アイツの心臓を突き刺した時の生々しい感触が、まだこの手にこびりついている。耳をつんざくような叫び声。染み渡った赤黒い血の色。豆腐を切るようにすんなりと身体に入っていった包丁。何もかもが鮮明で、肌を()うように(まと)わりつく。落ち着け、落ち着けと(はや)る心臓で唱え深呼吸をしようとしても、胃がせり上がって来るような感覚が込み上げ上手くいかなかった。口の中ではネバネバとした胃液が酸味を主張している。ああ、本当に気持ち悪い。
 それでも、全て彼女のためにしたことだ。何一つ後悔はない。この感覚は、彼女を守り抜いた証でもあるのだから。
 そうだ、こうするしかなかった。これ以外の道はなかった。彼女を、柑露寺一途(かんろじいちず)を守るためには。だからこれは名誉の勲章(くんしょう)だと、胸を張って言い切ることができる。そう何度も繰り返して、蛇が肌を()うような気持ち悪い感覚を振り払った。

 *

「落としたよ。これ」
 それが俺たちの出会いだった。入学式を終えて、会場から大学に戻るまでの花道。そこで落とし物を拾って貰った、ただそれだけ。それだけの短い時間だったが、東京にはこんな綺麗な人がいるんだなと思ったのをよく覚えている。俺より少し低いくらい——恐らく一七〇センチメートルほど——の身長に、パンツスタイルのスーツがぴたりと馴染んでいて、まるで何かの衣装のようにすら思えた。長く整えられたまつ毛が際立たせた透き通るような目にじっと見つめられると、本当に吸い込まれてしまいそうになる。ただ俺のハンカチを拾って差し出しているだけなのに、全ての動きが洗練されているように見えてしかたがなかった。そうやってハンカチを受け取りお礼を言って数秒、たったそれだけの時間で俺にとっては大都会東京を象徴する人であるような、そんな鮮烈な印象を植え付けたのだ。
 それが一週間前の話。今目の前にいる彼女は、メロンサワーとリンゴジュースをマドラーで一生懸命、ぐるぐるとかき混ぜている。何をしているのだろうこの人は。

