「知ってる? コーヒーって元々はお坊さんが寝ないで修行するために飲まれていたものだったのよ」
「そうだったんですか。知らなかったです」
僕がそう答えると奏さんは得意げに笑みを零した。その艶やかな口元に「リップを変えましたか?」と聞いたら、彼女は喜んでくれるだろうか。変化に気付いてくれて嬉しいと思うか、そんなところまで見ていて気味悪いと思うか。いずれにせよ、彼女は「ありがとう」と言って笑うだろう。いつもころころと表情を変える正直な顔を持つ人だけれど、客の、しかも自分より20歳近く離れた子供相手にあからさまな嫌悪を向けられるほど、バカ正直ではない。しかしだからこそ聞けない。未尋にはあんなにも簡単に聞けたのに。
「お坊さんはこんな風に味わってないんですね」
「そうね。昔はロースターなんて言うものもなかったから、生豆をお湯で煮出して飲んでいたそうよ。ローストする前の方がカフェインはたっぷり入っているから、目は冴えたと思うけれど」
僕は昔、苦いコーヒーの方が眠気覚ましに良いと思っていた。けれどそれは逆で、酸味の強いコーヒーの方がカフェインが多く含まれているのだそうだ。苦いコーヒー、いわゆる深煎りの豆を作るためには高い火力で長時間焙煎しなければいけない。このときにカフェインも抜けていくのだと奏さんに教わった。ゆえに、本当に眠気を覚ましたいのなら浅煎りの酸味の強いコーヒーを飲んだ方が良いんだとか。
「お坊さんは、相当すっぱいコーヒーを飲んでいたんでしょうね」
「この前の話、覚えててくれたんだ。嬉しいなあ」
「忘れないですよ。そう簡単に」
奏さんから教えられたことは。
僕は置かれていたコーヒーを口に運ぶ。このコーヒーが美味しいと思うのは、豆が良いからなのか、高美さんの腕がいいからなのか、器が良いからなのか、目の前に奏さんがいてくれるからなのか。
味は味覚や嗅覚だけでなく、視覚情報などによっても変化すると言われる。ならば多分全部だろう。でもそうすると……
「現地の人は、Suburbsの味を知ることはできないんですね」
なんの気なく放った一言が、静寂を呼んだ。冷蔵庫から漏れた重低音が、やけに伸びやかに店内を周遊していた。奥で作業していた高美さんの手が止まっていたのだ。目を見開いて、真顔をこちらに向けていた。その間、奏さんから声がないのは、おそらく高美さんから放たれる雰囲気がいつもとは違うものだったからだろう。
なにかまずいことを言っただろうか。気まずさと視線を振り払うように何度かまばたきをして、ついには耐えきれなくなって唇をわななかせた。
「それだ」
同時に高美さんの声が零れた。
「えっと、なにがですか」
「ずっとわからなかった。コーヒーとの向き合い方」
こんなに美味しいコーヒーを淹れる喫茶店のマスターなのに?
「親戚が焙煎屋で小さいころからコーヒーが近くにあった。大人になったらコーヒーと関わりのある仕事をすると思っていた。高校生のころ、バイヤーの存在を知った。パイオニアたちの雄姿を見て、私はバイヤーになることにしたんだ。そこから英語とスペイン語を猛勉強して海外に渡れる準備をした。初めは他のバイヤーに付いて行って学ばせてもらって、いつからか一人で海外を渡り歩くようになって。百貨店に入るくらい高級で有名なコーヒーショップの豆の買い付けを任されたとき、ようやく一人前になれたと思った。けれどある日、海外で強盗に遭ってケガをした。なかなか治らなくて、現地で過ごしている間に病気にも罹った。そこで自分の限界を感じてバイヤーを辞めた。でもコーヒーに関わった仕事をしたかった。だから当時から付き合っていた奏とこの喫茶店を開いたんだ。けれど」
高美さんは深々と息を吐いた。
「なにかが違うと思っていて。でも日々はずっと満たされていて。これが正しい方法なのかわからずにコーヒーを淹れていた」
高美さんの視線が僕を正面から捉える。
「私は生きがいを与えてくれた農園の人たちになにも返せてないってことがわかった」
「なにも安値で買い叩いたとか、そんなことはしてないんでしょう? だったらそのときに返せていますよ。向こうはお金をもらって幸せで、それで良いじゃないですか。僕はなにもそんなつもりで言ったわけじゃなくて」
「勘違いしないでくれ。感謝しているんだ。雪春くんのおかげで気付けた。生活のためにお金は必要で、向こうだってお金のために農園をやっていたというのはわかる。でも、バイヤーにも農園にも根幹にあるのは美味しいコーヒーを提供したいという願望だ。あの人たちが作った豆がこんなにも美味しくなっているってことを伝えに行かないと」
