朝、登校すると、学校の中が騒がしかった。アナログテレビのスノーノイズが絶えず流れているような、そんな不快感が漂っていた。
教室内でも得体のしれない焦燥感に駆り立てられている、と話題で、朝のホームルーム開始時刻になっても担任が来なかった。隣のクラスから止まない私語がこちらの教室にも届いて、不安感を募らせていると、ようやく担任が教室にやってきた。
「全員、今から体育館に集合」
ただならぬ雰囲気を感じ取り、皆、素直に指示に従った。
体育館には私たちの学年だけでなく、全校生徒が集められていた。生徒が全員着席したのを確認して、沈鬱な面持ちの校長先生がスタンドマイクの前に現れた。
一つ上の学年の男子生徒が、自宅マンションから飛び降りたのは、昨日の早朝、未明のことだったらしい。授業時間を削って、この体育館にて緊急でもたれた学校集会で、フクザツな家庭環境が背景にあって、彼の中で選択肢は他になく、やむを得なかったのだろう、と、校長先生は告げた。
衝撃的な事の顛末をに場内は騒然となった。
全校生徒で黙祷を捧げて、「命は尊いものだから」と訥々と教頭先生が語っている途中、
「わあああああ」と絶叫が体育館に響き渡った。突然、ひとりの男子生徒の様子がおかしくなった。周りの先生に宥められながらも彼は騒ぎ立てるのをやめず、しまいには半狂乱になって泣き叫んだ。
――「俺が『お前なんていなくなれ』って言ったから」
――「俺のせいで、死んだんだ」
――「俺が、あんなことを言わなければ」
彼のその言葉で、場が一斉に凍りついた。慟哭するその生徒は、先生たち数名によって体育館をあとにした。耳が痛くなるほどの静寂ののち、教頭先生が短い言葉でその場を締めくくり、解散となった。
教室に戻って、この一つ上の学年に彼氏を持つ奈々未が教えてくれたが、あのひとは、亡くなった男子生徒の親友だったそうだ。
彼と亡くなった男子生徒はその数日前、些細なことで口論になり、その生徒に対して「お前なんていなくなれ」と口走ってしまった、と聞いた。
『自殺なんてする人、本当にいるんだね』
奈々未の言葉に、みんな『びっくりだよね』って。
『漫画みたい』
『映画かとおもった』
『ドッキリ、とかではないよね?』
『てかさ』
――『あの人も、死んじゃうのかな』
私は『どうだろうね』と返す以外、できなかった。
教室に戻ったあと、先生も生徒もみんな心ここに在らずといったように、真面目に授業をしている先生も、受けている生徒もいなかった。
三月の席替えで端の窓際の列になった沢見くんだけが唯一、普段と変わりのないように板書をとって、まっすぐ黒板と、先生の目を見ていた。
掃除の時間。ごみを捨てて舞台に戻ってくると、いつかのように新しいごみ袋を用意している沢見くんがいた。思わずぎくりとして後ずさる。二人きりになるのは駅での出来事以来。トイレ掃除をしていたはずの沢見くんが、ここにいるということは、私に話があることと同義だ。
作業を終えた沢見くんは、私がいたことにはとっくに気づいていたようで、当然のように近づいてきた。
『今日の放課後、空いてますか?』
今日は日直でもなければ、友人たちと女子会の予定もなかった。生憎と時間はある。でも、沢見くんが私に何を求めているのかわからなくて、頷くのをためらった。
『辛島さんに、聞いてほしい話があるんだ』
その瞳は、迷子のように不安げに揺れていた。
私が沢見くんの話を聞くに値する人間だとは思えないけれど、そんなことを言われて断れるはずもなかった。
待ち合わせは保健室じゃなくて、駅だった。忘れ物をした、と学校に戻るふりをして何度目かの嘘で彼女たちと別れ、雑踏に身を置きながら沢見くんを待っていた。
しばらくすると、沢見くんはスケッチブックをわきに抱えて、現れた。
『ちょっと歩かない?』
きっと今朝の事が尾を引いていた。道中、お互いに一言も発しなかった。私たちの地面を踏む音が、やけに耳についた。
沢見くんのあとを追って行き着いたのは、小さな公園だった。自動販売機で暖とりのためにお茶を一缶ずつ買って、だれもいない公園のベンチにふたり腰掛けた。遊具はブランコに滑り台だけ。大通りからも離れて閑散とした住宅街の中、頼りなげな街灯が一本、ベンチのそばに立っている。
ふと、目の前にスケッチブックが現れた。
『今日ずっと、ボーッとしてたね』
私の顔を覗き込んで『大丈夫?』とさらに尋ねてくる沢見くんに、首を緩く縦にふった。
「みんな、そんな感じだったね」
『田中先生、チョーク折ってたね』
「いつもなら乱れない板書も、ガタガタだったよね」
数学の授業を思い出して、少しだけ笑いが戻る。綺麗にきっちり一直線に文字を書くことで有名な田中先生。今日は板書の文字もガタガタで、計算も間違っていたし、途中で力み過ぎてチョークも折っていた。亡くなった上級生は、田中先生の担当クラスの生徒だったそうだ。
「沢見くんは、文字を打つのも、書くのも早いんだね」
スケッチブックを使うのを見たのは、スマホを壊した時以来だ。会話がキャッチボールの速さで進むことに感心すると、沢見くんは得意そうにした。
『小学生のころはスマホが持てなかったから、練習したんだ』
「そうだったんだ」
『手話も一応できるけど、相手に覚えてもらわないといけないから、こっちの方が楽で』
(それでも手書きよりはスマホの方がもっと楽なはずなのに、どうしてわざわざスケッチブックを使うのだろう?)