 数時間前、なんとなく気になって参加した映画サークルの説明会で、彼女の姿を見つけた時は本当に運命なんじゃないかと勝手に舞い上がったりもしたよ? だから彼女が参加するならと、新歓コンパまでのこのこついて来たわけだ。そうしたらなぜか、正面の席に座る彼女がほんのり赤く染まった顔で一生懸命マドラーを回している。本当になんなんだこれは。
 一週間前「東京のデキる女」を俺の全身に浴びせた、あの姿は一体どこにいったのだろうか。見ているだけで吸い込まれてしまいそうなその視線は、グラスの中でぐるぐると混ざり合うメロンサワーとリンゴジュースに(そそ)がれている。正に夢中と言った様子だ。
「あ、見て見て。いい感じじゃない? えっと、きんじょーくん?」
 十分混ぜ切ったと満足したのか、彼女が俺に話しかけて来る。まるで子供のような、キラキラと輝く笑顔だ。
 しかし、そんな子供じみた顔をしながらもやはりそのオーラとでも言うのか、全身から溢れ出る研ぎ澄まされた雰囲気は未だ健在で、こんな騒がしい居酒屋の宴会席でも彼女の周りにはなんだか近寄りがたいような、そんな独特の空気が形成されていた。だからこそこんな大人数の中、この空間、いやこの世界にすら俺と彼女しかいないようなそんな感覚があるのだ。
「ああ、うん。檎上悠樹(きんじょうゆうき)っす」
「でしょ。やった」
 俺は名前を呼ばれたことに対して肯定をしたわけだが、それを彼女は自分が作り出した飲み物への肯定だと受け取ったらしく、小さくピースを作ってチョキチョキと白く長い指を踊らせた。それでも、目を細めて作ったくしゃっとした笑顔はやはり宝石のように美しい。
「じゃあ、はい。あげる」
 それが自然な流れだとでもいうように淡々と差し出されたグラスに戸惑いを隠せない。どういうつもりなんだ。本当に。
「私、あんまり飲めないから。お酒。てか飲んじゃいけない、し?」
 そう言って彼女は悪戯(いたずら)そうに小さく微笑(ほほえ)んだ。俺だって恐らくは彼女と同い年の新入生で、一応はお酒を飲んじゃいけないとされているわけだが。というか、もし彼女がお酒を飲めないんだとしたら、その赤く染まった頬と明らかに酔っているような脱力感はどこから来たというのだ。しかし、確かに思えば彼女がお酒を飲んでいたところを目撃した記憶はない。離れた場所に座っていた時も、チラチラと横目で彼女を気にしていたからこそそう言えるのは内緒の話だが。そして素面(しらふ)でこんなことをしていたのかという衝撃も。
「だから、ほら。飲んでみて。好きだよね、リンゴ?」
 それは俺の檎上という珍妙な苗字に、林檎(りんご)()の字が入っているから言っているのだろうか。だとしたら、残念ながらリンゴというフルーツは全く好きではない。同じようなことを今まで散々言われて来たし、小さい頃病院に入院していた時に嫌という程お見舞いとして差し入れられたこともあって、自分から好んで食べようとは思えないのだ。むしろその赤くて丸いフォルムを見るだけで、何となく陰鬱な気分にすらなってしまう。「林檎(りんご)()に上下の上、悠々自適の悠に樹木の樹で檎上悠樹です」なんて、コンパが始まった時の自己紹介でも言ったように身体に染み付いているが、リンゴ自体はもうウンザリというのが正直なところだ。それよりもう一つのメロンサワー、というかメロンソーダの方が馴染み深いとすら思う。
 そもそも俺が檎上という名前だからリンゴが好きなのだとしたら、柑露寺という俺以上に聞いたことのない名前を名乗った彼女も蜜柑(みかん)が好きなのかという話になるはずだ。そうやって一瞬(たず)ねそうになったが、平然と「好きだよ。もちろん」なんて言われそうな未来が見えたので踏み止まる。
 それにそんなことで彼女から渡されたものを拒むわけにはいかないだろう。彼女がなぜ飲み物を混ぜ合わせる行為に夢中なのかは全くわからないし、一週間前に出会った時からは想像もできない奇行に戸惑ってはいるが、それでもやはりせっかく生まれた接点をふいにしてしまいたくはない。彼女を見ていると、そう思わせる何かを感じずにはいられなかった。それにそんな子供みたいな一面に、昔大好きだった初恋のあの子の面影を見つけてしまったのだ。だから俺は彼女から差し出されたグラスを掴むしかない。
 そうしてグラスを受け取って、彼女が熱心にかき混ぜていたその液体を流し込んだ。少しの酸味と炭酸の刺激が、舌を介して喉を通り過ぎていく。何だか不思議な味だ。シュワシュワと弾けるように喉奥をくすぐる炭酸にむせ返りそうになりながらも、やめるタイミングを上手く見つけられずそのまま最後まで一気に飲み干してグラスを机に置いた。身体中に冷たい水分が染み渡っていくような感覚。そして一つ呼吸を置くと、(ほの)かなリンゴの香りが鼻を通り抜けるような気がした。
「おー。いいね」
 リンゴなのかお酒なのか(あか)く染まっていく俺を見て、彼女はそう親指を立てて笑っている。本当になんだこれは。何がなんなのか本当に、本当にわからないが、今一つはっきりしたことがある。
 俺は今この瞬間恋に落ちた。

 *

 一途……。あの日からずっとポケットに入れている彼女の写真。これを見ているとなんだか落ち着く。君のために突き刺したんだ。だから大丈夫。何も間違ってない。そう一途が語りかけてくれたような気がした。それだけで小刻みに震える心臓が、嘘のように落ち着いていく。そうだ、大丈夫。
 駅ビルに付けられた大型ビジョンに、自分の名前が流れている。容疑者。指名手配。嫌な感じだ。いいよ。どんな汚名でも受け入れよう。全部、全部一途のためなのだから。
 フードを深く被り直して、早足で路地裏へ紛れて行く。まだ捕まるわけにはいかない。このままじゃ一途が危ないんだ。とにかく、彼女のところへ急がなくては。

 *

「檎上ならどうする? トロッコ問題、だっけ?」
「許されないと思うよ。だからそのままにして置く」
 生モノが食べられないという一途が渡して来た小鉢の刺身を、無心で口に放り込みながら俺は答える。

 トロッコ問題。線路を走っているトロッコが突然制御不能になり、このままでは線路の先で作業をしている五人の作業員が()き殺されてしまう。貴方はたまたまトロッコの進路を変更するレバーの近くにおり、それを切り替えればトロッコの暴走を知らずに作業を続ける五人を助けることができると気づいた。しかし、切り替える先の線路にはまた別の一人が作業をしており、レバーを動かしたらその一人は間違いなく死んでしまうだろう。そうした時に貴方はレバーを作動させるべきか、また作動させることは許されるのか。トロッコ問題はそういった内容の思考実験だ。

