【月曜日】
 柑露寺一途(かんろじいちず)の朝は早い。きっかり六時〇〇分。時計の針がそこを指したその瞬間、柑露寺一途は目を開く。目覚まし時計は必要ない。そうして上体を起こすと大きく伸びをしながらあくびをした。
「あー、ねむ」
 眠気を感じていないわけではない。ただ時間になると機械的に、自然と目が開いているのだ。そうやってベッドから出るとキッチンに向かい、コップに水を注ぐ。寝ぼけ眼で、縁のギリギリまでなみなみと。冷たい水が喉を通っていく最中、なんだか足下に心許(こころもと)なさを感じ、スリッパを履き忘れていることに気づく。ここまでが一つのルーティンだ。
 そうしてとりあえず今日のところはスリッパ問題を忘れることにして、そのまま洗面所に足を進める。ヘアバンドで髪をまとめて(ひたい)を出すと、鏡の中にはっきり柑露寺一途の顔が映った。また冷たい水でサッと顔を洗って、オールインワンの化粧水でパッティング。そうしているとヘアバンドにプリントされたパンダと目が合ったような気がして、自然と口角が上がっていく。
 スキンケアを終えると急ぎ足で部屋に戻って、柑露寺一途はクローゼットの前で小さなファッションショーを開始した。羅列された服をまじまじと眺める。最近は朝晩の寒暖差が激しいと、ストライプのシャツ、軽やかなフレアスカート、そして薄手のカーディガンを取り出して壁に掛けた。これで少し肌寒くなっても大丈夫だろう。
 柑露寺一途は壁に並んだ「今日の自分」を見て満足そうに頷くと、今度はそのまま棚からポーチを取り出して、クローゼットの鏡で軽くメイクを始めた。下地、ファンデ、パウダー、コンシーラーとなんとなく重ねていって、目、眉、頬を雰囲気で整える。集中して無心で鏡を見つめていると、何故か口の開いた顔が映っていて不思議に思ったりなんかして、そんなこんなで事務的に作業をこなしていったらあとはミストを吹きかけておしまい。さあ、あともう少しだ。
 メイクを済ませた柑露寺一途は、早足でまた洗面所へとUターン。ヘアバンドを外して、毛先を軽くブラッシング。根元は軽く濡らしドライヤーで乾かしたら、誰かから貰ったヘアオイルで適当に整える。それだけで艶々(つやつや)しく、柑露寺一途の髪の毛は輝きを取り戻した。これで準備は万端。
 柑露寺一途の朝はここから始まる。半ば義務めいた作業を済ませて、ようやく近づいてきたそこに向かう足取りは自然と軽快だ。
 冷蔵庫を開けて様々なフルーツを取り出すと、整列させるようにまな板へ並べていく。バナナ、リンゴ、キウイ、そして冷凍パックのアサイー。色とりどりの果物たちに、窓から射す陽の光が反射して宝石のような輝きを放つ。その美しさに(わず)かばかりの口惜しさを覚えながら、包丁を取り出し軽くカットすると、今朝の分を次々と牛乳の(そそ)がれたブレンダーに放り込み、蓋をするように冷凍庫から取り出した氷で覆った。そうして高揚感を身体中に(まと)わせて、そのボタンを押す。最初は——ガッ、ガッ、ガガガッと不規則な振動が手を通して伝わって来た。ブレンダーの中ではまだ形のある果物たちが、ゴロゴロと踊っている。それがやがて軽快に音を刻み始めて、なめらかにとろみを帯びた液体が均等な回転へと変わっていくのだ。柑露寺一途はその時を待ち()びながら、ブレンダーの蓋を抑え続けた。まだか、まだかと。
 そうして完成したそれは、(ほの)かに白みがかった(あわ)い紫色に染め上げられている。美しく混ぜ合わされたスムージーをステンレスのカップへと(そそ)ぐ瞬間。その瞬間に「もうこれで一日も終えてもいいのでは」というくらいの幸福感が柑露寺一途に降り(そそ)いだ。
 あとはお気に入りの銅製ストローを挿して、一気に喉の奥へと運ぶだけ。甘さと酸味が混じり合った冷たいスムージーが、食道を通って全身へと広がっていく。つい先程までブレンダーがかき鳴らしていた騒音が鎮まり、際立った静寂(せいじゃく)の中で頭のてっぺんからつま先まで染み渡っていくスムージー。それが今日一日の原動力となるように。
 スムージを飲み終えると、歯と食器を磨いて一つ息を吐く。(ほの)かな甘みの残った口の中から。そうしてまた部屋に戻ると軽くリップを塗って、掛けておいた服に着替える。あとはカバンと鍵を持って玄関までゆっくり歩いて、そうして扉を開けると爽やかな春の風が柑露寺一途の(つや)やかな髪を撫でた。
 柑露寺一途の一日が始まる。

 *

【火曜日】
 柑露寺一途は挨拶をする。
「おはよーございまーす」
 間延びしたような声を出しながら柑露寺一途がスタッフルームの扉を開くと、店長の葉子(ようこ)さんはもうカルテを広げて何か作業を始めていた。
「今日もぴったり八時三八分。すごいね」と店長がいつものように笑う。
「染み付いてて。身体に」
 柑露寺一途がそういうと、他のスタッフさんも連鎖するように小さく笑い声を出した。
 そうして軽く会話を交わしながら、ロッカーからエプロンを取り出して肩にかける。艶々(つやつや)しく輝く髪を後ろで束ねたら、もう開店の時間だ。

