「クビになっちゃいました。ここで雇ってください」

 僕はSuburbsに入るなり、開口一番嘘を吐いた。彼女は驚いた表情で口に手を当てて、それからため息を吐いて、穏やかな笑みを浮かべた。どこか儚げで、朝霧を思わせる。

「じゃあ、さっそくお仕事頼んじゃおうかしら」

 奏さんは騙されてくれた。多分、気付いていたんだろうけれど。
 それから僕は、お店のことについて学んだ。いつも僕が見ていた高美さんの仕事はカウンターの近くでやっていた豆の選別。篩にかけて、小さすぎる豆やいびつな形をした豆を捨てていく。それくらいしかなかったけれど、バックヤードで高美さんがやっていたことは想像を絶する大変さだった。コーヒー豆の搬入とロット管理、先入先出。それとコーヒーのロースト。コーヒーに詳しいお店の常連さんから聞いたら、焙煎は一生掛けて身に着ける職人の技だと言うことらしい。いつもより多めにローストしてほぼ二週間分の焙煎済みの豆のストックを作っておいてくれたから助かった。二週間以内に帰ってくると言うことかもしれないが、どうなるかはわからないからできるならやっておいた方が良い。奏さんは「火傷をするといけないから」と言ったが、おそらく高美さんの主だった仕事はこれだ。それをやらないでバイト代を頂くなんて厚かましいだろうと思い挑戦することにした。しかし、素人がやっても豆を無駄にするだけだ。厚かましい以上にお節介になってしまうだろう。だからYouTubeで予習して、近くのコーヒーショップで焙煎の見学をさせてもらった。お店の人がとても語りたがる人だったのでありがたかった。
焙煎は8段階。浅い順からライトロースト、シナモンロースト、ミディアムロースト、ハイロースト、シティロースト、フルシティロースト、フレンチロースト、イタリアンローストとなる。このSuburbsで扱われている焙煎度合いはいわゆる中煎りと言われるハイローストから深煎りのフレンチローストまでの4段階だ。
基礎は理解できた。だがこれだけでは踏み切れない。高美さんが焙煎室のホワイトボードに貼っていたメモがなければ詰んでいたことだろう。僕はメモに肩を押され、焙煎を開始した。
焙煎度合いはシティロースト。お店で一番よく出るエチオピア・モカイルガチョフ・G1・コチャレ・ウオッシュドを焙煎していく。
まずは焙煎機の釜を温める。ガス調整バルブを開け、排気調節ダンパーハンドルを閉めた。170℃まで上がったところで豆を投入。1kgまで入れられる焙煎機だが、満タンにしない方が煎りムラを防ぐことができるため、だいたい7割程度がベストな投入量となる。このとき一気に機内温度が下がってものすごく焦った。焙煎機を壊したかと思ったが徐々に温度が上がっていったので安心した。そういえば動画の説明でも一旦下がると言っていたし、メモにも90℃くらいまで下がると書いてあった。
バルブをひねってガス圧を変え、一分で10℃上がっていくくらいを目指す。釜の中心に挿し込まれているテストスプーンを抜いて中の豆の色を確かめ、ダンパーハンドルを徐々に開けていく。閉めっぱなしの方が早く温まるが、豆から発生したガスが豆に付着して焦げ臭い匂いが付いてしまうから、ガスは適度に抜いてあげないといけない。また急激に温度を上げると煎りムラが発生しやすいし、豆からガスが抜けるときに豆に大きな穴を空けることになる。そうなると鮮度を維持できない。煎ってすぐお客さんに出すならともかく、店内で2週間以上ストレージすることを考えると短時間で高温にする焙煎方法はこの店には向いていないのだ。
10分くらい経ったところで機内温度が175℃を越えて来た。この辺りで1ハゼと言われる現象が起きる。これは中の豆が熱で弾けている状況。豆によってハゼる温度にはムラがあるので、ポンポンとまるでポップコーンを作っているときのような音がしばらく続く。
それから3分くらいで機内温度は185℃を越えて来る。ガス調整バルブを閉め、テストスプーンを抜いて釜内の豆の色を見る。店の中にあったシティローストの豆と見比べ、差異のないことを確認出来たらすぐさま蓋を開けて豆を冷却トレイへ出す。15分以内に出すのが香りや旨味を逃さない秘訣らしい。そうメモに書いてある。スマフォのストップウォッチ機能で見ると14分弱というところだった。悪くない。
冷却トレイでは撹拌機がゆっくりと回転しており、豆を均一に冷やしてくれている。冷やすと言っても冷風を当てるわけではなく、小さい穴の開いたトレイの上で混ぜるだけなので、急激的な温度変化はない。
 焙煎直後の香ばしさが室内を満たした。コーヒーを浴びているような気分だ。

