キスでは解けない呪いでも

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 沢見くんとあんな別れ方をして迎える月曜日は、今までのどの月曜日よりも憂鬱だった。少なくとも、スマホの溜めてしまった通知を見ても、何の罪悪感を感じないほどには、精神を消耗していた。
学校を休んでしまおうか。
ドライフラワーにしようと窓辺に吊るした白い薔薇を見ながら、そんな考えも過ぎったが、『佳純、生きてる?』と飛んできたメッセージに、現実に引き戻された。
『体調悪くて、スマホほとんど見てなかったの。ごめん。今から読むよ』
返信すると、一、二、三、四とすぐに既読はついた。『お大事にー』と労わる言葉をかけられ、私は重い体を起こして支度した。
登校すると、沢見くんは私より先に席についていた。友人たちと談笑している姿はいつもと変わらない。
身構えて自分の席に近づくと、気づいた沢見くんが声をかけてきた。
『おはよう』
私がおはようと返すのも待たずに、沢見くんはすぐに友人たちとの会話に戻っていく。
「お前、辛島さんと仲良かったっけ」と言う友人たちに『まあ、教科書貸してもらったりしたから』なんてそれっぽい言い訳をした。友人たちもそれ以上のことにはあまり興味はなかったようで「でさ」と、さっきまでの話題を再開したようだった。
それからも、沢見くんは毎朝私に『おはよう』と挨拶してくるものの、それ以上の会話はなかった。休み時間に少し話すことも、帰り際に声を掛け合うこともない。私が返そうとするのは一切聞かず、一方的に『おはよう』だけは言い続けてくる。
 邪険にはしないけれど、かといって親交を深めるつもりもない。彼なりの私への予防線だった。
 私は慢心していた。沢見くんは私の話を聞いて受け止めてくれていたし、沢見くんからの自己開示もあって、彼をよく知っている気になっていた。
(調子に乗るんじゃ、なかった。)
 今更後悔が押し寄せる。一度口から出てしまった言葉は取り消せないと、わかっていたはずなのに。本当に人づきあいがへたくそで、自分が嫌になる。
それを肯定するように、机の中のスマホがメッセージを受信する。最近の話題は、バレンタインデイを機に意中の先輩と付き合うことになった、もも恵のあれこれだ。
沙菜は未だ浅田くんと進展はないらしいけれど、毎日メッセージは送りあっているらしい。奈々未の恋愛も順調で、サエリは相変わらず傍観者のポジションに落ち着いていた。
おそらく、サエリには告白現場を見ていたことに気づかれてはいない。あの後もサエリの挙動には注意していたけれど、特に何かを言われることもなく、今まで通りの日常が続いている。
表のトークルームでは友人を演じ、裏ではお互いの悪口を言い合い、発散する。今までもそうであったように、いつばれるのかひやひやしながらも、自分の居場所を見出して、声を出すことへのあきらめを受け入れながら、高校生活を終えるのだろう。
けれど、そんな予想をひっくり返す出来事は、静かに、確実に、忍び寄っていた。
朝、登校すると、学校の中が騒がしかった。アナログテレビのスノーノイズが絶えず流れているような、そんな不快感が漂っていた。
 教室内でも得体のしれない焦燥感に駆り立てられている、と話題で、朝のホームルーム開始時刻になっても担任が来なかった。隣のクラスから止まない私語がこちらの教室にも届いて、不安感を募らせていると、ようやく担任が教室にやってきた。
「全員、今から体育館に集合」
 ただならぬ雰囲気を感じ取り、皆、素直に指示に従った。
体育館には私たちの学年だけでなく、全校生徒が集められていた。生徒が全員着席したのを確認して、沈鬱な面持ちの校長先生がスタンドマイクの前に現れた。
一つ上の学年の男子生徒が、自宅マンションから飛び降りたのは、昨日の早朝、未明のことだったらしい。授業時間を削って、この体育館にて緊急でもたれた学校集会で、フクザツな家庭環境が背景にあって、彼の中で選択肢は他になく、やむを得なかったのだろう、と、校長先生は告げた。
衝撃的な事の顛末をに場内は騒然となった。
全校生徒で黙祷を捧げて、「命は尊いものだから」と訥々と教頭先生が語っている途中、
「わあああああ」と絶叫が体育館に響き渡った。突然、ひとりの男子生徒の様子がおかしくなった。周りの先生に宥められながらも彼は騒ぎ立てるのをやめず、しまいには半狂乱になって泣き叫んだ。
――「俺が『お前なんていなくなれ』って言ったから」
――「俺のせいで、死んだんだ」
――「俺が、あんなことを言わなければ」
彼のその言葉で、場が一斉に凍りついた。慟哭するその生徒は、先生たち数名によって体育館をあとにした。耳が痛くなるほどの静寂ののち、教頭先生が短い言葉でその場を締めくくり、解散となった。
教室に戻って、この一つ上の学年に彼氏を持つ奈々未が教えてくれたが、あのひとは、亡くなった男子生徒の親友だったそうだ。
彼と亡くなった男子生徒はその数日前、些細なことで口論になり、その生徒に対して「お前なんていなくなれ」と口走ってしまった、と聞いた。
『自殺なんてする人、本当にいるんだね』
奈々未の言葉に、みんな『びっくりだよね』って。
『漫画みたい』
『映画かとおもった』
『ドッキリ、とかではないよね?』
『てかさ』
――『あの人も、死んじゃうのかな』
私は『どうだろうね』と返す以外、できなかった。
教室に戻ったあと、先生も生徒もみんな心ここに在らずといったように、真面目に授業をしている先生も、受けている生徒もいなかった。
三月の席替えで端の窓際の列になった沢見くんだけが唯一、普段と変わりのないように板書をとって、まっすぐ黒板と、先生の目を見ていた。
掃除の時間。ごみを捨てて舞台に戻ってくると、いつかのように新しいごみ袋を用意している沢見くんがいた。思わずぎくりとして後ずさる。二人きりになるのは駅での出来事以来。トイレ掃除をしていたはずの沢見くんが、ここにいるということは、私に話があることと同義だ。
作業を終えた沢見くんは、私がいたことにはとっくに気づいていたようで、当然のように近づいてきた。
『今日の放課後、空いてますか?』
 今日は日直でもなければ、友人たちと女子会の予定もなかった。生憎と時間はある。でも、沢見くんが私に何を求めているのかわからなくて、頷くのをためらった。
『辛島さんに、聞いてほしい話があるんだ』
 その瞳は、迷子のように不安げに揺れていた。
 私が沢見くんの話を聞くに値する人間だとは思えないけれど、そんなことを言われて断れるはずもなかった。
待ち合わせは保健室じゃなくて、駅だった。忘れ物をした、と学校に戻るふりをして何度目かの嘘で彼女たちと別れ、雑踏に身を置きながら沢見くんを待っていた。
しばらくすると、沢見くんはスケッチブックをわきに抱えて、現れた。
『ちょっと歩かない?』
 きっと今朝の事が尾を引いていた。道中、お互いに一言も発しなかった。私たちの地面を踏む音が、やけに耳についた。
沢見くんのあとを追って行き着いたのは、小さな公園だった。自動販売機で暖とりのためにお茶を一缶ずつ買って、だれもいない公園のベンチにふたり腰掛けた。遊具はブランコに滑り台だけ。大通りからも離れて閑散とした住宅街の中、頼りなげな街灯が一本、ベンチのそばに立っている。
ふと、目の前にスケッチブックが現れた。
『今日ずっと、ボーッとしてたね』
私の顔を覗き込んで『大丈夫?』とさらに尋ねてくる沢見くんに、首を緩く縦にふった。
「みんな、そんな感じだったね」
『田中先生、チョーク折ってたね』
「いつもなら乱れない板書も、ガタガタだったよね」
数学の授業を思い出して、少しだけ笑いが戻る。綺麗にきっちり一直線に文字を書くことで有名な田中先生。今日は板書の文字もガタガタで、計算も間違っていたし、途中で力み過ぎてチョークも折っていた。亡くなった上級生は、田中先生の担当クラスの生徒だったそうだ。
「沢見くんは、文字を打つのも、書くのも早いんだね」
 スケッチブックを使うのを見たのは、スマホを壊した時以来だ。会話がキャッチボールの速さで進むことに感心すると、沢見くんは得意そうにした。
『小学生のころはスマホが持てなかったから、練習したんだ』
「そうだったんだ」
『手話も一応できるけど、相手に覚えてもらわないといけないから、こっちの方が楽で』
(それでも手書きよりはスマホの方がもっと楽なはずなのに、どうしてわざわざスケッチブックを使うのだろう?)
