次の日もいつも通り、朝はやってきた。太陽が山の端にまだ隠れる暁の刻に、目が覚めた。二度寝を試みても、寝付ける気もしなかったから、いつもは乗らない時間帯の電車に乗り込んで登校した。
校門が開いたばかりの校舎に足を踏み入れると、しんと静まり返って昇降口でひときわ目立つ靴箱を見つけた。それは二年生のクラスのもので、一つの靴箱にたくさんの花や手紙が入っていた。扉も閉まらないくらいに溢れかえり、下の段の生徒への被害に及んでいる。
もう履かれることのない上履きは、色とりどりの花々と、メッセージの書かれた様々葉形の付箋に埋もれている。生憎押し出されてしまったのか、落ちてしまっていた一枚を拾い上げると「好きでした」との文字が見えた。控えめに、けれどしっかりとした筆圧で書かれたその文字に、胸にこみあげてくるものがあった。他人にメッセージが読まれないように小さく折り畳み、靴底深くに入れておいた。
『辛島さん』
 ふいに、名前を呼ばれる。振り返ると、沢見くんが立っていた。登校してきたばかりのようで『おはよう』と声をかけてくるから、私も同じように「おはよう」と返す。
『今日は随分早いんだね』
 沢見くんも早いね、と言いかけてやめる。沢見くんが右手に持っているのは、いつもと同じスマートフォンだが、違和感を覚えた。
「沢見くん……声、変わった?」
 沢見くんは『よくわかったね』と嬉しそうにした。今までの声色と全く変わったわけではなく、親子や兄弟姉妹で声が似るように、普段から沢見くんの声を聞いている人にはわかる程度の変化だった。
『遅ればせながら、声変わりしました。……変じゃ、ないかな?』
 沢見くんが新しいおもちゃを買ってもらった子どもみたいに、はしゃいでいるのが伝わる。早くみんなに新しい声を聞いてもらって、気づいて欲しい。そんな期待もこもっているようだった。
 その声は、今まで聞いていた沢見くんの『声』――沢見くんのお兄さんの声よりも、今の沢見くんにとてもよく似合っていた。
「沢見くんにぴったり、って感じ」
『そう言ってもらえて、嬉しい』
 沢見くんもまた、私と同じように花と手紙があふれかえっている靴箱を見つめる。手を合わせて黙とうをささげる沢見くんに倣い、私も手を合わせて目を閉じた。
(あなたも、あなたの友人も、どうか幸せでありますように。)
 朝のひんやりとした空気を吸い込んで目を開ける。視線を感じて隣を見ると、沢見くんと目が合った。その表情は何かいいたげに僅かに思い詰めるようで、私は首を傾げた。
『昨日は、ありがとう。ろくにお礼も言えずに別れてしまったことが気がかりだったんだけど……だから、改めて、色々、ありがとう』
 沢見くんに対してかけた言葉が、とった行動が、彼にとって良いものであったかはわからなかったから、帰路についてほんの少し自己嫌悪に陥っていた。だから、今の言葉で昨日の私も報われて、救われて、今日の私にとっての自信の一部になっていく。
「元気そうな沢見くんに、朝から会えて嬉しいよ」
 沢見くんはともすれば泣きそうな表情になった。ややためらうように唇を引き結ぶが、やがて意を決したように口が開かれた。
――す、き。
 私が見間違えないように、沢見くんの唇がゆっくりと動く。
――辛島さんのことが、好きだ。
 その言葉は、私がずっと探して切望していた、なくしていた自信を取り戻すための、一番大事な心の欠片だった。徐々に自分の抑え込んでいた思いが露わになっていく。
 どうしようもなく、さ沢見くんが私に人生に欲しくなった。
「私も、沢見くんのことが……好き、です」
 はっきりと自覚した、私だけの気持ち。
 ちゃんと声に出して伝えても、不恰好に震えてしまったけれど、沢見くんはそんなことも愛おしいとでも言うように、優しい手つきで私を抱き寄せた。お互いの体温が混ざり合っていく感覚に「幸せだ」と感じる。私も沢見くんに応えるように、その背中に手を回した。
 永遠なんてわかんないけど、沢見くんにはそばにいて欲しい。そう思ったら、自然と言葉が口からこぼれた。
「私と、付き合ってくれませんか」
 背中に腕を回したまま、沢見くんが距離を取ろうとするから顔を上げると、沢見くんの不服そうな顔が見えた。
『それ、僕のセリフじゃない?』
 背後のスマホのスピーカーから不貞腐れたような声が聞こえて、思わず吹き出す。
「どっちのセリフとか、なくない?」
『今のは流れ的に、どう考えても僕が言うところでしょ』
「いいじゃん、私たち考えていることが一緒、ってことで」
私に言いくるめられるのがよほど悔しいのか、沢見くんは頷かない。
「あの、でも……私のは、今すぐ、ってわけではない、です」
『なんで?』
食い気味に沢見くんが問いかけてくる。
思いを伝えあって、すぐお付き合いに発展するのが定石なのだろうが、結局臆病な私には心の準備が必要だった。
「やらないといけないことが、あるから。それが終わるまで、待ってほしい」
 沢見くんがよければ、だけど。自分勝手な頼みに、声が小さくなっていく。
『じゃあ、それが終わったら、僕の彼女になってくれますか?』
 待つのは当然と言わんばかりの沢見くんの態度に、こちらが驚く番だった。
「……いいの?」
『待つだけでいいなら、いくらでも待つよ』
 その代わり、とつぶやいて、知らない熱を帯びた瞳とかち合う。
『キスだけ、許して』
「えっ⁉」
 とっさに大声が出て、慌てて手で口を覆う。
(えっ、い、今ってこと?)
