(ここに来るのは、二度目。)
保健室と書かれたホワイトボード、どこにも保健室の先生の不在や在室を告げる文字は見当たらない。
三回ノックをしてみても、中から声は聞こえない。二回、深呼吸を繰り返し、「失礼します」と声をかけて扉を引くと、いとも簡単に開いた。鼻を抜けるラベンダーの香り。中央のテーブルには花を生けた花瓶があり、奥のベッドのカーテンは二つとも空いていた。もちろん、先生もいなかった。
事態を聞きつけた担任が帰宅の準備を整えて、沢見くんに早退を促したというのは帰りのホームルームで知ったことだった。
でもなんとなく、まだ学校のいるのではないかと思った。もしまだ居たら、話がしたかった。あの視線の意味を知りたくて、あの後は授業どころではなかった。それに――手に握りしめたペンに視線を落とす。
体育の授業が終わって更衣室に戻るとき、床に落ちたボールペンを見つけた。体育着のズボンにすっかり収まるサイズのそれは、沢見くんが持っていたものに似ていて、それを口実にやってきたのだ。今日は一緒に体育館での授業だったし、同じクラスだし、必要だと思って、といくつか理由を用意してきたのだが、肝心の本人がいないでは意味がない。
運よくいたとして、私の問に答えてくれる保障があるわけでもなく、むしろ私自身問いかける勇気さえ、本人を前にしてなくしていたかもしれないけれど。
いずれにせよ、かけは私の負け。
(ペンは、明日渡せばいいか。)
 ほっとしたような、残念のような、複雑な感情を胸に抱き、帰ろうと踵を返した時だった。
「ねえ」
 右の奥、パーテーションで区切られた一角から、呼ばれて振り返る。椅子を引く音が聞こえて、中から出てきたのは一人の男子生徒だった。切れ長の目が印象な、すらりと背の高い人、上履きの赤ラインは、彼が一つ年上であることを示していた。
「亮雅なら、こん中」
 顎をしゃくってそれだけ言うと、また戻ってしまう。そのまま佇んでいたら、パーテーションの向こうからもう一度顔を出したから、ついて来いという意味なのだと分かり、私はその華奢な背中の後を追った。
 パーテーションで区切られた中には、大きめのテーブルがあって、その上にはその人の持ち物であろうパソコンと、その他機材、あと教科書が雑多に積まれていた。座ってパソコンに向かったその人は、視線で横の扉を指した。
 扉表札には「暁の間」と書いてある。その名前は、毎月の学校通信に掲載されているコラムの題名だと同じだった。
 この学校には保健室の先生とは別に、カウンセラーの先生が週三回学校に来ている。そのカウンセラーの先生がいる場所が「暁の間」だ。保健室で予約をすれば、カウンセリングとは別に、先生がいなくても部屋を使えるという話を聞いたことがあるけれど、実際に使っている人がいることは知らなかった。
 しかも、沢見くんが。
この中に、沢見くんがいるのだろうか。確認のためにもう一度、案内をしてくれた彼を見てみても、もう我関せずというようにパソコンに向かって、何か作業を始めていた。
 軽くこぶしを握り、ノックしてみた。
 扉はすんなり開いて、出てきたのは沢見くんだった。私を映す瞳はみるみる内に大きくなり「どうして」と顔が驚きを物語っていた。沢見くんの視線がちらと私の背後――パソコンに向かう彼を確認して、はあ、とため息を吐く。
(迷惑、だったかな。)
 自分らしくない行動に今更後悔して後ずさると、待って、と沢見くんの唇が動いた。
『時間が良ければ、話を、させてもらえませんか?』
 制服のポケット方取り出されたスマホから流れる声音はいたって普通だったけれど、彼の表情から縋るようなものを感じて、私は頷いていた。
