「ねえ、佳純」
甘えるような声で奈々未に呼ばれて、顔を上げる。奈々未の顔より先に目に入ったのは、校則にぎりぎり引っかからないトップコートの塗られた爪。その手が持つのは男子用のネクタイだった。
「ネクタイ結んでくれない?」
「あ……うん」
返事をして奈々未からネクタイを受け取る。すると、周りからあからさまなため息が聞こえてきた。
「奈々未」
別に私が呼ばれたわけではないのに、サエリのいつもよりほんの少し低い声に反応して一瞬、手がこわばった。わずかに震える手に奈々未が気づかないように祈りながら、首にネクタイをかけて結んでいく。
「なにー?」
「あんたさ、ほかのオンナにネクタイ触らせていいわけ?」
「ええ?」
最近奈々未は一つ上の先輩と付き合い始めた。その先輩彼氏からもらったというネクタイ。私たちの学校では男子はネクタイ、女子はリボンが与えられていて、付き合うとお互いのネクタイとリボンを交換する文化があった。もちろん、校則では原則禁止されているので、鞄の中に隠し持っていたり、休み時間に先生の見えないところでつけたりしている。
「私もサエリと同じ意見だなー」
沙菜が髪の毛をいじりながら言った。
「だって、彼女じゃないオンナに彼氏のネクタイ触らせるの、私だったらいやかな」
「……まあ、確かに?」
奈々未があいまいに返事をしたところで、もも恵が「いいなー、私も彼氏ほしいぃ」と机に突っ伏した。
「なに、もも恵には例の先輩いるじゃん」
「どうしたの? もしかして、うまくいってないの?」
「……それがさぁ」
もも恵の恋バナが始まろうとしたところで、突如『あっはっはっは』と気持ちのいいくらいの「爆音」が教室内に響いた。私を含めたクラスメイト全員、きーんと鳴る耳をふさぎながら、「彼」に視線を向ける。
『すんません!』
すぐさま謝罪の言葉が、また「爆音」で飛んできて「びっくりしたじゃん」「うるせえよ」「音量管理しっかり~」とそこかしこから、呆れ混じりの笑いがおこる。
振り向いた視線の先の彼は――沢見亮雅くん。談笑していた周りに「でけーよ、音!」なんて肩をたたかれて、今度は普通の音量で『すまん、すまん』と答えていた。
「びっくりしたぁ」
もも恵が胸を押さえて驚きを表す横で、沙菜も「マジでビビるよね、あれ」と苦笑する。
「男子の馬鹿笑いはさ、うるさいって思うけど、沢見の場合は驚きの方が大きい」
「わかる。なんでかな」
(……たぶん、人間の出せる音量を超えてるから、じゃないかな。)
そう思うけれど、私はわざわざ答えなかった。
「それで、なんだっけ。沢見に邪魔されたけど」
「私の話。それがさぁ」
もも恵が話だそうとすると、今度は朝のホームルームの始まりを知らせる予鈴が鳴った。
ついてないね、とみんなでもも恵の不遇さに笑う。「また後で聞いてよぉ」と嘆くもも恵に、「放課後集まる?」なんて声が上がる。今日は部活もないし、いけるー。全然話聞くよぉ。そうやって、放課後の女子会が決まった。
ほどなくして教室に入ってきた担任が出席を取り、今日の連絡事項を告げている間、机の中で、スマートフォンが震えた。
画面には、メッセージの受信を知らせる通知が浮かびあがっている。
送ってきたのは、サエリ。トークルームは、奈々未を除いた四人のもの。すぐに画面をタップして、メッセージアプリを開いた。
『ネクタイ自慢うざくない?』
心臓が小さくすくみ上がる。
それにすばやくもも恵や沙菜の反応がつく。
『それな』
『マジ、わたしが上手くいってないの、知っててあれはない』
『佳純もおつかれさま』
胸が早鐘を打つ。
なんて返信するのが正解か素早く考えて、かすかにふるえる指先を液晶の画面に滑らせた。
『私はなんてことないよ』
『まーた、佳純はお人よし発揮して』
『ほんとだよ、たまには愚痴ってもいいのに』
『というかもも恵、うまくいってないの?』
沙菜がもも恵に水を向けると、もも恵は『それがさぁ』と、先輩との恋が上手くいってないことを、ポンポンと短文で伝えてきた。増えていく通知に既読を付けて、『うん』『それで?』と返す。他の二人はもっと大げさに受け答えしている。
結局放課後には奈々未も交えて同じ話をするのに。でもサエリや沙菜は「初めて聞いた」ようにリアクションするのだろう。もも恵だって、奈々未には自分の話を聞かせてやらない、と思っているわけじゃない。こういうすぐには解決しない恋愛事情をああでもない、こうでもないと会話する時間が、楽しいのだろう。みんなが好きな盛り上がる話題に、顔には笑顔を張り付けて参加する。機嫌を損ねないように、出しゃばらないように、程よく相槌を打つ。私に発言権がないことなど、気にならない。みんなが自分を「仲間だ」と思っていてくれるなら、なんだっていい。
