コーヒーが好きだ。春の花びらにも似た、夏の青空にも似た、秋の西風にも似た、冬のマフラーにも似た、その豊かな表情を持つ風味が好きだ。立ち上る湯気の湿り気が好きだ。口当たりのまろやかさが好きだ。口の中に広がる苦味が好きだ。鼻を通るハーブの、或いはフラワーの、或いはフルーツの、或いはカカオのフレーバーが好きだ。
僕は行きつけの喫茶店Suburbsのカウンターで、メニューに目を通しながら、どれにしようか悩んでいた。壁から暖かい風がそよぎ、前髪が額を撫ぜる。
「マンデリンにする?」
そこへ、カウンターを挟んで向かい側の女性——香澄奏さんが問いかけてきた。マンデリン・G1・トバコ・クイーンスマトラの深煎りは、僕が一番好きなコーヒーだ。「じゃあそれで」と咽喉の辺りまで出掛かって引っ込める。
「奏さんのお薦めはありますか?」
この喫茶店に初めて来たとき、お薦めを聞いて返ってきた答えはブレンドだった。ブレンドを飲んでもらえばこの店がやろうとしていることや他の豆のクオリティもわかるからと、高校生の僕に対してコーヒーマイスターにするような説明をしてくれたのを覚えている。次にお薦めを聞いたときは「僕へのお薦め」と勘違いして、飲みやすいモカの中深煎りを提供された。エチオピア・モカイルガチョフ・G1・コチャレ・ウオッシュドは、柑橘系の爽やかな香りと甘みがあるのだけれど、水洗式はそれを一層クリアに引き立てるからとても飲みやすく……と、そうじゃなくて。
「奏さんの好きなコーヒーです」
彼女は一旦考え、少し申し訳なさそうな顔をして僕の持っているメニュー表に指を添えた。
「プリンセサワイニー?」
「そう。浅煎りだから、深煎りが好きな雪春くんには合わないかも。ちょっと高いんだけれど良いかしら?」
僕が頷くと、彼女は奥で豆の選別をしていた男性——高美さんに声を掛ける。
「あなた、プリンセサワイニー一つ」
「はい」
高美さんは丁寧に返事をすると、豆の選別をやめて、コーヒー豆が入ったキャニスターをカウンターの下から取り出した。カップで測り、コーヒーミルへと投入。モーター音とコニカル式のミルに削られる豆の音が店内に響く。
「奏さんはなんでプリンセサワイニーが好きなんですか?」
よくぞ聞いてくれました。と聞こえてきそうな笑顔を零す。
「これには……うん。コーヒーの概念が覆されたのよね。とても芳醇でフルーティで……なんだかまるでワインみたいで」
「ワインですか。ワイニーってワインって意味なんですか?」
「そうそう。ま、わたしお酒飲めないからワインの味わかんないんだけどねっ」
へへへっ。と茶目っ気たっぷりに笑う。細められた目。笑いジワが寄ってもなお薄絹を思わせるまなじりに見入ってしまう。
「ちょっとごめんなさいね」
奏さんはベージュのニットの袖を巻くってソーサーを置いた。それからコーヒーがカウンターを越えてくる。木目のテーブルの上に青い帆布のランチョンマット。その上に紺碧の美濃焼が映え、コーヒーの黒を際立たせていた。
「どうぞ」
さらにその横にもう一枚プレートが置かれる。上にはシフォンケーキ。
「あれ?」
「サービス」
にっこり笑った彼女の袖からフローラルが香る。奏さんはコーヒーの匂いを損ねないようにと香水は付けないけれど、清潔な生活感がほのかに漂っていた。
コーヒーの表面は凪に湯気。それなのにさざ波が立つ乾いた僕の心。
ごまかすように飲むと、すぐに先の動揺が消えた。まず果実が燻った。浅煎り特有の酸味はあるけれど、尖っていない。まろやかで、そして重い。粘質的な香りは最後まで居座り続けた。普段のコーヒーをカルピスとするなら、これはさながらヨーグルト。それほどまでに違っていた。
「独特……」
顔を上げると得意満面の奏さんがいた。
「それと、時間の経過によって味が変わっていくのよ」
それはまずくなると言うことではないのだろうか。冷えて酸化すればどんなコーヒーでもまずくなる。
「冷めてもおいしいの」
まるで僕の心中を見透かしたかのような言葉にドキリとする。
「それこそ、コーヒーからだんだんワインに近付いて行く……みたいな感じかしら。すごいわよね。コーヒーって熱いときが一番おいしいって思っていたのに、全部の時間がそれぞれにおいしいんだもの」
奏さんが言う通り、それは飲むたび味を変えた。まるで魔法を飲んでいるようだった。
「このお店って珍しい豆を置いてますよね。他の店では聞いたことがないような」
「旦那のバイヤーとしてのサガかしら」
僕が奥にいる高美さんに視線を送ると笑顔を返してきた。豆の選別の続きをしている。
「でもお洋服とかのバイヤーとは違うのよ。インディージョーンズなの」
え。あの、映画の? どういうこと?
