年が明けてからは、選択授業の美術の時間はこれまで、油絵制作に費やされてきた。
最初の授業でカンバスに土台になる色を塗って乾燥しておき、二回目の授業で下書きをした。三回目からは生まれて初めて使う油絵具をパレットに出して、カンバスとにらめっこ。
私はそこまで想像力がある方ではない。一向に書きたい題材が見つからなかった生徒は私のほかに何名もいて、見かねた先生が模写でもいいと言ったから、インターネットで素人でも描けそうな絵画を検索した。そこで初めて、一人の画家が自分の描いた絵を何度も描きなおすことがあるのだということを知った。例えばゴッホだったら、題材にしたひまわりをもう一度描くのではなく、自身の描いた「ひまわりの絵」をさらに模写していただという。自分の描いた絵を模写する、というのが不思議だった。
結局ひまわりの模写はもも恵がやることになって、「佳純はこれじゃない?」と適当に選ばれた、よく知らない昔の画家の海の絵を描いていた。技量が足りてないから、全く同じというわけではないけど、色んな「あおいろ」で海の水深や輝きを表現するのも、夕暮れ時の空の濃淡を描くのも、そんな海と空の境界線のあわいを作り出すのも、楽しかった。
今日でその美術の時間も終わってしまう。
「ちょーっ! お前何してんの」
少し離れた机から叫び声が聞こえた、みんなで声の方に注目すると、沢見くんが友達に筆とカンバスを取り上げられているところだった。沢見くんは訳が分からないとでも言いたげに、両手を上げて大きなリアクションを取っていた。
「は、早まるなよ! びっくりするなー」
 あきれ顔の友人の肩をたたきながら、沢見くんは自分の作品を返すように促すけれど応えてくれそうな気配はない。むしろ作品を沢見くんからかばうように、腕に抱きかかえて背を向けている。
 沢見くんは大げさにため息をついて見せると、席についてテーブルの上に置いてあったスマホを手に取った。
『それないと作業できないんですけど』
尤もな主張をする沢見くんに対し、友人たちはさらに彼が使っていた道具まで下げてしまう。騒ぎを聞きつけた美術の先生が「なんだ、なんだ」と入ってきた。
「どうしたんだ、お前ら」
「先生聞いてください! 沢見くんが狂っちゃっいました!」
『狂ってるってなんだよ、狂ってないって』
「だって、殺人現場みたいに、血の色塗ろうとして!」
「血?」
この場には不適切な表現がされて、生徒たちは各々席を立ち沢見くんのところに集まっていく。絵を取り上げた友人が「ほらあ!」と絵を見せるので、私も奈々未たちと一緒に沢見くんのカンバスを覗き込んだ。
テーブルの花瓶に生けられた何本もの真っ白い薔薇は圧倒的なみずみずしさを放っていた。ガラス花瓶の光沢や、柔らかな花弁の質感は素人によって生み出されたとは思えないほど。そんな「芸術」と呼ぶにふさわしい絵に、鮮血を思わせる真っ赤な絵具はべっとりと不規則に塗られており、確かに不気味に目に映る。
血迷ったのか、とか、気に食わなかったのか、と周囲から声が上がる中、沢見くんは苦笑した。
『初めからこのつもりだったんだよ』
そんなことを言うものだから「お前な」と友人たちに責められていた。肩をすくめる沢見くんと目が合って、私は沢見くんのお兄さんの病室を思い出した。沢見くんは、粉々に割れた花瓶と、鮮血によって赤く染め上げられた白い薔薇が印象的だと語っていた。その話を聞く前なら、私もみんなと同じような感想を持っただろうが、今は忘れたい光景と忘れたくない記憶に対する、彼の精一杯なのだとわかる。
「お前もしかして、何か闇でも抱えてんのか?」
『特に話すような悩みもないよ』
「でも、お前、こんな攻撃性の高い性格じゃないじゃん」
「どうしたんだよ、話聞くぞ」
 先日の出来事からも、友人たちが本気で沢見くんを心配しているのが分かる。それだけに、沢見くんもどう説明したらいいかわからない様子だった。
「沢見」と美術の先生が名前を呼んだことで、沢見くんもその友人たちも一度閉口する。先生は小さい子にやるように、沢見くんと視線を合わせようとしゃがんだ。
「実はな、お前の作品をコンクールにって、打診しようと思ってたんだぞ」
 沢見くんが「これを?」というように絵を指さすから、先生は「赤が塗られる元の絵をな」と訂正した。
「とても綺麗に描かれていたし、配置も配色も美しい。だから、やたらに赤を塗ってしまうのは、正直何だかもったいない気もするよ」
『何ももったいなくないですよ。さっきも言いましたけど、僕はもともと、こうするつもりだったんです』
「それは、どうして?」
諭すような先生の声音は優しい。でも、沢見くんは揺らがなかった。
『僕が描きたいと思った瞬間を、絵にしただけなのに、何が悪いんですか?』
授業の初めに、先生はなんでも好きに描いていいと言った。だから沢見くんは彼の自由にしただけ。その「もったいない」という感覚は先生のものであって、沢見くんのものではない。そんなことを言うなら、最初から題材を決めてあげればよかったのに。
「確かに……」
沢見くんの言い分に納得して、思わずそう口から出ていた。鋭い視線を感じて顔をあげると、先生がこちらを向いていた。災いの元を手で覆い隠すが時すでに遅し、隣に立っていた沙菜からも小突かれた。
一瞬にして氷点下まで教室内の空気が凍った。すぐに謝ろうと口を開くよりも先に、沢見くんは太陽のような明るさで盛大に笑い飛ばした。スマホで笑い声を出すのも忘れて、腹を抱えてうずくまる。友人たちは沢見くんが突然の腹痛に襲われたのだと勘違いをして駆け寄ったが、すぐにただ爆笑しているだけだと気づいてきょとんとした。
ひとしきり沢見くんが文字通り声もなく笑うのを、みんなで唖然と見守っていた。
『先生、すみません』
目じりにたまった涙をぬぐって、沢見くんは言った。
『コンクールには出さなくていいので、このまま続き塗らせてください』
完全に場がしらけて、先生も好きにしたらいいと投げやりに言った。沢見くんは嬉々として友人たちから取り返したカンバスに、ベタベタと赤を塗っていた。
「沢見ってさ」
 各々の席に戻って作業を再開すると、もも恵が言った。
「あんなに変な奴だったの?」
「むしろ、怖いっていうか」
「さすがに、ちょっとおかしいよ」
 ここ、と奈々未が人差し指でこめかみのあたりを叩いた。
「ねえ、佳純」
「え?」
同意を求められるような声音に、すっと背筋を伸ばした。
「さっきなんかうっかり、って感じだったけど。言葉には気を付けてよ」
「そうだよ、もう授業なくなるからいいけど、心象悪いじゃん」
「ご、ごめん……」
 沢見くんが笑ってくれたからよかったものの、みんなに迷惑をかけたのは本当にその通りで、返す言葉もなかった。沢見くんの方を盗み見ると、その顔は真剣にカンバスに向かっていた。時々、友人たちの会話に笑顔を見せながら、せっせと筆を動かしている。
(沢見くん。)
 なんだか心細さを感じて、口の中でその名前を転がすと、沢見くんが聞こえていたように顔を上げた。小さく心臓が跳ねて、私はなんでもなかったように逸らす。沢見くんがそんな私を笑ったような気がして恥ずかしくなり、その時間は最後の仕上げに専念した。