興奮気味に話す高美さん。奏さんはと言うと、なにかにじっと耐えているような表情だった。そのまなじりは湿り気を帯びているように思えた。
それから数分間話に付き合っていると、熱が冷めてきて興奮し過ぎていたことを悟ったのか、少し恥ずかしそうに謝罪をして、バックヤードに引っ込んでいった。
奏さんは追い掛けるでもなく、声を掛けるでもなく、ただそこに居た。
高美さんの言動が本当の気持ちならば、彼は近々自分で焙煎した豆を原産地に持っていくことになるだろう。そうなればこの店は、奏さんはどうなるのか。
「すみません。僕のせいで……。高美さん、きっと冷静になりますよ。だって、奏さんを置いて行くわけ、ない」
切なさがせり上がってきて、最後の方は声が掠れてしまった。僕のせいで二人が離れ離れになってしまうという焦りと、一方でそうなってほしいと思ってしまっている罪悪感とで、心の真ん中がきゅうきゅうと締め付けられていた。
奏さんはゆっくりとかぶりを振り、愁いを帯びた——それでいて幸福そうな笑顔を湛えた。
「わたしが恋をしたときのあの人の、目と声と息遣いだった」
それから口を押えると、両目から涙がツゥと流れた。
「バカな女だわ。あのときから変わらず。きっとあの人の背中を見るのが好きなのね」
声は震えていた。それは置いて行かれることを知っているからだ。しかしそれでも彼を応援するために見送りたいと思う。なんと深い愛情なのだろう。きっとこんな愛は、僕には注がれない。注がれないけれど。
きっと、僕もバカな男なのだろう。彼女の再燃する恋心を美しいと思ってしまった。今まで以上に、愛おしく感じてしまったのだから。
「そうだったんですか。知らなかったです」
僕がそう答えると奏さんは得意げに笑みを零した。その艶やかな口元に「リップを変えましたか?」と聞いたら、彼女は喜んでくれるだろうか。変化に気付いてくれて嬉しいと思うか、そんなところまで見ていて気味悪いと思うか。いずれにせよ、彼女は「ありがとう」と言って笑うだろう。いつもころころと表情を変える正直な顔を持つ人だけれど、客の、しかも自分より20歳近く離れた子供相手にあからさまな嫌悪を向けられるほど、バカ正直ではない。しかしだからこそ聞けない。未尋にはあんなにも簡単に聞けたのに。
「お坊さんはこんな風に味わってないんですね」
「そうね。昔はロースターなんて言うものもなかったから、生豆をお湯で煮出して飲んでいたそうよ。ローストする前の方がカフェインはたっぷり入っているから、目は冴えたと思うけれど」
僕は昔、苦いコーヒーの方が眠気覚ましに良いと思っていた。けれどそれは逆で、酸味の強いコーヒーの方がカフェインが多く含まれているのだそうだ。苦いコーヒー、いわゆる深煎りの豆を作るためには高い火力で長時間焙煎しなければいけない。このときにカフェインも抜けていくのだと奏さんに教わった。ゆえに、本当に眠気を覚ましたいのなら浅煎りの酸味の強いコーヒーを飲んだ方が良いんだとか。
「お坊さんは、相当すっぱいコーヒーを飲んでいたんでしょうね」
「この前の話、覚えててくれたんだ。嬉しいなあ」
「忘れないですよ。そう簡単に」
奏さんから教えられたことは。
僕は置かれていたコーヒーを口に運ぶ。このコーヒーが美味しいと思うのは、豆が良いからなのか、高美さんの腕がいいからなのか、器が良いからなのか、目の前に奏さんがいてくれるからなのか。
味は味覚や嗅覚だけでなく、視覚情報などによっても変化すると言われる。ならば多分全部だろう。でもそうすると……
「現地の人は、Suburbsの味を知ることはできないんですね」
なんの気なく放った一言が、静寂を呼んだ。冷蔵庫から漏れた重低音が、やけに伸びやかに店内を周遊していた。奥で作業していた高美さんの手が止まっていたのだ。目を見開いて、真顔をこちらに向けていた。その間、奏さんから声がないのは、おそらく高美さんから放たれる雰囲気がいつもとは違うものだったからだろう。
なにかまずいことを言っただろうか。気まずさと視線を振り払うように何度かまばたきをして、ついには耐えきれなくなって唇をわななかせた。
「それだ」
同時に高美さんの声が零れた。
「えっと、なにがですか」
「ずっとわからなかった。コーヒーとの向き合い方」
こんなに美味しいコーヒーを淹れる喫茶店のマスターなのに?