沢見くんがそれきり何もしゃべらなくなったので、私も沈黙した。
少しずつ温かくなってきた三月のはじめだが、夜は冬の名残があって冷える。気づかれないように膝をすり合わせて、まだ温かい缶をもう一度握り締めた。
さっさっ、とスケッチブックの上を鉛筆が走る音が聞こえてきた。静かなこの場に、明確な意思を持って主張するその音は、海原の波音にも似ていた。
しばらく目を閉じて耳を澄ませていると、ふいにその音が止んだ。隣を見ると、沢見くんが私の方にスケッチブックを寄せていた。
『僕ね、辛島さん』
内緒の話をするみたいに、さっきよりも文字が小さくなっている。読んだ意思を示して頷くと、沢見くんはその後に続けた。真っ白い画用紙の上に、一文字一文字黒い文字が浮かび上がっていく。沢見くんの払うような筆跡を目で追い、思わず息を飲んだ。
――『生まれて初めて、しゃべれなくてよかった、って思っちゃった』
速くなる鼓動は、正直だ。私はただただ、その言葉にくぎ付けになった。
あまりに沢見くんが「普通の人」のように振舞うからつい忘れてしまいがちだが、沢見くんはしゃべれないのだ。生まれてから一度も、声を発したことがない。
逆境があるから人生に深みが出るなんて言葉、うのみにしているわけではないが、沢見くんは、自分が話せないことを、強みにしているのだと思っていた。
沢見くんはずっと「しゃべる」ことを望んでいた。兄の身代わりだとかそれ以前に、「話す」ことのできない己に対して劣等感を抱くことは理解できる。だってスマホを駆使して、あくまでも声でしゃべることにこだわっている沢見くんだ。
だから「しゃべりたい」と思っている人が「しゃべれてよかった」とは思っても、「しゃべれなくてよかった」と思うなどとは、考えもつかなかった。
『なんでそんな顔してるの?』
 慰めるような沢見くんの言葉に、意識が戻される。
私は何も答えられなくて、唇を一の字に結んだ。じわりを熱を帯びていく目頭に、強く舌を噛む。
沢見くんは小首をかしげて暫く私と見つめ合ったあと、スケッチブックのページを捲った。
――『長くなるんだけど、読んでもらえたら嬉しい。
兄貴は、小さいころから入退院を繰り返して、学校も休みがちだった。自分が長くはないって、どこかでわかってたみたい。それでも明るくって、僕たちにとっては光そのものって感じだった。昏いところは一切見せずに、明るく振舞って、病がどんどん進行して、使う薬が、管が増えても「大丈夫」って笑ってた。
でも、やっぱり限界だったんだ。ある日病室で面会もできないほどに暴れて。枝のように細い腕でこんな力がまだ残っていたのかと思うほどに、病室はひっちゃかめっちゃかだった。棚も机も、車椅子もひっくり返って、ガラスの花瓶は原型をとどめないくらいに粉々にたたき割られてた。一番印象的だったのは、兄貴の好きだった白いバラが兄貴の血で赤に染まってたこと。面会がなぜか許された僕だけが、その光景を目の当たりにしたんだ。
兄貴は生まれつき話すことのできなかった僕をずいぶんかわいがってくれてた。ハンディのある者同士、通じ合う部分があったのは確かだよ。でもその時の眼差しは、羨望とも憎しみともとれるものだった。
お前は健康でいいな、って。
でも何も言わなかった。ただしばらく僕を見つめていた。近くに来るように呼ばれたと思ったら、抱きしめられた。それで、言ったんだ。
この世界から、自分の痕跡が消えるのが怖い、って。
 だから、誰も兄貴を忘れないように、ビデオテープに兄貴の様子を収めることにした。もうちょっと健康そうなときにやってくれよ、って呆れられたけど、僕にはどこまでも甘いひとだったから。学校帰りにまっすぐ病院に向かって、それで沢山お話して、たくさん兄貴の生きている瞬間をビデオに収めた。
 楽しかった。カメラを向けると、嫌そうにふざけるところも、大きな口をあけて笑うところも。この人が死ぬなんて、嘘なんじゃないかって思った。でも、病は確実に兄貴をむしばんで、狂わせていったんだ。
しばらくして、兄貴は死んだ。自らの手で、命を終わらせて』――。
 その言葉は、ものすごい破壊力で私に迫ってきた。私は息つく間もなく、次のページをめくった。
――『その日は僕がたまたま風邪をひいてしまって、お見舞いに行けなかった。今思うと、兄貴はそんな瞬間が来るのを、望んでいたんだと思う。
 その日は翔琉が――保健室にいるあの人が、お見舞いに行ったんだ。兄貴と翔琉は幼馴染だから。そしたら病室に兄貴がいないことに気づいて、看護師さんたちに声をかけて、捜索が始まったんだって。あんな体で遠くに行けるはずがないってみんなで血眼になって探し回ってくれて、一番先に兄貴を見つけたのは、翔琉だった。
 病院の屋上。立ち入り禁止なのに。扉は重いのに。
 翔琉は、兄貴が柵を乗り越えて身を乗り出しているところを見つけて、必死になって兄貴を呼び止めたけど、兄貴の決心は揺るがなかったんだ。
 一言「ごめん」って、そういって。
 大きな風が吹いたと当時に、兄貴の身体が宙に浮いて、消えたって、翔琉は言ってた。
 両親は死に目に会えなくて、翔琉は唯一の目撃者で、もうみんなボロボロだった。不幸中の幸いは、重力に負けて地面に落ちた兄貴が、だれも巻き込まなかったことかな。
風邪さえひかなければ、って自分を責める暇もなく、葬式が、告別式が、四十九日が進んでいって。僕たちだけを置いて、時間だけが無情に流れていくんだ。両親はまだ大人だったからさ、次第に兄貴の自殺を受け入れた。あとから遺書っぽいものも見つかったし。
 一番大変だったのは翔琉。僕は細かいことは聞かされてないから知らないんだけど、昔いじめられてた翔琉を兄貴がかばっただか何だかで、翔琉のやつ兄貴のことすっごい慕ってたから。ちょっと目を離せばすぐ後を追おうとしてた。
どうにかして、翔琉をこの世にとどめて置ける方法がないか考えて、それで思い出したんだ。
兄貴がいつか、「俺が死んだらお前にこの声あげるよ」って、冗談まじりに言ったのを。兄貴が死んで声帯を僕に移植したとこで、僕が喋れるようにはならないんだけどさ。
 翔琉はコンピューターとかプログラミングとはすごい強かったから、絶対他人を寄せ付けなかった部屋のドア蹴破って、ビデオに録音した兄貴の声で、僕のために読み上げソフト作れ、って命令した。頼みなんてかわいいものじゃなくて、作らなかったら殺すくらいの勢いで交渉したよ。死相を漂わせている翔琉を救う方法なんてそれしか思いつかなくて、一か八かのかけだったけど、結局僕の勝ち。
 僕が撮った動画全部託して、翔琉は今の僕の「声」を作ってくれたんだ。兄貴の面影を探すように、一日中音声づくりに没頭してたよ。飲まず食わずの生活が続いてぶっ倒れたりもしたけど、少なくとも翔琉は生きた。
 そうやって、あの音声読み上げアプリができたんだ。僕の兄貴の声で作った、僕専用のアプリ。今までスケッチブックで話していた僕にとっては、画期的で、すぐ入力の仕方をマスターしたよ。
 一番最初は、すっごい棒読みのものだったんだけど、改良を重ねて、今の流暢な会話が成立するようになった。しゃべりかた、兄貴そのままだった。翔琉も両親も喜んだ。兄貴の声が、僕が「しゃべる」だけで聞けるから。
 一つ欠点は、「ごめん」は言えないんだ。翔琉が兄貴の声の「ごめん」だけは聞けないって言って、それだけ、打っても音声が出ない仕様になってるんだ』――。
 そこで、文章は終わっていた。私は無言のまま、スケッチブックを凝視していた。沢見くんは文字を追わなくなった私の瞳に気づいて、新しいページを開いて、また鉛筆を走らせる。
滑らかに動く彼の手に、今ははっきりと、罪悪感を抱いた。
『スマホ壊したかったのは僕の方だったんじゃないか、って核心を突かれて動揺した。今まで誰も、それに気づいたことなんてなかったから。
言い出したのは僕だよ。僕だって兄貴が恋しかった。両親の強がりを見ていられなかった。兄貴の願いをかなえてやりたかった。翔琉には生きてほしかった。
僕の『声』は僕のためであり、兄貴のためで、両親のためで、翔琉のためで。
でも、僕の声じゃない。どうしたって、偽物止まり。どれだけ流暢に会話できても、僕の本当の声ではない。文字を打つのは僕でも、しゃべるのは兄貴だから、いつの間にか兄貴になりきろうとしてる自分に――なりきっていた自分に、気づいた。音声アプリ使うのを嫌がったら、両親や翔琉は悲しむ。今の平穏のためなら自己犠牲はいとわないって、思ってたのに。今更辞めたい自分に気づいて、嫌だったんだ。だから、辛島さんに見破られて、正直、ちょっと腹が立った』
 沢見くんの表情は書いてあることとは逆に、とても穏やかだった。私は謝ることもはばかられて、ただじっと彼の「声」に耳を傾けていた。
『声ってちゃんと、相手に届くよね。でも僕の『声』は、どれだけ頑張っても出ない。だから自分の声でしゃべれる人がうらやましい。どれだけ文字を書くのが、打つのが早くても、生身の会話には到底及ばない。さっきの兄貴の話は、今日の授業中にて書いてたし。
どれだけ会話ぶっても文字の羅列に変わりない。だから、しゃべることのできる人がうらやましかった。すごく、すごく、うらやましかった、けど』
 沢見くんはそこでいったん手を止め、思案するように瞼を閉じた。風が笑うようにほほを撫でていく。ゆっくりと瞼をもちあげ、続きを書こうとする沢見くんの手は、小刻みに震えていた。
『今日話を聞いた上級生の彼のように、心の突いてはいけない場所にも、『声』というものが、もし届いてしまうようなことがあるなら。話せなくてよかったって、思っちゃった』
――『生まれて初めて、話せなくてもいいことあるんだ、って思ったんだ』
寂し気に口の端をあげて私を見る、深海のような瞳は、嘘の無い全きもの。
――「しゃべれなくて、いいのに」
過去にそんなことを思った自分を、これほどまでに恥じたことはなかった。
沢見くんはスケッチブックをたたむと、自分のほほで両の口角を上げて見せた。私の反応が鈍いことに気づいて、もう一度、「わらう」と唇を動かして笑って見せる。
そんな気分ではまるっきりなかったけれど、なんとか笑顔を作ってみせると満足したようで沢見くんは大きく頷いた。
話を終えた沢見くんは、お茶缶のプルタブを起こし、一気に飲み干した。そして向こうの方に見えたごみ箱をめがけて缶を投げた。スチール缶は大きな放物線を描き、見事ゴミ箱の中に着地。カランカランとほかの缶にぶつかる音が、公園中に響き渡った。
また、沢見くんはリュックサックの中から購買のクリームパンを取り出すと『食べていい?』と私に断って、頬張り始めた。
私も缶のお茶を一気に飲み干し、沢見くんの真似をして缶を投げてみたけれど、惜しいところでゴミ箱のふちにはじかれてしまった。笑う沢見くんをにらみつけて、ちゃんと缶のごみ箱まで歩いて行って捨てた。