沢見くんがそれきり何もしゃべらなくなったので、私も沈黙した。
少しずつ温かくなってきた三月のはじめだが、夜は冬の名残があって冷える。気づかれないように膝をすり合わせて、まだ温かい缶をもう一度握り締めた。
さっさっ、とスケッチブックの上を鉛筆が走る音が聞こえてきた。静かなこの場に、明確な意思を持って主張するその音は、海原の波音にも似ていた。
しばらく目を閉じて耳を澄ませていると、ふいにその音が止んだ。隣を見ると、沢見くんが私の方にスケッチブックを寄せていた。
『僕ね、辛島さん』
内緒の話をするみたいに、さっきよりも文字が小さくなっている。読んだ意思を示して頷くと、沢見くんはその後に続けた。真っ白い画用紙の上に、一文字一文字黒い文字が浮かび上がっていく。沢見くんの払うような筆跡を目で追い、思わず息を飲んだ。
――『生まれて初めて、しゃべれなくてよかった、って思っちゃった』
速くなる鼓動は、正直だ。私はただただ、その言葉にくぎ付けになった。
あまりに沢見くんが「普通の人」のように振舞うからつい忘れてしまいがちだが、沢見くんはしゃべれないのだ。生まれてから一度も、声を発したことがない。
逆境があるから人生に深みが出るなんて言葉、うのみにしているわけではないが、沢見くんは、自分が話せないことを、強みにしているのだと思っていた。
沢見くんはずっと「しゃべる」ことを望んでいた。兄の身代わりだとかそれ以前に、「話す」ことのできない己に対して劣等感を抱くことは理解できる。だってスマホを駆使して、あくまでも声でしゃべることにこだわっている沢見くんだ。
だから「しゃべりたい」と思っている人が「しゃべれてよかった」とは思っても、「しゃべれなくてよかった」と思うなどとは、考えもつかなかった。
『なんでそんな顔してるの?』
慰めるような沢見くんの言葉に、意識が戻される。
私は何も答えられなくて、唇を一の字に結んだ。じわりを熱を帯びていく目頭に、強く舌を噛む。
沢見くんは小首をかしげて暫く私と見つめ合ったあと、スケッチブックのページを捲った。
――『長くなるんだけど、読んでもらえたら嬉しい。
兄貴は、小さいころから入退院を繰り返して、学校も休みがちだった。自分が長くはないって、どこかでわかってたみたい。それでも明るくって、僕たちにとっては光そのものって感じだった。昏いところは一切見せずに、明るく振舞って、病がどんどん進行して、使う薬が、管が増えても「大丈夫」って笑ってた。
でも、やっぱり限界だったんだ。ある日病室で面会もできないほどに暴れて。枝のように細い腕でこんな力がまだ残っていたのかと思うほどに、病室はひっちゃかめっちゃかだった。棚も机も、車椅子もひっくり返って、ガラスの花瓶は原型をとどめないくらいに粉々にたたき割られてた。一番印象的だったのは、兄貴の好きだった白いバラが兄貴の血で赤に染まってたこと。面会がなぜか許された僕だけが、その光景を目の当たりにしたんだ。
兄貴は生まれつき話すことのできなかった僕をずいぶんかわいがってくれてた。ハンディのある者同士、通じ合う部分があったのは確かだよ。でもその時の眼差しは、羨望とも憎しみともとれるものだった。
お前は健康でいいな、って。
でも何も言わなかった。ただしばらく僕を見つめていた。近くに来るように呼ばれたと思ったら、抱きしめられた。それで、言ったんだ。
この世界から、自分の痕跡が消えるのが怖い、って。
だから、誰も兄貴を忘れないように、ビデオテープに兄貴の様子を収めることにした。もうちょっと健康そうなときにやってくれよ、って呆れられたけど、僕にはどこまでも甘いひとだったから。学校帰りにまっすぐ病院に向かって、それで沢山お話して、たくさん兄貴の生きている瞬間をビデオに収めた。
楽しかった。カメラを向けると、嫌そうにふざけるところも、大きな口をあけて笑うところも。この人が死ぬなんて、嘘なんじゃないかって思った。でも、病は確実に兄貴をむしばんで、狂わせていったんだ。
しばらくして、兄貴は死んだ。自らの手で、命を終わらせて』――。
その言葉は、ものすごい破壊力で私に迫ってきた。私は息つく間もなく、次のページをめくった。
――『その日は僕がたまたま風邪をひいてしまって、お見舞いに行けなかった。今思うと、兄貴はそんな瞬間が来るのを、望んでいたんだと思う。
その日は翔琉が――保健室にいるあの人が、お見舞いに行ったんだ。兄貴と翔琉は幼馴染だから。そしたら病室に兄貴がいないことに気づいて、看護師さんたちに声をかけて、捜索が始まったんだって。あんな体で遠くに行けるはずがないってみんなで血眼になって探し回ってくれて、一番先に兄貴を見つけたのは、翔琉だった。
病院の屋上。立ち入り禁止なのに。扉は重いのに。
翔琉は、兄貴が柵を乗り越えて身を乗り出しているところを見つけて、必死になって兄貴を呼び止めたけど、兄貴の決心は揺るがなかったんだ。
一言「ごめん」って、そういって。
大きな風が吹いたと当時に、兄貴の身体が宙に浮いて、消えたって、翔琉は言ってた。
両親は死に目に会えなくて、翔琉は唯一の目撃者で、もうみんなボロボロだった。不幸中の幸いは、重力に負けて地面に落ちた兄貴が、だれも巻き込まなかったことかな。