「はははっ、それじゃあわからんだろう」
高美さんが微苦笑を湛えていた。
「どういうことなんです?」
「コーヒー豆のバイヤーと言うのは農園に行って直接交渉をして契約を結ばなきゃいけない。コーヒー農園があるところっていうのは日本みたいにインフラが整っていないところが多くてね。探検に行っているような感覚だったんだ」
だからインディージョーンズ、か。
どうやらその名残で、今もまた珍しい豆を見るとついつい購入してしまうそうだ。
「歳をとって体が思うように動かなくなったらそういう無理もできなくなった」
歳を取ったとは言っても高美さんはまだ40歳だ。しかし、海外で無理を効かせられるような年齢ではないということなのだろう。
「雪春くんも、チャレンジは若いうちの方が良いよ。体が動いて免疫がしっかり働いてくれたらケガも病気もしづらい。それに万一ケガや病気をしても治りが早いからね」
高美さんはいつも僕を応援してくれる。僕は頷きを返した。この人の言葉は説教臭くなくて清々しいから好きだ。すっと腹に落ちる。
でも、僕が今一番したいこと、チャレンジしたいこと、手を伸ばしたいことは。
シフォンケーキを口に運び、コーヒーを飲み終えて奏さんを見ると。視線が合うとすぐに笑顔を湛えた。その表情は、とても華やかでいて。
僕は行きつけの喫茶店Suburbsのカウンターで、メニューに目を通しながら、どれにしようか悩んでいた。壁から暖かい風がそよぎ、前髪が額を撫ぜる。
「マンデリンにする?」
そこへ、カウンターを挟んで向かい側の女性——香澄奏さんが問いかけてきた。マンデリン・G1・トバコ・クイーンスマトラの深煎りは、僕が一番好きなコーヒーだ。「じゃあそれで」と咽喉の辺りまで出掛かって引っ込める。
「奏さんのお薦めはありますか?」
この喫茶店に初めて来たとき、お薦めを聞いて返ってきた答えはブレンドだった。ブレンドを飲んでもらえばこの店がやろうとしていることや他の豆のクオリティもわかるからと、高校生の僕に対してコーヒーマイスターにするような説明をしてくれたのを覚えている。次にお薦めを聞いたときは「僕へのお薦め」と勘違いして、飲みやすいモカの中深煎りを提供された。エチオピア・モカイルガチョフ・G1・コチャレ・ウオッシュドは、柑橘系の爽やかな香りと甘みがあるのだけれど、水洗式はそれを一層クリアに引き立てるからとても飲みやすく……と、そうじゃなくて。
「奏さんの好きなコーヒーです」
彼女は一旦考え、少し申し訳なさそうな顔をして僕の持っているメニュー表に指を添えた。
「プリンセサワイニー?」
「そう。浅煎りだから、深煎りが好きな雪春くんには合わないかも。ちょっと高いんだけれど良いかしら?」
僕が頷くと、彼女は奥で豆の選別をしていた男性——高美さんに声を掛ける。
「あなた、プリンセサワイニー一つ」
「はい」
高美さんは丁寧に返事をすると、豆の選別をやめて、コーヒー豆が入ったキャニスターをカウンターの下から取り出した。カップで測り、コーヒーミルへと投入。モーター音とコニカル式のミルに削られる豆の音が店内に響く。
「奏さんはなんでプリンセサワイニーが好きなんですか?」
よくぞ聞いてくれました。と聞こえてきそうな笑顔を零す。
「これには……うん。コーヒーの概念が覆されたのよね。とても芳醇でフルーティで……なんだかまるでワインみたいで」
「ワインですか。ワイニーってワインって意味なんですか?」