 時計の針が九時を指してサロンが開店すると、すぐに予約のお客さんがやって来た。
「来週推しのライブがあってぇ。またメンバーカラーの黄色にしたいんですけどぉ」
 もう何度も来店している彼女のカウンセリングはそれだけで十分で、順調に施術(せじゅつ)へと進む。
 まずはネイルオフ。コットンに浸したリムーバーで爪を包んで、前回のネイルを丁寧に削り取っていく。そうやって何度も、何度も繰り返して爪の形を整えたら、ようやくジェル塗りだ。今日も適当に済ましたメイクをナチュラルメイクと言い張って出勤して来た柑露寺一途だけれど、ベースジェル、カラージェルと慎重に時間をかけて塗り重ねていく。至って真剣な眼差しで。ジェルを塗って、ライトで固めて。気が遠くなるような作業。しかし、柑露寺一途にとってそれは、(わずら)わしいメイクと違い夢中で没頭できるものだった。
 差し出された爪をオーダーされた黄色に染め上げ、ラメを走らせ、彼女が推しているという熊耳バーチャルアイドル綺羅星(きらぼし)ユズを模した熊のアートや、名前に入っているユズのストーンで飾り固める。そんな作業を、両手の指を美しく輝かせるまでただ繰り返していくのだ。

 そうして完成した一〇枚のネイルは、繊細なガラス細工(ざいく)のように光を放つ。その瞬間ただ手の一部であっただけの爪が、意味を持ったアートへと変わるのだ。
 柑露寺一途はネイルアートの(ほどこ)された爪を世界と呼ぶ。何もない爪の一枚一枚に、新しい世界を(とも)していくこと。それがネイリストの仕事だと。だからこれは陽だまりのように溌剌(はつらつ)と色めく黄色の中を、熊やユズが泳いでいるようなそんな世界。溢れんばかりの幸福に包まれた世界だ。
「できた。どう? いい感じ」
「最高ですっ!」
 お客さんは両手の指と指を目いっぱい開き、キラキラとした目で眺めながらそう弾んだ声を出した。柑露寺一途の淡々とした言葉にも、彼女はたくさんの感情を乗せて返してくれる。だから何かと希薄(きはく)な柑露寺一途も、そんなお客さんに釣られて少し声色が弾むのだ。
「ふふっ。やった」
「ありがとうございますっ! これでユズくんに会いに行けますっ!」
「楽しんで来て。ライブ」
「はいっ!」
 そうやって一〇の世界を(たずさ)えて上機嫌で帰って行くお客さんを見るのが、柑露寺一途にとって何よりの喜びだった。

 *

【水曜日】
 柑露寺一途は一人でカラオケに行く。サロンの定休日である木曜日、つまりは柑露寺一途にとっての休日を翌日に控えた水曜日の仕事帰り。柑露寺一途の足は自然と駅前の一人カラオケ専門店に引き寄せられていた。
 柑露寺一途は特別音楽を聴いたりする方ではない。知ってる曲はだいたいサロンで流れている曲か、映画の主題歌か何か。サロンではその時々の流行曲がノイローゼになるのではないかという頻度で繰り返し流れるので、自然と歌詞も覚えてしまう。お客さんにとっては数時間に何回か「また流れているな」と感じるくらいの曲も、スタッフにとっては一日中、一週間中聴き続ける曲ということになるのだ。
 だから柑露寺一途はストレスではなく、一週間の勤務で身体に溜まり切った音を発散するように歌う。曲のタイトルも知らないので、歌詞中の印象的なフレーズで検索したりして目当ての曲を見つけた時や、初めてちゃんと歌詞を見て「ここはこう言っていたのか」と気づいた時に出るドーパミン、大きな声を出すことで生まれるセロトニンで心身の健康を維持しているのだ。