風邪さえひかなければ、って自分を責める暇もなく、葬式が、告別式が、四十九日が進んでいって。僕たちだけを置いて、時間だけが無情に流れていくんだ。両親はまだ大人だったからさ、次第に兄貴の自殺を受け入れた。あとから遺書っぽいものも見つかったし。
一番大変だったのは翔琉。僕は細かいことは聞かされてないから知らないんだけど、昔いじめられてた翔琉を兄貴がかばっただか何だかで、翔琉のやつ兄貴のことすっごい慕ってたから。ちょっと目を離せばすぐ後を追おうとしてた。
どうにかして、翔琉をこの世にとどめて置ける方法がないか考えて、それで思い出したんだ。
兄貴がいつか、「俺が死んだらお前にこの声あげるよ」って、冗談まじりに言ったのを。兄貴が死んで声帯を僕に移植したとこで、僕が喋れるようにはならないんだけどさ。
翔琉はコンピューターとかプログラミングとはすごい強かったから、絶対他人を寄せ付けなかった部屋のドア蹴破って、ビデオに録音した兄貴の声で、僕のために読み上げソフト作れ、って命令した。頼みなんてかわいいものじゃなくて、作らなかったら殺すくらいの勢いで交渉したよ。死相を漂わせている翔琉を救う方法なんてそれしか思いつかなくて、一か八かのかけだったけど、結局僕の勝ち。
僕が撮った動画全部託して、翔琉は今の僕の「声」を作ってくれたんだ。兄貴の面影を探すように、一日中音声づくりに没頭してたよ。飲まず食わずの生活が続いてぶっ倒れたりもしたけど、少なくとも翔琉は生きた。
そうやって、あの音声読み上げアプリができたんだ。僕の兄貴の声で作った、僕専用のアプリ。今までスケッチブックで話していた僕にとっては、画期的で、すぐ入力の仕方をマスターしたよ。
一番最初は、すっごい棒読みのものだったんだけど、改良を重ねて、今の流暢な会話が成立するようになった。しゃべりかた、兄貴そのままだった。翔琉も両親も喜んだ。兄貴の声が、僕が「しゃべる」だけで聞けるから。
一つ欠点は、「ごめん」は言えないんだ。翔琉が兄貴の声の「ごめん」だけは聞けないって言って、それだけ、打っても音声が出ない仕様になってるんだ』――。
そこで、文章は終わっていた。私は無言のまま、スケッチブックを凝視していた。沢見くんは文字を追わなくなった私の瞳に気づいて、新しいページを開いて、また鉛筆を走らせる。
滑らかに動く彼の手に、今ははっきりと、罪悪感を抱いた。
『スマホ壊したかったのは僕の方だったんじゃないか、って核心を突かれて動揺した。今まで誰も、それに気づいたことなんてなかったから。
言い出したのは僕だよ。僕だって兄貴が恋しかった。両親の強がりを見ていられなかった。兄貴の願いをかなえてやりたかった。翔琉には生きてほしかった。
僕の『声』は僕のためであり、兄貴のためで、両親のためで、翔琉のためで。
でも、僕の声じゃない。どうしたって、偽物止まり。どれだけ流暢に会話できても、僕の本当の声ではない。文字を打つのは僕でも、しゃべるのは兄貴だから、いつの間にか兄貴になりきろうとしてる自分に――なりきっていた自分に、気づいた。音声アプリ使うのを嫌がったら、両親や翔琉は悲しむ。今の平穏のためなら自己犠牲はいとわないって、思ってたのに。今更辞めたい自分に気づいて、嫌だったんだ。だから、辛島さんに見破られて、正直、ちょっと腹が立った』
沢見くんの表情は書いてあることとは逆に、とても穏やかだった。私は謝ることもはばかられて、ただじっと彼の「声」に耳を傾けていた。
『声ってちゃんと、相手に届くよね。でも僕の『声』は、どれだけ頑張っても出ない。だから自分の声でしゃべれる人がうらやましい。どれだけ文字を書くのが、打つのが早くても、生身の会話には到底及ばない。さっきの兄貴の話は、今日の授業中にて書いてたし。
どれだけ会話ぶっても文字の羅列に変わりない。だから、しゃべることのできる人がうらやましかった。すごく、すごく、うらやましかった、けど』
沢見くんはそこでいったん手を止め、思案するように瞼を閉じた。風が笑うようにほほを撫でていく。ゆっくりと瞼をもちあげ、続きを書こうとする沢見くんの手は、小刻みに震えていた。
『今日話を聞いた上級生の彼のように、心の突いてはいけない場所にも、『声』というものが、もし届いてしまうようなことがあるなら。話せなくてよかったって、思っちゃった』
――『生まれて初めて、話せなくてもいいことあるんだ、って思ったんだ』
寂し気に口の端をあげて私を見る、深海のような瞳は、嘘の無い全きもの。
――「しゃべれなくて、いいのに」
過去にそんなことを思った自分を、これほどまでに恥じたことはなかった。
沢見くんはスケッチブックをたたむと、自分のほほで両の口角を上げて見せた。私の反応が鈍いことに気づいて、もう一度、「わらう」と唇を動かして笑って見せる。
そんな気分ではまるっきりなかったけれど、なんとか笑顔を作ってみせると満足したようで沢見くんは大きく頷いた。
話を終えた沢見くんは、お茶缶のプルタブを起こし、一気に飲み干した。そして向こうの方に見えたごみ箱をめがけて缶を投げた。スチール缶は大きな放物線を描き、見事ゴミ箱の中に着地。カランカランとほかの缶にぶつかる音が、公園中に響き渡った。
また、沢見くんはリュックサックの中から購買のクリームパンを取り出すと『食べていい?』と私に断って、頬張り始めた。