 あの新歓コンパから三ヶ月、無事映画サークルに入会した俺たちは、毎年夏休みの恒例(こうれい)となっている一年生主導の企画として、そのトロッコ問題を題材とした映画を撮ることになった。そうして来たる夏休みに向けた最初の話し合いを終えたサークル帰り、俺たちはいつも行く駅ビルの居酒屋でその映画について話していたわけだ。

 さっき部室でトロッコ問題について聞いた時に思った通り、俺の答えはただ一つ。そのままにして置く。それだけだ。自分の選択でどちらかの命を選ぶなんて、御免被(ごめんこうむ)るに決まっているだろう。だから自然のままに任せる。
 それに、五人の命と一人の命なら単純に考えて五人の命の方が重いと言っていいのだろうが、だからと言って本来なら死ぬはずのなかった一人の命を自分の選択で奪っていいということにはならないはずだ。そんなことは許されない。
「檎上は反主人公派か〜」
 確かに俺たちが撮る映画の主人公は極度の功利主義者(こうりしゅぎしゃ)で、五人が不幸に見舞われるよりも一人を犠牲にした方が社会全体の幸福度が増えると主張しているという設定だったはずだ。まあ、それ自体はわからなくもない。俺だって自分の意志介入によって本来死ぬはずではなかった人の命を奪うことに当然抵抗感を覚えるだけで、「目の前にいる一人か五人を殺す。どちらにするかは全く決まっておらず、お前が今から選ばなければならない」と言われたら一人の方を選ぶ他なくなるだろう。
「別に反とかそんな大袈裟なものじゃないよ。ただ俺には無理ってだけで」
 自分の判断で()き殺される人を変更するというその一線は越えられないというだけの話だ。
「でもその一人が自分の大切な人だったらって話、だったよね?」と一途が付け加える。
「そうだね」
 物語中盤、ヒロインである友人と何の関係もない五人の命が天秤にかけられ、主人公は友人の方を選ぶ。自らの功利主義(こうりしゅぎ)を否定するように。そうして自分の信念を曲げてしまった葛藤と確かな愛の中で揺れていく描写に力を入れたストーリーらしい。
 とは言え、そもそもトロッコ問題は作業員六人共に見知らぬ人であるからこそ成り立っているのであって、自分と関係のある人物を登場させてしまうのは全く別の話だと思うが。そんなの自分の大切な人を選んだとしても、何一つ不思議ではない。前提から破綻(はたん)しているだろう。別に脚本を批判したいわけではないし、学生サークルの映画と考えたら上出来としか言いようがなく、何か文句があるなんてことは一切ないと前置いた上で、普通に考えたらそう思ってしまう。
「檎上も大切な人が元の線路にいたら、別の方向に切り替える?」
「切り替えるよ」
「許されないのに?」
「許されなくていいよ。許されないことをするだけ」
 自分の意思で本来死ぬはずではなかった人の命を奪う。それが一人だろうと、五人だろうと、一〇〇人だってそうだ。それは許されないことで、でも許されなくたってそうしなければならない。今俺が思う大切な人の顔を見ていたら、そう思った。それだけ。やっぱり前提を覆したその質問に意味は感じられないが。
 そうして脊髄から反射的に出たような俺の答えを聞くと一途は「そっか」と小さく呟き、またマドラーでかき混ぜて作り出した摩訶不思議(まかふしぎ)な飲み物を差し出して来た。こうやって一途とサークル帰りに夕飯を食べて帰るのももう両手の指で数えるくらいの回数になったが、その度に新作を提供して来るので、俺も気づいたら自然な手つきでそのグラスを受け取るのが当たり前のようになっていて少し恐ろしい。
 そうして飲み干した山吹色の液体は、やっぱり少し酸っぱかった。