 そうして目いっぱい歌い終え帰路についていると、柑露寺一途は背後に何か気配のようなものを感じた。最初は気のせいかと歩き続けたけれど、次第に足音のようなものが夜道に響き始め、そんな違和感を振り払うように少し足取りを早める。しかし、それに合わせるように背後から聴こえる音もどんどん近づいて来るのだ。柑露寺一途の呼吸が荒くなる。嫌な予感と感覚を押さえ込もうと肩にかけたカバンの紐を握りしめながら、とにかく前へ、前へと進んでいく。嫌な汗が額を(つた)う中。
 ああ、だめだ。怖い。そんな風に無に徹していた柑露寺一途の表情が暗く、青ざめていった。普段はなんとか笑顔を作って忘れようとしていても、こうやってふとした時に柑露寺一途はあの日を思い出してしまう。大切な人を傷つけられたあの瞬間を。大切な人を失う恐怖を。どうやったって変えることのできない過去を。一度こうなるともうだめだ。どんどん、どんどん息のしかたもわからなくなって、深く暗い闇の中へと落ちていく。必死に(もが)いて、(もが)いてもみんな、大切なもの全てが目の前から消えていってしまうのだ。苦しい。そんな世界で生きていくことは、どうしようもなく苦しい。
 そうして底のない暗闇の向こうへと落ちていく狭間(はざま)、柑露寺一途の肩に妙な温もりと感触が乗せられた。
「——いっちゃん!」
 反射的に身体を(すく)ませ振り吹いた柑露寺一途の目に、その見知った姿が映される。
「やっぱり、いっちゃんだ。久しぶり〜」
「……蕉子(しょうこ)ちゃん?」
 パニックと安堵が混ざりあったような柑露寺一途を置いて、彼女はあっけらかんと話し続ける。
「そだよ〜。あれ? どした?」
「……えっ。あ、うん。ごめん。大丈夫。なんでもない。うん。久しぶり」
 数秒を要しながらも少し落ち着きを取り戻した柑露寺一途がそう返すと、彼女はニコニコと笑った。
 芭場蕉子(ばばしょうこ)。ふわふわに巻かれた茶色の髪に、まるまると(うる)んだフチありカラコン、色味を抑えながらもしっかりと(ほどこ)されたメイクと防御力の低そうな服装。巧妙に計算し尽くされたナチュラルを全身に(まと)った彼女は、数年前柑露寺一途が通っていたネイルスクールの同級生だ。一見正反対のような二人だけれど、大学を中退してネイルスクールに通い始めた柑露寺一途と高校卒業後しばらくしてから思い立って入学した彼女は年齢も同じで、在学中はよく一緒にいることも多かった。自然と形成される空気というものの中で浮いてしまいがちな柑露寺一途にとって、誰とでも分け(へだ)てなく接し打ち解けてしまう彼女はとても大切な友人なのだ。
「やば。いつものいっちゃんだ。全然変わってないじゃん。マジで会いたかったよ〜」
「ふふっ。私も」
 お互い別々のネイルサロンに就職してから多忙を極め、たまに連絡を取り合うくらいで実際に会ったのはもう二年くらい前か。時間が矢のように流れる二年間だった。
「最近こっちの方のサロンに移動になったんだけど、もう忙しくってさ。いっちゃんはドリアン葉子のお店で働いてるんだよね? やっぱ大変っしょ?」
 蕉子は自らの手元に(ほどこ)されたマグネットネイル見せながら、ため息のような何かを漏らした。爪の先端だけがアクアマリンに輝かされ、確かな意味を持って設計された余白がぷるぷると(つや)めいている。本当に全身どこまでもが、計算に計算を重ねたような透明感だ。
 ネイルの魔術師ドリアン葉子。柑露寺一途が勤めるサロンの店長は、ネイリスト業界ではそんな異名で通るちょっとした有名人らしい。五年前、いきなり店にやって来た柑露寺一途にネイルスクールを紹介して、卒業後に自分の店で雇うことを約束したあの姿を見ていたらただの変わり者にしか見えないけれど。実のところ美大出身ネイリストとして業界を牽引(けんいん)するすごい人なのだ。なんだか妙な名前を名乗りながらも。
「あー。でも楽しいよ。優しいし。店長」
「え〜。そうなん〜? あっ、いっちゃんのネイルめちゃいいじゃん。自分でやったん?」
 蕉子の口と視線は(せわ)しなく動き続けて、今度は柑露寺一途の手元で輝く赤色のネイルに向けられた。
「うん」
「やば〜。めちゃ上手くなってるよ」
「え、ありがと。やった」
 柑露寺一途は嬉しそうに真っ赤なネイルを見つめる。蕉子の口から発せられる言葉は全て本心からのものだと無邪気に信じられた。
 そうして先刻までの恐怖心はすっかりほぐれ、柑露寺一途は久しぶりの再会を喜びながら時間を忘れてしばらく思い出話に花を咲かせるのだった。

 *

【木曜日】
 柑露寺一途はたこ焼きを回す。くるくる、くるくると焦げてしまわないように。柑露寺一途のタクトに従って宙で踊り回っていくその球体たちは、この宙で軌道に沿って回転し続けている星のようであった。
「一途ちゃん上手、上手。いいね」
 大阪出身だという先輩が、柑露寺一途に向かって微笑んだ。その横では店長も虹色に装飾された指で、熱心に球体を回している。

「タコパをしましょう!」
 唐突に店長がそう言い出したのがつい先週。家にたこ焼き器があるという先輩がすぐに乗っかって、他のスタッフはなかなか予定の合う人がいなかったけれど、「柑露寺一途なら来られるだろう」ということで半ば強制招集されることになったわけだ。とは言え、柑露寺一途もまた夢中になってたこを回している。
 そうしてジュージューと音を立てるたこ焼きを鉄板から皿に移して、鰹節を乗せると今度はたこ焼きを舞台にして鰹節が踊り始めた。本当に愉快な食べ物だ。
「一途ちゃんも飲めるようになったんだっけ?」
 ——プシュと店長が缶ビールを開けた音が響いた。
「あー、はい。一杯だけ?」
「じゃあほら。はい」
 先輩が度数の低い桃の缶チューハイをレジ袋から取り出して渡してくれる。
「おー、ありがとうございます」と柑露寺一途はいつもの調子だ。
 乾杯をして柑露寺一途はたこ焼きを口の中に放り込む。丸々と膨らんだそれを一思いに(かじ)ると、一気に熱気が漏れ出した。「あつっ」と反射的に柑露寺一途の口から声が飛び出る。それを見て店長と先輩が微笑ましそうに顔を(ほころ)ばせて、まるで親子……というほど歳は離れていないので姉妹と言ったところだろうか。とにかく熱々のたこ焼きと一緒に、暖かく幸せな時間が流れた。

