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週末に理由もなく、近所を散歩することは時々あった。家にいるとスマホの通知が余計に気になってしまうから、外の空気を吸いながら歩く方がいくらかましだった、との理由で。
でも今日は特に、外出したい気分だった。テレビで梅の見ごろが始まったニュースを見たのと、今朝起きてカーテンを開けたら雪が降っていたからだ。いつもよりも着込んで、雪の上をあるいても大丈夫なようにブーツを履いて出ると、昨日の夜から降り続けていた雪はしっかり積もっていた。この辺はあまり積もることがないから、新鮮で胸がときめいた。
朝食後に家を出て、普段ひとりでは行くことのない都心の方まで足を延ばした。小学生の時に初めてお使いに出かけた時のような緊張感を抱きながら、往来に身をゆだねていた。彼女たちと出かけるときにはあまり景色を気にすることがなかったせいか、見るものすべてが珍しく感じた。昼食にと少し背伸びして、純喫茶を思わせるたたずまいのお店にひとりで入ったのは緊張したけれど、店主の老夫婦はとても丁寧に接客してくれた。シンプルなサンドイッチとデザートのプリン、食後の紅茶でおなかを満たした後は、梅の花が咲き乱れる駅前の公園へ。自動販売機で買った缶のお茶を片手に、ほのかな梅の香りを楽しんだ。
こういう日に限って、いつもなら朝から活発に動くトークルームは静かだった。
午後四時を過ぎると次第に日が傾いてくる。今朝はあんなに積もっていた雪も、お昼を過ぎると太陽でほとんど解けてしまい、道路わきに名残があるばかり。
気温も下がり冷たい風も吹いてきて、そろそろ帰宅しようかと、駅に向かっていた。大きな駅だから人通りも多い。注意していたつもりだったが、運悪く通行人にぶつかってしまった。
「す、すみません!」
 振り返って謝ると、大きな花束が目に入った。真っ白な薔薇が幾本も束ねられていて、もしかして台無しにしてしまったのではないかと、さあっと血の気が引く。
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
相手の方もちょっと大げ沙菜くらい頭を下げると顔を上げて、その人物に私は驚いた。そのひと――沢見くんも私に気づくと大きく目を見開いた。
彼はちょっと待って、と口だけ動かすと、両手で持っていた花束を左腕に抱えなおして、ズボンのポケットからスマホを取り出した。
『ぶつかってしまって申し訳ない』
「いや、私の方こそごめんなさい……あと、すごいきれいな花束だね」
『いいでしょ。今から、墓参りなんだ』
「そう、なんだ。……どこまで?」
 何でもないように言う沢見くんに対して、こちらが気にする方が失礼な気がして尋ねる。
『潮留の方まで。ちょっと遠いけど』
 潮留は海辺の町。ここからは、電車を一回乗り換えて片道一時間はかかる。そこはキリスト教系の有名な共同墓地があるきれいな場所だと、いつかSNSで見たことがあった。土地の関係で土葬はできないが、墓石に花などを手向けることができ、小沙菜教会があったはず。
「ひとりで行くの?」
『そのつもり、だけど。一緒に来る?』
「え?」
 突然のお誘いに素っ頓狂な声を出してしまったが、すぐにからかわれたのだと気づく。沢見くんはいたずらっぽく、右端の口角を上げていた。
『冗談。毎年、僕はこの時間って決めてるから』
沢見くんは、花束を愛おしそうに見つめて言った。
『辛島さんは、お出かけだったの?』
「うん。雪が降ったから、うれしくなって。あと花見に」
 先ほど梅の花を見た公園の方を指すと、沢見くんは「ああ」と理解したようだった。
『辛島さんって、お花好き?』
「え? ま、まあ……?」
『なら、プレゼント』
沢見くんはスマホをポケットにしまうと、花束から一本薔薇を抜き取り私に差し出してきた。