ふざけることは、できそう。それでも、胸に巣食う漠然とした喪失感は、ぬぐえない。
闇夜の碧い雰囲気にのまれ、私の感情はいろんな意味で昂っていた。
「沢見くん」
 沢見くんはクリームパンにかじりつきながら、首をかしげた。
「確かに、とっさに出てくる『声』に、『文字を起こす』ことは、敵わないよね。でも沢見くんの言葉は、決してただ文字の羅列なんかじゃないよ。さっきの言葉たちも、沢見くんの『声』として、ちゃんと、届きすぎるくらい届いた。でも、そういうことじゃ、ないんだよね、きっと」
沢見くんはくわえていたクリームパンを噛みちぎると、ゆっくり咀嚼しながら手を下ろした。沢見くんの膝の上にある、角が草臥れたスケッチブックの壁は、私にはどうしたって超えることはできない。
 できることなら、沢見くんにも「声」を与えてあげたいけれど、そんな権力も能力も私は持ち合わせていない。だったらせめて、彼の声には、耳を傾けられる人でありたい。
 だって、沢見くんは、私だ。
「私は、沢見くんのこと、もっと、もっと知りたい」
 自分の声が届かないなんて、諦めてしまわないで。
 他人が望む自分だけが「自分」だなんて、思わないで。
 自分自身にも言い聞かせるように「声」にする。
沢見くんの咀嚼が、止まる。
握っていたクリームパンに少し力が入って、ガサリと包装の袋の微かな音が聞こえた。また吹いた風が私の頬を撫で、沢見くんの髪を遊んで去っていく。弱弱しい光を放っていた街灯の灯りが、ろうそくのようにふっと消える。
 耐えられない試練は与えられない、っていうけど、そもそも試練なんていらない。何不自由なく幸せな人生を与えてくれればいいのに、神様は意地悪だから、私たちの人生には一波乱も二波乱もつきものだ。
 そんな困難に直面するたびに、あきらめたくなることは何度だって訪れる。
 それでも、人は期待することをやめられない。次こそは、と希望を持ちたくなる。たとえ裏切られるとわかっていても、望みを抱かずにはいられない。
 だって、何人も幸せになる権利があるから。誰だって、幸せになりたいから。
「私は、沢見くんがこんなことに心を動かされるのか、知りたい。どんなことに笑うのか、どんなことで涙を流すのか、そういうこと、知りたい。お兄さんを思ってお兄さんのように振舞う沢見くんのことも、お兄さんの影に隠れることを余儀なくされている沢見くんのことも、全部知りたいよ」
(あなたのことが、好きだから――。)
私は逆立ちしたって沢見くんになることはできない。彼が自分の立場をどう感じて、周りにどんな印象を抱いているのかを理解できる日は、一生来ない。私が取り払うことのできない境界線は、他のみんなだってきっと無意識に作っているもので、どれだけ沢見くんが「普通の男の子」であろうとしても、そのスケッチブックを抱えている限り、スマホを握っているかぎり、私たちと沢見くんには異なった人生がすでに決められている。
しかし、どれだけその人になれなくたってその言葉を受け止めて、一緒に背負うことはできる。全部を理解できなくても、お互いに歩みよる努力をすることはできる。
 私たちはいつだって、どうしようもなく、手を差し伸べて、隣に座ってくれる「誰か」を、求めているのだ。
「沢見くんの声、もっと聞かせてよ」
初めから何もない人と、後から失ってしまった人とでは、どちらの悲しみがより深いだろうか。
声を持っていた、体育館で絶望を露わにしたあの先輩と、届かない「声」を持つ沢見くんでは、どちらの孤独が大きいだろうか。
天秤にかければ、もう挽回のチャンスの訪れないあの先輩の孤独のほうが大きいように思われるかもしれない。しかし、沢見くんがこれからも絶えず直面する壁は、どれほど高くて、厚いのだろう。
沢見くんの瞳の奥が揺れて、漆黒の空を映すその瞳から星屑が落ちた。白いパンからはみ出た黄色いクリームの上に、スケッチブックの上に、一粒、また一粒と涙のしずくが落ちていく。
寒さからではなく震える沢見くんに、私は立ち上がってそっと腕を回した。拒まない沢見くんは倒れこむように私の肩に頭を置く。初めて抱きしめた男の子は、とても小さくて脆くて、もう少し力を入れるだけで壊れてしまいそうだった。でも、このまま抱き締めていないと、どこかに消えてしまいそうだった。
沢見くんが泣いても声は出ない。嗚咽のような息遣いと鼻をすする音だけが、ちっぽけな空間に響いた。
一頻り沢見くんが泣いた後で、私たちは来た道を引き返した。私が先に歩いて、沢見くんは後ろをついてきた。その間、会話はなかった。二人で俯き、つま先ばかり見ていた。
ただ、改札を抜けてお互い別のプラットホームに立った時、手を振り合った。沢見くんが線路を挟んで向こう側から泣きはらした赤い目で私を見つめ、小さく手を振ってくれたから、私も振り返した。
また、明日。
そんな意味を込めて。
沢見くんがやってきた電車に乗り込むのを見届けて、ようやく肩の力が抜けた。ベンチに腰掛け、空を見上げると、いつもと変わらない星天が広がっていた。
星が、目に入ってきた。
そんな言い訳をして、一人静かに嗚咽を押し殺した。
次の日もいつも通り、朝はやってきた。太陽が山の端にまだ隠れる暁の刻に、目が覚めた。二度寝を試みても、寝付ける気もしなかったから、いつもは乗らない時間帯の電車に乗り込んで登校した。
校門が開いたばかりの校舎に足を踏み入れると、しんと静まり返って昇降口でひときわ目立つ靴箱を見つけた。それは二年生のクラスのもので、一つの靴箱にたくさんの花や手紙が入っていた。扉も閉まらないくらいに溢れかえり、下の段の生徒への被害に及んでいる。
もう履かれることのない上履きは、色とりどりの花々と、メッセージの書かれた様々葉形の付箋に埋もれている。生憎押し出されてしまったのか、落ちてしまっていた一枚を拾い上げると「好きでした」との文字が見えた。控えめに、けれどしっかりとした筆圧で書かれたその文字に、胸にこみあげてくるものがあった。他人にメッセージが読まれないように小さく折り畳み、靴底深くに入れておいた。
『辛島さん』
 ふいに、名前を呼ばれる。振り返ると、沢見くんが立っていた。登校してきたばかりのようで『おはよう』と声をかけてくるから、私も同じように「おはよう」と返す。
『今日は随分早いんだね』
 沢見くんも早いね、と言いかけてやめる。沢見くんが右手に持っているのは、いつもと同じスマートフォンだが、違和感を覚えた。
「沢見くん……声、変わった?」
 沢見くんは『よくわかったね』と嬉しそうにした。今までの声色と全く変わったわけではなく、親子や兄弟姉妹で声が似るように、普段から沢見くんの声を聞いている人にはわかる程度の変化だった。
『遅ればせながら、声変わりしました。……変じゃ、ないかな?』
 沢見くんが新しいおもちゃを買ってもらった子どもみたいに、はしゃいでいるのが伝わる。早くみんなに新しい声を聞いてもらって、気づいて欲しい。そんな期待もこもっているようだった。
 その声は、今まで聞いていた沢見くんの『声』――沢見くんのお兄さんの声よりも、今の沢見くんにとてもよく似合っていた。
「沢見くんにぴったり、って感じ」
『そう言ってもらえて、嬉しい』
 沢見くんもまた、私と同じように花と手紙があふれかえっている靴箱を見つめる。手を合わせて黙とうをささげる沢見くんに倣い、私も手を合わせて目を閉じた。
(あなたも、あなたの友人も、どうか幸せでありますように。)
 朝のひんやりとした空気を吸い込んで目を開ける。視線を感じて隣を見ると、沢見くんと目が合った。その表情は何かいいたげに僅かに思い詰めるようで、私は首を傾げた。
『昨日は、ありがとう。ろくにお礼も言えずに別れてしまったことが気がかりだったんだけど……だから、改めて、色々、ありがとう』
 沢見くんに対してかけた言葉が、とった行動が、彼にとって良いものであったかはわからなかったから、帰路についてほんの少し自己嫌悪に陥っていた。だから、今の言葉で昨日の私も報われて、救われて、今日の私にとっての自信の一部になっていく。
「元気そうな沢見くんに、朝から会えて嬉しいよ」
 沢見くんはともすれば泣きそうな表情になった。ややためらうように唇を引き結ぶが、やがて意を決したように口が開かれた。
――す、き。
 私が見間違えないように、沢見くんの唇がゆっくりと動く。
――辛島さんのことが、好きだ。
 その言葉は、私がずっと探して切望していた、なくしていた自信を取り戻すための、一番大事な心の欠片だった。徐々に自分の抑え込んでいた思いが露わになっていく。
 どうしようもなく、さ沢見くんが私に人生に欲しくなった。
「私も、沢見くんのことが……好き、です」
 はっきりと自覚した、私だけの気持ち。
 ちゃんと声に出して伝えても、不恰好に震えてしまったけれど、沢見くんはそんなことも愛おしいとでも言うように、優しい手つきで私を抱き寄せた。お互いの体温が混ざり合っていく感覚に「幸せだ」と感じる。私も沢見くんに応えるように、その背中に手を回した。
 永遠なんてわかんないけど、沢見くんにはそばにいて欲しい。そう思ったら、自然と言葉が口からこぼれた。
「私と、付き合ってくれませんか」
 背中に腕を回したまま、沢見くんが距離を取ろうとするから顔を上げると、沢見くんの不服そうな顔が見えた。
『それ、僕のセリフじゃない?』
 背後のスマホのスピーカーから不貞腐れたような声が聞こえて、思わず吹き出す。
「どっちのセリフとか、なくない?」
『今のは流れ的に、どう考えても僕が言うところでしょ』
「いいじゃん、私たち考えていることが一緒、ってことで」
私に言いくるめられるのがよほど悔しいのか、沢見くんは頷かない。
「あの、でも……私のは、今すぐ、ってわけではない、です」
『なんで?』
食い気味に沢見くんが問いかけてくる。
思いを伝えあって、すぐお付き合いに発展するのが定石なのだろうが、結局臆病な私には心の準備が必要だった。
「やらないといけないことが、あるから。それが終わるまで、待ってほしい」
 沢見くんがよければ、だけど。自分勝手な頼みに、声が小さくなっていく。
『じゃあ、それが終わったら、僕の彼女になってくれますか?』
 待つのは当然と言わんばかりの沢見くんの態度に、こちらが驚く番だった。
「……いいの?」
『待つだけでいいなら、いくらでも待つよ』
 その代わり、とつぶやいて、知らない熱を帯びた瞳とかち合う。
『キスだけ、許して』
「えっ⁉」
 とっさに大声が出て、慌てて手で口を覆う。
(えっ、い、今ってこと?)
お互いの気持ちをたった今確認したばかりなのに? 早すぎない? でもこう言うのは勢いだ、ってどこかで聞いたことがあるし。告白の続きを待たせてしまうから、それくらいやってあげてもいいのかもしれないけど、急すぎるというか。そもそも、キスってどうやるの? やったことないからわかんないけど、私は突っ立って待ってたらいいの?