お互いの気持ちをたった今確認したばかりなのに? 早すぎない? でもこう言うのは勢いだ、ってどこかで聞いたことがあるし。告白の続きを待たせてしまうから、それくらいやってあげてもいいのかもしれないけど、急すぎるというか。そもそも、キスってどうやるの? やったことないからわかんないけど、私は突っ立って待ってたらいいの?
混乱する頭でも、沢見くんとのキスを想像してしまって、頬に熱が集まっていくのが分かる。
そんな私の肩口に沢見くんが頭を置いて肩を震わせるから、そこでようやくからかわれたことに気づいた。
「ちょっと、本気にしちゃったじゃん」
『ごめん、ごめん。すごいイイカンジなのに『待て』が出たから、ちょっと意地悪したくなった』
 目じりに涙をためて笑う沢見くんを真正面からにらみつけて、そこではたと気づく。
「今『ごめん』って、言わなかった?」
 昨日「『ごめん』だけは言うことができない」と聞いていたはずだが、沢見くんの持つスマホから一度だけではなく二度も「ごめん」と聞こえた。沢見くんは私からゆっくり離れると、そのスマホの画面に文字を打つ。
『ごめん』
 謝罪の言葉が、今度ははっきりと聞こえた。
この「声」は、本当に「沢見くんだけのもの」なのだ。
『兄貴の真似は、きっとこれからもやめられないと思う。声はちょっと変えてもらったけど、喋り方は変わらないし。すでに、僕をつくるものの一部になっているし、やっぱり、兄貴のこと忘れたくないから。でも翔琉も僕も、少しずついつまでも思い出に留まるんじゃなくて、少しずつでいいから時間を進めていこうって、話したんだ』
 被検体になることは、沢見くんにとっては願いで、希望で、そして大きな重荷だったに違いない。それでも、全部を「自分だ」と受け止めて前を向こうとする姿に、胸に迫るものがあった。
(私も、沢見くんのようにあきらめていたことを受け止めて、前へ進めるだろうか。)
 沙菜、サエリ、奈々未、もも恵。今まで五人で過ごした日々を思い返すと、私のしようとしている決断がとてつもなく大きなものに思えて、不安を掻き立てる。言わなくていいこと、知らなくてもいいことはたくさんあるのが当たり前だけど。
 うつむいてしまった視線の先で、さっきまで私を抱きしめてくれていた手が、今度は私の手を握っていた。
『大丈夫だよ、辛島さん』
 昨日までなら、きっと私のセリフだったのに。
『今の辛島さんなら、きっと大丈夫』
 自分を諦めてしまった、今よりもう少し幼い自分。今なら、うずくまったままのあの頃の頃の自分を慰めてあげられるだろうか。そして一緒に、止まっていた時間を取り戻すように、歩き出だせる……だろうか。
 肯定するように、ぎゅっと強く手を握られる。
自分の意志と判断の結果、吉と転んでも凶と転んでも、ちゃんと「自分」として受け入れてあげたい。
「沢見くんと一緒だったら、大丈夫な気がするね」
 ずるい、と言った沢見くんは、もう一度励ますように抱きしめてくれた。