私も缶のお茶を一気に飲み干し、沢見くんの真似をして缶を投げてみたけれど、惜しいところでゴミ箱のふちにはじかれてしまった。笑う沢見くんをにらみつけて、ちゃんと缶のごみ箱まで歩いて行って捨てた。
ふざけることは、できそう。それでも、胸に巣食う漠然とした喪失感は、ぬぐえない。
闇夜の碧い雰囲気にのまれ、私の感情はいろんな意味で昂っていた。
「沢見くん」
沢見くんはクリームパンにかじりつきながら、首をかしげた。
「確かに、とっさに出てくる『声』に、『文字を起こす』ことは、敵わないよね。でも沢見くんの言葉は、決してただ文字の羅列なんかじゃないよ。さっきの言葉たちも、沢見くんの『声』として、ちゃんと、届きすぎるくらい届いた。でも、そういうことじゃ、ないんだよね、きっと」
沢見くんはくわえていたクリームパンを噛みちぎると、ゆっくり咀嚼しながら手を下ろした。沢見くんの膝の上にある、角が草臥れたスケッチブックの壁は、私にはどうしたって超えることはできない。
できることなら、沢見くんにも「声」を与えてあげたいけれど、そんな権力も能力も私は持ち合わせていない。だったらせめて、彼の声には、耳を傾けられる人でありたい。
だって、沢見くんは、私だ。
「私は、沢見くんのこと、もっと、もっと知りたい」
自分の声が届かないなんて、諦めてしまわないで。
他人が望む自分だけが「自分」だなんて、思わないで。
自分自身にも言い聞かせるように「声」にする。
沢見くんの咀嚼が、止まる。
握っていたクリームパンに少し力が入って、ガサリと包装の袋の微かな音が聞こえた。また吹いた風が私の頬を撫で、沢見くんの髪を遊んで去っていく。弱弱しい光を放っていた街灯の灯りが、ろうそくのようにふっと消える。
耐えられない試練は与えられない、っていうけど、そもそも試練なんていらない。何不自由なく幸せな人生を与えてくれればいいのに、神様は意地悪だから、私たちの人生には一波乱も二波乱もつきものだ。
そんな困難に直面するたびに、あきらめたくなることは何度だって訪れる。
それでも、人は期待することをやめられない。次こそは、と希望を持ちたくなる。たとえ裏切られるとわかっていても、望みを抱かずにはいられない。
だって、何人も幸せになる権利があるから。誰だって、幸せになりたいから。
「私は、沢見くんがこんなことに心を動かされるのか、知りたい。どんなことに笑うのか、どんなことで涙を流すのか、そういうこと、知りたい。お兄さんを思ってお兄さんのように振舞う沢見くんのことも、お兄さんの影に隠れることを余儀なくされている沢見くんのことも、全部知りたいよ」
(あなたのことが、好きだから――。)
私は逆立ちしたって沢見くんになることはできない。彼が自分の立場をどう感じて、周りにどんな印象を抱いているのかを理解できる日は、一生来ない。私が取り払うことのできない境界線は、他のみんなだってきっと無意識に作っているもので、どれだけ沢見くんが「普通の男の子」であろうとしても、そのスケッチブックを抱えている限り、スマホを握っているかぎり、私たちと沢見くんには異なった人生がすでに決められている。
しかし、どれだけその人になれなくたってその言葉を受け止めて、一緒に背負うことはできる。全部を理解できなくても、お互いに歩みよる努力をすることはできる。
私たちはいつだって、どうしようもなく、手を差し伸べて、隣に座ってくれる「誰か」を、求めているのだ。
「沢見くんの声、もっと聞かせてよ」
初めから何もない人と、後から失ってしまった人とでは、どちらの悲しみがより深いだろうか。
声を持っていた、体育館で絶望を露わにしたあの先輩と、届かない「声」を持つ沢見くんでは、どちらの孤独が大きいだろうか。
天秤にかければ、もう挽回のチャンスの訪れないあの先輩の孤独のほうが大きいように思われるかもしれない。しかし、沢見くんがこれからも絶えず直面する壁は、どれほど高くて、厚いのだろう。
沢見くんの瞳の奥が揺れて、漆黒の空を映すその瞳から星屑が落ちた。白いパンからはみ出た黄色いクリームの上に、スケッチブックの上に、一粒、また一粒と涙のしずくが落ちていく。
寒さからではなく震える沢見くんに、私は立ち上がってそっと腕を回した。拒まない沢見くんは倒れこむように私の肩に頭を置く。初めて抱きしめた男の子は、とても小さくて脆くて、もう少し力を入れるだけで壊れてしまいそうだった。でも、このまま抱き締めていないと、どこかに消えてしまいそうだった。
沢見くんが泣いても声は出ない。嗚咽のような息遣いと鼻をすする音だけが、ちっぽけな空間に響いた。
一頻り沢見くんが泣いた後で、私たちは来た道を引き返した。私が先に歩いて、沢見くんは後ろをついてきた。その間、会話はなかった。二人で俯き、つま先ばかり見ていた。
ただ、改札を抜けてお互い別のプラットホームに立った時、手を振り合った。沢見くんが線路を挟んで向こう側から泣きはらした赤い目で私を見つめ、小さく手を振ってくれたから、私も振り返した。
また、明日。
そんな意味を込めて。
沢見くんがやってきた電車に乗り込むのを見届けて、ようやく肩の力が抜けた。ベンチに腰掛け、空を見上げると、いつもと変わらない星天が広がっていた。
星が、目に入ってきた。
そんな言い訳をして、一人静かに嗚咽を押し殺した。