混乱する頭でも、沢見くんとのキスを想像してしまって、頬に熱が集まっていくのが分かる。
そんな私の肩口に沢見くんが頭を置いて肩を震わせるから、そこでようやくからかわれたことに気づいた。
「ちょっと、本気にしちゃったじゃん」
『ごめん、ごめん。すごいイイカンジなのに『待て』が出たから、ちょっと意地悪したくなった』
 目じりに涙をためて笑う沢見くんを真正面からにらみつけて、そこではたと気づく。
「今『ごめん』って、言わなかった?」
 昨日「『ごめん』だけは言うことができない」と聞いていたはずだが、沢見くんの持つスマホから一度だけではなく二度も「ごめん」と聞こえた。沢見くんは私からゆっくり離れると、そのスマホの画面に文字を打つ。
『ごめん』
 謝罪の言葉が、今度ははっきりと聞こえた。
この「声」は、本当に「沢見くんだけのもの」なのだ。
『兄貴の真似は、きっとこれからもやめられないと思う。声はちょっと変えてもらったけど、喋り方は変わらないし。すでに、僕をつくるものの一部になっているし、やっぱり、兄貴のこと忘れたくないから。でも翔琉も僕も、少しずついつまでも思い出に留まるんじゃなくて、少しずつでいいから時間を進めていこうって、話したんだ』
 被検体になることは、沢見くんにとっては願いで、希望で、そして大きな重荷だったに違いない。それでも、全部を「自分だ」と受け止めて前を向こうとする姿に、胸に迫るものがあった。
(私も、沢見くんのようにあきらめていたことを受け止めて、前へ進めるだろうか。)
 沙菜、サエリ、奈々未、もも恵。今まで五人で過ごした日々を思い返すと、私のしようとしている決断がとてつもなく大きなものに思えて、不安を掻き立てる。言わなくていいこと、知らなくてもいいことはたくさんあるのが当たり前だけど。
 うつむいてしまった視線の先で、さっきまで私を抱きしめてくれていた手が、今度は私の手を握っていた。
『大丈夫だよ、辛島さん』
 昨日までなら、きっと私のセリフだったのに。
『今の辛島さんなら、きっと大丈夫』
 自分を諦めてしまった、今よりもう少し幼い自分。今なら、うずくまったままのあの頃の頃の自分を慰めてあげられるだろうか。そして一緒に、止まっていた時間を取り戻すように、歩き出だせる……だろうか。
 肯定するように、ぎゅっと強く手を握られる。
自分の意志と判断の結果、吉と転んでも凶と転んでも、ちゃんと「自分」として受け入れてあげたい。
「沢見くんと一緒だったら、大丈夫な気がするね」
 ずるい、と言った沢見くんは、もう一度励ますように抱きしめてくれた。
年が明けてからは、選択授業の美術の時間はこれまで、油絵制作に費やされてきた。
最初の授業でカンバスに土台になる色を塗って乾燥しておき、二回目の授業で下書きをした。三回目からは生まれて初めて使う油絵具をパレットに出して、カンバスとにらめっこ。
私はそこまで想像力がある方ではない。一向に書きたい題材が見つからなかった生徒は私のほかに何名もいて、見かねた先生が模写でもいいと言ったから、インターネットで素人でも描けそうな絵画を検索した。そこで初めて、一人の画家が自分の描いた絵を何度も描きなおすことがあるのだということを知った。例えばゴッホだったら、題材にしたひまわりをもう一度描くのではなく、自身の描いた「ひまわりの絵」をさらに模写していただという。自分の描いた絵を模写する、というのが不思議だった。
結局ひまわりの模写はもも恵がやることになって、「佳純はこれじゃない?」と適当に選ばれた、よく知らない昔の画家の海の絵を描いていた。技量が足りてないから、全く同じというわけではないけど、色んな「あおいろ」で海の水深や輝きを表現するのも、夕暮れ時の空の濃淡を描くのも、そんな海と空の境界線のあわいを作り出すのも、楽しかった。
今日でその美術の時間も終わってしまう。
「ちょーっ! お前何してんの」
少し離れた机から叫び声が聞こえた、みんなで声の方に注目すると、沢見くんが友達に筆とカンバスを取り上げられているところだった。沢見くんは訳が分からないとでも言いたげに、両手を上げて大きなリアクションを取っていた。
「は、早まるなよ! びっくりするなー」
 あきれ顔の友人の肩をたたきながら、沢見くんは自分の作品を返すように促すけれど応えてくれそうな気配はない。むしろ作品を沢見くんからかばうように、腕に抱きかかえて背を向けている。
 沢見くんは大げさにため息をついて見せると、席についてテーブルの上に置いてあったスマホを手に取った。
『それないと作業できないんですけど』
尤もな主張をする沢見くんに対し、友人たちはさらに彼が使っていた道具まで下げてしまう。騒ぎを聞きつけた美術の先生が「なんだ、なんだ」と入ってきた。
「どうしたんだ、お前ら」
「先生聞いてください! 沢見くんが狂っちゃっいました!」
『狂ってるってなんだよ、狂ってないって』
「だって、殺人現場みたいに、血の色塗ろうとして!」
「血?」
この場には不適切な表現がされて、生徒たちは各々席を立ち沢見くんのところに集まっていく。絵を取り上げた友人が「ほらあ!」と絵を見せるので、私も奈々未たちと一緒に沢見くんのカンバスを覗き込んだ。
テーブルの花瓶に生けられた何本もの真っ白い薔薇は圧倒的なみずみずしさを放っていた。ガラス花瓶の光沢や、柔らかな花弁の質感は素人によって生み出されたとは思えないほど。そんな「芸術」と呼ぶにふさわしい絵に、鮮血を思わせる真っ赤な絵具はべっとりと不規則に塗られており、確かに不気味に目に映る。
血迷ったのか、とか、気に食わなかったのか、と周囲から声が上がる中、沢見くんは苦笑した。
『初めからこのつもりだったんだよ』
そんなことを言うものだから「お前な」と友人たちに責められていた。肩をすくめる沢見くんと目が合って、私は沢見くんのお兄さんの病室を思い出した。沢見くんは、粉々に割れた花瓶と、鮮血によって赤く染め上げられた白い薔薇が印象的だと語っていた。その話を聞く前なら、私もみんなと同じような感想を持っただろうが、今は忘れたい光景と忘れたくない記憶に対する、彼の精一杯なのだとわかる。
「お前もしかして、何か闇でも抱えてんのか?」
『特に話すような悩みもないよ』
「でも、お前、こんな攻撃性の高い性格じゃないじゃん」
「どうしたんだよ、話聞くぞ」
 先日の出来事からも、友人たちが本気で沢見くんを心配しているのが分かる。それだけに、沢見くんもどう説明したらいいかわからない様子だった。
「沢見」と美術の先生が名前を呼んだことで、沢見くんもその友人たちも一度閉口する。先生は小さい子にやるように、沢見くんと視線を合わせようとしゃがんだ。
「実はな、お前の作品をコンクールにって、打診しようと思ってたんだぞ」
 沢見くんが「これを?」というように絵を指さすから、先生は「赤が塗られる元の絵をな」と訂正した。
「とても綺麗に描かれていたし、配置も配色も美しい。だから、やたらに赤を塗ってしまうのは、正直何だかもったいない気もするよ」
『何ももったいなくないですよ。さっきも言いましたけど、僕はもともと、こうするつもりだったんです』
「それは、どうして?」
諭すような先生の声音は優しい。でも、沢見くんは揺らがなかった。
『僕が描きたいと思った瞬間を、絵にしただけなのに、何が悪いんですか?』
授業の初めに、先生はなんでも好きに描いていいと言った。だから沢見くんは彼の自由にしただけ。その「もったいない」という感覚は先生のものであって、沢見くんのものではない。そんなことを言うなら、最初から題材を決めてあげればよかったのに。
「確かに……」
沢見くんの言い分に納得して、思わずそう口から出ていた。鋭い視線を感じて顔をあげると、先生がこちらを向いていた。災いの元を手で覆い隠すが時すでに遅し、隣に立っていた沙菜からも小突かれた。
一瞬にして氷点下まで教室内の空気が凍った。すぐに謝ろうと口を開くよりも先に、沢見くんは太陽のような明るさで盛大に笑い飛ばした。スマホで笑い声を出すのも忘れて、腹を抱えてうずくまる。友人たちは沢見くんが突然の腹痛に襲われたのだと勘違いをして駆け寄ったが、すぐにただ爆笑しているだけだと気づいてきょとんとした。
ひとしきり沢見くんが文字通り声もなく笑うのを、みんなで唖然と見守っていた。
『先生、すみません』
目じりにたまった涙をぬぐって、沢見くんは言った。
『コンクールには出さなくていいので、このまま続き塗らせてください』
完全に場がしらけて、先生も好きにしたらいいと投げやりに言った。沢見くんは嬉々として友人たちから取り返したカンバスに、ベタベタと赤を塗っていた。
「沢見ってさ」
 各々の席に戻って作業を再開すると、もも恵が言った。
「あんなに変な奴だったの?」
「むしろ、怖いっていうか」
「さすがに、ちょっとおかしいよ」
 ここ、と奈々未が人差し指でこめかみのあたりを叩いた。
「ねえ、佳純」
「え?」
同意を求められるような声音に、すっと背筋を伸ばした。
「さっきなんかうっかり、って感じだったけど。言葉には気を付けてよ」
「そうだよ、もう授業なくなるからいいけど、心象悪いじゃん」
「ご、ごめん……」
 沢見くんが笑ってくれたからよかったものの、みんなに迷惑をかけたのは本当にその通りで、返す言葉もなかった。沢見くんの方を盗み見ると、その顔は真剣にカンバスに向かっていた。時々、友人たちの会話に笑顔を見せながら、せっせと筆を動かしている。
(沢見くん。)
 なんだか心細さを感じて、口の中でその名前を転がすと、沢見くんが聞こえていたように顔を上げた。小さく心臓が跳ねて、私はなんでもなかったように逸らす。沢見くんがそんな私を笑ったような気がして恥ずかしくなり、その時間は最後の仕上げに専念した。
『さっきは、ありがとう』
 放課後、保健室まで行く途中に突然お礼を言われて、何のことかと首をかしげる。
『ひとりだけ、僕の考えを肯定してくれたじゃん』
 そう言われて、美術の時間を思い出し、再び憂鬱になる。
「あれはもう黒歴史だから、思い出させないでもらえると……」
『なんで? 僕はうれしかったのに』
 力なく垂れさがる私の左手の小指に、自分の小指を絡めてくる沢見くんははにかんだ。
(まあ、沢見くんがいいならそれでいいか。)
そうやって気を取り直せる私は、ずいぶんと単純になったようだ。
 保健室までやってくると、沢見くんが「どうぞ」と扉を開けてくれるので、「失礼します」と断ってから入室した。
ホワイトデイのお返し作りを、保健室でやったらどうかと言ったのは沢見くんだった。
バレンタインデイに話をした後、チョコレートが苦手だと言った私を見かねて引き取ろうとしてくれた沢見くんの申し出は断った。彼女たちが友チョコをくれたのは事実だし、それは彼女たちのために買ったチョコレートだったから。でも家に帰っても、そのチョコレートたちをどうこうすることはできずにいて、そんなとき沢見くんが名案を思い付いてくれた。
チョコレートを扱うのが難しいのであれば、レンジを使った簡単なものに絞ったらいい、と提案してくれたのがきっかけで、保健室の先生にも事前に話をつけてくれた。なぜ許可が下りたのか問えば、翔琉の家のお菓子で買収した、といたずらっぽく教えてくれた。
「あれ、翔琉さんは?」
ラベンダーの香りがする部屋に入ると、私がここを訪れるときにはいつもある気配を、パーテーションの向こうから感じなかった。材料を並べるために、長テーブルにテーブルクロスを引いてくれていた沢見くんが頷いて、唇が『帰った』と動いた。
