「雪春くん! 待って待って!」

 振り返るとうしろから未尋が息を切らせながら走ってきた。街灯に照らされた彼女の吐く息は白く、闇にすっと溶けていく。

「一緒に帰ろう!」

 顔を上げた彼女の頬はリンゴのように赤かった。相当急いで走ってきたようだ。

「いいけど、今日同じシフトだったっけ?」

 僕の記憶では彼女の退勤は1時間ほど遅いはずだ。

「早退させてもらったの。その、雪春くんが辞めるって聞こえて来たから」

 聞かれていたのか。

「どうして? なにか嫌なことがあった? 相談してよ。力になるよ」
「そういうんじゃないよ。他にやりたいことができただけ」

 未尋の切迫していた顔が少しだけ緩む。僕が嫌な思いをしていなかったと知って安心したのだろう。やさしいな。
 しかしその表情も瞬間に暗くなる。

「ってことは、アタシがどれだけ止めても、辞めちゃうんだね」
「そうなるね」

 彼女はしばらく考えるような素振りを見せてから、笑顔を張り付ける。

「じゃあ、アタシも辞めようかな」

 僕の決断が彼女の選択に影響を及ぼすとは思っていなかったので面食らった。

「そういうのやめた方が良いよ。友達が辞めるからってのは良くない。自分で考えて」
「ちゃんと今考えたよ。だって、アタシがあそこのバイト始めたの、雪春くんがやってるって知ったからだもん。雪春くんがいないなら、行く意味ないよ」

 そうか。あのとき奏さんはこんな気持ちだったんだな。

「僕の決断で背負える人生は僕の分だけだ。未尋の分までは無理だよ」
「背負えなんて言ってないよ。アタシはアタシの決断で……、雪春くんのそばに居たいの! だって雪春くんのこと……好きなんだもん!」

 泣きそうな顔をしていた。
 薄々、彼女の好意には気付いていたけれど、恋愛のそれではないと思っていた。だからそういう距離感でいた。それが心地よかった。でも今こうして踏み寄られて、少しだけ怖い。そして気まずい。まるで僕が彼女の恋心をわかっているのに、弄んでいたように思えるから。違うんだと、誰に言うでもなく叫びたくなる衝動に駆られる。
 もしも僕が奏さんに思いを告げたら、彼女をこんな気持ちにさせるのか。
 胸の奥がシクシク痛んだ。

「未尋の気持ちには答えられない」

 僕は気まずさを押し返して、彼女の瞳をまっすぐ見て言葉を刺した。彼女の顔がくしゃくしゃと歪む。胸が絞まる。どうか悲しまないでくれと思う。

「でも、ありがとう。告白されて嬉しかったよ」
「どう……いたしまして?」
「聞くなよ」

 僕は思わず笑ってしまった。

「だって! 振っといて、それで急に嬉しいとか、わけわかんないよ」

 彼女は頬を染めて照れながら怒った。

「ごめん。でも本当のことだから」

 未尋を落ち込ませないために適当なことを言っているわけではない。怖かったし気まずかったけれど、同時に本当に嬉しいと思った。

「あのさ」
「なに?」
「告白ってスゲー勇気いるよね。未尋はスゲーと思うよ。尊敬する」
「ありがとう」
「どう……いたしまして?」
「聞かないでよ! なにこのデジャヴ! って言うか今の使いどころ違くない!?」

 僕はケラケラと声をあげて笑う。

「僕もさ、好きな人がいるんだ。でも、絶対無理だから、思いを告げることをずっとためらっていた。断られるだけならまだしも、関係がぶち壊しになったら嫌だって思って。でも、未尋に勇気をもらったから、ちゃんと告白したいなって思った」
「それ、普通振った女子の前で言う?」
「あー……多分言わない」
「はぁーあ」

 物凄く呆れを含んだため息を吐かれた。

「じゃあ、もう、頑張って」
「応援してくれるんだ?」
「そりゃあ好きな人なんだもん。振られたからってすぐに憎めるほど、性格悪くないよ」
「やさしいね」
「そんで、さっさと振られてよ。アタシがまた告白するから」
「性格悪いね」

 二人して笑う。

「とにかく応援してるよ」
「ありがとう」
「どう……いたしまして!」
「いや聞かないんかい!」

 二人して笑った。ケラケラと。
 別れたあとに彼女が泣いたことを僕は知っている。距離は離れていたけれど、闇のしじまを劈く泣き声がこだましたから。