 そうやってネイルの話なんかをしながらタコパは進んで行き、そろそろお開きにしようかとなったころだ。先輩がなんだかソワソワし始めて、すると店長が「もう、しょうがないわね〜」と優しく息を吐いた。そのまま店長はガサゴソとカバンの中に手を突っ込みそれを取り出す。
「はい一途ちゃん。これ」
「え……」
 店長はニコニコと笑顔を作って、柑露寺一途の方へその包みを渡してくる。
「今月で一途ちゃんがウチに来てから三年だから。プレゼント」
 柑露寺一途は一瞬、本当に誰にもわからないくらいの一瞬だけ少し驚いたように固まりながら、店長が差し出したそれを両手で丁寧に受け取った。
「開けてよ」と店長が(うなが)す。
 そうして柑露寺一途が慎重に包みを開封するとまた高級感のある桐の箱が出て来て、更にそれを開くと中にはステンレスのキューティクルプッシャーが入っていた。爪の甘皮処理に使うネイル道具だ。
「ネイリストはお客さんの爪を美しく飾り立てる仕事だけど、そのためのケアをする時間も大切にしないとって最初に言ったでしょ? だからそれ。これからもそれを使ってお客さんのこと綺麗にしてあげてね」
 店長は柔らかく温かい目で柑露寺一途を見つめていた。柑露寺一途を認めるように。そして、そんな日が訪れたことを自らも喜ぶように。
「……え、やば。ありがとうございます」
 柑露寺一途は涙を流さない。いつものような表情に、淡々とした声だった。驚きとか、嬉しさとか、どれも表面には出てこない。
「泣けよ〜」
 一部始終を隣で見ていた先輩が、笑いながら柑露寺一途を肘でつついて揶揄(からか)った。
「……私、使い果たしちゃったから。涙。……でも、でもすごく嬉しい。これって、合格とか免許皆伝的な? ……アレ、ですよね?」
 涙はもう使い果たしたと、これからは笑うだけの人生だからと常日頃公言し、感情表現が希薄(きはく)な柑露寺一途。そうやってまたいつものとぼけたような調子の柑露寺一途だけれど、尊敬する店長から、自分をネイリストの道へ導いてくれた店長からネイリストとして大切な道具を受け取って嬉しくないわけがない。ただその喜びを表現するのが上手にできなくなってしまっただけで、その透明な瞳の奥には確かな潜熱(せんねつ)が強く、強く宿っているのだ。そうやって柑露寺一途はプッシャーの入った桐の箱を大切に、大事そうに抱きしめる。これが精一杯の感情表現なのだと言うように。
「ふふ。そうね。三年も働いたら一人前なんだから。これからはみんなのこと引っ張っていってもらおうかな」
 店長はそんな柑露寺一途のことを理解して、温かく包み込む。全部わかってる。わかってくれている。ともすれば誤解されてしまいがちな柑露寺一途が、この人に会えたことは一体どれだけ幸運なことだろうか。
 柑露寺一途と店長の視線が重なって、柑露寺一途も少し口角を上げて微笑んだ。それだけで十分だと。それだけで通じ合えるのだと。そうして数秒、そんな二人を見ながら、先輩がまたおずおずと挙手をするようなジェスチャーをしながら切り出した。
「あの〜、私もいるんですけど〜? ——ああ、もう。店長の後だとなんか渡しづらくなっちゃったじゃん〜。ほら、私からはこれ」
 そうおどけながら今度は先輩がガサゴソと透明のビニールを取り出した。透けて見えるそれはファイルスタンド——ヤスリケース——だと一目でわかる。
「……やば。ほんとに。嬉しい。嬉しいです」
 柑露寺一途はまたたどたどしく想いを伝えようとする。心なしか少しだけ大きく目を見開いて。それを見て店長と先輩もまた笑い声をあげる。すっかり冷め切ったたこ焼き器に反して、ひたすらに温かい時間が柑露寺一途を包み込んだ。

 *

【金曜日】
 柑露寺一途は今日も働く。店長からもらったプッシャーを、先輩からもらったファイルスタンドから取り出して。今日も誰かを美しく塗り飾っていく。誰かの明日が今日よりも素敵なものになるように。ふと手元を見つめて幸せな気持ちになれるように。
 以前はぎこちなかった笑顔も、だんだん自然に漏れ出すようになって。柑露寺一途も幸せになっていく。大切な人たちに囲まれ、背中を押され。毎日を彩っていく。
 全ての苦しみが取り除かれる日なんてきっと来ない。忘れられない痛みがある。()えることのない傷もある。どうしようもない過去は変わらない。それでも。それでも前に進めるように。
 忘れられない痛みも、()えやしない傷も、どうしようもない過去も全部、全部抱えて。そうやって、少しでも前に進めるように。一歩ずつ、一歩ずつ前へ。
 このどうしようもない世界を今日も、柑露寺一途は駆け抜ける。

 *

【土曜日】
 柑露寺一途は世界を破壊する。営業終了後の施術場(せじゅつじょう)。リムーバーを浸したコットンを自分の爪に乗せ、アルミホイルで包んだらもう少し。数分が経ちアルミを外すと、燃えるような赤に染め上げられたネイルを丁寧に削り取っていく。このネイルと共に過ごした日々を思い出しながら、慎重に何度も何度も削り取って、世界は一度終焉(しゅうえん)を迎えた。

 柑露寺一途は世界を創造する。プッシャーとファイルで爪の形を整えたら、今度は新しい生命を吹き込む番だ。まずベースジェルをこれまた丁寧に、丁寧に塗り重ねてはライトで固めていく。表面の凹凸を整えるそれは、新しい世界の土壌を作るように心を込めて。そうして土台を完成させたら、色を与えていく時間が始まる。一つ一つ丁寧にカラージェルを塗り重ねては硬化と繰り返していくその時間。少しずつ色づいていく世界に、夢中で生命を吹き込むその時、柑露寺一途は全てを忘れて自らが創り出す世界に入り込めるのだ。
 そうやって右も左も、自分の手でできるようにずっと練習して来た。店長に認めてもらった今なら、どれだけ細かいネイルだって現実にできると。柑露寺一途は夢中になって塗り重ねる。

