それから僕はSuburbsで働き続け、焙煎とドリップの腕を上げていった。常連のお客さんに「ずいぶん若い子と結婚したんだねえ」と奏さんがからかわれたとき、僕は恥ずかしくも嬉しい気持ちで「違いますよ」と返した。彼女と一緒に。
 二週間が経つのはあっという間だった。高美さんがそろそろ帰ってくる。奏さんはいつもそわそわしていた。
 しかしそれから数日経っても一向に帰ってくる兆しはなかった。ついには高美さんの焙煎した豆も尽き始め、僕の焙煎したコーヒーが店で使われるようになっていった。僕が懸念していたクレームもなく、日々は平穏に過ぎていった。それは僕がお客さんにも受け入れられたような気がして嬉しかった。
 閉店後、僕は一杯のコーヒーを淹れた。プリンセサワイニー。それを奏さんの前に差し出した。
 カウンター内の腰掛に座っていた奏さんは、キョトンとした顔で見上げた。

「お疲れのようなので」
「ああ、ありがとう」

 笑顔には疲れが見て取れた。まなじりの薄絹にも皺が刻まれている。やはり心配なのだ。当たり前だ。自分の夫が死んでも構わないと思う妻などいない。

「あのとき、奏さんは高美さんをかばうようにして送り出しましたけど、正直納得いってません」

 彼が旅立つ日、彼女はすべてを飲み込んで送り出した。

「奏さんの強がりを、高美さんはわかってるはずですよね。なのに気付かないふりで出ていくなんて、やっぱりおかしいですよ。今だって奏さんがこんなに苦しんでいるのを、全然わかってないんだ」
「雪春くん……」
「僕なら!」

 放った声が想像よりも大きくて、慌てて口を噤む。それから息を吐いて努めて静かに言葉を落とす。

「……僕なら、置き去りにしたりはしない。ずっとそばにいます」

 奏さんの瞳を覗き込んでしっかりと伝えた。彼女は言葉を受け止めるように頷き、それから視線を外した。その先のカップを手に取り、一口啜った。

「そうね。雪春くんやさしいから、きっとそうする。自分のことはさておいて、尽くしてくれるものね。実際仕事でも、いつも頼ってしまう。やさしくて頼りがいがある人って、素敵だと思うわ」

 僕は一歩だけ近付いて、奏さんをじっと見つめた。彼女がこちらを向いてくれるまで待った。視線が交わったとき、彼女は不安そうな顔をしていた。それは高美さんのことを思ってか、僕から次に発せられる言葉を思ってか。

「奏さん。僕は、奏さんのことが好きです」

 驚くほどスルリと躍り出た声。ずっと咽喉に引っ掛かっていた声。伝えたかった声。
 奏さんは悲しそうな笑顔を浮かべる。

「わたし、雪春くんを頼り過ぎたのかしらね。いつの間にかたぶらかしていたのかもしれないわ。ごめんなさい」
「違うんです! 僕は……、いつの日からか覚えてないくらいずっと前から好きでした。別に高美さんがいなくなったからとか、頼られたからとか、奏さんに隙があったからとかじゃないんです。本当にただ、好きなんです。理由なんて、ない」
「でも、わたしは知っての通り人妻だし、年齢だって……20近くも離れているのよ?」
「歳の差は関係ないです。奏さんの気持ちを教えてください」

 彼女は調理台に肘を突いて、手の甲に顎を載せて思案気に唸る。それからうるみのある唇がしとやかに開く。

「わたし、雪春くんのこと、好きよ」

 好き。その言葉だけで、僕の胸には春が射す。温度が上がる。

「でも、それは恋人の好きとかじゃあなくて、でも友達の好きとかでもなくて、とにかく好きだなって思える感情なの。だから、旦那と別れてあなたと一緒になることはできない。ごめんなさい」

 深々と頭を下げられた。
 そんなに丁寧に言われなくても、わかっていたことだ。そう、わかっていた。奏さんが高美さんを裏切ることはない。それに、謝るのは僕の方だ。不安定な心の隙間に入ろうとしたのだから。しかし、だとしても。

「それでも、僕は奏さんのことが好きです。すいません」

 ボロボロと涙が溢れては零れた。

「最初から無理だってわかっていたのに。きっと困らせるって。でも、伝えられないまま終わるなんて嫌で。だから」

 嗚咽とともに吐き出される声は多分言葉になってくれていない。

「伝えられれば終わると思いました。スッキリして、諦められると思いました。でも、恥ずかしいくらいに、あなたが好きです。どうしたらいいかわからないんです」

 ふわりと頭の上にやわらかな指先が乗せられた。それからゆっくりと抱き寄せられ、温かなニットに包まれる。ボタニカルな香りが満ちる。

「わからないなら、そのままでいいの。わたしを好きな気持ちを否定しなくていい」

 耳を疑う言葉に、僕は身を強張らせた。

「雪春くんは勇気を出して正しいことしたの。だから、わたしが気持ちそのものを否定することなんてできない。それに無理矢理拒んで気まずくなるのは、お互い嫌じゃない?」

 こんな醜態を晒したのだから気まずいことは確かだ。明日も今日と同じ気持ちでバイトに来られるかと言えばわからない。けれど、じゃあ奏さんを放っておけるかと言えば話は別で。

「でも、それ、奏さんは気持ち悪くないですか?」
「他の人だったらお断りしたかもしれないわね。でも雪春くんは大丈夫って思うから。あなたが他の子を好きになるまでの間、好きでいて。それでいつか誰かを好きになったなら、ちゃんとわたしを振ってね」

 諭されていくうちに涙は蒸発して、僕の中にあった温度も消えていった。まるで気化熱みたいに。
 僕から離れた彼女は、目の前に置かれていたカップを手に取る。すっかり冷えてしまったプリンセサワイニー。

「プリンセサワイニーの魅力は、時間ごとに風味が変わること。劣化ではなく、変化。それを楽しめるのって、とても素敵なことよね」

 彼女は穏やかに笑った。
 愛おしいと思う。振られてもなお、いや受け入れてくれたから一層。それはさっきまでとは違った風味を孕んだ、違う温度帯の愛おしさになっていた。