンダンショコラのレシピがヒットした。
『じゃあ、やりますか?』
「やり、ましょう」
気合を入れて、エプロンをつける。
第一関門は、アソートボックスのチョコレートをレンジで溶かすこと。だが、ボックスの封を開けないと始まらないのに、どうしても体がこわばってしまう。
『辛島さん』
名前を呼ばれて、呼吸が浅くなっていることに気づいた。
『大丈夫だよ』
チョコレートの箱を掴む手に沢見くんの手を添えられて、少しずつ力が抜けていく。
『誰も、辛島さんがチョコレートを使うことを、咎めたりしないよ』
「誰も……」
『そう、誰も』
粉々にされたチョコクッキーが脳裏をよぎる。風がさらっていく甘くて苦い香りは、忘れることができないでいた。忘れることさえ、許されなかった。その季節が巡ってくるたびに、自分の犯した罪を再認識させられてきた。
もし、また、拒絶されたらどうしよう。
そんな考えについ力が入ってしまう。
でも、私も変わりたい。
(大丈夫。大丈夫だよ、佳純)
ただその場にとどまることでしか自分を保てなかった今までの自分とは、もう違う。少しずつ時間を進めて、一歩を踏み出していける。
大きく深呼吸をして、蓋を止めてあるテープを少しずつはがしていく。四角い箱の角を、一つずつ開放していって、テープがはがれる。またもう一度、大きく息を吸って、止めて、蓋を開いた。
買ったときに「かわいい」と思ったままの形で、チョコレートは並んでいた。
(そうだ。私、「かわいい」と思えていた。)
チョコレートに対して、嫌な感情ばかり持っていたわけではない。このチョコレートはちゃんと自分でかわいいと感じて、彼女たちへプレゼントしようとしていた。
息を吸うと、チョコレートのにおいが一気に肺まで入ってくる。甘ったるくてほんのり苦い香りに、胃のあたりがムカムカしてくる。
(でも、今の私なら、大丈夫。)
何度も、何度も自分に言い聞かせる。
箱の中のチョコレートを一気に耐熱ボウルに放り込み、においが漂うのを防ぐようにラップをかける。電子レンジに入庫して、ボタンを押すと、橙色のライトに照らされながら、耐熱ボウルはくるくると回り始めた。
『できたじゃん』
レンジの扉に、私と、沢見くんの顔が映っていた。
「でき、ちゃった……」
沢見くんが拍手をするので、私もつられて手を合わせる。
(なんだ。私にも、できるじゃん。)
溶かされたチョコレートは溶けていくにつれて強いにおいを放つ。顔をしかめると、忘れてた、と沢見くんが窓を開けてくれていくらかましになる。
加熱終了の音が鳴り、レンジからとり出した熱々のボウルを少し冷ましてから、ホットケーキミックスと、牛乳、サラダ油を加えて混ぜる。出来上がった生地を専用の紙カップの中に入れたら、まだ残っている箱からチョコレートを一粒ずつ取り出して、生地の中央に入れていく。チョコレートが体温で溶けて指につくのが気持ち悪くて、手を止めてすぐさま洗い流したい衝動に駆られるが、ぐっとこらえた。すべての生地にチョコレートを入れ終わったら、紙カップの乗った天板をレンジに再入庫する。
「かんたん、だったかも」
レンジを中で生地が膨らんでいくのを見守りながらつぶやくと、扉越しに見えた沢見くんは『難しくなかったね』と、労ってくれた。
出来上がりを知らせる音がなって、扉を開けると、チョコレートを溶かした時とは比べ物にならないくらいのチョコレートの私の顔を無遠慮に撫でていったが、焼きあがった生地が見えたら不快感はどこかに消え去ってしまった。
「味見してもらえる?」
沢見くんが翔琉さんから借りてきてくれたケーキクーラーの上に、フォンダンショコラを並べながら尋ねると、沢見くんは準備万端にナイフを手にしていた。沢見くんは熱々の紙カップを一つ、紙皿の上に乗っけると丁寧にカップをはがし、フォンダンショコラにそっとナイフを入れた。断面からはとろりとチョコレートが溶け出して、私たちは興奮気味に顔を見合わせた。それから沢見くんは、ふーっと息を吹きかけてフォンダンショコラを冷まし、一口ほおばる。その目はきらりと光り、親指を立てて、それが成功だと教えてくれた。
