「本当に行っちゃうんですか」

 Suburbsの玄関の前で、バルカラーコートを着た高美さんと向き合っていた。僕の隣には奏さんがいて、同じように高美さんを見ていた。
 あれから高美さんは、ビザの手続きや現地の農園とのやり取りなど、旅立つための準備を着々と済ませていった。今日はまさに高美さんが出発する日だ。ここまで来て本当は嘘だなんてそんなわけないのに、僕は彼の行動があまりに現実離れしてしまっていて、受け入れられないでいた。奏さんはまた、なにかに耐えるような表情をしている。寂しいとか不安だとかって言葉が出てしまわないように必死に口を噤んでいるように見えた。

「ああ、行くよ。雪春くん、ありがとう」

 引き留めても無駄だとはわかっている。けれど、それでも。

「向こうに着いて、もしも強盗に襲われて、今度は……殺されてしまったらって思わないんですか? そしたら奏さんはどうするんですか」
「死んだらどうしようもないね」
「そんなの無責任ですよ」
「希望を叶えたいと思うのなら、犠牲は仕方ない。それが怖いのならやるべきではない。今私は、なにも怖くないんだ。だからすべきことなんだ、これは。これから雪春くんが同じようになにを犠牲にしても叶えたいものを手に入れたときは、臆さず進めと背中を押すよ」

 高美さんは背中を向けて歩いて行く。待てよ。ふざけるな。

「奏さんはどうするんだって質問に答えてないですよね」

 突沸しそうな怒りを抑えて、言葉を放った。いくらなんでも、勝手が過ぎる。自分がすべきことをすることが、必ずしも誰かを幸せにするとは限らない。現に奏さんは今こうして我慢している。
 振り返った高美さんは悲しそうな顔をしていた。

「あなた」

 奏さんが僕らの視線の間に入った。

「いってらっしゃい」

 僕からは見えなかったけれど、彼女はきっと笑っていた。

「いってきます」

 そう言った高美さんの笑顔は、彼女につられたように思えたから。
 高美さんの姿が見えなくなるまで見送って、それから店の中に入った。
 なんとはなしに席に着くと、奏さんが水を置いてくれた。

「え、あ、すみません、そういうつもりじゃなかったんです」
「そうだったの? でも、いいわ。なにか飲むでしょう? 今日は旦那を見送ってくれたお礼に無料でいいから」
「でも、忙しいんでしょう? 僕に構っている暇、ないですよ」

 これから奏さんは高美さんがしていたこともやらなければいけない。高美さんは自分のやりたいことをやりに行って、仕事に繋がるわけでもないのに。

「そうだ。僕、手伝いましょうか?」
「そんな、お客さんにそんなことさせるなんて悪いわ」
「なら、雇ってください。ここでバイトしますよ」
「今のバイトはどうするの?」
「辞めます」
「じゃあダメよ。雪春くんが行っているところほど給料出せないもの。あの人がやっていた仕事なら背負えるけれど、雪春くんの高校生活までは無理よ」

 いつもとは違う、真剣な声と表情に気圧されてしまう。

「それにね。きつくなったらいつでも休んでいいし、そのせいでお客さんが減っても構わないって言われているの。無理はしないから、安心して?」

 その言葉をくれた夫の前ですら、あなたは言葉を飲み込んでいたじゃないですか。きっと無理をするに決まっている。
 けれど、確かに僕の高校生活を背負うと言うような考え方をされてしまうと、気が引けてしまうのも確かだ。その日はとりあえず邪魔にならないように、コーヒーを一杯だけ頂いて帰ることにした。