 暁の間にはローテーブル、そして一人掛けのものと、四人ほどが腰かけられそうな大きなソファーが二つ置いてあった。ソファーの向かいにはテレビと、DVDプレイヤーもついている。そして、壁一面の本棚にはたくさんの本と、漫画が立ててある。
『どうぞ、かけて。お茶とかは出せなくて悪いけど』
 沢見くんが一人掛けのソファーに座るので、私は大きいほうのソファーに腰を下ろした。
会いに来て、沢見くんがいてくれたのはよかったけれど、やっぱり私から話を切り出す勇気はなく。掌に握っている口実さえ、うまく声にならない。
話があると言っていたのは沢見くんだから、ここは彼が話し出すのを待ったほうがいいのだろうか。そもそも、私の発言権などあるのだろうか。
 沈黙の中、私がいろいろと考えている目の前で、沢見くんはずっとスマホの画面から目を離さない。さっきから文字を打っては消して、打ってはは消してと繰り返すばかり。
 勝手な思い込みだが、なんとなく、周りの人はみんな、悩みらしい悩みなんてないのではないかと思っていた。「友達」と呼べる沙菜たちに対してこんな醜い、後ろ暗い感情を抱いて、苦しい思いをしているのは、私だけなのではないか、と。
沢見くんも「周りのひと」の例にもれず、学生生活を謳歌しているはずだった。私を何度か助けてくれる性格の良さはもちろん、だれとでも打ち解けられるほど社交性も高く、友達にも恵まれているようだったし。いっぱいしゃべって、いっぱい笑っている姿をよく見かけた。
だから、こんな部屋を使うようなひと――精神を病んでいるようなひとではないと、勝手に思っていた。
「ごめん、なさい……」
 懺悔のようなつぶやきが、もれる。
『それは、何に対して?』
 沢見くんは、純粋に疑問だという顔で私を見た。責めるようなものではなく、私の真意を知りたい、とでもいうように。彼はスマホの画面を落として、私の話を聞く姿勢をとった。
 私は沢見くんの顔を見ることができなかった。
「暴くような、真似を、してしまった……ような、気がして」
 人間は、他人を「型」にはめて見ることがある。それが良いことなのか、あるいは悪いことなのかどうかはわかりかねる。私は少なくとも、その「型」に安心を見出しつつも、苦しさを覚えるから、自分は他人をそういった色眼鏡で見ないように努めていたつもりだった。
 けれど、沢見くんに対して、確かに偏見を持っていた。それに結局、自分が友人だと呼んでいる彼女たちに対してだって「どうせ自分の話を聞く気がないだろう」と決めつけて、発言することをあきらめてしまっている。そのことに、意図せず気づかされた。
『辛島さんなら、大丈夫』
 思いもよらぬ言葉に、沢見くんを見る。
『もとはといえば、自分で教えたようなものだし。でも、辛島さんなら、大丈夫です。暴かれたなんて思ってない。むしろ、謝るのはこちらの方で。なんなら、ありがとうって、思ってます』
「どう、して……?」
 言い淀んで、今度は沢見くんが私から目をそらす。
『アーモンド、本当は苦手でしたか?』
 喉元に鋭い何かを当てられたように、息をのんだ。
沢見くんはどうやら、私がドラジェを食べていないことを知っているらしい。一応周囲に同級生がいないか気を配っていたはずだけど、話が進むにつれて、箱の中の砂糖の粒が消えていくのを見ながらぼんやりしてしまっていたから、気づかなかったのかもしれない。
 彼女たちに嘘を吐いたように、アーモンドが苦手だと言ってしまえば、丸く収まるのはわかっているのに、言葉が出てこない。かといって、彼女たちを貶めるようなことをいいわけにしたい訳じゃない。喉の奥に何かがつっかえたように、浅い呼吸を繰り返してしまう。
 沢見くんはうろたえたように『申し訳ない』と言った。
『たまたま知っちゃって。改めて他のものでお礼をさせてほしいと思って。だからもしよければ、好きなものを教えてもらえると助かります』