「そうなんだ」
 道具や材料は教室に置いていたら目立つから、先生に言って登校してから保健室に置かせてもらっていた。長ターブルの上に、家から持ってきた道具と、冷蔵庫にしまっていた材料並べる。
『お菓子作りするって言ったら、気が散るだろうからって』
「そんなことは全くなかったけど……甘いもの、好きだったりする?」
『お菓子屋の息子らしく、甘いものには目がないよ』
 そしたら、翔琉さんにも作ろう。一応材料は多めに持っている。
 作るのはフォンダンショコラ。彼女たちが作ってくれたものとかぶらない、かつレンジでできる簡単なものを探していたら、フォンダンショコラのレシピがヒットした。
『じゃあ、やりますか?』
「やり、ましょう」
 気合を入れて、エプロンをつける。
 第一関門は、アソートボックスのチョコレートをレンジで溶かすこと。だが、ボックスの封を開けないと始まらないのに、どうしても体がこわばってしまう。
『辛島さん』
 名前を呼ばれて、呼吸が浅くなっていることに気づいた。
『大丈夫だよ』
チョコレートの箱を掴む手に沢見くんの手を添えられて、少しずつ力が抜けていく。
『誰も、辛島さんがチョコレートを使うことを、咎めたりしないよ』
「誰も……」
『そう、誰も』
 粉々にされたチョコクッキーが脳裏をよぎる。風がさらっていく甘くて苦い香りは、忘れることができないでいた。忘れることさえ、許されなかった。その季節が巡ってくるたびに、自分の犯した罪を再認識させられてきた。
 もし、また、拒絶されたらどうしよう。
そんな考えについ力が入ってしまう。
 でも、私も変わりたい。
(大丈夫。大丈夫だよ、佳純)
 ただその場にとどまることでしか自分を保てなかった今までの自分とは、もう違う。少しずつ時間を進めて、一歩を踏み出していける。
 大きく深呼吸をして、蓋を止めてあるテープを少しずつはがしていく。四角い箱の角を、一つずつ開放していって、テープがはがれる。またもう一度、大きく息を吸って、止めて、蓋を開いた。
 買ったときに「かわいい」と思ったままの形で、チョコレートは並んでいた。
(そうだ。私、「かわいい」と思えていた。)
 チョコレートに対して、嫌な感情ばかり持っていたわけではない。このチョコレートはちゃんと自分でかわいいと感じて、彼女たちへプレゼントしようとしていた。
 息を吸うと、チョコレートのにおいが一気に肺まで入ってくる。甘ったるくてほんのり苦い香りに、胃のあたりがムカムカしてくる。
(でも、今の私なら、大丈夫。)
何度も、何度も自分に言い聞かせる。
 箱の中のチョコレートを一気に耐熱ボウルに放り込み、においが漂うのを防ぐようにラップをかける。電子レンジに入庫して、ボタンを押すと、橙色のライトに照らされながら、耐熱ボウルはくるくると回り始めた。
『できたじゃん』
 レンジの扉に、私と、沢見くんの顔が映っていた。
「でき、ちゃった……」
 沢見くんが拍手をするので、私もつられて手を合わせる。
(なんだ。私にも、できるじゃん。)
 溶かされたチョコレートは溶けていくにつれて強いにおいを放つ。顔をしかめると、忘れてた、と沢見くんが窓を開けてくれていくらかましになる。
 加熱終了の音が鳴り、レンジからとり出した熱々のボウルを少し冷ましてから、ホットケーキミックスと、牛乳、サラダ油を加えて混ぜる。出来上がった生地を専用の紙カップの中に入れたら、まだ残っている箱からチョコレートを一粒ずつ取り出して、生地の中央に入れていく。チョコレートが体温で溶けて指につくのが気持ち悪くて、手を止めてすぐさま洗い流したい衝動に駆られるが、ぐっとこらえた。すべての生地にチョコレートを入れ終わったら、紙カップの乗った天板をレンジに再入庫する。
「かんたん、だったかも」
 レンジを中で生地が膨らんでいくのを見守りながらつぶやくと、扉越しに見えた沢見くんは『難しくなかったね』と、労ってくれた。
 出来上がりを知らせる音がなって、扉を開けると、チョコレートを溶かした時とは比べ物にならないくらいのチョコレートの私の顔を無遠慮に撫でていったが、焼きあがった生地が見えたら不快感はどこかに消え去ってしまった。
「味見してもらえる?」
 沢見くんが翔琉さんから借りてきてくれたケーキクーラーの上に、フォンダンショコラを並べながら尋ねると、沢見くんは準備万端にナイフを手にしていた。沢見くんは熱々の紙カップを一つ、紙皿の上に乗っけると丁寧にカップをはがし、フォンダンショコラにそっとナイフを入れた。断面からはとろりとチョコレートが溶け出して、私たちは興奮気味に顔を見合わせた。それから沢見くんは、ふーっと息を吹きかけてフォンダンショコラを冷まし、一口ほおばる。その目はきらりと光り、親指を立てて、それが成功だと教えてくれた。
「よかった」
 安堵のため息が出る。
『そういえばなんだけど、もらった友チョコはどうしたの?』
 沢見くんが、咀嚼しながら聞いてきた。食べながら話せるのは、彼の特権だ。
「お母さんとお父さんに、食べてもらったよ」
あのバレンタインデイの事件のあと、中学入学と当時に両親の仕事の都合で転勤することになり、真っ白な寄せ書きコーナーの卒業アルバムを抱えて、全く新しい場所でのスタートを切ることになった。公立の中学校と言えば、同じ小学校上がりの人間が大多数を占めるわけで、すでに仲良しグループが出来上がっているところに飛びこむのは相当な勇気がいった。でもだからこそ、同じ轍は踏まないように細心の注意を払った。誰からも嫌われたくない一心で、みんなに平等に親切に接していたら「みんなにやさしい佳純ちゃん」と居場所を作ることに成功した。
それでもバレンタインデイは私にとってのトラウマで、学校を毎年休んでいた。翌日学校に行くと、友チョコをくれる奇特な人がいたけれど、結局食べられずに両親にあげた。そしてホワイトデイにはチョコレートではない別のものをお返しに贈った。
『味見、してみる?』
 沢見くんが小さな一口分を切り分けれくれたが、私は首を横に振った。
「まだちょっと、遠慮しておく。今日は、匂いをかいで、触れたことで、おなかいっぱい」
『ちゃんとおいしいよ。それは間違いない。保証する』
「ありがとう」
 出来上がったものは粗熱を取った後、ラッピングを施した。
 保健室の先生と、翔琉さんと、そして、四人に。
『明日、四人とは話をするの?』
汚れた道具は家に帰ってから洗おうと片づけて、保健室の中からチョコレートレートのにおいを追い出すために、窓開けていた。見上げる空はすっかり夜の顔をしていて、星も輝いている。
「まだちょっと、悩んでる」
 明日、バレンタインデイのお返しを渡す際に、私の心のうちを打ち明けるか、否か。
 この学年が終わるまで、あと一週間ほど。新学期が始まれば、クラス分け次第では彼女たちとの交流はなくなる。もし別々のクラスになれば、何も言わずに徐々に離れていこうと考えていた。そして、来年度も同じクラスになった際には、その時に改めて伝えても、遅くはないのではと感じていた。
 だからお返しを、登校時にさらっと渡すか。
 あるいは、「話がある」と放課後に呼び出して渡すか、今も悩んで決めきれない。
『今だから言うけど。実はずっと気になってたんだ、辛島さんのこと』
「え?」
『いつも暗い顔をして、机の中でスマホ見てるな、と思って』
 いつ先生にばれるかと気が気でなかったのに、すでに沢見くんにばれていたなんて。今更ながらに知って冷や汗をかく私に、沢見くんは訂正した。
『いや、大抵の人はそんなこと思っていないだろうけど。あけすけに言うと、正直『死にそう』って思ってたんだ。兄貴や、翔琉と、同じような顔してたから』
 死にそう。
オブラートに包まずはっきりと口にされて、怯む。
 確かに憂鬱だったことは何度もあるけれど、明確に「死にたい」と願ったことは、なかったように思う。もっともそれは私の意識の中での話で、「無意識的」にどうだったかはわからない。人間は己のことが一番よく見えていないから、案外沢見くんの言うことは正しかったのかもしれない。
「少なくとも、今の私は、望んでいないよ」
 今はもっと、自分にも、相手にも、向き合っていきたいという気持ちが大きい。
『そんな顔、してる』
 沢見くんにつられて、口角が上がる。
『だからさ、辛島さんがどんな選択をしたとしても、僕は応援してるよ』
 沢見くんの「声」が、そっと寄り添ってくれる。
「ありがとう」
 テーブルの上に並んだフォンダンショコラ。粉砂糖のお化粧までしたそれの行く末を案じながら、私は丁寧に仕上げの「for you」と印字されたシールを貼り付けた。
**

『佳純にちょっと話あるんだけど、放課後時間つくって』
 サエリから個人的なメッセージが来たのは、帰宅してからのことだった。こちらの予定は関係なく、それが決定事項のような書き方だった。
『どうしたの?』
 そうやって返信したけど、『直接話がしたいから』と内容は教えてくれなかった。
 当然眠れるはずもない。心当たりがありすぎて、どのことについての話なのか悶々と考えてなかなか寝付けずに、気が付いたら部屋の中が窓から入る朝日で明るくなっていた。
 朝ごはんもそこそこに、フォンダンショコラの入った紙袋を携えて登校すれば、嫌な予感は的中した。
結局朝の登校時にお返しを渡すと決心していたのに、「おはよう」と声をかけても、四人からの返事はなかった。私を一瞥しただけで、スマホを注視するばかり。
 話をする、しない、の選択権は私にあると思っていたのは、驕りだったらしい。休み時間になっても、サエリ達は四人で集まって話をするのに、私がその輪に加わろうとすると散ってしまう。お昼休みになっても、私はもも恵からも、奈々未からも、沙菜からも話しかけられることはなかった。教室はそんな私たちの険悪な雰囲気を遠巻きに眺めている。それがどうしようもなくいたたまれなくて、私は一人トイレにこもってお弁当を平らげた。
 三月になって席が離れた沢見くんはなんとなく察したようで、時折目が合った。
『大丈夫?』
 訴えてくる視線に、くじけそうになりながらもなんとか自分を保って、大丈夫だと答える代わりに笑って見せた。
(大丈夫、大丈夫。)
 胸の内で、まじないのように唱える。
 しかし、どんなに決意しても、昨日今日とすぐには強くなれない。
タイムリミットがすぐそこに迫った掃除時間、一人階段の掃きを掃除をしながら、渦巻いた不安や焦りなどから、ぽろりと本音がこぼれ落ちた。
「死にたいかもしれない」
 口にし出すと、ますますその気になってしまいそうになる。
あまりに大きな決断の前に、足がすくんでしまう。掃除をしなければいけないのに、階段途中の踊り場で動けなくなった。
 誰かと話しをするということが、こんなにも覚悟がいるなんて、知らなかった。
 箒を支えにしゃがみこむ。窓からの光を受けて階段に映っていた等身大の影が小さくなったのを見て、そのまま消えてしまえたら楽なのに、とそんな考えがよぎる。
 すると、ギャラリーの通じる扉が開く音がした。立ち上がって取り繕おうと思うのに、うまく立ち上がれない。誰が来たのかわからないけれど、もうどうにでもなれと半ば投げやりになりながら、固く目を瞑った。
 その人は、何も言わず、私を抱きしめてきた。
良く知るその体温に顔を上げると、沢見くんが私の前にしゃがみこんでいた。
 ――怖い?