だって、知ってるよ。あなたたちそれぞれが、誰かのことを悪く言うの。
サエリがSNSの投稿に「いいね」しなかったからって、彼女を省いたグループチャットを作った。それが一番最初。
この前は沙菜の化粧が濃いって、新しいトークルームを作ってバカにしていた。
もも恵が彼氏未満の先輩との約束を優先させたからって、放課後の集まりに呼ばなかったよね。
『でも、佳純は優しいから』
それが、みんなの求めている「私」。
「私」がどんな「自分」でありたいかなんて、そんなのは生きていくうえで関係ない。「私」が考える「自分像」なんて求められていない。
授業中、先生に気づかれないように、慎重に、みんなとやり取りをする。いつかバレるんじゃないかって、ひやひやしながら、机の中で、トークルームに返事をする。
本音は全部、心の奥底に閉じ込めて、みんなの求める「自分」であり続ける。
「自分」なんてものは出してはいけない。それは人生を生きづらくしてしまう足かせのようなもの。
ただ求められるように振舞えばいい。それがどんなに自分の「ありたい」と願うものとかけ離れていようが、そのうち板についてくるものだ。演じている間に「自分」になってくる。なって、くれる。そうすれば、嫌われることはない。
嫌われなければ、それでいい。
そう思っていた。
――それなのに。
先生が退室して、授業が始まるまで、また教室内に私語が増える。私は、授業の準備をしながら前の席の方――クラスメイトと「話す」沢見くんを盗み見ては、小さくため息をついた。
もし、しゃべれなければ……私はもう少し、楽に生きれるんだろうか。
そんなことを生まれつき「しゃべれない」彼を見ては、毎日のように思うのだ。
まあ、実際のところ文明の利器が発達してしまって、話すことができなかったところで、彼女たちとのメッセージのやり取りはなくなったりしない。
それでも、スマホの音声読み上げアプリを駆使してまで、普通の人と同じような「会話」にこだわる彼のことが、私は理解できなかった。
――しゃべれなければ、良かった、のに。
言葉なんてなければ、こんなに傷つくことは……なかったはずのに。
甘えるような声で奈々未に呼ばれて、顔を上げる。奈々未の顔より先に目に入ったのは、校則にぎりぎり引っかからないトップコートの塗られた爪。その手が持つのは男子用のネクタイだった。
「ネクタイ結んでくれない?」
「あ……うん」
返事をして奈々未からネクタイを受け取る。すると、周りからあからさまなため息が聞こえてきた。
「奈々未」
別に私が呼ばれたわけではないのに、サエリのいつもよりほんの少し低い声に反応して一瞬、手がこわばった。わずかに震える手に奈々未が気づかないように祈りながら、首にネクタイをかけて結んでいく。
「なにー?」
「あんたさ、ほかのオンナにネクタイ触らせていいわけ?」
「ええ?」
最近奈々未は一つ上の先輩と付き合い始めた。その先輩彼氏からもらったというネクタイ。私たちの学校では男子はネクタイ、女子はリボンが与えられていて、付き合うとお互いのネクタイとリボンを交換する文化があった。もちろん、校則では原則禁止されているので、鞄の中に隠し持っていたり、休み時間に先生の見えないところでつけたりしている。
「私もサエリと同じ意見だなー」
沙菜が髪の毛をいじりながら言った。
「だって、彼女じゃないオンナに彼氏のネクタイ触らせるの、私だったらいやかな」
「……まあ、確かに?」
奈々未があいまいに返事をしたところで、もも恵が「いいなー、私も彼氏ほしいぃ」と机に突っ伏した。
「なに、もも恵には例の先輩いるじゃん」
「どうしたの? もしかして、うまくいってないの?」
「……それがさぁ」
もも恵の恋バナが始まろうとしたところで、突如『あっはっはっは』と気持ちのいいくらいの「爆音」が教室内に響いた。私を含めたクラスメイト全員、きーんと鳴る耳をふさぎながら、「彼」に視線を向ける。
『すんません!』
すぐさま謝罪の言葉が、また「爆音」で飛んできて「びっくりしたじゃん」「うるせえよ」「音量管理しっかり~」とそこかしこから、呆れ混じりの笑いがおこる。
振り向いた視線の先の彼は――沢見亮雅くん。談笑していた周りに「でけーよ、音!」なんて肩をたたかれて、今度は普通の音量で『すまん、すまん』と答えていた。
「びっくりしたぁ」
もも恵が胸を押さえて驚きを表す横で、沙菜も「マジでビビるよね、あれ」と苦笑する。
