あれ以来、僕は璃愛(りあ)さんと一緒に帰ることはなかった。
 彼女から誘われることはなかったし、もとより僕から誘うなんて出来やしないことなので、自然と交友が途絶えた状態だった。
 春に出会った彼女と、夏の入道雲を一緒に登ることは叶わなかった。

 鈴虫の羽音が響き渡る季節に入って、僕は美術部の部室を訪れていた。
 部屋の扉をガラガラと開ける。部員の視線が集まる。僕を見て、部員の方々は固まった。みんな一様に気まずそうに俯く。そんな中、璃愛(りあ)さんだけ笑顔を向けていた。あの、誰かのための笑顔を。

 チャイムが鳴り、みんなそろりそろりと帰り支度を始めた。
 僕は璃愛(りあ)さんへと足を向けた。笑顔の内側に踏み込む。

「一緒に帰ろう」

 僕が誘うと、彼女はためらいがちに頷いた。
 校舎をあとにして、二人並んで歩く。なんだかとても新鮮に思えた。オレンジ色に滲んだアスファルトが絨毯みたいだなと思った。
 伝えたいことがあったから誘ったんだけれど、どこから話したものかと悩む。しばらく黙って歩いていると、彼女の唇が夕景を割る。

「焼けたよね、(そう)くん。夏休み、なにやってたの?」
「合宿」

 出し抜けな言葉だったと思う。彼女が息を飲む音が聞こえた。

「テニス部、入ったんだ」
「そ、そうなんだ」
「お義父さんには本音を言ったよ。僕は運動音痴だから別に本気でやらないし、大人になってから役に立つことを得る気もない。単にやってみたいからやる。団体戦も出たくないから個人戦ばかりに出場する。お義父さんにはメリット一つもない上にお金ばかりかかるけれど、それでも良いですかって」

 父親の部屋に向かったときのことを思い出しながら言った。

「そしたら、良いよって。すごく嬉しそうに言ってくれた」

 僕が笑顔を向けると、彼女は眼鏡の奥の瞳に橙色の潤みを湛えた。

 それから僕は、試合に出てたまたま弱い相手と当たったから一回戦だけ突破したけれど次に当たった選手が強くて惨敗したことも話した。

「言ってくれたら応援しに行ったのに」
「多分一回戦で負けるから、来てもらったのにすぐ帰るんじゃあ申し訳ないよ。それに、夏休み中だったから会えなかったし。連絡先も知らないし」

 すると彼女は慌ててスマフォを取り出してトークアプリのアカウントを教えてくれた。
 お互いに取り出したままのスマフォで改札を抜け、一番ホームへ向かう。
 すぐに僕が乗る電車は来たのだけれど、やり過ごして彼女のための電車を待つ。

「今度は応援行くよ」
「えー。すぐ負けるよ?」
「負けたらそのあとご飯食べに行こうよ。遊んで帰ろう」
「楽しそうだね。あっ、でも」

 彼女は首を傾げた。

「その前に、僕にも応援させて。テニス部に入ったなら、公募に挑戦するって言っていたよね」

 彼女の口が「あっ」と開いて、そのままゆっくり閉じた。

「あのときはごめん」

 謝罪を口にし、腰を折る。

「失望したでしょ? せっかく『わたし』だと思った僕が他人だったなんてさ。だから、ただ単に部活に入ったんじゃあダメだって思った。せめて試合に出てから報告しようって思ったんだ。そしたら『わたし』を取り戻せるかもしれないって。副次的なものだけれど、敗北の悔しさも味わえた。あれさ、負けたらめちゃくちゃ悔しいよね。それを僕は璃愛(りあ)さんに味わえって言っていたんだよね」

 彼女を見ると、瞳が震えていた。

「期待してない僕でさえあんなに悔しかったんだから、本気で挑んでいく璃愛(りあ)さんはもっときついよね。だからこそ覚悟をするためにも『わたし』たる僕が行動を起こしたらやろうって、指針にしてくれたんだよね。それを軽々しく受け取ってしまった。許されない行為だと今なら思える。だから、ちゃんとわかった上で言うよ」

 彼女の手を取って握った。ビクッと震える。構わず瞳をまっすぐに見る。

「僕は『わたし』を応援したい。だから詩を応募してほしい」

 璃愛(りあ)さんの湿ったまつげは夕映えを閃かせている。

「もしも、ダメだったら、慰めてくれる?」
「そのときは残念会を開こう。美味しいものでも食べよう。気分転換にピクニックに行くのも良いと思う」

 これではまるでデートに誘っているみたいだ。

「もしかして口説かれてる?」
「否定できないね。さすが『わたし』」

 僕がおどけて言うと、彼女は「えへへ」と笑った。
 電車がホームに滑り込んで来て、彼女の艶やかな髪が夕景と踊った。間もなく、彼女のためのドアが開く。
 僕は慌ててずっと握りしめていた彼女の手を離した。

「それじゃあ、またね」

 心の中でいってらっしゃいと付け足した。