「見て見て、店長」
 柑露寺一途は完成したネイルを見せびらかすように、事務作業をしていた店長の元へ駆けて行った。
「あら。できたの。随分時間かかってたみたいだけど」
「ふふっ。完璧。どうですか?」
 店長に向けてかざされた柑露寺一途の手には、一〇個の美しい世界が創り出されていた。
 左手の親指から右手の小指を通って親指まで。モモ、アンズ、カキ、リンゴ、バナナ、アサイー、ミカン、メロン、ユズ、ドリアン。多種多様のジェルやストーンで彩り、描き、創り出した鮮やかなフルーツネイルだ。それは柑露寺一途がずっと練習していたネイル。
「素敵ね。上手にできてる」
 店長からの率直な褒め言葉に、柑露寺一途の頬も緩んだ。
「……でもなんだか、珍しい感じね」
 様々なフルーツを形取ったネイルに、店長は不思議そうな顔を浮かべている。
「いいんです! これが私の世界だから!」
 柑露寺一途は右の(てのひら)と左の甲を重ねるようなポーズでネイルを重ね合わせた。胸を張って見せつけるように。カラフルに染め上げられたその指を。
「ふふ。それならよかった。——それじゃあ、明日はお休みってことでよかったのよね?」
「はい! ありがとうございます」
 以前から変更をお願いしていたシフトの確認に、柑露寺一途は弾んだ声で応えた。数時間に及ぶ施術を終えたばかりとは思えないくらい、柑露寺一途の声はいつになく明るく輝いている。
 そうしてご機嫌な柑露寺一途は店長に向かって一つ一つ、自分が想いを込めて創り上げた世界の紹介をするのだった。

 *

【日曜日】
 柑露寺一途の朝は早い。その日は一年に一度、必ず休みを取る日。いつも通り起きて、少しだけ時間をかけてメイクをして、スムージーを作る代わりにジュースを飲んで、お気に入りの服を着て家を出る。道中は昨日仕上げたネイルを見つめながら電車を二つ乗り継いで、真っ直ぐその場所へと辿り着いた。雲一つなく晴れ渡った空の下で。
 柑露寺一途は進んでいく。中に入って、一歩一歩。軽快に足を運んで、そしてようやくそれをその目に捉える。柑露寺一途は大きく息を吐いて、いつものように声をかけた。

「ただいま。ゆーくん」

 ——柑露寺一途はここに来るといつもそんな風に言うから、“ぼく”も一応声を出してみる。こういう形式上のコミュニケーションを大切にしなければならないと、確か誰かが言っていたから。
『おかえり。しーちゃん』
 もちろんその声が届くことはないのだけれど。
 そうして柑露寺一途——しーちゃんは目を(つむ)って、鮮やかなネイルで彩られた手と手を合わせた。一〇の世界を混ぜ合わせるように。ぼくの名前が刻まれた墓石に向かって。

 *

 気がつくとベッドで眠るしーちゃんが目の前にいた。今にも覆い潰されそうな黒い雲の下で意識を失って、次の瞬間にはそこ。そうして目の前で眠るしーちゃんには、不思議なことにあの時繋がれていた大きな機械は見当たらなかった。
 何がなんだかわからなくなりながらも、何か異質な状況に置かれていることを理解すると、まず感じたのは足。自分の足に何か違和感があるとそう思った。なんだか浮くような、そんな感覚。そうして違和感の正体を確かめようと視線を落とした先にあったのは何度も見て来た病院のクリーム色の床で、だとしたらそこにあるべきものがないと気づいたのは数秒してからだった。
 ——足がない。ぼくの今にも折れてしまいそうだった細く弱った足が透けて見えなくなって、クリーム色の床だけが目にありありと映っている。
 そうして常識では考えられない事態に混乱した頭で、ないはずの足がもつれるように転びしーちゃんの眠るベッドに飛び込んでしまったその瞬間、ようやくぼくは自分が置かれている状況を理解した。

 ああ、やっぱりぼくは死んだのか。

 しーちゃんの眠るベッドすらもすり抜けて、床に叩きつけられた身体にその事実を確信する。これだけ盛大に転んだにも関わらず、まるきり奪われたように一切感じなかった床の感触の代わりに。
 意外なことに一度そう理解すると、それ以上の驚きは生まれなかった。あの黒い雲の下でもう覚悟はしていたからだろうか。なんとなくただ呆気ないなと。そんなあっさりとした感情だけ。それよりもこんな幽霊みたいなものが実在したのかとか、ベッドはすり抜けても床はすり抜けないんだなとかそんな妙な冷静さまであったのだから不思議なものだ。
 思えば、ついさっきまであれほど酷く(まと)わりついていた痛みも嘘のように消え去っている。もう何年も付き合っていたそれとの別れは、身体がすっと軽くなるような解放感すらあった。
 もちろんもっともっとしーちゃんと一緒に生きていきたかったけれど、こんな幽霊なんて形でもまた会えるならそれも悪くもないんじゃないかと、そんな思いもあったのかもしれない。しーちゃんももうすぐこっちに来るのなら、この自由になった身体でどこへでも行けるんじゃないかと。

 そんな風に考えながらしーちゃんが眠る病室を(ただよ)っていると、しーちゃんのお父さんが入って来た。久しぶりに見たその姿はなんだか少しやつれているように見える。白髪(しらが)の方が多くなったんじゃないかというような髪の毛に()けた頬。少し前にしーちゃんの治療費のために昼夜問わず働いているなんて話を聞いていたことをぼくは思い出す。今はどこか遠くに出張中だとも。恐らく、今回しーちゃんが倒れたという話を聞いて戻って来たのだろう。それから程なくして桃崎(ももさき)先生もやって来て、二人はまた何か神妙な面持(おもも)ちで話し始めた。
 ぼくは自分の遺体だか何かはどこにあるのだろうと確認しに行きたかったのだけれど、なんとなくこの病室を離れる気がしなくて二人の会話にこっそり耳を傾けてみる。すると、途切れ途切れの会話を聞いている内に、自分が覚えている限りの記憶と現在の状況にズレが生じていると気づいた。ぼくの感覚としてはついさっきあの屋上で倒れてこうなったのだと思っていたけれど、どうやら実際のところはもうそれから一週間近く経過しているらしい。しーちゃんのお父さんが病院に駆けつけたのも、もう何日も前のことだと。断片的な二人の話を繋ぎ合わせると、確かにそういうことであるようだった。幽霊になるのには時間差があるみたいだ。
 そうして現状を把握しようと二人の話を聞き続けていると、なんとなくどこかおかしいなと思うようなところを節々に感じた。何か違和感のあるような言葉が飛び交っていると。その感覚は少しずつ大きくなっていって、遂にその決定的な言葉が病室を揺らした時、ぼくはまず自分の耳を疑った。そんなことはあり得ないと。こんな身体になって自分がおかしくなってしまったのだ。そう思った。しかし二人はそれを否定するように、確かに言葉を重ねていく。雷に打たれたような衝撃的な現実に向かって。
 それはきっといくつもの偶然が重なり合って、そうなったのだと思う。奇跡なんて忌々(いまいま)しい言葉を使いたくはないけれど、そう形容せざるを得ないようなそんな偶然で。
 ぼくをずっと(むしば)んで来た病気は、至って的確にぼくの脳味噌だけを攻撃し続けていたこと。ぼくとしーちゃんは同じような体格で、同じ年齢で、同じO型の血液が流れていたこと。何人も、本当に何人も並んでいた順番待ちの列の先頭に、このタイミングでしーちゃんが辿(たど)り着いたこと。そんな本当にあり得なかったはずの偶然が幾重(いくえ)にも折り重なって起きた奇跡。