 その問いかけに、素直に頷く。
 怖い。
何を言われるか、怖い。
今までの関係が崩れるのが、怖い。
 いつまでもぬるま湯につかっていたかったわけではないけれど、終わりが目の前に迫っていると知ったら、手放すのをためらってしまうくらいに、怖い。
 感情が昂って、目頭が熱を持つ。徐々に涙の膜で、沢見くんが見えなくなる。
 目を閉じると、頬をいくつもの涙がすべって、そして――唇に温かいものが触れた。
 驚いて目を開けると、いつかのように言い知れぬ熱のこもった、けれどどこか思いつめたような瞳とかち合う。今度はこちらをうかがうように唇を寄せられ、私は受け入れるように目を閉じた。
 ふわりとせっけんのにおいが鼻先をくすぐって、確かな柔らかい熱が唇から伝わってくる。お互いの吐息を交換するようにわずかに口を開けて、また少し長く重なる。
 どちらともなく離れて、お互いの顔が見える距離で目を開けた。
 沢見くんの瞳はおびえるように揺れていた。死にそうだと私のことを語ったことが思い出される。一瞬でも負の感情に支配された自分が、情けなく感じた。
 それが彼に伝わったのか、沢見くんは「それでもいい」と言うように頬の涙をぬぐってくれる。
本当に人の心の機微に聡いのだ、この人は。
「私の声を食べて、沢見くんがしゃべれるようになったらいいのに」
 沢見くんは優しい吐息をこぼして笑った。くしゃくしゃと私の頭をなでて、また抱きしめてくれた。
『僕の『言葉』をあげるから。辛島さんはちゃんと『声』にしておいで』
 勇気づけてもらっても、あとからあとからあふれる不安はぬぐえない。それでも、ひとりきりで堕ちていきそうだったさっきよりは、だいぶ落ち着いていた。
「沢見くん」
 沢見くんは、私の涙をぬぐっていた手をとめて首を傾げた。
「私、手話の勉強するね」
 あくまで「普通」に近づきたい沢見くんの気持ちは、そのままに。彼が広げてくれた世界を、もっと知りたいから。そんな私の思いは、きちんと彼に伝わったようで、沢見くんはもう一度、優しいキスをくれた。
集合場所の連絡がきたのは五人のトークルームだった。
『駅前のカフェで』
良く五人で女子会をしていた場所だった。サエリ達は帰りのホームルームが終わると、四人で連れ立って下校していき、私は一人で追いかけた。
 四人が談笑しながら歩いていくのを、私は少し後ろで眺めていた。お店に着いたら、さも五人で来店したかのように「佳純は何にするの」と注文を促されて、慌てて「アイスティーで」と答えた。おかげで噛んでしまい、四人はくすりと嘲笑した。
 いつもは窓際の席に座るのに、今日は奥のテーブル席だった。
 四人は詰めてソファー席に座り、私だけが椅子に腰かけた。注文したドリンクが届くまで無言だったことは、今日を除いて一度もない。四人はまるで私なんていないように、スマホに向き合っていた。
 きっと、私を除いたトークルームで会話しているに違いない。
落ち着かなくて、テーブルの下で手を握ったり、さすったりして気を紛らわしていた。
ドリンクが運ばれ、みんなが一口ずつ飲む中で、私は自分のアイスティーのグラスを眺めていた。ぼんやり水滴を数えてしまうくらいには、沈黙が続いていた。
「心当たり、あるよね?」
口を開いたのは、奈々未だった。
 顔を上げて彼女たちの顔を見ることはできなかった。うつむいたまま、「ごめん」と謝罪の言葉を口にした。
「なんで謝るの?」
 強気に問い詰められて息をのむ。うまいいいわけが思いつかずに、閉口すると、もも恵が大きなため息をついた。
「何が理由かわからないのに、謝るのはどうかと思うよ」
 また沈黙が訪れて、しばらくすると、沙菜が切り出した。
「小学校のとき、男巡って友情崩壊させたってマジ?」
四人の視線は冷ややかで、まるでナイフで突き刺すような鋭さを持っていた。
「入学した時から、ちょっとキョドってるなとは思ってたけど」
「そりゃあ、人づきあいも下手になるか」
「てか、私たちも自分の彼に手出されるかと思ったら気が気じゃないし」
「このタイミングで気づけて良かったよ、ホント」
「頼りにされていると思って調子に乗って、周り見えてなさすぎじゃない?」
「というか、わきまえなさすぎ?」
ウケるんですけどぉ、と笑いあう彼女たちに、何も言い返すことができない。
彼女たちの言う通りだ。あの時の私は、頼られていることにいい気になって、自分の行動は正しいと信じて疑っていなかった。結局は三人を傷つけ、そのことをトラウマにしている私は、傲慢なのかもしれない。
だから、もっと、もっと、自分の気持ちは隠さなければいけないと思った。誰にも悟らせないほどに、押し殺す必要があると思った。みんなに気に入ってもらえるように、みんなの望む「私」に慣れるように。「道」を、踏み外さないように。
そうやって信頼を得ることができれば、それまでの努力が私の味方になってくれるはず。そう信じて疑わなかった。
でも、どうやっても過去を変えることができないことを、忘れていた。
世間は案外狭いらしい。
誰からそんな話を聞いたかなんて、聞く気も起きなかった――それなのに。
「ま、これ教えてくれたの、沢見なんですけど」
 耳を疑った。
「……沢見、くん?」
 予想外の名前に困惑する。彼女たちに私の動揺は手に取るようにわかるのだろう。その目が、口が、意地悪に歪んでいく。
「少女漫画気取りか、っての」
「白馬の王子様だと思ってたのが、実は毒リンゴ持ってきたおばあさんだったって、どんな気持ち?」
「ねえ、こんな時にちょっと頭いいヒユとかしないで」
「あんたの方こそ、ヒユとかいう単語使わないで」
 きゃらきゃら笑う彼女たちの声が、耳の奥で響く。耳を押さえたくても、体がこわばって、腕を動かせない。
「佳純さ、沢見くんと付き合ってんでしょ?」
 どん、と心臓が大きく動いた。頭が真っ白になって思考停止寸前で持ち直す。
 わずかな沈黙でも、肯定と捉えたらしい。
付き合ってない、まだ。そう口にする前に、さらに問い詰められる。
「私たちは友達だと思って、なんでも相談してきたのにさぁ」
「自分は内緒でこそこそやってんの、フツーにきもいんですけど」
「純情そうな顔して、意外とビッチ?」
「でも結果的に裏切られてるんだからさ」
きれいなアイメイクの施された目に、捕らえられた。
「みじめだよね」
 信じてた。沢見くんはそんなこと、しないはずだって。
 でも彼女たちが、私の小学校時代の同級生と接触する機会はほぼゼロに等しい。ならば、誰が私の過去の話を知っているかといえば、沢見くんしかいない。
 ずっと、だまされていたの? でも、いつから?
私を好きだと言って、キスをくれた沢見くんのことを信じたい。
信じたいと思うのに、私の過去を知る人が沢見くん以外に思いつかない。
 その名前は、私を絶望のどん底に突き落とすのに、十分だった。
 視界がだんだんとぼやけて、膝の上で組んだ手に、ポタリと涙が落ちていく。
「あとさぁ」
 まだ、何かあるのだろうか。そんなに私のことが嫌いなら、もう放っておいてくれないだろうか。これからは、今まで以上に、決して出しゃばらずに、一人陰を歩いていくと約束するから。
 誰かの特別になりたいなんて、望んだりしないから。
「何が許せないって、私たちにあげようとしてたチョコレート、沢見にあげたでしょ」
 にわかに、一寸の光が差した。そのまま深海に沈んでいきそうだった私の意識は、その言葉で浮上する。
「……うそ」
「え?」
 掌で涙をぬぐい、視界が鮮明になる。
「沢見くんが言ったって、それ、嘘だね」
 表情こそ崩沙菜かったものの、明らかに彼女たちの瞳に動揺が現れた。
「私たちのこと、疑うってわけ?」
「疑うっていうか、それは嘘だって、はっきりわかる」
「どうしてよ」
「だって私、沢見くんにチョコレートをあげてないから」
 サエリが肩をこわばらせたのが分かったけれど、私は正面に座る奈々未から順に彼女たちの顔を見た。
 おそらく私たちが話しているのを聞いたのはサエリだろう。迂闊だったと今更後悔する。
「なんで、沢見とイイカンジになってること、私たちに黙ってたの?」
 やや間があって、サエリに問いかけられる。その目は怒りで真っ赤になっていた。
「ねえ、佳純。私たち、友達だったはずなのに、どうしてそんなに隠し事が多いの?」
 その声はほとんど叫びに近かった。店内の視線が私たちに向き、すみません、と謝る。隣に座るもも恵が、サエリをなだめていた。その光景を見て、みんなはサエリが沢見くんに告白したことを知っているのだと、なんとなく確信した。
「サエリの言う通りだよ。佳純って、一度も私たちに自分の話をしてくれたこと、なかったよね」
「私たちは、結構なんでも、今までこうしてなんでも相談してきたっていうのに」
「佳純はいつもいつも、ただ黙って、ニコニコ、適当な相槌打ってるだけだったよね」
 もも恵が、沙菜が、奈々未が、矢継ぎ早に彼女たちの思いを私にぶつけてくる。
 彼女たちの目は、疑惑に満ちていた。
「一度だって、私たちのこと、信用してくれたこと、ある?」
 私はやっぱり、黙ることしかできなかった。
 入学してこれまでの約一年間、ずっと一緒に過ごしてきた。学校ではもちろん、授業中にもメッセージのやり取りをして、放課後は集まって、自宅に帰ってからも。四六時中スマホは自分の手の中にあった。仲は、よかった、と思う。
でも、同じグループ内なのに、何かあればすぐに他人のあしざまにいう彼女たちが嫌だった。そんな彼女たちたちに気を使いすぎて、嫌われないように振舞う自分も嫌だった。
そして何より嫌だったのは、そんな彼女たちを見て「自分は違う」と彼女たちを見下すような気持ちを持っていた、自分自身だ。
 もっと最初からそんな自分に気づけていれば、私たちの仲はこんなにも複雑なことに葉、ならなかったのだろうか。
「ねえ、聞いてる?」
 呼ばれてハッとなる。
「ご……」
 ごめん、と言いそうになって「聞いてる」と言い直す。
「嘘だ。別のこと考えてたでしょ」
「ううん、ちゃんと考えてたの」
「何を」
「私はずっと、自分に自信がなかったことを」 
 私はまっすぐ彼女たちを見つめた。
「みんなのことを信じることができなかった自分が、大嫌いだったことを」
 サエリが大きくため息を吐いた。
「そういうところがムカつくんだよ。自分だけ『いい子』ぶってさ」
「ホントそれな。本心いわないのなんて、美徳じゃないよ」
 続く奈々未の言葉には、同意する。私も、もし同じグループにこんな奴がいたら、苛立ちを隠せていたかどうかは疑問だ。自分の言いたいことだけを全部言って、都合の悪いことには口を閉ざす、悲劇のヒロイン面をする奴なんか。
 だから、変わりたかった。
「私はさ」
 しゃべれなくて良かった、と笑う沢見くんの顔が脳裏に浮かんだ。
「ある一人を除いたグループを作って、その人の悪口でもりあがるの、すごく嫌だったの」
長い間一緒にいれば、それなりに不平不満は生まれるだろう。それでも、わざわざ誰かを省いたグループを作って話す理由は何なのか。それが分からなくて、いつも怖かった。だってそうじゃない話だって五人のグループではできていたのに、誰かがかけるとその「悪意」は始まるのだ。
「バッカじゃないの」
 サエリが吐き捨てるように言った。
「悪口なんて、ただのコミュニケーションみたいなものでしょ」
 目の前に、分岐点が現れて、私はようやく理解した。
「あんただって聖人君子じゃないんだから、先生のことだるいとか、誰のことが嫌いだとか、思うことあるでしょうよ」
 それはある、とはっきり断言できる。誰だって愚痴をこぼしたくなることの一度や二度はあるに決まっている。私の過去語りだって、同じだと思う。吐き出したいこと、たくさんある。誰かをうっかり悪くいってしまうこともあるだろう。そうなるのはある程度は仕方がないと思う。人間だれしもが持つ感情だから。