「親戚が焙煎屋で小さいころからコーヒーが近くにあった。大人になったらコーヒーと関わりのある仕事をすると思っていた。高校生のころ、バイヤーの存在を知った。パイオニアたちの雄姿を見て、私はバイヤーになることにしたんだ。そこから英語とスペイン語を猛勉強して海外に渡れる準備をした。初めは他のバイヤーに付いて行って学ばせてもらって、いつからか一人で海外を渡り歩くようになって。百貨店に入るくらい高級で有名なコーヒーショップの豆の買い付けを任されたとき、ようやく一人前になれたと思った。けれどある日、海外で強盗に遭ってケガをした。なかなか治らなくて、現地で過ごしている間に病気にも罹った。そこで自分の限界を感じてバイヤーを辞めた。でもコーヒーに関わった仕事をしたかった。だから当時から付き合っていた奏とこの喫茶店を開いたんだ。けれど」
高美さんは深々と息を吐いた。
「なにかが違うと思っていて。でも日々はずっと満たされていて。これが正しい方法なのかわからずにコーヒーを淹れていた」
高美さんの視線が僕を正面から捉える。
「私は生きがいを与えてくれた農園の人たちになにも返せてないってことがわかった」
「なにも安値で買い叩いたとか、そんなことはしてないんでしょう? だったらそのときに返せていますよ。向こうはお金をもらって幸せで、それで良いじゃないですか。僕はなにもそんなつもりで言ったわけじゃなくて」
「勘違いしないでくれ。感謝しているんだ。雪春くんのおかげで気付けた。生活のためにお金は必要で、向こうだってお金のために農園をやっていたというのはわかる。でも、バイヤーにも農園にも根幹にあるのは美味しいコーヒーを提供したいという願望だ。あの人たちが作った豆がこんなにも美味しくなっているってことを伝えに行かないと」
興奮気味に話す高美さん。奏さんはと言うと、なにかにじっと耐えているような表情だった。そのまなじりは湿り気を帯びているように思えた。
それから数分間話に付き合っていると、熱が冷めてきて興奮し過ぎていたことを悟ったのか、少し恥ずかしそうに謝罪をして、バックヤードに引っ込んでいった。
奏さんは追い掛けるでもなく、声を掛けるでもなく、ただそこに居た。
高美さんの言動が本当の気持ちならば、彼は近々自分で焙煎した豆を原産地に持っていくことになるだろう。そうなればこの店は、奏さんはどうなるのか。
「すみません。僕のせいで……。高美さん、きっと冷静になりますよ。だって、奏さんを置いて行くわけ、ない」
切なさがせり上がってきて、最後の方は声が掠れてしまった。僕のせいで二人が離れ離れになってしまうという焦りと、一方でそうなってほしいと思ってしまっている罪悪感とで、心の真ん中がきゅうきゅうと締め付けられていた。
奏さんはゆっくりとかぶりを振り、愁いを帯びた——それでいて幸福そうな笑顔を湛えた。
「わたしが恋をしたときのあの人の、目と声と息遣いだった」
それから口を押えると、両目から涙がツゥと流れた。
「バカな女だわ。あのときから変わらず。きっとあの人の背中を見るのが好きなのね」
声は震えていた。それは置いて行かれることを知っているからだ。しかしそれでも彼を応援するために見送りたいと思う。なんと深い愛情なのだろう。きっとこんな愛は、僕には注がれない。注がれないけれど。
きっと、僕もバカな男なのだろう。彼女の再燃する恋心を美しいと思ってしまった。今まで以上に、愛おしく感じてしまったのだから。