「お礼、なんて……」
『させて欲しい』
 そもそもが過剰だったのだから、気にしなくてもいいのに、沢見くんは譲らない。
『傘、外にいるあの人と一緒に使わせてもらったから。僕ももちろんだけど、向こうもお礼したいって言ってたので、だから、ちゃんと受け取ってもらいたい』
 僕からのを断る理由があっても、あの人にはないでしょう? と言われてしまっては、しぶしぶ受け入れるほかなかった。
「それ、なら」
『ありがとう。何か好きなものとか、食べ物とか、ありますか?』
好きなものは、よく分からない。前はあったような気がしたけれど、周りに合わせていたら、自分が本当に何を好きなのか、分からなくなってしまったように思う。「今の私」の「すきなもの」も「苦手なもの」も、自分の意志とは関係なく、周りの見ている「型」にはめられているものだから。
でも沢見くんの厚意を、今度こそ無駄にはしたくなかった。何かないかと考えて、ふと思いつく。
「……チョコレートは、苦手です」
 今言える、私の精一杯の「真実」だった。
「好きなものとか、よくわからなくて……でも、チョコレート以外、だったら。……大丈夫、です」
『チョコレート以外、ね。覚えておきます』
 ほっとしたような笑顔の沢見くんにつられて、私の口角も少し上がった。そうしたらほんのちょっと、リラックスできたような気がした。
「ぶつけた頭は、大丈夫ですか?」
 ああ、と沢見くんは後頭部をさすった。
『はい。軽い脳震盪です。冷やして様子見てたらよくなったので、ご心配おかけしました』
「い、いえ……あの、あと。これ」
 手に持っていたペンを、沢見くんの前にそっと置いた。
「忘れていた、ようだったので」
『落としてたんですね、助かりました。ありがとう』
 沢見くんはそのペンを制服のポケットにしまうと、頭を下げてきた。私もそれに倣って礼を返す。
 沢見くんは私に聞きたいことを聞き終えて。私も、口実だったペンを無事持ち主に届けて。また、沈黙が訪れる。これ以上の話題も、ない。けれど不思議とこの空気を気まずいとは感じなかった。波の穏やかな海にたゆたうような、居心地の良さがあった。沢見くんは私に退室を促さずに、またスマホの画面に向かって思案にふけっている様子で、私はそれをいいことに、部屋の中を見渡してみた。
壁紙が紺色と深青色や濃い紫色とほんのり赤や黄の暖色が混ざったのを淡くした色合いなのに気づいた。暁の名を冠しているだけあって、夜明け前のほの暗さをイメージしてあるのだろう。天井には月明りのような電灯があって、壁紙は暗いはずなのに、明るい気がするから不思議だ。壁の埋め込み本棚に並ぶ書籍も、小説は古典作品から現代のものまで国の東西を問わず様々で、経済や美術、歴史や科学などの幅広いジャンルの新書もある。テレビスタンドのDVDボックスには有名アニメーション制作会社の作品が全て置いてあった。
『そんな頻繁ではないけれど、なんとなく疲れたと感じた時には、ここに来るんです』
「そう、ですか……」
 話しかけられて、戸惑う。でも、嫌じゃない。
『基本的にはそのソファで寝てぼーっとしてて。さっきも、ベッドじゃなくて、そこで寝てました』
「え……」
 いつも使っていると言うソファーに、しかもさっきまで寝ていたという場所に、今は私が座ってしまっている。立ち上がって場所を譲ろうとすると、沢見くんは首を振った。
『もう大丈夫です』
「でも」
『むしろ、寝てみてください』
「……え?」
『結構寝心地いいから、うっかり寝ちゃうかもだけど』
 確かに、座り心地も良いからその通りなのだろう。横になった私一人収まるには、十分な大きさがある。
(いいの、かな……?)
