「ずっと、好きでした」
 そんな言葉が、私の向かおうとした方向から聞こえてきたものだから、思わず身を隠した。
みんなそれぞれに予定があるからと今日は教室で解散になって、私はなんとなく帰りたくなくて、図書館にいた。適当に手に取った小説が面白くて、気づいたら時間がたっていた。
私の教室は、この角を曲がったところだったけれど、遠回りしようと階段を下りるところだった。告白の現場になっているのは、その階段の踊り場だ。
「付き合って、もらえませんか」
本当なら人の恋路を覗くような野暮な真似はしない。でも告白していた女の子の声に驚きを隠せなくて、その場から動けずにいた。だって、沢見くんに告白しているのは――サエリだったのだ。
好きな人がいるなんて、知らなかった。今までだって、誰が気になっているとかそんな素振り、他の三人と違って一度も見せたことがなかったから。
これはたぶん、知らないふりをした方がいいに違いない。変に結末を知ってしまって後々ぼろが出るよりも、何も知らずにこの場で立ち去るのが吉だ。
しかし、思い直してまっすぐ教室に戻ろうと決意したところで聞こえた男子の声に、足を止めてしまった。
『ごめんなさい』
告白されている男子は陰になって見えない。でもその「声」は確かによく知る――沢見くんのものだった。
『気持ちは、うれしいです。ありがとう。でも、申し訳ないけど、僕には応えられないです』
「……それは、佳純のことが、好きだから?」
問いかけるサエリの声は、震えていた。
それに対する沢見くんの答えは、
『秘密、です』
と、シンプルだった。サエリはその顔に落胆の色を浮かべていた。
沢見くんがどんな顔をしていたのかは、分からない。サエリはしばしの沈黙の後、「気持ち、聞いてくれてありがとう」と告げると、階段を下がっていったようだった。
上がってこられたらまずかった、とほっと胸をなでおろす。
束の間、沢見くんが現れたから、驚きで叫ぶ前に口を急いで覆った。当の沢見くんも相当驚いたようで、声は出ないものの、これでもかというほどに目を見開いていた。
「……ご、ごめんなさい」
とりあえず謝罪を述べて、頭を下げた。
「全く、盗み聞きするつもりはなかったんだけど、本当に……ごめんなさい」
いっそこのまま消え去りたい。ぎゅっと目をつむって待っていると、『辛島さん』と呼ばれた。
「場所、移さない?」
教室を目指して歩く沢見くんの、少し後ろをついていった。
私の席は廊下側の真ん中、一番後ろ。沢見くんはその隣。
 二人で腰かけても、しばらく沈黙は続いたままだった。
 二月の日の入りは早い。特に七時間目まである日なんかは、ホームルームが終わると、太陽は地平線にその名残だけがあって、すっかり夜のとばりが下ろされている。蛍光灯のついた教室の窓からは外の様子は見えない。代わりに、私と、そして沢見くんの姿が映っていた。沢見くんは頬杖をついて黒板を見ていた。
 私はサエリに思いをはせていた。
全部を知っているから「友達」で、何か一つでも知らないことがあれば「友達じゃない」なんてことは言わない。私だって、沢見くんとのことを黙っているように、みんなにすべてを見せているわけでもない。今までのみんなの態度を見て、サエリが誰にも秘めた恋心を打ち明けないと決めていたのならそれでもいい。ショックはなかった。
ただ「自分はまた同じことをやってしまったのか」と、そればかり考えていた。
「沢見くん」
 私は、机の上で祈るように手を組んだ。
「私、チョコレートが苦手なの……って話、前にしたと思うんだけど」
 沢見くんが私の話を聞く態度になったのが分かって、徐々に緊張してくる。けれど、不思議な安心感もあった。
「昔はね、好きだったの。普通に、食べれた。……バレンタインデイだって、楽しみだった」
――小学六年生、まだ私が本当の意味の絶望を知らなかったころ。仲良しだったグループのメンバーは私を含めて六人、内三人がある人気ものの男の子――もう名前も忘れてしまった――Aくんのことが好きだった。
 私は席替えで隣になったことから、グループの中でも最初にAくんと仲が良くなった。当時、好きな本のシリーズが一緒だったことが理由としては一番大きかったと思う。Aくんはかなりの読書家で、私の知らない知識をたくさん持っていて、その話を聞くのが、純粋に楽しかったのだ。
 でも、私のAくんに対する感情に、恋のようなものはなかった。断じて、全く。知らないことを教えてくれる、むしろ先生のような存在として接していた。
 だから。
「佳純ちゃんには相談するけど、わたし、Aくんのことが好きなの」
恋の相談をされたとき、心から応援できたし、友達の助けになりたいと思っていた。
類は友を呼ぶという様に、同じグループにいるということは、それなりに趣味嗜好に似ていたようで、同じ相談を他の二名からも受けた。
「佳純ちゃんのこと、信頼してるから」