教室内でも得体のしれない焦燥感に駆り立てられている、と話題で、朝のホームルーム開始時刻になっても担任が来なかった。隣のクラスから止まない私語がこちらの教室にも届いて、不安感を募らせていると、ようやく担任が教室にやってきた。
「全員、今から体育館に集合」
ただならぬ雰囲気を感じ取り、皆、素直に指示に従った。
体育館には私たちの学年だけでなく、全校生徒が集められていた。生徒が全員着席したのを確認して、沈鬱な面持ちの校長先生がスタンドマイクの前に現れた。
一つ上の学年の男子生徒が、自宅マンションから飛び降りたのは、昨日の早朝、未明のことだったらしい。授業時間を削って、この体育館にて緊急でもたれた学校集会で、フクザツな家庭環境が背景にあって、彼の中で選択肢は他になく、やむを得なかったのだろう、と、校長先生は告げた。
衝撃的な事の顛末をに場内は騒然となった。
全校生徒で黙祷を捧げて、「命は尊いものだから」と訥々と教頭先生が語っている途中、
「わあああああ」と絶叫が体育館に響き渡った。突然、ひとりの男子生徒の様子がおかしくなった。周りの先生に宥められながらも彼は騒ぎ立てるのをやめず、しまいには半狂乱になって泣き叫んだ。
――「俺が『お前なんていなくなれ』って言ったから」
――「俺のせいで、死んだんだ」
――「俺が、あんなことを言わなければ」
彼のその言葉で、場が一斉に凍りついた。慟哭するその生徒は、先生たち数名によって体育館をあとにした。耳が痛くなるほどの静寂ののち、教頭先生が短い言葉でその場を締めくくり、解散となった。
教室に戻って、この一つ上の学年に彼氏を持つ奈々未が教えてくれたが、あのひとは、亡くなった男子生徒の親友だったそうだ。
彼と亡くなった男子生徒はその数日前、些細なことで口論になり、その生徒に対して「お前なんていなくなれ」と口走ってしまった、と聞いた。
『自殺なんてする人、本当にいるんだね』
奈々未の言葉に、みんな『びっくりだよね』って。
『漫画みたい』
『映画かとおもった』
『ドッキリ、とかではないよね?』
『てかさ』
――『あの人も、死んじゃうのかな』
私は『どうだろうね』と返す以外、できなかった。
教室に戻ったあと、先生も生徒もみんな心ここに在らずといったように、真面目に授業をしている先生も、受けている生徒もいなかった。
三月の席替えで端の窓際の列になった沢見くんだけが唯一、普段と変わりのないように板書をとって、まっすぐ黒板と、先生の目を見ていた。
掃除の時間。ごみを捨てて舞台に戻ってくると、いつかのように新しいごみ袋を用意している沢見くんがいた。思わずぎくりとして後ずさる。二人きりになるのは駅での出来事以来。トイレ掃除をしていたはずの沢見くんが、ここにいるということは、私に話があることと同義だ。
作業を終えた沢見くんは、私がいたことにはとっくに気づいていたようで、当然のように近づいてきた。
『今日の放課後、空いてますか?』
今日は日直でもなければ、友人たちと女子会の予定もなかった。生憎と時間はある。でも、沢見くんが私に何を求めているのかわからなくて、頷くのをためらった。
『辛島さんに、聞いてほしい話があるんだ』
その瞳は、迷子のように不安げに揺れていた。
私が沢見くんの話を聞くに値する人間だとは思えないけれど、そんなことを言われて断れるはずもなかった。
待ち合わせは保健室じゃなくて、駅だった。忘れ物をした、と学校に戻るふりをして何度目かの嘘で彼女たちと別れ、雑踏に身を置きながら沢見くんを待っていた。
しばらくすると、沢見くんはスケッチブックをわきに抱えて、現れた。
『ちょっと歩かない?』
きっと今朝の事が尾を引いていた。道中、お互いに一言も発しなかった。私たちの地面を踏む音が、やけに耳についた。
沢見くんのあとを追って行き着いたのは、小さな公園だった。自動販売機で暖とりのためにお茶を一缶ずつ買って、だれもいない公園のベンチにふたり腰掛けた。遊具はブランコに滑り台だけ。大通りからも離れて閑散とした住宅街の中、頼りなげな街灯が一本、ベンチのそばに立っている。
ふと、目の前にスケッチブックが現れた。
『今日ずっと、ボーッとしてたね』
私の顔を覗き込んで『大丈夫?』とさらに尋ねてくる沢見くんに、首を緩く縦にふった。
「みんな、そんな感じだったね」
『田中先生、チョーク折ってたね』
「いつもなら乱れない板書も、ガタガタだったよね」
数学の授業を思い出して、少しだけ笑いが戻る。綺麗にきっちり一直線に文字を書くことで有名な田中先生。今日は板書の文字もガタガタで、計算も間違っていたし、途中で力み過ぎてチョークも折っていた。亡くなった上級生は、田中先生の担当クラスの生徒だったそうだ。
「沢見くんは、文字を打つのも、書くのも早いんだね」
スケッチブックを使うのを見たのは、スマホを壊した時以来だ。会話がキャッチボールの速さで進むことに感心すると、沢見くんは得意そうにした。
『小学生のころはスマホが持てなかったから、練習したんだ』
「そうだったんだ」
『手話も一応できるけど、相手に覚えてもらわないといけないから、こっちの方が楽で』
(それでも手書きよりはスマホの方がもっと楽なはずなのに、どうしてわざわざスケッチブックを使うのだろう?)