 *

 トロッコ問題。もし一途が線路の先にいるのだとしたら、功利(こうり)も倫理も知ったことじゃない。当たり前の話だ。何に代えても一途を守る。あの日、そう決めたのだから。高い身長に透明感の(あふ)れる(たたず)まい、何だか飄々(ひょうひょう)とした顔で、ミステリアスなオーラを放っていて、でも実は食べ物の好き嫌いが多かったりなんかして、そんな彼女より大切なものなんてどこにもない。
 トロッコ問題から派生した臓器くじという思考実験がある。健康な全国民の中からランダムな一人を選んで殺し、臓器を取り出して移植が必要な人々に分配するというシステムが倫理的に許されるかどうかというものだ。結局言っていることはトロッコ問題と同じで、一人の命と引き換えに多人数の命を救えるならどうするかとまとめていいだろう。トロッコ問題より何だか妙な生々しさがあったり、自分もそのくじに当たってしまう可能性があるからか、トロッコ問題よりも多人数を救うべきという意見が少なくなるらしい。臓器くじに当たる確率なんて、普通に生きていて交通事故に遭う確率が少し増えるだけだと考えたら誤差の範囲だと思うが。
 まあ何でもいい。とにかく、結局のところこれも答えは一つだ。一人の側に柑露寺一途がいるなら認められないし、多人数の側に柑露寺一途がいるなら認めなければならない。それだけなんだ本当に。あの主人公だってそう思ったから自分の大切な一人を選んだんだ。それだけでいい。
 だから一途のためなら何だってする。身体の奥底から(あふ)れ出るこの思いだけに突き動かされている今が幸せだと胸を張って言えるよ。
 そう何度も言い聞かせるように足取りを早めながら大通りを離れると、あの場所に通りかかっていた。ここは、そうだ。あの映画を撮った場所。一途との大切な思い出の場所だ。

 *

「最初はグー、じゃんけん——」
 その勝利は俺の人生の中で最も価値あるものだったと言っていいだろう。
 夏休みの企画映画を撮るに当たって、まず満場一致で真っ先に決まっていたことが一つ。ヒロインは柑露寺一途。透明感が服を着て歩いているような彼女をメインにする。それだけは絶対に揺るがないという共通認識がみんなにあったわけだ。その(あふ)れ出るオーラから少し近寄り(がた)いと遠巻きに眺められている彼女だが、そこに反論なんて出るはずもなかった。柑露寺一途を映しておけばどんな内容の映画でも絵になることは間違いないだろうと。
 じゃあ次は主役を決めなければというところで、俺に一つ目の幸運が舞い込んで来ることになる。元々何人かの候補がいたわけだが、その中で一七〇センチ近くある一途と並んでちょうどいい身長ということで、学年代表の柿迫(かきさこ)が適任だろうというのが大方の意見だった。
 そうして何回か協議を重ねほとんどの配役が決まったミーティングの数日後、部室に入って来た柿迫の右腕はギプスで固められ三角布に吊るされていたのだ。兼任しているスイミングサークルの活動中にプールサイドで足を滑らせて骨折をしたと、気まずそうに何とか笑顔を作る柿迫に重い沈黙を(ただよ)わせる一同。こんな腕では当然撮影に参加できるわけもない。急いで代役を決めなければということで、最初は理想の身長差を多少無視してでも元々の候補から選ぼうという話になった。しかし、既に彼らは主要人物に近い役所を割り振られており、今更変更となると理想としていた配役から一つずつズレてしまい(ほころ)びが大きくなってしまう。それならばいっそ主役だけの変更に留めようと、今回は端役(はやく)や裏方を担当するはずだった柿迫と同じくらいの身長の部員何名かに白羽の矢が立った。その内の一人に、俺が入っていたということだ。
 怪我で痛い思いをしている柿迫には悪いが、神様がくれたチャンスだと思ったね。一途と二人で主役とヒロインを張れるなんて。人生で初めてこの身体に生まれついたことを感謝したと言ってもいい。
 そうして決め手にかける主役争いの決着をつけたこの黄金のグー。俺はこの先じゃんけんでこれしか出さないと心に誓うよ。これからの人生はグーで全てを破壊して行こう。絶対。

 そんな風に勝ち取った夏休み中の撮影期間は、俺の人生において最も幸福な時間になったと言っていいだろう。映画のために一途と話すこともより増えたし、夏休みのほとんどを一緒に過ごしていたのではないかとすら思えるくらい濃密で親密な時間だった。全てを焼き()がすように太陽が照り付ける真夏でも、一途の透き通るような肌の色は一切変わることなく輝いていたことを、俺はきっと生涯忘れない。
 そうやって急造の代役ながら撮影は順調に進んで行き、柑露寺一途以外の全生物を攻撃するように照り付ける日差しにも少しかげりが見え始めた頃、遂に迎えたラストシーン。
 ヒロインを救うため見ず知らずの五人の命を奪ってしまった事実に苦しめられる主人公。自分のために誰かが犠牲になった罪悪感に(まと)わりつかれながらも、自分を選んでくれた主人公を優しく包み込むヒロイン。そんなどうしようもない罪が身体を浸透していく中、互いを、あるいは自分を慰めるように二人は唇を重ねる。よくあるようなベタなビターエンドだ。