 そうやって、ぼくの心臓はしーちゃんの胸へと移植された。

 先生としーちゃんのお父さんは確かにそう言った。意味がわからない。そんなことがあるのかと、ないはずの膝が、根底からひっくり返されたように震えている。だけど、それが現実なのだと言い聞かせるように、二人の声は止まらない。あの日あの屋上で倒れたぼくは程なくして脳死判定を受け、そのまま取り出された心臓が今目の前で眠っているしーちゃんの胸で確かに脈打っている。それだけが事実なのだと。

「ぼくの脳味噌がおかしくなって死んじゃったら、しーちゃんにこの心臓渡せるよね?」
 以前、桃崎先生にそう(たず)ねたことがある。もちろん桃崎先生は「そんなこと言っちゃダメだ」と、静かに(さと)すようにぼくのことを叱った。家族以外で移植先を指定することなんてできないし、同じ血液型だからって確実に適合するかもわからない。「だからそんなこと考えないで、しーちゃんと一緒に生きようと思ってくれ」と冷静に、しかし確かな熱を持って。
 だからぼくはそんなことあり得ないのだと思っていた。気休め程度にチェックしたドナーカードの意思表示欄も、どうせ意味なんて持たないものなのだと。そう諦めていた。しかしどうやら、その奇跡が起きたらしい。ぼくらの元に今まで一度たりとも降ってなどくれなかったその言葉を使うのは本当に(しゃく)だけれど。それでも遂に、そんな都合のいい奇跡なんてものがぼくらにも微笑んだ。自分の胸にぽっかりと空いている穴を見つけてそう確信する。

 そうして計ったようにその時は訪れた。突如聞こえた物音に先生たちがざわめき出して、本当に(かす)かではあるけれど確かにその声が病室に響く。
「……お父さ……ん?」
 率直によかったと、ただそう思った。我を忘れて泣きじゃくるしーちゃんのお父さん。目頭(めがしら)に熱いものを(のぞ)かせる桃崎先生。他にも看護師長の杏西(あんざい)さんが来たり。そうやって、目を開いて(わず)かながら口を動かしたしーちゃんの姿をこの目に捉えると、身体中から様々な感情が込み上げて来て、目の奥がだんだん(にじ)んで来る。もう熱は持てないらしいこの身体を、確かな激情が駆け巡っていった。
 ぼくの心臓が今、しーちゃんの左胸で確かに生を打ち鳴らしている。
 あの奇妙な占い本に書いてあった運命というものがこれを指していたのだとしたら、そんな運命なんてふざけたものに初めて感謝したっていい。都合のいい奇跡でも、できすぎた偶然でも、計算されたような運命でも何だって構わなかった。しーちゃんがこれからも生きていてくれるなら。きっとぼくはそのために……。
 
 そうしてぼくは気づいたら、しーちゃんの心臓に取り憑く地縛霊(じばくれい)のようになっていた。

 *

 しーちゃんが供えてくれたメロンソーダのペットボトルを掴もうとしたが、やはりこの手はただ空を切るようにそれをすり抜けていく。今まで何回か物体に(さわ)れたこともあったのだけれど、やはりそう簡単にはいかないみたいだ。まあ、突然ペットボトルが宙に浮く心霊現象をしーちゃんに見せつけるなんてことになったら、それこそ困るからその方がいいのだろう。

 あれから一〇数年、ぼくはずっとしーちゃんの近くでその人生を見て来た。なんだかずっと泣いていたなと思う。それこそ目が覚めたらぼくがいなくなっていた時も、自分の胸に戻って来た正常な鼓動がぼくのものであると知ってしまった時も。本当は臓器提供者が誰かを知ることはできないのだけれど、まああんな特異な状況では気づかない方が無理があるだろう。
 他にも本当にたくさんの痛みや苦しみ、傷に晒されて、神様ってやつはどこまで意地が悪いのだろうと呪いもした。ただそれでも、こうしてしーちゃんは生きている。涙はもう使い果たしたと気丈に立ち上がり続けて、確かに前へ進んで来たのだ。
 だからこれでよかったのだと、改めてそう思う。結局あれからぼく以外の幽霊なんてものにも出会えていないし、しーちゃんが生きていてくれて本当によかった。ぼくの胸にあった心臓がその役に立てたことを誇りに思っていると、心からそう言える。そう言えるのだ。本当に……。