沢見くんがそれきり何もしゃべらなくなったので、私も沈黙した。
少しずつ温かくなってきた三月のはじめだが、夜は冬の名残があって冷える。気づかれないように膝をすり合わせて、まだ温かい缶をもう一度握り締めた。
さっさっ、とスケッチブックの上を鉛筆が走る音が聞こえてきた。静かなこの場に、明確な意思を持って主張するその音は、海原の波音にも似ていた。
しばらく目を閉じて耳を澄ませていると、ふいにその音が止んだ。隣を見ると、沢見くんが私の方にスケッチブックを寄せていた。
『僕ね、辛島さん』
内緒の話をするみたいに、さっきよりも文字が小さくなっている。読んだ意思を示して頷くと、沢見くんはその後に続けた。真っ白い画用紙の上に、一文字一文字黒い文字が浮かび上がっていく。沢見くんの払うような筆跡を目で追い、思わず息を飲んだ。
――『生まれて初めて、しゃべれなくてよかった、って思っちゃった』
速くなる鼓動は、正直だ。私はただただ、その言葉にくぎ付けになった。
あまりに沢見くんが「普通の人」のように振舞うからつい忘れてしまいがちだが、沢見くんはしゃべれないのだ。生まれてから一度も、声を発したことがない。
逆境があるから人生に深みが出るなんて言葉、うのみにしているわけではないが、沢見くんは、自分が話せないことを、強みにしているのだと思っていた。
沢見くんはずっと「しゃべる」ことを望んでいた。兄の身代わりだとかそれ以前に、「話す」ことのできない己に対して劣等感を抱くことは理解できる。だってスマホを駆使して、あくまでも声でしゃべることにこだわっている沢見くんだ。
だから「しゃべりたい」と思っている人が「しゃべれてよかった」とは思っても、「しゃべれなくてよかった」と思うなどとは、考えもつかなかった。
『なんでそんな顔してるの?』
慰めるような沢見くんの言葉に、意識が戻される。
私は何も答えられなくて、唇を一の字に結んだ。じわりを熱を帯びていく目頭に、強く舌を噛む。
沢見くんは小首をかしげて暫く私と見つめ合ったあと、スケッチブックのページを捲った。
――『長くなるんだけど、読んでもらえたら嬉しい。
兄貴は、小さいころから入退院を繰り返して、学校も休みがちだった。自分が長くはないって、どこかでわかってたみたい。それでも明るくって、僕たちにとっては光そのものって感じだった。昏いところは一切見せずに、明るく振舞って、病がどんどん進行して、使う薬が、管が増えても「大丈夫」って笑ってた。
でも、やっぱり限界だったんだ。ある日病室で面会もできないほどに暴れて。枝のように細い腕でこんな力がまだ残っていたのかと思うほどに、病室はひっちゃかめっちゃかだった。棚も机も、車椅子もひっくり返って、ガラスの花瓶は原型をとどめないくらいに粉々にたたき割られてた。一番印象的だったのは、兄貴の好きだった白いバラが兄貴の血で赤に染まってたこと。面会がなぜか許された僕だけが、その光景を目の当たりにしたんだ。
兄貴は生まれつき話すことのできなかった僕をずいぶんかわいがってくれてた。ハンディのある者同士、通じ合う部分があったのは確かだよ。でもその時の眼差しは、羨望とも憎しみともとれるものだった。
お前は健康でいいな、って。
でも何も言わなかった。ただしばらく僕を見つめていた。近くに来るように呼ばれたと思ったら、抱きしめられた。それで、言ったんだ。
この世界から、自分の痕跡が消えるのが怖い、って。
だから、誰も兄貴を忘れないように、ビデオテープに兄貴の様子を収めることにした。もうちょっと健康そうなときにやってくれよ、って呆れられたけど、僕にはどこまでも甘いひとだったから。学校帰りにまっすぐ病院に向かって、それで沢山お話して、たくさん兄貴の生きている瞬間をビデオに収めた。
楽しかった。カメラを向けると、嫌そうにふざけるところも、大きな口をあけて笑うところも。この人が死ぬなんて、嘘なんじゃないかって思った。でも、病は確実に兄貴をむしばんで、狂わせていったんだ。
しばらくして、兄貴は死んだ。自らの手で、命を終わらせて』――。
その言葉は、ものすごい破壊力で私に迫ってきた。私は息つく間もなく、次のページをめくった。
――『その日は僕がたまたま風邪をひいてしまって、お見舞いに行けなかった。今思うと、兄貴はそんな瞬間が来るのを、望んでいたんだと思う。
その日は翔琉が――保健室にいるあの人が、お見舞いに行ったんだ。兄貴と翔琉は幼馴染だから。そしたら病室に兄貴がいないことに気づいて、看護師さんたちに声をかけて、捜索が始まったんだって。あんな体で遠くに行けるはずがないってみんなで血眼になって探し回ってくれて、一番先に兄貴を見つけたのは、翔琉だった。
病院の屋上。立ち入り禁止なのに。扉は重いのに。
翔琉は、兄貴が柵を乗り越えて身を乗り出しているところを見つけて、必死になって兄貴を呼び止めたけど、兄貴の決心は揺るがなかったんだ。
一言「ごめん」って、そういって。
大きな風が吹いたと当時に、兄貴の身体が宙に浮いて、消えたって、翔琉は言ってた。
両親は死に目に会えなくて、翔琉は唯一の目撃者で、もうみんなボロボロだった。不幸中の幸いは、重力に負けて地面に落ちた兄貴が、だれも巻き込まなかったことかな。