「そうそう。ま、わたしお酒飲めないからワインの味わかんないんだけどねっ」
へへへっ。と茶目っ気たっぷりに笑う。細められた目。笑いジワが寄ってもなお薄絹を思わせるまなじりに見入ってしまう。
「ちょっとごめんなさいね」
奏さんはベージュのニットの袖を巻くってソーサーを置いた。それからコーヒーがカウンターを越えてくる。木目のテーブルの上に青い帆布のランチョンマット。その上に紺碧の美濃焼が映え、コーヒーの黒を際立たせていた。
「どうぞ」
さらにその横にもう一枚プレートが置かれる。上にはシフォンケーキ。
「あれ?」
「サービス」
にっこり笑った彼女の袖からフローラルが香る。奏さんはコーヒーの匂いを損ねないようにと香水は付けないけれど、清潔な生活感がほのかに漂っていた。
コーヒーの表面は凪に湯気。それなのにさざ波が立つ乾いた僕の心。
ごまかすように飲むと、すぐに先の動揺が消えた。まず果実が燻った。浅煎り特有の酸味はあるけれど、尖っていない。まろやかで、そして重い。粘質的な香りは最後まで居座り続けた。普段のコーヒーをカルピスとするなら、これはさながらヨーグルト。それほどまでに違っていた。
「独特……」
顔を上げると得意満面の奏さんがいた。
「それと、時間の経過によって味が変わっていくのよ」
それはまずくなると言うことではないのだろうか。冷えて酸化すればどんなコーヒーでもまずくなる。
「冷めてもおいしいの」
まるで僕の心中を見透かしたかのような言葉にドキリとする。
「それこそ、コーヒーからだんだんワインに近付いて行く……みたいな感じかしら。すごいわよね。コーヒーって熱いときが一番おいしいって思っていたのに、全部の時間がそれぞれにおいしいんだもの」
奏さんが言う通り、それは飲むたび味を変えた。まるで魔法を飲んでいるようだった。
「このお店って珍しい豆を置いてますよね。他の店では聞いたことがないような」
「旦那のバイヤーとしてのサガかしら」
僕が奥にいる高美さんに視線を送ると笑顔を返してきた。豆の選別の続きをしている。
「でもお洋服とかのバイヤーとは違うのよ。インディージョーンズなの」
え。あの、映画の? どういうこと?
「はははっ、それじゃあわからんだろう」
高美さんが微苦笑を湛えていた。
「どういうことなんです?」
「コーヒー豆のバイヤーと言うのは農園に行って直接交渉をして契約を結ばなきゃいけない。コーヒー農園があるところっていうのは日本みたいにインフラが整っていないところが多くてね。探検に行っているような感覚だったんだ」
だからインディージョーンズ、か。
どうやらその名残で、今もまた珍しい豆を見るとついつい購入してしまうそうだ。
「歳をとって体が思うように動かなくなったらそういう無理もできなくなった」
歳を取ったとは言っても高美さんはまだ40歳だ。しかし、海外で無理を効かせられるような年齢ではないということなのだろう。
「雪春くんも、チャレンジは若いうちの方が良いよ。体が動いて免疫がしっかり働いてくれたらケガも病気もしづらい。それに万一ケガや病気をしても治りが早いからね」
高美さんはいつも僕を応援してくれる。僕は頷きを返した。この人の言葉は説教臭くなくて清々しいから好きだ。すっと腹に落ちる。
でも、僕が今一番したいこと、チャレンジしたいこと、手を伸ばしたいことは。
シフォンケーキを口に運び、コーヒーを飲み終えて奏さんを見ると。視線が合うとすぐに笑顔を湛えた。その表情は、とても華やかでいて。