「よかった」
安堵のため息が出る。
『そういえばなんだけど、もらった友チョコはどうしたの?』
沢見くんが、咀嚼しながら聞いてきた。食べながら話せるのは、彼の特権だ。
「お母さんとお父さんに、食べてもらったよ」
あのバレンタインデイの事件のあと、中学入学と当時に両親の仕事の都合で転勤することになり、真っ白な寄せ書きコーナーの卒業アルバムを抱えて、全く新しい場所でのスタートを切ることになった。公立の中学校と言えば、同じ小学校上がりの人間が大多数を占めるわけで、すでに仲良しグループが出来上がっているところに飛びこむのは相当な勇気がいった。でもだからこそ、同じ轍は踏まないように細心の注意を払った。誰からも嫌われたくない一心で、みんなに平等に親切に接していたら「みんなにやさしい佳純ちゃん」と居場所を作ることに成功した。
それでもバレンタインデイは私にとってのトラウマで、学校を毎年休んでいた。翌日学校に行くと、友チョコをくれる奇特な人がいたけれど、結局食べられずに両親にあげた。そしてホワイトデイにはチョコレートではない別のものをお返しに贈った。
『味見、してみる?』
沢見くんが小さな一口分を切り分けれくれたが、私は首を横に振った。
「まだちょっと、遠慮しておく。今日は、匂いをかいで、触れたことで、おなかいっぱい」
『ちゃんとおいしいよ。それは間違いない。保証する』
「ありがとう」
出来上がったものは粗熱を取った後、ラッピングを施した。
保健室の先生と、翔琉さんと、そして、四人に。
『明日、四人とは話をするの?』
汚れた道具は家に帰ってから洗おうと片づけて、保健室の中からチョコレートレートのにおいを追い出すために、窓開けていた。見上げる空はすっかり夜の顔をしていて、星も輝いている。
「まだちょっと、悩んでる」
明日、バレンタインデイのお返しを渡す際に、私の心のうちを打ち明けるか、否か。
この学年が終わるまで、あと一週間ほど。新学期が始まれば、クラス分け次第では彼女たちとの交流はなくなる。もし別々のクラスになれば、何も言わずに徐々に離れていこうと考えていた。そして、来年度も同じクラスになった際には、その時に改めて伝えても、遅くはないのではと感じていた。
だからお返しを、登校時にさらっと渡すか。
あるいは、「話がある」と放課後に呼び出して渡すか、今も悩んで決めきれない。
『今だから言うけど。実はずっと気になってたんだ、辛島さんのこと』
「え?」
『いつも暗い顔をして、机の中でスマホ見てるな、と思って』
いつ先生にばれるかと気が気でなかったのに、すでに沢見くんにばれていたなんて。今更ながらに知って冷や汗をかく私に、沢見くんは訂正した。
『いや、大抵の人はそんなこと思っていないだろうけど。あけすけに言うと、正直『死にそう』って思ってたんだ。兄貴や、翔琉と、同じような顔してたから』
死にそう。
オブラートに包まずはっきりと口にされて、怯む。
確かに憂鬱だったことは何度もあるけれど、明確に「死にたい」と願ったことは、なかったように思う。もっともそれは私の意識の中での話で、「無意識的」にどうだったかはわからない。人間は己のことが一番よく見えていないから、案外沢見くんの言うことは正しかったのかもしれない。
「少なくとも、今の私は、望んでいないよ」
今はもっと、自分にも、相手にも、向き合っていきたいという気持ちが大きい。
『そんな顔、してる』
沢見くんにつられて、口角が上がる。
『だからさ、辛島さんがどんな選択をしたとしても、僕は応援してるよ』
沢見くんの「声」が、そっと寄り添ってくれる。
「ありがとう」
テーブルの上に並んだフォンダンショコラ。粉砂糖のお化粧までしたそれの行く末を案じながら、私は丁寧に仕上げの「for you」と印字されたシールを貼り付けた。