けれど、人をあしざまに言ってつながる輪を、私は大事したいと思えなかった。
結局私は怖かっただけだ。みんなの言う通り、いい子でいたかっただけ。彼女たちの輪の中にいれば自分の「いい子像」は保たれる。そこに安らぎを見出していた。それが最善だと信じて疑わなかった。
そんな醜い私は、もう自分の人生にいらないのだ。
「あるよ、思うこと」
 鬼の首を取ったように、彼女たちは意地悪な笑みを深める。
「でも、だからって、みんなとはもう一緒にいれない」
 私の発言にみんな、「はあ?」と嫌悪をむき出しにする。
「あんた自分が何言ってるのかわかってんの?」
「わかってる。申し訳ないと、思う。こんな身勝手なこと」
 だったら馬鹿正直に言うな、ってそんな声も聞こえてくるようだ。
 話し合えば分かり合えるとか、そんなうまい話なんてない。どれだけ意思疎通を図ったとしても、お互いに理解できない部分は必ず存在するだろう。それを許容できるかできないかが、長く続く親交のカギなのだろう。
 ただ私は、彼女たちと価値観が違う。だからこれ以上傷つけあう前に、離れる。その選択肢を取ろうとしているだけ。
「誰も知り合いのいない高校入学当時に声をかけてくれたこと、本当に感謝してる。仲良くしてくれてうれしかった。たくさんの楽しい思い出もある。……でも」
これだけは言っておかないといけない。
「私はもうこれ以上、あなたたちと友達ではいられない」
 私たちの周りだけ、障壁で囲われたように音をなくした。
「なに、それ」
 彼女たちの唇がわなわなと震えている。
 蔑むような視線が突き刺さる。
「本当に、ごめん」
無理にわかってもらわなくてもいい。この感情は、私のものだから。
「みんなのこと、好きだったよ」
「口だけではなんとでもいえるよね」
「だって、私のこと、今日までハブらなかったじゃん」
 ぐっと言葉に詰まったのを見て、胸が締め付けられるようだった。
 本当はたぶん、優しい人たちなのだと思う。その証拠に、私の前では私の悪口を一切言わなかったし、他の誰の目の前でも、その人の悪口は決して言わなかった。彼女たちが会話するのは、あくまでスマホの中だけ。トークルームを間違えることだって、一度もなかった。
私の存在がきっと彼女たちを悪者に仕立て上げたのかもしれない……なんて悲劇ぶってみる。
 持っていた紙袋の中から、朝渡しそびれたフォンダンショコラを取り出し、一人ひとりの目の前に、ラッピングしたフォンダンショコラを置く。今朝渡しそびれたものだ。
「なにこれ」
「バレンタインデイのお返し」
 四人はそれぞれに見比べている。お互いにどうするのか様子を窺っている。
いつかのように、捨てられるかもしれない。目の前で、握りつぶされるかも。
これは、私のはただの自己満足だから、彼女たちがそうするのであればその選択を尊重しようと思う。
「これが佳純の本心ってわけ?」
 どうなってもしらないぞ、言外含んだその言い方に、私は強い意志を持って頷いた。
「うん」
 私の答えに、張りつめていた空気は少しずつ無に帰していく。みんなの感情の昂ぶりも収まっていくようで、背もたれに身体を預けていった。
「なんか、佳純って、思ってたのと、全然違った」
「そう、かな」
「沢見と二人、変人同士でお似合いなんじゃない?」
「こんな意味わからない人間、こっちから願い下げだよ」
 サエリがそう言って席を立つ。それに続いてみんなもぞろぞろと、私の方なんて見向きもせずに、お店を出ていった。
テーブルの上に、私の作ったフォンダンショコラを残したまま。
 たたきつぶされなかったのは、彼女たちのやさしさ。お返しができなかったのは、残念だ。
 深呼吸を一つする。緊張を、すべて吐き出すように。フォンダンショコラを紙袋の中にしまい、氷の解け切ったアイスティーを一気に飲んで、私も店を出た。
三月も中旬。桜の木には今にも咲きそうなふっくらとした蕾がついている。真冬のように、心から冷えるような寒さはない。もう吐息だって、白くはならない。
 私が立っている場所は大通りで、街灯であたりは明るいけれど、月だけはそこに輝いてすぐに見つけることができる。
 きっと今の私なら、一人でも立てる。トロッコに乗って目的地に着くまでぼんやりするのではなく、広大な海を自分の船のかじを取って、どこまでも進んでいける気がした。
 こんなに清々しい気持ちなのに、地面がぐらぐら揺れているように思えて心もとない。
車のヘッドライトで光の斑らができる真っ黒い歩道を一人、歩いて行く。
自動車の走行音。
すれ違う人の話し声。
建ち並ぶ店の中から聞こえる音楽。
すべてに焦燥感を駆り立てられる。
このままどこにもたどりつけなかったら、どうしよう。
また、一人ぼっちになってしまった。
そう思った時だった。
『辛島さん』
 夜明け前の一番暗いときに現れる導のような、「声」が聞こえた。
 顔を上げると、喧噪の中に沢見くんが立っているのを見つけた。少し慌てたような、心配するような表情。
『ごめん。やっぱ気になって、様子見に来ちゃった』
 階段でのやり取りのあと、心配だからついてくるといった沢見くんに、また明日学校で、と格好つけたのに。
(沢見くんには、敵わない。)
 私は彼に駆け寄って、その胸に飛び込んだ。
 安堵のため息のように、飛び出した感想は
「寂しい」
だった。
 ずっと一緒に過ごしてきた人たちとの決別は、自分が望んだこととは言え、やっぱり寂しい。だってこの一年間、彼女たちはずっと私の居場所だったのだ。
『お疲れさま』
 そう言って、ぎゅーっと強く抱きしめると、沢見くんはぱっと離れていく。
 やっぱり往来の中での抱擁は、恥ずかしいものがあったのだろう。耳を真っ赤にした沢見くんにつられて、私も我に返って、静かに赤面する。
「それでね、フォンダンショコラ、残っちゃった」
 気を取り直して、フォンダンショコラの入った紙袋を掲げてみる。沢見くんは何とも言えない表情をしていたけれど、それがありがたかった。
「だから、やけ食いするの手伝ってくれない?」
『いいよ。もちろんだよ』
 紙袋の中から一つを取り出して、沢見くんに渡す。私も一つ取り上げて、ラッピングを解いた。カップから外し、息を止めて、豪快に一口を頬張る。もうすっかり冷えてしまっているから、中のチョコレートレートは溶けだしてこない。咀嚼すればするほど、チョコレートの甘ったるさが口の中に残る。
 止めていた呼吸を再開すると、チョコレートの匂いが肺いっぱいに入って、鼻を抜けていく。
 久しぶりに作ったチョコレートのスイーツは、ほんのりしょっぱかった。
**

修了式も、大掃除も終えた私たちは、来年度のクラス発表の前に席についている。このクラスで最後だからということで、入学当時の席に着くよう指示された。引き出しが空っぽの机の上には、教科書がたくさん入ったリュックを乗っけている人もいれば、筆箱だけが入ったスクールバッグを置いているひと、部活用のナップサックを置いている人と様々。
私も、空気だけを含んだリュックに身体を預けて、二年生では私たちを受け持たないという、担任の先生の最後の話に耳を傾けていた。
「それじゃあ、新しいクラスを発表する前に。ひとつやりたいことがあるんだけど」
連絡事項も全て終わって、先生はニコニコと何か企んでいるような笑顔を向けてきた。周りは「えーなにー?」「そういうめんどくさいこといいからー」「早くクラス教えてー」と一見愚痴っているようだが、その目は今から始まる何かに期待もしているようだった。
先生はその瞳の奥に隠れた好奇心を見抜いて、口の端をあげた。
「今からひとりずつ、これからの抱負を一言、言ってもらおうと思います」
みんなの頭の上にはてなが浮かんだのが見えたし、私も首を傾げた。
抱負、って、なんだろう。
先生は新品のように綺麗になった黒板に紙でできた横断幕を貼り付けた。それには「わたしの夢」と習字の師範の資格を持っている人らしく、丁寧な字で書かれていた。
「今からひとりずつここの教壇に立って、一言でいいから自分の夢を語ってください」
「えー、なんかそれたるくない?」
先生の言葉に突っ込む生徒に、そこかしこから同調の声が上がる。けれど、声音からも、みんなそわそわしているのが分かって、案外まんざらでもないのだろう。
否定的な意見が教室を占める中、『はい』とある声が室内を静寂に導いた。
沢見くんが、手をあげていた。
『僕が最初にやります』
みんなを見渡して、にっこりと笑顔を作ると、沢見くんは教壇に一直線に歩いていった。これには先生もちょっと驚いていて、教壇の前にきた沢見くんに道を譲った。
沢見くんは教壇に立つと、スマホに文字を打ち込んだ。
『今の僕には、夢とか抱負とか、そんな大層なもの持ち合わせていません』
 何言ってんだ、あいつ。やっぱ変な奴だな、なんて声が聞こえる。それも全部分かったうえでの行動なのだろう。『夢なんてなくたって死ぬわけじゃないし』と言い放ったので、周囲からにぎやかにブーイングが起こる。
『でも』と沢見くんは続けた。
『誰にとっても生きやすい明日が、来ればいいな、と願ってます』
水を打ったようにしん、と静まり返った教室で、各々何を思ったのだろう。沢見くんは一番バッターとしてふさわしい行動を示した。
自然と拍手をしてしまった。私の拍手を皮切りに、教室内が喝采に包まれる。さすがのこれには、沢見くんも照れくさそうに、頭をかいていた。
「誰にとっても、明日がいいものであるように、先生も願ってるよ」
新しい学年になってもがんばれよ、との担任の激励に、沢見くんははにかんでいた。
「そしたら次は……」
 担任はクラスを見渡して、沢見くんに目を留めた。
「じゃあ、教壇に立った人が好きな人を指名していい、ってことにしよう」
『僕が決めていいんですか?』
「最後のクラス交流ってことで。いいか、みんな。こんな風に全員やってくからな」
笑顔で腕を組む担任の言葉に、にわかに教室内に緊張が走った。そわそわ、落ち着かないけれど、胸を躍らせているような、そんな雰囲気。
何を言おうか。どう言おうか。誰に指名されるのだろうか。
(私は、何を言おう。)
考え始めたところで、すぐにぶった切られた。なぜなら沢見くんが迷いなく私を指名したからだ。
『じゃあ、次は辛島さんで』
沢見くんは高らかに告げた。一点、私に視線が集まる。ひそひそと周囲が言葉を交わし始める。沢見くんは目が合うと、口角を上げた。
まだ何も考えていなかったけれど、呼ばれた手前席を立たなければいけない。
どうしよう、何を言おう。できるだけゆっくりと教壇に向かうと、沢見くんが片手をあげてきた。
「え?」
 上げていない方の手には、スマホを持っていた。
『順番交代のハイタッチ』
ずいっと手を出してくる。ハイタッチなんて、しばらくしたことがない。正解がわからなくて逡巡したのち、沢見くんは私のてのひらに、自分のを当てた。パンっと軽い音が響くと沢見くんは『交代』と自分の席に戻っていく。
ひとり、教壇の上に立つ。
教壇から教室を見渡すのは初めてだった。緊張がどっと押し寄せて、動悸がやまない。けれど、後戻りもできない。
今ここに私はたったひとり。倒れないように、教卓に両手を置いた。いつかのように不安定な足場に、どんどん下へと引きずり込まれていきそうになる。
それでも私は、一人で立つことを選んだのだ。指名されたとはいえ、自分の意思でここに立った。自分の存在を、肯定するために。
ふと、見定めるような視線が飛んでくる。沙菜や、奈々未、もも恵、そしてサエリ。私が離れることを選んだ、かつての友人たち。
(そうだ。彼女たちに、証明しないといけない。)
大きく深呼吸を一つ。
もしかしたら、ここにいるみんなも私のように、うまくいかない日々に枕を濡らした夜があっただろうか。これ以上は無理だと歩みを止めそうになる朝が、あっただろうか。それぞれに思い描いている未来があるのだろうか。あるいはそれを探している、まだ道半ばだろうか。