 薄暗い路地裏。一途の白くて長い腕が壊れ物を扱うようにそっと優しく俺を包み込んで、同じ場所で重なりあった心臓の音だけが響いた。汗ひとつかいていない一途の身体と体温を交換する。火照(ほて)る身体を覚ますように伝わってくる一途の体温に反して、心臓の音はどんどんその主張を強めていった。そうして二人、目を見合わせて顔を近づけると細やかな息遣いまでが耳をくすぐる。そのまま一途の頬に手を添え、震える指先を静止するようにゆっくりと唇を重ねる——フリをすると、事前に受けた説明では確かにそう言っていたはずだった。だから俺は唇と唇が触れ合う直前、カメラの角度を調整するようにぴたりと止めたのだ。しかしその瞬間、背中に回していたはずだった一途の片腕がいつの間にか解かれ、画角の外で俺のシャツをギュッと引っ張った。その感触に戸惑いが脳を(よぎ)ったが答えを導く暇もなく、当然のように俺の唇と一途の唇が重なる。まさに息を呑むと言ったように、物理的に呼吸が止まった。身体を動かすわけにもいかず、心臓の音だけが時を刻む。とても長い、永遠のように感じられる数秒だった。
「——カット!」
 そうして撮影の終わりを告げる声が響く。今度はそっと押すように一途が身体を離した。重なり合った唇も元に戻って行く。一体何が起きたのかわからずパニックになりながら、視界に一途の顔を捉えると、彼女は「ふふっ」と小さな微笑みを浮かべていた。

 *

 あの映画結構好評だったんだよな。リアリティがあるって。柑露寺一途のオーラに、出来のいい脚本、そして本当にキスまでしちゃったんだから当然か。
 今リアリティのある作品を撮りたいなら、人を刺す役は是非任せてもらいたいね。きっと世界一の名優になれるはずだ。なんたって、あの感覚は一生忘れられそうにないのだから。
 なんて、冗談を言っている場合ではないか。本当にどうしたらいいのだろう。問題は山積みだ。袖にこびりついた赤黒く汚い血が落ちない。アイツの心臓を刺したナイフはどうすればいいのか。何度落ち着けても目まぐるしい動悸(どうき)幾度(いくど)も再燃する。他人の目が気になってしかたがない。街行(まちゆ)く人全員が、自分を責めるように見つめている気がした。夜の街を照らす街灯すら、犯人を追い詰めるサーチライトのようだ。どうしようもない不安が頭を支配して離れない。考えるだけで息が荒くなって、足は(なまり)のように重く動かなくなった。
 外濠(そとぼり)を流れるこの川に今すぐ飛び込んで、全てを終わらせてしまいたい。もう全部投げ出してしまえたらと、そう強く思う。
 それでも、そうするわけにはいかない。一途のところに行かなければ。一途を絶対に守るのだ。そのためにこうやって逃げて来たのだから。