「え、でも、この花……」
誰かのお墓に供えるもののはずだからと遠慮しても、その手はひっこめられる様子もない。
「……本当に、いいの?」
半ば押し付けられるようにして受け取ると、沢見くんは満足そうだった。
「ありがとう。うれしい」
幾重にもなっている花は顔に寄せると、梅とはまた違った、馥郁とした香りが鼻孔をくすぐった。
『それじゃあ、もうすぐ電車の時間だから』
「あ……」
 引き留めて、ごめん。そう謝罪しそうになるのを、沢見くんが止めるようにこちらを見てくるから、慌てて口をつぐんだ。
「気を、付けてね」
『ありがとう。じゃあ、また学校で』
「うん。また、学校で」
 沢見くんは手を振って、改札の方にかけて行った。
(さて、私も帰ろう。)
 そう思って歩き出すと、ふと、足元に深い青色の財布が落ちているのを見つけた。拾い上げると隅の方には「Kouga.S」の刺繍がされていた。さっき沢見くんと話している時には気づかなかった、落とし物らしい。近くの交番に届けようと拾い上げると、大量のカード類がバラバラと落ちてきた。飲食店や雑貨屋、ドラッグストアのポイントカードがほとんどで、病院の診察券なんかも混じっていた。カード入れに収まりきらなかったカードには「沢見幸雅」と刺繍と同じ名前が書かれていたが、一緒に落ちた学生証には――沢見亮雅と記されていた。それは私の通っている高校のもので、私が持っているものと同じだった。
どうやら沢見くんは財布を落としていったようだ。すぐに連絡しようと思ったけれど、沢見くんとは連絡先を交換していない。メッセージアプリを開いて、学年のトークグループから沢見君くんを探し出し、友達追加してメッセージを送ってみた。
『沢見くん 辛島です。財布おとしてませんか? 多分沢見くんのものだと思うので渡したいのですが……さっき会ったところで、待ってます』
三十秒、一分、二分と待ってみるけれど、既読がつかない。茜色が夜の気配に追い立てられて消えていくように、どんどん焦りも大きくなっていく。
私は思い立って改札へ急いだ。
潮留まで行く、と言っていた。
改札頭上の電光掲示板に表示された電車の発着状況を確認すれば、潮留への乗り換え地点となる栄街までの電車が来るまで、あと五分となかった。
私は急いで改札を抜け、プラットホームへ駆け下りる。大きな花束を探すけれど、土曜日の夕方は人が多くて中々見つからない。構内アナウンスと共に電車が入ってくるのが見えて、必死にあたりを見回すけれど、沢見くんの姿はない。スマホをもう一度確認するけれど、やっぱり既読はつかなかった。
私は意を決して、扉が閉まる寸前で電車に飛び乗った。扉にもたれ、肩を上下させながら、呼吸を整える。念のためもう一度スマホを確認しても、沢見くんは私のメッセージに気づいていないようだ。
『栄街行きの電車に乗りました。潮留行きの電車が来る前に、ホームで会えませんか?』
メッセージを追加で送り、ようやく一息つきかけたところでハッとする。ずっと握っていた薔薇は、形は心なしか風を受けて、きれいに丸かったのが歪んでしまったように見えた。慌てて手で丸く囲むように花弁を整えると、沢見くんからもらった時のように元どおりになり、安心する。
全力疾走したせいで全身がしっとりと汗にぬれている。ハンカチで額の汗をぬぐい、落ち着いてから、乗り換える駅での電車の時刻表を検索した。どうやらこの電車が栄街駅に着いてから、潮留駅に向かう電車が来るまで、三十分ほど待ち時間があるらしい。
 沢見くんと同じ、名前に「雅」の字を持つ「本当の」財布の持ち主は、きっと沢見くんにとっての大事な人に違いない。
(もしかして、花束の送り相手、だろうか……。)
 ぼんやり車窓から外を眺める。日はすっかり西の空に沈み、濃紺の空にはよくよく見上げると星が瞬いている。煌々と照明を点ける高いビルの間を抜けて、あたたかな灯りのともる住宅街を通りすぎる。人影は夜闇にまぎれてよく見えない。真っ白の薔薇はそんな背景に良く映えた。