今までは自分が悲劇のヒロインぶって他人のことなんて、考えようとも思ったことがなかった。けれど――。
沢見くんと視線がかち合う。唇が『がんばれ』と動いた。
「私は、自分に自信が持てるように、なりたいです」
 明日はもう少し、自分が好きになれるように。
今日は無理でも、明日なら。
そんな希望を持つことを、あきらめないでいたい。
 一番最初に拍手をしてくれたのは沢見くんで、それに続いて拍手の連鎖が起こった。
「人生において、自分に自信を持つということは一つの課題かもしれないな。辛島はおとなしいところあるから、もっと自分に自信が持てるように、先生も応援してるよ」
先生の激励に、ありがとうございます、と頭を下げる。沙菜たちは、もう私のことなんて見ていなくて、机の中の小さな画面に集中しているようだった。
 それを見て、ちょっとしたいたずら心が芽生えた。
「それじゃあ、辛島は誰を指名するんだ?」
「じゃあ、森口サエリさん、で」
 呼ばれると思っていなかったのか、サエリは正気か、とでも訴えるように勢いよく顔を上げた。
「それじゃあ、次は森口。こっちこーい」
 これ見よがしにため息をついて見せたり、などはしていなかったけれど、心底いやそうなのが手に取るように分かった。
 あの話し合い依頼、彼女たちとは言葉を交わしていない。教室内で私は所属するグループをなくして、ひとりになった。私たちに何かがあったらしいことは、女子は察していたようで「大丈夫?」と心配してくれる声さえあったほど。
 彼女たちは、私と何があったのか、言いふらしたりはしていないようだった。ただ、もう一緒にはいられないという拒絶を示すだけにとどめていてくれた。それにはひそかに感謝している。
 サエリが私の前にやってきた。沢見くんにされたように、手を出せば、一瞬のためらいはあったものの、サエリの手は私に触れて、清々しい音を立てた。
 これで最後だ、と示すように。
 サエリの夢は「自分だけを溺愛してくれる、彼氏をつくること」だった。それに教室はどっと沸いて、サエリの必死の弁明が始まった。友達みんなが彼氏持ちだから、自分も相応に恋愛がしたい! と、いくらかの切実さまで見せていて、私はうれしく思う反面、切なさも感じた。
それからひとりづつ、教壇に上がって各々の抱負、や夢を語った。
世界旅行したい。
外国語喋れるようになりたい。
研究者になりたい。
彼氏が欲しい。彼女が欲しい。
まだ夢はないけど、そのうち探せるようになりたい。
友人、付き合ってる人、気になる人、と同性を指名したり、異性を指名したり、クラス総勢四十人で、夢を語りあった。
最後の一人を終えたあとの不思議な余韻の中、私たちは全員顔を伏せるように言われて、それぞれの夢を思い起こしながら、軽くなった机の上に突っ伏した。パイプ椅子の軋む音と、担任の足音が教壇にこだまするのが聞こえて、止まった。
静かな教室に、マグネットを付け替える音がする。教室の外からは、賑やかな声が聞こえ始めた。他のクラスは最後のホームルームを終えたようだった。
「今夢がある人も、そうじゃない人も、何かを願うことは人生において、何かしらの原動力になると思う。だからこの先もみんな、各々『何かに向かって、進んで行く』という気持ちを忘れないでください。それじゃあ、解散! とっとと来年のクラス確認して帰れ!」
教室は先生の合図で一斉に顔を上げ、黒板前に集った。
「どうして、名前があったんですか、翔琉さん」
パソコンに向かう翔琉さんにはなしかけても、返事はない。じっと熱い視線を注いでみても、私は見向きもされない。
『出席日数、足りてなかったからね』
「沢見くんは知ってたの?」
『まあ。年が明けた時点で、分かっていたし』
だから保健室を自分の部屋のように使っていたのか、と納得する。いや、そもそもずっと保健室にいたのかもしれないけれど。
あの一件があってから、保健室にはよく来るようになった。彼女たちが私たちの顛末を一から百まで話してなかったにせよ、グループに所属しないというのは、思いのほか肩身の狭い思いをした。
暁の間は、そういう人のために開かれているから、という沢見くんの言葉に励まされ、お昼休みはたいてい保健室にいた。そして、沢見くんと手話の勉強をしていた。
『でも僕、来年も同じクラスでうれしいよ』
 その言葉に、私も笑顔で応える。
 高校二年生、私は沢見くん、そして翔琉さんと一緒に過ごすことになる。
かつての居場所だった四人とは離れ、その四人もそれぞれ異なるクラスに名前があった。あれだけ結束しているように見えた彼女たちは、来年も一緒にいるのだろうか。はたまた、別のグループに所属するようになるのだろうか。
いずれにせよ、今までそうだったように、きっとうまくやるのだろう。けれど、できるだけ傷つかない日々を過ごせるよう、願わずにはいられない。
『来年は文化祭もあるし、楽しみなことたくさんだ』
 ね、翔琉。と沢見くんが話しかけても、翔琉さんはパソコンから顔を上げようとしない。
『やっぱ返事ないね』
 保健室に来るようになってから、どうしたら翔琉さんの気が引けるのか試行錯誤を繰り返しているのだが、一週間経っても私には一向に興味を示してくれない。沢見くんは幼馴染だし、「声」の製作者だしということで、私よりも翔琉さんとの親密度は高いし、沢見くんは翔琉さんの扱いに慣れていた。翔琉さんのそっけない態度にも、いつだって嬉しそうにする。でも、その腹の内はいつだって翔琉さんを困らせたくてしょうがないようで。
『それじゃあ、必殺奥の手で』
「奥の手?」
 沢見くんは暁の間に入り、パティスリーエレのドラジェの箱を手に戻ってきた。
『はい、辛島さん』
 口を開けるように促すから素直に従うと、コロンとドラジェを放りこまれる。舌の上で溶ける砂糖の甘さと、噛み砕いたアーモンドの香ばしさが口の中で合わさる。改めて沢見くんから、傘のお礼は何がいいかと聞かれて再度ドラジェをお願いしたほど、今では私の好物になっていた。
 ふと、翔琉さんから視線を感じて振り返るが、さっと逸らされてしまった。不思議に思ってそのまま見つめていても、翔琉さんは何事もなかったように、またパソコンに向き直る。沢見くんは笑いを噛み殺していた。
『翔琉のやつ、僕らがキスすると思ったんだよ』
 沢見くんがそう打った画面を私に見せてくる。どこに目がついてるのか見当もつかないが、翔琉さんは「見えてんぞ」と注意してくるものの、否定はしなかった。
 デビルアイ、と沢見くんが唇を動かすと、今度は「聞こえてんぞ」と返ってくる。漫才のような二人のやり取りに小さく吹き出してしまう。
『翔琉がいじめるから、僕すごく傷付いた』
「いい迷惑だよ、少しは反省しろ」
『えーん、こうなったらやっぱり奥の手だな』
「だからなんだよ、その奥の手って」
 泣き真似をしていた沢見くんが、スマホに何かを打ち始める。そしてスマホが話し出したのは、いつかの真相だった。
『辛島さんがアーモンド苦手だってこと、実は翔琉から聞いたんだ』
「え?」
 驚いて翔琉さんを見ると、翔琉は片眉をぴくりと上げて、ポーカーフェイスのまま「亮雅」と話を切り上げるよう名前を呼ぶ。でも沢見くんはそんなことお構いなしに続けた。
『フードコートで、ドラジェに手を伸ばさないのを翔琉が見かけたらしくて。それで、僕に教えてくれたんだ。すっごく言いづらそうだったけど』
 あの当時、私は翔琉さんの声は知っていたけれど、姿を見たことはなかった。あの場にいたとしても、気づかないわけだ。本人に見られていたとは思わず、申し訳ない気持ちと、そんな私への気遣いに感謝が込み上げてくる。
「翔琉さん、ドラジェ本当に美味しいです。今では好きなもの、って胸張って言えます」
 翔琉さんは私を無視して、ニタニタと笑みを浮かべている沢見くんを睨みつける。
『だって、こういうのは知っててほしいじゃん』
「知らなくていいこともあんだよ」
『僕は知っててほしかったよ。だって翔琉が教えてくれなかったら、僕らは付き合ってなかったかもしれないし』
 沢見くんの言う通りだ。沢見くんが私に苦手なものをプレゼントしてしまったと落ち込まなければ、バスケットボールを顔面キャッチすることもなく、保健室に運ばれることはなかったし、その時に落としたペンを私が拾って届けることも、暁の間で二人きりの時間を持つこともなかった。振り返ればあの出来事が、私たちの転機だったのかもしれない。
「そう、ですね」
 翔琉さんに向かって告げると、今度はちゃんと目を合わせてくれた。そう言えば今日は、いつもヘッドホンをつけているのに外している。
「ありがとうございました」
 翔琉さんは何かを答える代わりに、口に力を入れて口角を下げる。
沢見くんはそれを見て、右手の親指を立てそれを左手で指出した後、右手の指先を鼻に向けて開いたりすぼめたりさせた。
――翔琉、照れてるんだよ。
ついさっき教えてもらった「照れる」の手話。当然翔琉さんもそれを見て理解して「うるさい」とヘッドホンを装着してしまった。
『そういえば、辛島さん知ってる?』
 沢見くんはまた、ドラジェの箱から水色の粒を一粒摘まみ上げた。
『ドラジェって、『幸福の種』っていう意味なんだって。だから、辛島さんにも、幸福のおすそ分け』
 沢見くんが先ほどのように促すから、私はまた大人しく口を開いてた。甘くて香ばしく、ほんのり苦い、幸福の種は、カリッと良い音を立てる。
「おい、イチャつくな」
『なに僻み? それならもっと見せつけてやる』
 そう言って沢見くんが顔を近づけて来ようとするから、私は咄嗟に両手のひらを沢見くんに向けて阻止した。驚いて口の中のドラジェを慌てて飲みこむ。
(さすがに、人前では無理!)
沢見くんの方も本気でキスをしようとしたわけではなかったようだが、思いの外に私の行動が不満だったようで、向けた手のひらに唇を落としてきた。
「さ、沢見くん⁉︎」
頬が燃えるように熱い。手を引っ込めて沢見くんを見ると、イタズラっぽくその瞳が光る。
『辛島さんがイジワルするから」
「だ、だって沢見くんが」
『だって最初からフリだったのに、そんなあからさまに防がなくても』
「だって恥ずかしいもん」
『でも翔琉しか見てないよ?』
「翔琉さんだから、恥ずかしいに決まってんじゃん!」
『でも確かに、翔琉に辛島さんのキス顔見せるの嫌かも』
「な、何言ってんの⁉︎」
 不毛なやり取りが続く中、ふっと花が綻ぶような笑い声が聞こえて、私たちはぴたりと口をつぐむ。見ると翔琉さんが顎に軽く手を添えて、口を開けて笑っていた。
「お前ら、うるさい」
 もちろん私は初めて翔琉さんの笑顔を見た。いつもの気だるそうな雰囲気とは打って変わって、明るい大きな笑顔がよく似合う。はっとわずかに息を呑む声が聞こえて沢見くんを見やると、翔琉さんの笑顔なんて見慣れているはずなのに、沢見くんは泣きそうな目をしていた。二人の今までに思いを馳せて、これが何を意味するかがなんとなく理解できて、心がほっと温かくなる。
『でも、翔琉も見たかったでしょ?』
 沢見くんは、込み上げてくるもの抑えるように軽口を叩く。翔琉さんは我に返ったようで、またポーカーフェイスに戻ってしまった。
「見たいわけねーだろ、バカ」
『だってずっと気にしてたじゃん』
「別に気にしてない」
『えー、ホントかな?』
「うるさいな。もう、どっかいけ」
 手を振って追い払うような仕草をした後、翔琉さんの視線はまたパソコンの画面に奪われてしまう。でもその声は綿菓子のように甘く優しくて、沢見くんと顔を見合わせて笑った。
私今、ちゃんと幸せだ。
そう思った。




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