「この前お寿司も食べていいって言われたの。少しだけなら」
 しーちゃんはまだ手を合わせてしゃがみながら、最近あったことを教えてくれていた。移植された心臓がちゃんと適合していって、控えるように言われていた生の食べ物やお酒なんかも少しは飲めるようになったとか、最近は毎週カラオケに行ったりこの前はゲームセンターのメダルゲームで遊んで来たんだなんて。どんどんできることが増えていってると、無邪気な笑顔を見せて教えてくれる。まあ、ぼくは当然全部近くで見ていたわけだけれど。それでもここにいる時のしーちゃんは、なんだか少しだけ昔のような雰囲気で話してくれて、ぼくはそれがどうしようもなく嬉しかった。
 そうしてしーちゃんはネイルスクール時代の友達に偶然会えたとか、店長にやっと認めてもらえたとか弾んだ声で息も吐かずに言葉を紡ぎ続ける。この時間がもっともっと続けばいいのにと、いつも思ってしまう。しーちゃんの目に、ぼくが映っているようなそんな気分になれるから。そんなことはあり得るはずがないのだけれど。
「それでね。それで、今日はもう一つ大事な報告があって……」
 一通り話し終えたところで、しーちゃんは満を持したようにそう切り出した。ずっと合わされていた手がほどかれて、どこか遠くを見るように真剣な目をしている。その顔はなんだかとても綺麗で大人びていて、なんだがドキドキしてしまいそうだ。ぼくにもう心臓はないのだけれど。
 しーちゃんはそのプルプルとした唇を震わせながら一つ息を吐いて、決心するように口を開いた。
「あのね。——今度結婚することになったんだ」
 ()み切った空気の中、その一言がどこまでも響き渡っていった。「実感ないんだけどね。まだ」としーちゃんは少し照れくさそうな顔で笑っている。
 もちろんそのプロポーズの時だってぼくは隣で全部見ていた。少しだけ頬を赤く染めながらも、やはりいつも通り淡々と「いいよ」と一言だけ言い放ったプロポーズの答えを。そんなことを思い出しながら左手の薬指で輝いているネイルに目をやると、ぼくもふと笑ってしまう。だから柑露寺一途と“呼び納め”していたわけだし。
 とは言え、改めて面と向かってそう言葉にされると、なんだか熱く込み上げるものがあった。少し照れながらもはっきりと透き通った目でそう言うしーちゃんの姿が、その後ろで照り付ける太陽と重なって眩しく見える。
『……おめでとう』と決して届かないと分かっていても、そう言いたくなった。
 ずっと隣で見て来た。たくさん理不尽な目に遭って、苦しんで、傷ついて、そうしてようやく目の前に捉えた幸せ。少し寂しいようなそんな気持ちがないと言えば嘘になるけれど、それでも本心からそう言いたかった。
『幸せになって——』
「でね!」
 ぼくが身体の奥底から絞り出した祝福の言葉に、しーちゃんは大きな声を重ねて立ち上がった。聞こえていないのだからしかたないともう慣れたものだけれど、やっぱりちょっと寂しいなんて思ったりもする。そうして大きく背の伸びたしーちゃんを、あの頃のままのぼくは見上げる。
「全部、ゆーくんがくれた心臓のおかげだから。ゆーくんのおかげで私はこうやって生きているから」
 そんなことない。ぼくができたのなんてほんの少しのことだ。しーちゃんの人生には本当に、本当にたくさんの痛みがあって、それでもしーちゃんが諦めずに前へ進み続けて来たからこそ得たものなんだ。だから胸を張って幸せになって欲しい。それがぼくの心からの願い。
「だから幸せに——」
 そうだ幸せになってくれたら——。
「——幸せになろう。一緒に」
『……え?』
 そうしてしーちゃんはかしこまったように片膝をついて、墓石に向かって手を伸ばした。それはまるでプロポーズのように。
「ゆーくん。……ううん。長阿弥夕衣(ながあみゆい)くん。私と一緒に幸せになってください」

 *

 あなたの脳味噌には異常があると、初めてそう言われたのは幼稚園に入るかどうかなんてそんな時だった。その時のわたしはまだその深刻さを理解できていなかったけれど、母さんの青ざめたような顔がとても恐ろしかったことをよく覚えている。
 そんな風に度重なる入院生活は始まって、そうしてわたしは徐々に病気とはどういうものなのか思い知らされることになった。痛い。苦しい。怖い。毎日毎晩そんな思いが渦巻いて眠れない。布団にくるまって震えながら無事に明日が来ることを祈る。熱で火照(ほて)った身体を冷やす嫌な汗だけが、自分がまだこの世界に存在していると確かめる唯一の頼り。そんな毎日が怖くて、怖くてしかたがなかった。いつまでこんな日々が続くのかと。いつまでこんな日々を続けていられるのかと。
 だけど、そうやって暗く閉ざされた未来を突きつけられても、それでもまだ数年間は希望を捨てないでいられた。いつかきっと病気も治って、みんな同じように生きられるとそう信じていた。あの日が来るまでは。
 最近なんだかおかしいなと、ずっとそう思ってはいた。朝起きて枕がなんだかおかしいことになっているなと。そうしてだんだん大きなっていくその違和感を、それでもわたしは必死で見て見ぬふりをしていた。だけどあの日、それはもう誤魔化しが効かないところまで来たのだと気付かされる。
 久しぶりに見てしまった鏡に映るわたしの頭から、全ての髪の毛が抜け落ちていると気づいたあの日に。
 ずっと大切に伸ばしていた髪の毛だった。それだけが心の()り所だったのに。それなのにもうどこにもない。それは一〇歳のわたしが絶望するにはあまりにも十分すぎることだった。先生は治療のために必要なことなんだと言っていたけれど、その日わたしの心はどこまでも絶望的に折れてしまったのだ。
 その日からわたしは、自分のことをぼくと呼ぶようになった。