 *

 クランクアップの打ち上げでは、先ほどのキスシーンについて散々(はや)し立てられた。
「いやー、熱かったねぇ。キスシーン。なあ岩梨(いわなし)?」
 打ち上げが始まり場も温まったというところで、柿迫が発したその一言が契機となった。それはリーダーとして、多少の気まずさを振り払うために発したものなのかもしれない。フリだけで済ませるはずだったキスシーンで、なぜか実際に演じてしまった二人。ここに来るまで他の演者や裏方の中にも何とも言えない気まずさと困惑が漂っていたのはこの身で実感している。それでも何より困惑していたのは俺なのだが。
「でも僕もいいシーンだったと思うよ。柑露寺さんも檎上くんもさ……」
 話を振られた脚本担当の岩梨が戸惑いながらもフォローする。
「ふふっ。ありがと」
 そして当の柑露寺一途はまたしても素知らぬ顔で青リンゴサワーと巨峰サワーをかき混ぜている。そっちの奇行にはもうみんな慣れたものだ。
「檎上。はい。これ」
 もちろん当然のようにそのグラスは俺に手渡される。どうして彼女には気まずいという感情が用意されていないのだろう。本当にどういうつもりであんなことをしたのか。何一つわからない。この夏休み期間中ずっと役得という思いを感じていたが、最後の最後でオーバーフローだ。
「なんかいい感じじゃん〜」
 今回メガホンを取った苺花(いちか)ちゃんが、その丸メガネをキラキラさせながら高い声を出す。これはいい感じというより、いつものことなわけだが。まあそれは置いておくとして、俺はあのキスを喜んでいいのだろうか。もちろん嫌悪感を抱くような相手にあんなことはしないとは思う。じゃあそれを好意と受け取っていいのかと問われたら、柑露寺一途といういつも突拍子(とっぴょうし)もないことをする人間を前にすると、自信を持ってそうだと言うことは難しい。結局のところ彼女が何を考えてるか、何一つわかっていないのだから。
 そうして柿迫の軽口を契機にあのキスシーンを弄っていい空気が生まれてその話ばかり繰り返される中でも、俺は一途が何を考えているのかということばかりが気になってしまい、心ここに在らずと上の空だった。覚えているのは青リンゴサワー×巨峰サワーの酸味だけだ。
 そんな感じで小一時間くらい経った頃、すっかり出来上がった空気を切り裂くように一途が声を出した。
「ねぇ。行こ。ちょっと」
 そう言って俺の手を引く。もう俺の頭は戸惑いっぱなしだ。しかし一途はそんなことお構いなしと、お金をテーブルに置いて席を立つ。
「え、なになに。二人でどっか行くの?」
 最後に聞こえたのはそんな柿迫のおちゃらけた声だった。

 *

 そうだったな。この外濠(そとぼり)を見下ろせる並木道。一途が引っ張って来たのは。あの時生い茂っていた葉っぱは、すっかり色が変わってまばらになっている。
 もうあの時は動揺なんてもんじゃなかった。撮影の時からずっと何もかもが唐突で、意味不明で、驚きと衝撃の連続。本当に一途は的確に心をかき乱して来る。
 それでも、なぜだかこの時の一途は、今までで一番綺麗に見えたんだよ。それはもうどうしようもなく。だからこの時決めたんだ。
 何に代えても、柑露寺一途だけを守り抜こうと。

 *

「気持ちいいよ」
 夜風に当たりながら一途が笑いかけて来る。外濠(そとぼり)の柵にもたれかかってこちらを横目で見つめるように。
「……うん」
 俺はそうやって平静を装おうと努めはしたが、内心は緊張なんてもんじゃなかった。映画を撮っている時よりもテンパっていたかもしれない。
 そうしてぽわぽわした頭をフル回転させて、いくつか会話を()わした。この言葉でいいのか。間違ってないか。一途の興味を()けている? 本当に大丈夫なのか? 頭の中で円卓会議を開くように、一つ一つ丁寧に言葉を選んで。
 そのまま会話がどんどん煮詰まって来て、次は何を言えばいいのか、もう何も思いつかない。ああ、どうしようと。そんな風にパニックになって、俺の脳内で輪を作った円卓騎士たちは何を思ったのか、気づけばとんでもない結論を導き出していた。
「俺と……付き合って欲しい」
 言ってしまった。自分で口にして数秒、本当に何を言っているのだろうと我に返る。昼から衝撃の連続で、もう頭がショートしていたんだ。一途が俺のことをどう思っているのか何もわかっていないのに、つい口にしてしまった。最悪だ。この先に待ち受けているであろう一途の困惑した表情を想像してしまう。それでも、元はと言えばその突拍子(とっぴょうし)のない行動はもちろん、一途が作りだしたあの飲み物も俺の頭をぐちゃぐちゃにした一翼を担っているのだから、あまり傷つけないで欲しい。そう願いながら、作り出してしまった沈黙が破れるのを待つしかなかった。
「うん。よろしく」
 一途はあまりにも呆気ない声で、そう小さく頷いた。(わず)か数秒の間に脳内を駆け巡った俺の後悔を一太刀で振り払うように。もう何がなんだか本当にわからない。
 そうしてまた俺がフリーズしていると、昼のように一途が俺のシャツを引っ張った。またしてもよろめいた俺の身体が、一途の方へ引き寄せられる。
 二回目の唇と心臓は、あまりにも自然に重なり合った。