「男子の馬鹿笑いはさ、うるさいって思うけど、沢見の場合は驚きの方が大きい」
「わかる。なんでかな」
(……たぶん、人間の出せる音量を超えてるから、じゃないかな。)
そう思うけれど、私はわざわざ答えなかった。
「それで、なんだっけ。沢見に邪魔されたけど」
「私の話。それがさぁ」
もも恵が話だそうとすると、今度は朝のホームルームの始まりを知らせる予鈴が鳴った。
ついてないね、とみんなでもも恵の不遇さに笑う。「また後で聞いてよぉ」と嘆くもも恵に、「放課後集まる?」なんて声が上がる。今日は部活もないし、いけるー。全然話聞くよぉ。そうやって、放課後の女子会が決まった。
ほどなくして教室に入ってきた担任が出席を取り、今日の連絡事項を告げている間、机の中で、スマートフォンが震えた。
画面には、メッセージの受信を知らせる通知が浮かびあがっている。
送ってきたのは、サエリ。トークルームは、奈々未を除いた四人のもの。すぐに画面をタップして、メッセージアプリを開いた。
『ネクタイ自慢うざくない?』
心臓が小さくすくみ上がる。
それにすばやくもも恵や沙菜の反応がつく。
『それな』
『マジ、わたしが上手くいってないの、知っててあれはない』
『佳純もおつかれさま』
胸が早鐘を打つ。
なんて返信するのが正解か素早く考えて、かすかにふるえる指先を液晶の画面に滑らせた。
『私はなんてことないよ』
『まーた、佳純はお人よし発揮して』
『ほんとだよ、たまには愚痴ってもいいのに』
『というかもも恵、うまくいってないの?』
沙菜がもも恵に水を向けると、もも恵は『それがさぁ』と、先輩との恋が上手くいってないことを、ポンポンと短文で伝えてきた。増えていく通知に既読を付けて、『うん』『それで?』と返す。他の二人はもっと大げさに受け答えしている。
結局放課後には奈々未も交えて同じ話をするのに。でもサエリや沙菜は「初めて聞いた」ようにリアクションするのだろう。もも恵だって、奈々未には自分の話を聞かせてやらない、と思っているわけじゃない。こういうすぐには解決しない恋愛事情をああでもない、こうでもないと会話する時間が、楽しいのだろう。みんなが好きな盛り上がる話題に、顔には笑顔を張り付けて参加する。機嫌を損ねないように、出しゃばらないように、程よく相槌を打つ。私に発言権がないことなど、気にならない。みんなが自分を「仲間だ」と思っていてくれるなら、なんだっていい。
だって、知ってるよ。あなたたちそれぞれが、誰かのことを悪く言うの。
サエリがSNSの投稿に「いいね」しなかったからって、彼女を省いたグループチャットを作った。それが一番最初。
この前は沙菜の化粧が濃いって、新しいトークルームを作ってバカにしていた。
もも恵が彼氏未満の先輩との約束を優先させたからって、放課後の集まりに呼ばなかったよね。
『でも、佳純は優しいから』
それが、みんなの求めている「私」。
「私」がどんな「自分」でありたいかなんて、そんなのは生きていくうえで関係ない。「私」が考える「自分像」なんて求められていない。
授業中、先生に気づかれないように、慎重に、みんなとやり取りをする。いつかバレるんじゃないかって、ひやひやしながら、机の中で、トークルームに返事をする。
本音は全部、心の奥底に閉じ込めて、みんなの求める「自分」であり続ける。
「自分」なんてものは出してはいけない。それは人生を生きづらくしてしまう足かせのようなもの。
ただ求められるように振舞えばいい。それがどんなに自分の「ありたい」と願うものとかけ離れていようが、そのうち板についてくるものだ。演じている間に「自分」になってくる。なって、くれる。そうすれば、嫌われることはない。
嫌われなければ、それでいい。
そう思っていた。
――それなのに。
先生が退室して、授業が始まるまで、また教室内に私語が増える。私は、授業の準備をしながら前の席の方――クラスメイトと「話す」沢見くんを盗み見ては、小さくため息をついた。
もし、しゃべれなければ……私はもう少し、楽に生きれるんだろうか。
そんなことを生まれつき「しゃべれない」彼を見ては、毎日のように思うのだ。
まあ、実際のところ文明の利器が発達してしまって、話すことができなかったところで、彼女たちとのメッセージのやり取りはなくなったりしない。
それでも、スマホの音声読み上げアプリを駆使してまで、普通の人と同じような「会話」にこだわる彼のことが、私は理解できなかった。
――しゃべれなければ、良かった、のに。
言葉なんてなければ、こんなに傷つくことは……なかったはずのに。

