エンターキーの連続だった。

 僕はその絵を見た瞬間に固まり、息を飲んだ。
 窓から差し込んだ斜陽。廊下の壁の掲示板に張り出された美術部の作品。作者の名は芽立里(めりつり)璃愛(りあ)。絵のことはまるきりわからない僕でも、作者が素人であることは一目瞭然だった。奥行きもなく深みもない、壮大や荘厳からはかけ離れた、のっぺりとした紫色の背景の上にアイボリー色のエンターキーが何個も配列されたデジタルアート。
 誰の目にも同じように映る究極の二次元。全方位的であり、でも、だからこそ、僕だけに一直線的に向けられたもののように感じて固まってしまったのだ。

「入部希望?」

 中から現れた美術部の人に尋ねられ、別の意味で固まる。

「あ、えっと。この絵」

 エンターキーの絵に指を向けると、美術部の人は「あー」と声を漏らし頷く。

芽立里(めりつり)さん、美術部のエースなのよ」

 道理で心掴まれるわけだ。

「でもこっちの作品がコンクールで受賞したの。銅賞よ。我が美術部初の」

 彼女が指したのは僕が見ていた絵とは違う、絵の具によって描かれたものだった。たくさんの色が混ざりあっている素敵な模様だと思った。しかし、模様だ。これはいったいなにが言いたいのだろう。わからない。絵を見る素質がないのだろうか。

「こっちは?」
「それはコンクールに応募してないけれど、多分無理ね。エンターキーをコピペしただけだもの。アプリで簡単に作れるし——あっ」

 会話の途中で彼女の視線が僕から外れる。その先を追って振り返ると、そこには艶やかな髪を肩まで伸ばした前髪ぱっつんの女の子がいた。眼鏡の奥のやさしげな瞳が斜陽によって細められ、微笑んでいるように見えた。

芽立里(めりつり)さん! ファンの子」
「ファン?」

 首を傾げる芽立里(めりつり)さんを残し、部員の人は「そっ」と言い残して部室の中に入って行ってしまった。

「え、いや、その」

 確かに心奪われた。でも、それはデジタルアートの方であって、賞を獲った作品にではない。

「絵のことは全然わからなくて! ……だから賞を獲った作品の良さも全然わからないから、ファンだなんておこがましいことは言えない……でも、そっちのエンターキーを見た瞬間に、なんか」

 言い淀んで視線を落とした。同じ学年だとわかる上履きが目に入った。その視線を遮るように首を傾げたままの芽立里(めりつり)さんが割って入る。必然的に上目遣いをされるような形になり、思わず呼吸が止まる。眼鏡の奥にある日向を嵌め込んだ瞳は湖面のようにきらめいて、まばたきに揺れた。

「なんか?」

 その言葉に、僕の言葉の続きを待っているのだと知る。遅まきに。

「なんか、こう、自分に不足しているものを見せられているように思えたんだよね。たくさんエンターキーだけが並んでいるのってなんか不自然でさ。これってエンターキーを作ってる工場のベルトコンベアの上なんじゃあないかなって。それで、それらは本体に組み込まれるべくして組み込まれていくのだけれど、僕にはそれが、ないんじゃないかなって。それを押し付けるでもなくただ見せて来るこの絵が、温かいけど無責任だなって」

 支離滅裂な怪文書を音読したのだろうか僕は。脳内で処理するより早く外に出してしまった言葉たちなんか、伝わらないように思う。のだけれど——

「『わたし』だ!!」

 芽立里(めりつり)さんは瞳をパッと開いて、嬉しそうに叫んだ。