「佳純になら、相談できるの」
 そういわれてしまえば、子どもの自尊心というのはむくむくと大きくなって。
 人の顔色を窺って、考えを先回りしてしまう癖は、元来の性格だった。みんなの輪が崩れないための自分の立ち回り方を探していたら、いつの間にか「いい子」のレッテルを貼られていた。
いい子だね。
優しいね。
ありがとう。
その言葉が嬉しくて、その言葉をもらえる努力は、していた。
三人それぞれから受けた相談も、決してほかの人にもれないように細心の注意を払ったし、それぞれがうまくいくように平等にAくんの情報を提供した。自分の行動は感謝されているのだと、信じて疑わなかった――あの日、緊張して顔を真っ赤にする、Aくんを目の前にするまでは。
それはバレンタインデイの数日前のことだった。
図書委員の作業を終えて帰ろうというときに、Aくんが私を呼び止めて言った。
「辛島さんのことが、好きなんだ」
 いつも自信ありげに話をするAくんが緊張をあらわにしていて、私は静かに絶望した。
三人にあげたAくんの情報――誕生日、好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きな本、好きな言葉、好きなスポーツ選手、将来の夢……――は、私がグループの中で自分の居場所を担保するもの。それが全部、一瞬にして泡と化した。
Aくんは、私のことが好きだった。
この事実が知られてしまっては、みんなの信用を、そして自分の居場所も失ってしまう。何としてでもそれは避けたい。けれど、私とAくんを通して、私のグループと、Aくんのグループの交流も増えていて、修学旅行の自由行動を一緒ほどの仲を、どうやって壊さずにいられるか、最善策を見つけることができなかった。
 私は勝手に、橋渡し役としての自分の適性を見出していた。
 だから、Aくんの矢印が自分に向いていることに気づけなかった。
「ごめんなさい」
Aくんにはみなまで言わさず、私はその場を走り去った。トイレに駆け込んで、お昼に食べたカレーの残骸のようなものと、胃酸を吐き出した。ようやく落ち着いたときにはAくんはとっくに帰宅していて、日もすっかり暮れていた。夜道を歩きながら、泣きながら帰った。
翌日登校すると、Aくんは私を無視するようになった。私のグループの他の子とは普通に会話すれど、明らかに私のことを避けた。みんなに何があったのか不思議がられたけれど、私は本当のことは言えずに、ただ「委員会で怒らせてしまった」とだけ答えた。
そして迎えた、バレンタインデイ。みんな持ち込みを禁止されているチョコレートをこっそり体操着入れやランドセルに詰めて登校していた。思い人がいる子たちは、直接チョコレートを渡したり、靴箱や、机の中に入れたりと、それぞれのやり方でチョコレートを渡していた。私に相談を持ち掛けてきた三人も「告白するんだ」と意気込んでいた。私はそれぞれが誰を思っているのか知らないふりをして、送り出した。
話があるんだけど、と呼び出されたのは、まだほんのりバレンタインデイの余韻が残る翌日。私を呼び出したのは一人だったけれど、着いていった場所にはあと二人いた。彼女たちは、私にAくんのことで相談していた、三人だった。
嫌な予感程、当たるのだ。三人を前に胸がざわめいて、手先の感覚がなくなっていった。口の中が渇いて、呼吸が苦しくなっていった。
 二月のその日は風があって、一段と寒かった。セオリーどうり、私たちは体育館裏で対峙していた。
「どう言うことか説明してくれる?」
 私に心当たりがあることをわかっているような口ぶりだった。三人の顔はみんな同じように、失望と怒りと、そして憎悪に満ちていた。
「ごめんなさい」
 とっさに謝った。とりあえず謝罪は口にしなければと思った。頭を深く下げて、ただ謝った。しかし、彼女たちは受け入れてくれなかった。
「なんのために謝ってんの?」
 なんのためにと言われても、なんと答えていいのかわからずに、ひたすら黙ったまま頭を下げ続けていた。
「私は、佳純を信用していたんだよ」
 その言葉は私の自尊心を粉々に砕くのに、十分すぎた。私が何より欲した言葉が、全てが過去形になってことを示していた。
「それなのにさ、こんなことってなくない?」
 声が震えているのに気づいて顔を上げると、彼女は泣いていた。唇を噛み締めて、強く拳を握っている姿はみな同じだった。三人の視線が肌を焼いていくようで、ピリピリと痛かったのをよく覚えている。
 でも私は他に言葉を知らなかった。いくら自分の辞書の中に探してみても、その場をうまく切り抜けるための言葉が見つからなかった。
 一人がポケットの中から、昨日私があげたチョコクッキーを取り出した。それに続いて後の二人も同様に同じものを手にしていた。そして三人で目配せすると、それを思いっきり地面に叩きつけて、踏みつけた。クッキーは音を立てて割れ、粉々に砕かれた。ラッピングの袋は破れ、リボンは土で汚れていった。