 *

 あれからサークル内では二人が付き合うことになったという話題で持ち切りになった。しばらく、ことあるごとにその話を持ち出されたよ。本当、いい加減にして欲しいというくらいに。
 それにしてもハロウィンだからか、チラホラ仮装している人を目にする。楽しそうで結構なことだ。この中に本物の殺人鬼がいると教えたら、一体どんな顔をするのだろうか。彼らは。
 イベントごとなんてそれこそ、あの映画を上映した先月の学園祭くらいしか記憶にないくらい疎い方だと自負しているが、今日の一等賞は間違いなく貰えるだろうね。人を殺してまでした、本物の仮装なのだから。

 *

「あ。ねー。食べたい。私も」
 両手にリンゴ飴とアメリカンドックを持った一途が、俺の方を見てそう口を開いて来る。
「ん。おいしい」
 俺がチュロスを差し込むと、一途はリスのようにモグモグとしながら満足そうに笑った。そうして俺たちは人の波を掻き分けるように中庭を進んで行く。もう学祭が終わる時間も近づいて空も茜色に染まっているのに、まだまだ大盛況といった感じだ。そこかしこの模擬店から発せられた様々な匂いが混ざり合って(ただよ)い、少し遠くの方からは軽音サークルの掻き鳴らした音が(かす)かに聞こえて来る。
「人来てくれてよかったね。いっぱい」
 俺らのサークルが上映している映画もその大盛況の一端を担うことができ、みんな一安心といったところだろう。自分と一途が主演の映画を観てもらえているのはなんだかこそばゆい気持ちもあるが、やっぱり端的に言って嬉しい。何より一途と付き合うきっかけになってくれたものでもあるわけだから。三日目からは先輩たちの映画に切り替わるので、俺たちにとっては明日で最終日。最初は一途との接点を作るために入ったサークルだったが、このまま明日の上映も上手くいけばいいなと今では心から思う。
「ね。見て見て。あれ。綺麗」
 チュロスを飲み込んだ一途の視線の先には、電球型のボトルに詰められた色とりどりのソーダが並べられていた。ちょうど日の落ちかけている中で、目を惹くように一際目立っている。ブルーハワイ、アップルソーダ、レモネードスカッシュ、ストロベリーミルク、パッションオレンジ、そしてメロンソーダ。カラフルに(とも)されたそれらは、小さな星のようにすら見える。俺は赤いリンゴジュースって珍しいなと、よくわからない角度から感心してしまった。檎上の名にかけて言わせてもらうと、大体は濁った白みたいな色をしているだろう。
「持ってて。ちょっと。食べてていいよ!」
 一途は手に持っていたリンゴ飴とアメリカンドックを俺に手渡すと、返事をする暇もなく一目散に屋台の方へ駆けて行った。とっておきのおもちゃを見つけた子供みたいだ。

 そうしてゆっくりとアメリカンドックを食べ終えた頃に戻って来た一途は、見せびらかすように赤く(とも)る電球と緑に灯る電球を掲げていた。
「いいでしょ」
 目をキラキラさせながら両手を伸ばするその姿は、なんだか夜空に灯る星を捕まえているように見える。
「ねね。飲んで。はい」
 そう一途が口元に差し出して来たストローを咥えて、アップルソーダを口に入れる。餌付けされているみたいだ。そうやって半分くらい流し込んだところで、また一途はいつものように二つの飲み物を混ぜ始めた。なんとなく予想はしていたが、本当になんの時間なのだろうかこれは。
 晴れて俺たちは付き合い始めたのだから、いっそこれはなんなのか(たず)ねてしまってもいいのではないかと、一瞬そんな思いが頭を(よぎ)る。しかし、その考えはすぐにどこかへと放り去ることにした。もしここで答えを聞いてしまったら、なんとなく一途の神秘性のようなものを損なってしまうような、そんな感覚があったから。それに、俺の思い出との重なりも全部全部台無しになってしまうような、そんな言葉にし(がた)い思いが躊躇(ちゅうちょ)させたのだ。
 そうして完成した飲み物は(くす)んだオレンジ色をしていたが、ボトルの底に点けられた光で照らされると、なんだかとても美しく輝いているように見えた。夜空を明るく灯すようなそんな色。
「ふふっ。綺麗だね」
 線香花火が落ちるのを見つめるようなうっとりとした目で、一途は電球を眺めている。
「うん」
 綺麗だ。綺麗なオレンジ色。それはまるで、柑露寺一途のように。