電車に揺られること四十分、目的の栄街駅に到着した。駅構内にはうどん屋さんと喫茶店が入っていて、待合スペースも充実している。 
アナウンスとともに開かれた扉から下車する。花束を抱える少年がいないかあたりを見回すけれど、見当たらない。
乗ってきた電車に次の乗客がのりこんで、ひとが捌けてからもう一度探していたら、ベンチに花束を置いて、体中を触り何かを探している様子の人を発見した。
「沢見くん!」
駆け寄って声をかけると、沢見くんは勢いよく私を振り返った。
「これ、だよね。探してるの」
手に持っていた財布を差し出すと、沢見くんは心底安堵したように、大きく息を吐いた。私から財布と受け取ると、何度も頭を下げてきた。
『申し訳ない。本当に、本当に、ありがとう』
「ううん、届けられてよかった」
『ありがとう。本当に。失くしたら、やばかった』
 財布の中身を心配していたというよりも、財布自体が見つかったことに喜んでいるようで、私も胸をなでおろす。
沢見くんはもう一度ありがとう、と言うと喫茶店で何か私におごることを考えていたようだが、断った。それでも『お礼がしたい』と言って食い下がるので、自動販売機のお茶を買ってもらうことにした。
「じゃあ、遠慮なく。いただきます」
 ありがとう、といえば、また「違う」と指摘されるからそう答えた。沢見くんも同じお茶缶のボタンを押した。
財布も渡したし、お茶ももらって。けれど、戻る電車が来るまでまだ時間があるし、潮留行きの電車もまだ来ない。
日中に比べれば随分気温は下がってきたようだが、この辺はあまり風がない。代わりに、じっとしているとじわじわと地面から冷気が上がってくるのを感じる。待合スペースや喫茶店の中も暖を求める人でいっぱいで、手持無沙汰な私たちはホームの空いていたベンチに腰を下ろした。買ってもらったお茶缶のプルタブを起こし、ほわほわと立つ湯気と一緒にお茶を飲むと、体の内側から寒さにこわばる身体がほぐれていくのを感じた。
『財布、死んだ兄貴のものなんだ。だから、本当に助かった。ありがとう』
 今日何度目かの「ありがとう」。沢見くんは今しがた私が返した財布を膝の上に置いて、名前の刺繍をそっと指でなぞった。深い青の布地の財布。「見て」と差し出されて、顔を近づけて見れば、ピーコックグリーンの糸で縫われた名前は、よく見れば花びらを模していた。とても細かい刺繍に感嘆する。
「すごい、綺麗」
『でしょ。器用だったんだ、兄貴』
誇らしげなのに、悲しそうに笑うから、兄弟の仲がどんなものだったのか容易に察せられた。
『生まれつきあんまり体が丈夫じゃなくて。学校も休みがちだったけど、前向きな明るい性格で。手先も器用で、いつも弟の僕に優しくて、自慢の兄貴だったんだ』
(でも、亡くなってしまったんだろう。)
 反対側の席に置かれた花束は、その向こう隣の席までに及ぶ大きさで、沢見くんは一輪の薔薇の花弁をなでていた。純白、とよぶのがふさわしい、真っ白な薔薇。私の手元にも一輪同じものがある。
 沢見くんは、思案するように瞼を閉じて、そしてゆっくり開けた。
『被検体って、話をしたの、覚えてる?』
 私が沢見くんのスマホを壊した翌日。新品を弁償するといったら、沢見くんはそんなことを言っていた。頷くと沢見くんは続けた。
『この読み上げソフトの声は、あの人が作ったもので……実はサンプルは、僕の兄貴の声なんだ』
 パソコンに向かう、あの上級生を思い出す。
『だから、被検体。僕が日常的に使ってみて、違和感があれば都度報告して、細かい修正を加えてもらって。僕が自分の『声』として使ってあげる変わりにスマホの代金を払ってもらってる。そうやって、この流ちょうな音声が出来上がったんだ』
(使って、「あげる」……?)