風邪さえひかなければ、って自分を責める暇もなく、葬式が、告別式が、四十九日が進んでいって。僕たちだけを置いて、時間だけが無情に流れていくんだ。両親はまだ大人だったからさ、次第に兄貴の自殺を受け入れた。あとから遺書っぽいものも見つかったし。
一番大変だったのは翔琉。僕は細かいことは聞かされてないから知らないんだけど、昔いじめられてた翔琉を兄貴がかばっただか何だかで、翔琉のやつ兄貴のことすっごい慕ってたから。ちょっと目を離せばすぐ後を追おうとしてた。
どうにかして、翔琉をこの世にとどめて置ける方法がないか考えて、それで思い出したんだ。
兄貴がいつか、「俺が死んだらお前にこの声あげるよ」って、冗談まじりに言ったのを。兄貴が死んで声帯を僕に移植したとこで、僕が喋れるようにはならないんだけどさ。
翔琉はコンピューターとかプログラミングとはすごい強かったから、絶対他人を寄せ付けなかった部屋のドア蹴破って、ビデオに録音した兄貴の声で、僕のために読み上げソフト作れ、って命令した。頼みなんてかわいいものじゃなくて、作らなかったら殺すくらいの勢いで交渉したよ。死相を漂わせている翔琉を救う方法なんてそれしか思いつかなくて、一か八かのかけだったけど、結局僕の勝ち。
僕が撮った動画全部託して、翔琉は今の僕の「声」を作ってくれたんだ。兄貴の面影を探すように、一日中音声づくりに没頭してたよ。飲まず食わずの生活が続いてぶっ倒れたりもしたけど、少なくとも翔琉は生きた。
そうやって、あの音声読み上げアプリができたんだ。僕の兄貴の声で作った、僕専用のアプリ。今までスケッチブックで話していた僕にとっては、画期的で、すぐ入力の仕方をマスターしたよ。
一番最初は、すっごい棒読みのものだったんだけど、改良を重ねて、今の流暢な会話が成立するようになった。しゃべりかた、兄貴そのままだった。翔琉も両親も喜んだ。兄貴の声が、僕が「しゃべる」だけで聞けるから。
一つ欠点は、「ごめん」は言えないんだ。翔琉が兄貴の声の「ごめん」だけは聞けないって言って、それだけ、打っても音声が出ない仕様になってるんだ』――。
そこで、文章は終わっていた。私は無言のまま、スケッチブックを凝視していた。沢見くんは文字を追わなくなった私の瞳に気づいて、新しいページを開いて、また鉛筆を走らせる。
滑らかに動く彼の手に、今ははっきりと、罪悪感を抱いた。
『スマホ壊したかったのは僕の方だったんじゃないか、って核心を突かれて動揺した。今まで誰も、それに気づいたことなんてなかったから。
言い出したのは僕だよ。僕だって兄貴が恋しかった。両親の強がりを見ていられなかった。兄貴の願いをかなえてやりたかった。翔琉には生きてほしかった。
僕の『声』は僕のためであり、兄貴のためで、両親のためで、翔琉のためで。
でも、僕の声じゃない。どうしたって、偽物止まり。どれだけ流暢に会話できても、僕の本当の声ではない。文字を打つのは僕でも、しゃべるのは兄貴だから、いつの間にか兄貴になりきろうとしてる自分に――なりきっていた自分に、気づいた。音声アプリ使うのを嫌がったら、両親や翔琉は悲しむ。今の平穏のためなら自己犠牲はいとわないって、思ってたのに。今更辞めたい自分に気づいて、嫌だったんだ。だから、辛島さんに見破られて、正直、ちょっと腹が立った』
沢見くんの表情は書いてあることとは逆に、とても穏やかだった。私は謝ることもはばかられて、ただじっと彼の「声」に耳を傾けていた。
『声ってちゃんと、相手に届くよね。でも僕の『声』は、どれだけ頑張っても出ない。だから自分の声でしゃべれる人がうらやましい。どれだけ文字を書くのが、打つのが早くても、生身の会話には到底及ばない。さっきの兄貴の話は、今日の授業中にて書いてたし。
どれだけ会話ぶっても文字の羅列に変わりない。だから、しゃべることのできる人がうらやましかった。すごく、すごく、うらやましかった、けど』
沢見くんはそこでいったん手を止め、思案するように瞼を閉じた。風が笑うようにほほを撫でていく。ゆっくりと瞼をもちあげ、続きを書こうとする沢見くんの手は、小刻みに震えていた。
『今日話を聞いた上級生の彼のように、心の突いてはいけない場所にも、『声』というものが、もし届いてしまうようなことがあるなら。話せなくてよかったって、思っちゃった』
――『生まれて初めて、話せなくてもいいことあるんだ、って思ったんだ』
寂し気に口の端をあげて私を見る、深海のような瞳は、嘘の無い全きもの。
――「しゃべれなくて、いいのに」
過去にそんなことを思った自分を、これほどまでに恥じたことはなかった。
沢見くんはスケッチブックをたたむと、自分のほほで両の口角を上げて見せた。私の反応が鈍いことに気づいて、もう一度、「わらう」と唇を動かして笑って見せる。
そんな気分ではまるっきりなかったけれど、なんとか笑顔を作ってみせると満足したようで沢見くんは大きく頷いた。
話を終えた沢見くんは、お茶缶のプルタブを起こし、一気に飲み干した。そして向こうの方に見えたごみ箱をめがけて缶を投げた。スチール缶は大きな放物線を描き、見事ゴミ箱の中に着地。カランカランとほかの缶にぶつかる音が、公園中に響き渡った。
また、沢見くんはリュックサックの中から購買のクリームパンを取り出すと『食べていい?』と私に断って、頬張り始めた。