 沢見くんは、視線で促してきた。
「じゃあ、ちょっと失礼して……」
 沢見くんの方に頭を向けて上履きを脱ぐと、スカートの中が見えないように裾を押さえてソファーの上に横になってみる。身体はゆっくりと沈み、ベッドではないのに包み込まれていく感覚があった。肘置きはちょうどいい高さの枕になり、見上げた天井の電灯は目に優しかった。
「……眠りそう」
 率直な感想を述べると、頭の上からくすくすと笑うのが聞こえた。
 外からの音漏れもなく、とても静かだ。一人でぼーっとしていたら、眠りの世界にいざなわれてこのまま帰ってこれなさそう。
『昼休みにきて、一度寝過ごしそうになったことあります』
「……そうだと、思います」
『ノックでも起きなかったから、外のあの人に叩き起こされました』
 なんでもないように話すから、さりげなく聞いてもあの人について答えてくれそうだけど、あえて聞かなかった。
「寝起きは、悪い方……ですか?」
『毎朝アラーム四つ』
「スヌーズ機能、とか?」
『携帯と、目覚まし時計が三つ』
「そ、そんなに……」
『辛島さんは、朝強いですか?』
「……おそ、らく」
 悔しいことに、どんなに夜更かししても、日の出とともに目が覚めてしまい、眠りは浅い方だった。カーテンの隙間から差し込む光に意識を戻されるたびに、静かに絶望する日も少なくない。それだけ朝に強いのは、唯一といっていいほどの取柄だったのに、教科書を忘れたあの日は初めて寝坊してしまった、と思い返す。
 ふと左を向くと、ローテーブルの棚に綺麗な白い箱を見つけた。起き上がってからその箱を手に取ると、やっぱり見覚えがあった。前に沢見くんが私にくれた、ドラジェの箱だった。
『あの人の実家なんです、そのパティスリー』
「そう、なんですか?」
『ここに来た人のおやつ用に、不揃いのものを持って来ていて』
膝の上に箱を置いて蓋を取ると、中にはパステルカラーの砂糖をまぶされたアーモンドが入っていた。確かに歪な形をしているものばかり入っている。まぶされた砂糖の量が不揃いのもの。いくつか食べられているのもあって、いつかもらったようにアーモンドたちは整列していない。
「……食べてみても、いいですか?」
 沢見くんは、瞬きをした。
『無理しなくて、いいですよ?』
「……あまりに、きれいだから。試してみたくて」
 本当は、食べてみたかった。本音を言えずに、ただ箱の中からなくなっていくのを見ることしかできなかった自分がとても残念だった。沢見くんがあまりに自然に私を受け入れてくれるから、確かに気は大きくなっていた。
『それなら、ぜひ』
 キラキラと光沢を振り撒く宝石のような一粒を、摘まんでみる。そっと口の中に入れると、舌の上で砂糖が溶けて、上品な甘さが口に広がる。アーモンドをかみしめると、香ばしい香りが鼻を抜けていった。
「おいしい」
 自然に口角が上がってしまう美味しさだ。
『それじゃあ、僕も』
沢見くんも手を伸ばしてきて、箱の中から水色の物を取って頬張った。カリッと沢見くんの口から小気味いい音がして、二人で顔を見合わせて笑う。胸の内にぽっとろうそくがともったような、温かい気持ちが生まれる。
(こんな気持ちになったのは、ずいぶん久しぶりかも。)
そんなことを思っていたら、ブブっと、ポケットの中のスマホが震えた。確認すると、彼女たちからのラインだった。一回目の通知が鳴ったのを皮切りに、次々と話が進んでいく。
楽しい時間は終わるのが早い。
「そろそろ、帰りますね」
『はい。長い時間引き止めちゃいましたね』
絶望という名の錨を腰に巻かれたように身体が重く感じる。この部屋に未練を残す足を何とか動かして、沢見くんが開けてくれた扉から外に出ると、沢見くん曰く「あの人」は依然としてパソコンに向かっていた。ヘッドホンを装着してカタカタと高速でキーボードを打っている。私たちには目もくれない。
「あの……」
 ダメもとで声をかけると、せわしなく動いていた手が止まり、視線だけを寄こしてきた。
「ドラジェ、おいしかったです」
「……そ」
 短く返事をすると、「あの人」さんはまた高速タイピングを再開した。後ろで沢見くんが、ふふっと鼻を鳴らして笑っていた。
『辛島さん、それじゃあ、また明日』
 保健室の扉の前でひらひら手を振る沢見くんに、私も同じように手を振り返した。
「また、明日」
私を現実に引き戻すように、ポケットの中のスマホが震える。でも、正門を出るまでは通知に気づかないふりをして、口の中に残る砂糖の甘さの余韻に浸っていた。