含みのあるそのいい方に、疑問が頭をもたげる。
『スマホがなくたって、僕は平気なんだけど。家族がさ、兄貴の声があると安心するから。保健室にまだ残ってたあの人に、辛島さんのスマホにアプリ入れてもらって、翌日までに新しいスマホ用意してもらったんだ』
「それって……」
 はっと口を両手で抑える。思わず口走りそうになった言葉を飲み込むけれど、沢見くんは聞き逃さなかった。
 沢見くんは「しゃべらない」。でも、続きを催促するように視線をこちらに向けていて、隣を見ることができない。ほかの話題に移そうにも圧力を感じて、私はゆっくり開口した。
「……沢見くんは、お兄さんの声でしゃべるのが、嫌なの?」
 大切な人をなくす悲しみは計り知れない。話を伺うに、あの上級生と沢見くん兄弟は長い付き合いなのだろう。本人亡き後、その肉声を使って沢見くんの「声」を作ってしまうほど。
 けれど、沢見くんの口ぶりからは、行き過ぎた「愛情」のようにも聞こえてしまった。
 私も、親しいひととして、小学校中学年のころおじいちゃんを亡くした。元来健康そのものだったおじいちゃん。つい一週間前に会いに行ったはずなのに、あっけなく心筋梗塞で亡くなった。お通夜、告別式、納骨から四十九日まであっという間で、思い出に浸る私たちをあざ笑うように時間はどんどん過ぎて、その記憶を薄れさせようとする。だんだんとおじいちゃんの声や顔、においを忘れていくことに慣れようとしている自分が、怖く感じていた。居ると思って会っていないのと、居なくて会えないのとでは、こんなに違うのか、と。
普段の生活を一緒にしていなかったおじいちゃんにさえ、そんなことを思ったのだ。ましてや、生まれた時から共に生きてきた同胞がいなくなる喪失感は、私の想像を絶するものだ。私ごときがとやかく言えたものではないことは承知している。
けれど、沢見くんのその言い方に、違和感を覚えた。
 本当に自らも「兄貴の声を使いたい」と望んでいるのであれば、それでいい。故人との思い出を大切にするための手段として、理にかなっていると思う。人間は誰かが亡くなると、その「声」を一番最初に忘れるというから。
でも、家族思いで優しいんだね沢見くん、とは、思うことができなかった。
「スマホが壊れて欲しかったのは……沢見くんの方、だったの?」
 ざあっと、突風が吹いた。反対車線に、電車が入ってきた。とっさに花弁を守るようにうずくまる。沢見くんの席の向こう側では、ラッピングからむき出しになっていた部分が風にあおられている。ばさばさと大きな音を立てながら、花弁が数枚ひらひらと風に乗っていくのが見えた。
『言うね』
 ずん、とその言葉が胸に響いた。怒りと、失望と、憎しみ、そんなものが聞こえた。
 沢見くんはスマホから顔を上げなかった。
 どれくらいの間、沈黙していたか、わからない。気が付いたら左手から電車が入ってくるのが見えて、ここが電車の最後尾の方なのだということを理解した。電車のライトがまぶしくて、目を細めていたら「はああああ」と大きなため息が隣から聞こえて身を固くする。沢見くんは座ったままで体を折り曲げると、ばねのように直った。
沢見くんはゆっくりと立ち上がって、少し形の崩れた花束を両腕に抱えた。
『いったん持ち帰る』
「……え?」
『送れなくて申し訳ない。気を付けて帰って。財布もありがとう』
 捲し立てると、沢見くんは電車に乗り込んだ。
私が何か言う前に、電車の扉が閉まる。沢見くんはこちらに背を向けて立っていた。
電車はどんどん加速して、駅を去っていった。だんだんと小さくなって、やがて車体が見えなくなるまで、私は呆然と佇んでいた。