「裏切りもの」
 そう吐き捨てて、彼女たちはその場を後にした。残されたのは私と、そして食べられなかったクッキーたち。風に吹かれて砂埃と一緒に黒い小麦粉の塊が宙に舞い、甘い香りが漂った。私は泣きながら、クッキーの破片をかき集めて、ごみ箱の中に捨てた。
 あとから聞いた話だと、私はあの三人のことが嫌いで、実らない恋を掴ませた詐欺師に仕立て上げられていた。自分の「いい子」を振りかざして、Aくんに色目を使い、彼女たちのみならず、全く気持ちのないAくんまでも陥れる、悪女であると。
私だって反論を試みなかったわけではない。けれど私が声を上げたところで、Aくんと、三人の友人を傷つけた事実は変えようがなかったから、どうすることもできなかった。
その日から、私の居場所はなくなった。グループから省かれ、「裏切りもの」として、残りの学校生活を送ることになった。
それ以来、しばらくはチョコレートを見ると吐き気を催すほどだった。今はだいぶマシになり、見る分にはいいけれど、口に入れることはできない。チョコレートに触ることができない。
だから、今回チョコレートのお菓子を作ることも、できなかった。
「今の私にとって、チョコレートは友情を壊したものっていう印象が強く、残ってて……苦手、なの」
 チョコレートからしたら、いい迷惑だと思う。ただいつの間にか、お菓子メーカーの企業戦略によりバレンタインデイにはチョコレートを渡す、のが広まっただけで、個人の理由で勝手に縁起が悪いと嫌われて。
今日だって。誰かにもらわれるはずのかわいらしいチョコレートの箱は、私のせいで行き場を失ってしまった。食べてあげられたら、一番いいのだけど。
『それは、僕に対しての、予防線だったりする?』
 かいつまんで私のチョコレート嫌いの経緯を話したことに対する反応が、あまりに予想外で隣を振り向くが、沢見くんはスマホから顔を上げない。
「え、あの……」
 うぬぼれているわけではないが、そういう意図がなかったわけではない。今朝の彼女たちのやりとり、そしてサエリの本心を知ってしまっては、沢見くんにそのつもりがなかったとしても、私から最低限のラインを提示すべきだと思った。
(おこがましいのは、わかっているけど……。)
 しかし、私の言葉以上に、本人に伝わっていることが分かって、驚いた。
『冗談、謝らないで』
 口癖のようになっている「ごめん」という言葉を封じられる。喉まで出かかったその言葉を飲み込んで、沢見くんが続きを言うのを待った。
『辛島さんのことを、どう思ってるかを彼女に言わなかったのは、自分の辛島さんに対する気持ちは、わざわざ他人に言うことではないと思ったからだよ。だから、僕が辛島さんのことをどう思ってるかは、辛島さんにも、秘密です』
 沢見くんはいたずらっぽく笑ってみせた。
「なに、それ」
『だって、何を言う前にくぎを刺されてしまったら、もう何も言えないじゃん。ずるいなー、辛島さんは』
「そ、んなこと、言われても……」
 この場を和ませるための、軽口だってわかってるから、私も笑いながら返した。
 教室の掛け時計より少し上にあるスピーカーから、最終下校時を促す放送が流れる。「ほたるのひかり」が、良いとは言えない音質でそのあとに続いた。
『帰ろうか』
 沢見くんは立ち上がって、大きく伸びをした。
『辛島さんは、駅まで?』
「うん。沢見くんも、だよね?」
 登校中、何度か反対路線の車両から出てくるのを見かけたことがあった。
『そう。一緒に帰ろう、と言いたいところだけど』
 首をかしげると、沢見くんは気まずそうにした。
『そんなこと言ったら、困らせる、よね?』
あのチョコレート事件から卒業までの時間は、ほぼ一人で過ごすことになり、卒業アルバムの寄せ書きは真っ白だった。それからお父さんの仕事の都合で転勤が決まり、私は逃げるように十二年間過ごした土地を後にした。
あんな思いをするくらいなら、「私」を他の人に決めてもらった方が、間違いは起きない。みんなの思う「私」と違う「私」だったから、嫌われてしまった。私は自分をそう結論付けて、それからの日々を他人に言われるがまま歩んできた。
自分の気持ちなんて、外に出さない。だって、災いしか起こらないから。
出しゃばらずに、つつましく、おとなしくしていればいい。
そう思っていた――のに。
「沢見くんさえよければ……一緒に、帰りませんか?」
 このつながりだけは、絶対になくしたくないと願ってしまった。
『じゃあ、帰りましょ』
ロッカーにかけてあったコートを羽織り、教科書を入れたスクールバッグを背負う。手にもってチョコレートの箱の入った紙袋がやけに重く感じた。
『辛島さん』
 すると、沢見くんは私からその紙袋を、取り上げてしまった。
『よければこれ、僕にくれない?』