 そうしてぼくは何もかもを諦めていく。大切に伸ばしていた髪の毛も、本の中で夢見たような学校生活も、将来なんてあるわけのないものも。全部、全部諦めた。どうせ自分は大人になる前に死んでしまうのだと。一切を諦めて、そうしたら少しだけ心が軽くなったような気がした。期待をするから落胆する。希望を持ったばかりに絶望する。そんなのはもう嫌だと。最初から全部諦めてしまえば楽になれるなんて、気づいてしまえばなんとも簡単な話だった。緑の帽子を被って。殻に閉じこもって。もう何にも傷つけられたくないから。
 だから初めて出会った彼女のその一言は、ぼくに途轍(とてつ)もなく鮮烈な印象を与える。
「わたし、心臓が悪いからしーちゃん。よろしく」
 透き通るような強い眼差(まなざ)しでいきなりそう言って退()けた彼女が、ぼくにはどこまでも眩しく輝いて見えた。自分の身体を(むしば)む病気をあっさり受け入れながら、それでも何一つ諦めずに強く笑うその姿に。彼女はその小さい身体にはあまりにも過酷な苦しみを背負って進み続けて、太陽のようにみんなを照らしていた。長く美しい黒髪をたなびかせながら。
「あなたは夕衣ちゃんだから、ゆーちゃんでいい?」
「……ゆーくん。それならゆーくんがいい」
 差し伸べられた手にそう言ったのは、ささやかな抵抗だったのかもしれない。こんなに美しく輝く彼女の前で、同じ女の子では居たくない、居られるわけがないと。

 *

「ゆーくんがくれたこの心臓で、一緒に幸せになってください」
 あの日と同じように差し伸べられた手には、あの時と違う色めいたネイルが(ほどこ)されている。しーちゃんを彩るその一〇の世界は、どこまでも広がっていくように綺麗で。それを見てぼくはあの時、しーちゃんと初めて出会ったあの日に渦巻いた感情を思い出す。
 ああ、そうか。ようやく気づいた。そうか。そうだったんだ。

 ぼくはずっと、しーちゃんみたいになりたかった。

 しーちゃんみたいに笑って、しーちゃんみたいにみんなを温かく照らして、しーちゃんみたいに強い心で、しーちゃんみたいに手を差し伸べて、しーちゃんみたいに髪をたなびかせて、そんな風になりたかった。ずっと、ずっと憧れていたんだ。全てを諦めたはずだったぼくの心を温かく(ほだ)し溶かしていった、そんなしーちゃんが眩しくて。ずっとそうなりたかった。
『ぼくは、しーちゃんみたいに生きたかった』
 不条理な世界に何度も何度も傷つけられて、それでもその度に磨かれていくダイヤモンドのように。どんな困難が立ちはだかったとしても、()()ました潜熱(せんねつ)をその目に秘めて切り(ひら)いていく。真っ直ぐどこまでも強く、それでいてしなやかで。そんな一〇〇人がいたとしても一〇〇人誰一人して追随(ついずい)できないかもしれない柑露寺一途の生き様に、ぼくはどうしようもなく焦がれていた。共感する余地なんて一切残してくれないその在り方が、ずっと目に焼きついて離れなかった。ただただ憧れていた。
 ぼくもしーちゃんみたいに何一つ諦めないで大人になって、綺麗なネイルを付けたりなんてできたら、そんな風に生きられたらどれだけよかったのだろう。
 それができなかったのはきっと、ぼくがどうしようもなく臆病で弱かったから。期待するのが怖かった。希望を持つのが怖かった。そうやってずっと何もかもを諦めて。
 それなのにこれだけの時間が経って、それでもまだしーちゃんは、ぼくにその手を差し伸べてくれる。どこまでも温かく、照らし尽くすように。
 どうして彼女は、こんなにもぼくのことを……。本当に心の底から……。そんなに優しい顔で……。
「私たちに、サヨナラなんてあるわけないから。ずっと一緒だから。ずっと大好きだったから。ずっとずっと大好きだから。だから、だから……一緒に幸せになろう」
 その目には映らないはずのぼくを、しーちゃんはそう真っ直ぐ見つめる。初めて会ったあの日、そして二度と会えなくなったあの日のように。臆病なぼくが素直に掴めなかった手を差し伸べて、微笑みかけてくれる。
 まだ間に合うのだろうか。何もかもを諦めてしまったぼくを、それでもまだしーちゃんが連れて行ってくれようとするなら。それならぼくもまだ、君みたいに……。
 今度こそぼくはその手をちゃんと掴めるように伸ばして、そうして握ったその手には確かな感触があった。温かい。あの日掴めなかった手。熱を持てなくなったこの身体に、確かにその温度が伝わって来る。ああ、なんだ。こんなに簡単なことだったのか。
 そうしてぼくの身体ごと連れ去るように引き寄せられて、ぽっかりと空いた胸の穴がしーちゃんの心臓で埋められる。一〇年ぶりに聞いたその音は、確かに強く、強く生を主張していた。ドクドクと響くそれが自然と馴染んでいって、どんどん一つになって行くようなそんな不思議な感覚。不思議な光に包まれて、身体が少しずつ光の粒のようになっていく。二つの目からこぼれた涙も混ざり合って。しーちゃんは全てを受け入れるように、満たし尽くすようにやっぱり笑ってくれている。ずっとこの世界に縛り付けられていた身体がどんどん粒のようにほどかれて、風のように軽やかにどこまでも飛んでいけそうだった。

 なんだか心地が良い。もう何も考えなくていい。ふわふわと宙に浮くような感覚がして、気づけば上も下も混ざり合うようにあやふやだった。全ての境界線が薄れるように溶けて一つになっていく感覚。ああ、そうか。やっとぼく(わたし)は……。
 雲一つない青空の下で一つになって。こんな風にまた始まるんだとしたら。
 溶けて一つになったその先で、今度こそ一緒にメロンソーダでも飲めたらいいな。