チョコレートのにおいで学校中がむせ返る日は、バレンタインデイ以外にないだろう。
教室は朝からチョコレートの匂いでいっぱいだった。女の子の机のかばん掛けにはチョコレートのお菓子の入ったトートバッグや紙袋なんかが、スクールバッグと一緒にかかっている。
友チョコの交換でにぎわっている教室の中、男子がそれを眺めながらそわそわしているのは、何となく雰囲気や視線で分かる。
私たちも登校して朝のホームルーム前、友チョコの交換をしていた。
沙菜はガトーショコラ、もも恵はカップケーキ、サエリは生チョコレートで、奈々未はトリュフ。いずれもすべて手作り。
でも、私は。
「あれ、佳純からは手作りないの?」
「実は、大失敗しちゃって……」
「うそー、佳純って器用そうなのに」
「佳純って案外不器用なんだね」
「それで市販の、チョコ?」
「ごめん、ね……」
 友チョコは手作りで、そう約束していたはずなのに。不服そうに含みを持たせた言葉が、心の柔らかいところに突き刺さっていく。自分で蒔いた種なのは重々承知しているけれど、どうしてもチョコレートを使ったお菓子を作ることができなかった。
「まあ、向き不向きあるし。仕方ないよね」
「失敗したもの送られても、お互いに気まずいだけだし」
(よかった。なんだかんだ受け入れてもらえそう。)
 少しだけ気を緩めることができた私は、持ってきた手提げの紙袋の中からチョコレートアソートの箱を取り出す。
「ごめん……で、でも、このチョコ、かわいくて……」
「佳純の気持ちは伝わってる」
 けれど、私の言葉にかぶせるように待ったをかけたのは、サエリだった。思わず箱を持つ手に力が入って、嫌な音がする。
「だから、ホワイトデイのお返し、期待してるよ」
「え……」
サエリの態度に、周りも同調して「そうそう」と口々に言う。
「確かに。せっかくなら、佳純の手作り、食べたいし」
「そうだね。ホワイトデイのお返しに期待ってことで」
 ていうか佳純ってお菓子作り苦手なんだね。佳純は結構いろいろそつなくこなすと思ってたけど。でも、佳純がもう少し身近に感じて嬉しいかな。
 そんな言葉に、身体がこわばっていく。
「……みぢか?」
 聞き返すと、サエリは「あ、悪い意味じゃなくてね」と弁解する。
「だってなんか、佳純ってさ、いい子すぎるっていうか」
「確かに。例えるなら、マリア様的なポジション?」
「あ、わかるー」
「……そう、かな?」
 私をほめそやすような言葉を並べているけれど、どうやら私が用意したチョコレートは受け取ってくれないらしい。手に持っていたチョコレートの箱は、そのまま紙袋に戻した。
(こんなことなら、吐いてもいいから作るんだった。)
 教室に充満した、甘い匂いに気が滅入る。何もあげないのも反感を買う気がして、変わりのものを用意したのに、受け取ってもらえなかった。
このグループに所属して初めて、本当の意味で間違えた。その事実が胸に突き刺さって、うまく呼吸ができなくなる。
 奈々未が先輩にチョコレートをあげると惚気ているのも、もも恵が今日は絶対に告白すると意気込んでいるのも、沙菜が浅田にあげろとみんなにからかわれているのも、どんどん遠ざかっていく。口の中から乾いたような笑いがでて、それが自分から発せられたものでないみたいだった。
 だんだんと呼吸が浅くなって、みんなの顔を見るのが辛くなって、少しずつ視線が下りてしまう。底知れぬ海の中におぼれていくように、周りの音がぼんやりとして、息が苦しくなってくる。あからさまな態度を出してしまったら、次は何を言われるかわからないのに。
(……怖い。)
 そう思った時だった。
『辛島さん、おはよう』
 沢見くんの声が、海底の中にさす一寸の光のように、私を浮上させる。
「おは、よう……」
 保健室で話をした後、朝登校したら「おはよう」とあいさつを交わすようになった。授業合間の休み時間にも、少しだけ話をするようになり、帰りには「また明日」と手を振り合うようになった。彼女たちの目を盗んで積み重ねる沢見くんとの交流は、いつも人の悪意を目の当たりにしなければならない私にとって、とても純粋で宝箱にしまっておきたいような、やり取りだった。
 そんな私と沢見くんの応対を初めて目の当たりにした彼女たちは、あっけにとられているようだった。
 沢見くんが『みなさんもおはよう』を彼女たちにも挨拶して、どこからともなく現れた友人たちに攫われていったあと、「ねえ」と語気を強めに声をかけられて、私はまた小さくなった。
「沢見といつの間に仲良くなったの?」
 今までの嘘までも探られそうな剣幕でサエリに尋ねられて、私は怖気づきながらもこの時のために用意していた返答をした。
「お菓子をお礼にもらった時から、少し話すようになって……」
「え、てことはさ、沢見にはチョコあげるってこと?」
 もも恵の発言にぎょっとして、慌てて否定する。
「そんなわけないよ。ただ隣の席になって、挨拶するってだけなのに」
 これは「本当」だった。一瞬沢見くんにチョコレートをあげることも脳裏をよぎったけれど、彼女たちに手作りを上げられない手前、そんなことはできなかった。
「私が持ってきてるチョコ、数えてもいいよ」
「いや、別にそこまではしないけどさ」
「まあ、だって、佳純の仲ではナシなんだもんね」
「そ、そう、だね……」
「ふーん、そう」
 奈々未のフォローに曖昧に答えると、みんなはそれで一応納得してくれたようだったが、サエリだけはなんだか腑に落ちないとでもいいだけな様子だった。
「サエリ、どうしたの?」
 沙菜もサエリに気づいて声をかけるけれど、サエリは「なんでもない」とそっけない返事をしただけだった。普段と違うサエリの態度が気になって、私もサエリを見つめ返したけれど、そっぽを向かれてしまっただけだった。