「すごい」

 うしろから突然声がして思わず飛び上がりそうになる。

「タカちゃんの匂いだわ」

 奏さんだった。心配になって様子を見に来たのか、たまたま店が暇になったのか。しかしそれよりも気になるのは——

「タカちゃん?」
「あ、え!? あの、旦那の匂いと同じ……」

 店の中では「あなた」「あの人」「うちの旦那」と呼んでいる奏さん。気が緩んだのだろう。なんだか急にこの店に受け入れられた気がして嬉しかった。
 赤面してもじもじしている奏さんがかわいかったが、言うと怒りそうなのでそのまま見て楽しむことにした。

「あとは、味も同じか確かめないと」

 僕は豆を掬って瓶に入れながら言った。この豆が店で使われるのは二週間後だが、当日ダメだったときに替えがないのではいけない。試飲をしておく必要があった。煎りたてでは店で出すものと違ってしまうので、しばらく寝かせる必要がある。店を閉めたあと、淹れてみよう。もしもダメだったらこの豆は全部僕が買い取るつもりだ。奏さんは気を遣ってそんなことをさせてくれないだろうが、レジを閉める直前に黙ってやってやる。700gお買い上げだ。
 閉店時間になったので店の暖簾を店内に入れ、鍵を閉める。カウンターを一度水拭きして、それからアルコール消毒。カウンターしかないこの店は清掃と片付けにそれほど時間が掛からない。
 さて、これから僕が焙煎したモカの試飲だ。
 美濃焼のカップ&ソーサーの上に陶器の円錐型ドリッパーをセットし、お湯を注ぐ。ドリッパーを伝いカップが満たされ、溢れたお湯がソーサーを浸していく。こうしてそれぞれの温度を高くしておくことで、コーヒーの一番おいしいゾーンを長めにキープすることができる。ソーサーのお湯は残してカップのお湯を捨て、ドリッパーの上にペーパーフィルターを載せ、中挽きにしたコーヒーを10g入れた。
 コーヒーポットを傾け、コーヒーの粉の上にお湯を数滴落とす。15秒ほど蒸らしてから、注いでいく。中心から『の』の字を描くようにゆっくりと回し淹れる。最初は湯を少しずつ注ぎ、半分より少し入ったところで湯量を上げて豆を攪拌する。豆の中に含まれるアクは、お湯を入れることで浮上する。淹れ始めたときに現れる泡がアクの正体で、これが一緒に落ちてしまうとエグみのあるコーヒーになってしまう。だからお湯がすべて落ち切る前にドリッパーを外さなければいけない。外したドリッパーを流し台に置く。マドラーでコーヒーを軽く混ぜて完成。華やいだ柑橘に、鼻腔内が満たされる。
 香りはまさしく、スペシャルティコーヒー『エチオピア・モカイルガチョフ・G1・コチャレ・ウオッシュド』のシティローストだ。
味は——と、僕がそれを手にするより早く、横から手が伸びてカップを奪われた。
 奏さんがカップを鼻に近付ける。目を瞑り深く息を吸い込んで、それからうっとりと微笑んだ。とろみのある笑顔に、僕の心も蕩けてしまいそうだった。
 カップを傾け、一口を含み、ゆっくりと飲み込んだ。こくりと細い咽喉が動くのに合わせて、僕まで生唾を飲んでしまった。ソーサーにカップを預け、頷く。

「うん。美味しい」
「良かった」

 安堵でため息が漏れた。

「でも」

 その接続詞に脳がヒリつく。

「タカちゃんとはちょっと違うかな」

 やはり高美さんには敵わなかったか。

「そう……ですか」
「うん。わたしは、こっちの方が好きかも」

 にっこりと笑った奏さんに、社交辞令のたぐいは見付けられなかった。薄絹のまなじりに吸い寄せられる。

「あ、疑ってる? なら飲んでみればいいよ」

 差し出されたコーヒーをソーサーごと手に取る。
 あれ、でも、これ間接キスに……? いいのかな。いや、なに考えてるんだ。そもそも僕が飲んで確かめる予定だったはずだろう。
 そう思ってカップに顔を近づけた。店内のライトを反射してコーヒーの中にギラっと光るものを見付けた。それは油分だった。さっきはなかった。奏さんのリップが少しだけ溶け出しているんだ。
彼女の唇の一部が、漆黒の上にギラギラと浮かんでいる。僕はいけないことをしているような気分に見舞われながらも、コーヒーに口を付けた。

「ああ……」

 求めていた味——に近しいものだ。

「これじゃあ出せないですよね」
「え? 出すわよ」
「でも味が違うってクレームが来るんじゃ」
「来ないわよ。だってタカちゃんが作ったってそのときの気温や湿度でちょっと違ったりするんだもの。これぐらいは振り幅の内に入っていると思う。ちょっと違うと感じられるのは、多分わたしと雪春くんだけよ」

 確かに僕も自分が作ったと言うバイアスがなければ「違う」と断ずることはできないだろう。

「それに、さっきも言ったけれど、わたし好きよ? 雪春くんの味」

 心臓が飛び出して行かないように胸に手を当てて、息を止める。

「ありがとうございます!」
「こちらこそありがとう」

 僕は何度も奏さんの言葉を噛みしめながらSuburbsをあとにした。コーヒー越しにでも好きと言ってもらえた。帰り道は、木枯らしさえも春の装いだった。