私も缶のお茶を一気に飲み干し、沢見くんの真似をして缶を投げてみたけれど、惜しいところでゴミ箱のふちにはじかれてしまった。笑う沢見くんをにらみつけて、ちゃんと缶のごみ箱まで歩いて行って捨てた。
ふざけることは、できそう。それでも、胸に巣食う漠然とした喪失感は、ぬぐえない。
闇夜の碧い雰囲気にのまれ、私の感情はいろんな意味で昂っていた。
「沢見くん」
沢見くんはクリームパンにかじりつきながら、首をかしげた。
「確かに、とっさに出てくる『声』に、『文字を起こす』ことは、敵わないよね。でも沢見くんの言葉は、決してただ文字の羅列なんかじゃないよ。さっきの言葉たちも、沢見くんの『声』として、ちゃんと、届きすぎるくらい届いた。でも、そういうことじゃ、ないんだよね、きっと」
沢見くんはくわえていたクリームパンを噛みちぎると、ゆっくり咀嚼しながら手を下ろした。沢見くんの膝の上にある、角が草臥れたスケッチブックの壁は、私にはどうしたって超えることはできない。
できることなら、沢見くんにも「声」を与えてあげたいけれど、そんな権力も能力も私は持ち合わせていない。だったらせめて、彼の声には、耳を傾けられる人でありたい。
だって、沢見くんは、私だ。
「私は、沢見くんのこと、もっと、もっと知りたい」
自分の声が届かないなんて、諦めてしまわないで。
他人が望む自分だけが「自分」だなんて、思わないで。
自分自身にも言い聞かせるように「声」にする。
沢見くんの咀嚼が、止まる。
握っていたクリームパンに少し力が入って、ガサリと包装の袋の微かな音が聞こえた。また吹いた風が私の頬を撫で、沢見くんの髪を遊んで去っていく。弱弱しい光を放っていた街灯の灯りが、ろうそくのようにふっと消える。
耐えられない試練は与えられない、っていうけど、そもそも試練なんていらない。何不自由なく幸せな人生を与えてくれればいいのに、神様は意地悪だから、私たちの人生には一波乱も二波乱もつきものだ。
そんな困難に直面するたびに、あきらめたくなることは何度だって訪れる。
それでも、人は期待することをやめられない。次こそは、と希望を持ちたくなる。たとえ裏切られるとわかっていても、望みを抱かずにはいられない。
だって、何人も幸せになる権利があるから。誰だって、幸せになりたいから。
「私は、沢見くんがこんなことに心を動かされるのか、知りたい。どんなことに笑うのか、どんなことで涙を流すのか、そういうこと、知りたい。お兄さんを思ってお兄さんのように振舞う沢見くんのことも、お兄さんの影に隠れることを余儀なくされている沢見くんのことも、全部知りたいよ」
(あなたのことが、好きだから――。)
私は逆立ちしたって沢見くんになることはできない。彼が自分の立場をどう感じて、周りにどんな印象を抱いているのかを理解できる日は、一生来ない。私が取り払うことのできない境界線は、他のみんなだってきっと無意識に作っているもので、どれだけ沢見くんが「普通の男の子」であろうとしても、そのスケッチブックを抱えている限り、スマホを握っているかぎり、私たちと沢見くんには異なった人生がすでに決められている。
しかし、どれだけその人になれなくたってその言葉を受け止めて、一緒に背負うことはできる。全部を理解できなくても、お互いに歩みよる努力をすることはできる。
私たちはいつだって、どうしようもなく、手を差し伸べて、隣に座ってくれる「誰か」を、求めているのだ。
「沢見くんの声、もっと聞かせてよ」
初めから何もない人と、後から失ってしまった人とでは、どちらの悲しみがより深いだろうか。
声を持っていた、体育館で絶望を露わにしたあの先輩と、届かない「声」を持つ沢見くんでは、どちらの孤独が大きいだろうか。
天秤にかければ、もう挽回のチャンスの訪れないあの先輩の孤独のほうが大きいように思われるかもしれない。しかし、沢見くんがこれからも絶えず直面する壁は、どれほど高くて、厚いのだろう。
沢見くんの瞳の奥が揺れて、漆黒の空を映すその瞳から星屑が落ちた。白いパンからはみ出た黄色いクリームの上に、スケッチブックの上に、一粒、また一粒と涙のしずくが落ちていく。
寒さからではなく震える沢見くんに、私は立ち上がってそっと腕を回した。拒まない沢見くんは倒れこむように私の肩に頭を置く。初めて抱きしめた男の子は、とても小さくて脆くて、もう少し力を入れるだけで壊れてしまいそうだった。でも、このまま抱き締めていないと、どこかに消えてしまいそうだった。
沢見くんが泣いても声は出ない。嗚咽のような息遣いと鼻をすする音だけが、ちっぽけな空間に響いた。
一頻り沢見くんが泣いた後で、私たちは来た道を引き返した。私が先に歩いて、沢見くんは後ろをついてきた。その間、会話はなかった。二人で俯き、つま先ばかり見ていた。
ただ、改札を抜けてお互い別のプラットホームに立った時、手を振り合った。沢見くんが線路を挟んで向こう側から泣きはらした赤い目で私を見つめ、小さく手を振ってくれたから、私も振り返した。
また、明日。
そんな意味を込めて。
沢見くんがやってきた電車に乗り込むのを見届けて、ようやく肩の力が抜けた。ベンチに腰掛け、空を見上げると、いつもと変わらない星天が広がっていた。
星が、目に入ってきた。
そんな言い訳をして、一人静かに嗚咽を押し殺した。