 *

「それ、仮装ですか? リアルですね。血まで付いてる」
 誇張抜きに心臓が止まるかと思った。両日共に大盛況で終わった学園祭のことを思い出して感傷に浸っていたら、突然そんな声が耳を刺したわけだから当然だ。動揺を隠すよう表情を作って振り向くと、スーツを着た二〇代後半くらいであろう男がこちらを覗いていた。ピッチリと分けられた髪に、パリッとしたシャツ。いかにもエリートサラリーマンといったような風体(ふうてい)だ。なんでこんな人が……と危険信号が脳内を駆け巡る。しかし、身体中から吹き出そうな汗に、止まれ、止まれと拳を強く握ること以外にできることはなかった。
「……はい。殺人鬼がモチーフなんです」
 声の調子を精一杯整えて返事をする。あまり関わりたくないが。もしもの時はと覚悟を決めるべきだろうか。
「すごいですね〜。気合いの入り方が違うなあ」
 なんなんだ本当に。ハロウィンなんてイベントに浮かれてるやつらは、こんな誰彼構わず他人に話しかけて来るのか。意味がわからない。とにかく適当に話して切り上げなければと、焦りで粘ついた口を開いた。
「そちらはお仕事帰りですか?」
「ええ、まあ。実は私こういうものでして」
 いやに芝居がかった様子で、目の前の男は名刺らしきものを差し出して来る。本当にこんなことをしている場合じゃないのに。そう苛立ちながら平静を装って名刺を受け取ると、そこには『ハロウィーン商事 磯崎誘(いそざきいざな)』と妙な名前が書かれていた。
 ふざけるなよと、思わず鳴らしそうになった舌を必死で飲み込んで、何かを期待するような表情でこちらを見つめて来る男——磯崎に求めているであろう言葉を贈る。
「そちらも、だいぶ気合が入ってるみたいですね」
「ふふ。血糊(ちのり)まで拘ってる貴方には負けますよ……。でも僕のサラリーマン仮装もなかなかでしょう? 渾身(こんしん)の一作なんです」
「すごいですよ。本当にお仕事帰りの方かと思いました。実際のお仕事は違うんですね」
「そうですね。普段は先生、といったところです」
 思いもしなかった答えに唖然としてしまう。教師がハロウィンに浮かれて仮装なんて、とんでもない時代だ本当に。普通なら見回りでもする側であって欲しいものだが。
「それにしても、そちらこそ本当にすごいですねその染み。まるで本物みたいだ。それとも……」
 磯崎は大変愉快そうに目を細め、口元を緩めながら一つ息を吐いた。
「……本物の殺人鬼とか?」
 秋のぬるま湯のような空気が一瞬で凍りつく。なんなんだこいつは。まずい。本当にまずい。一刻も早くこの場を離れなければと全身の毛が逆立つ感触があった。
「……なんてね。まさかそんなわけないですよね」
「……そ、そうですよ。当たり前じゃないですか。そんなこと言う貴方こそ実は本物のサラリーマンだったりして?」
 わざとらしく焦ったような口調で、これはおふざけなんだという空気を作ろうと(つと)めた。そうだ。これはハロウィンなんてくだらないイベントに浮かれた、大の男二人の冗談。そう演じろ。
「それならやっぱり貴方は殺人鬼だ」
 目を見合わせて笑顔を作っても、内心は気が気じゃなくてどうにかなりそうだった。本当に早く、早くどっかに行ってくれ。そう頭の中で何回も唱える。なんなら走って逃げ去ってしまった方がいいか。力に任せた最終手段すら浮かびつつあったところで、磯崎は「では、そろそろこんなところで」と身体を動かして立ち去る合図を出した。必死に留めていた汗はもう額を伝い出している。
「ハッピーハロウィーン」
 磯崎が最後に放ったその台詞は、肌を()う蛇のように耳の中をうねってしばらく離れなかった。

 ——切り抜けた。全身からどっと汗が噴き出る。冷や汗で濡れた背中から、秋の夜風が体温を奪って行った。人体というのはこんなにもわかりやすいのかとなんだか感心してしまう。
 本当になんだったんだ。あのふざけた男は。必死に心臓を突き刺したあの時と、同じような疲労感が身体を襲う。それくらいの焦りと苛立ちがあった。
 まあ、もういい。とにかくこんなことをしている場合じゃない。一途の家はもうすぐそこだ。もう少しで一途に会える。一途を守りに行ける。その気持ちだけで、震える身体を奮い立たせて足を進めた。

 *

 それを見つけてしまったのは、本当に偶然だった。一途の家に来て、かなり大きな本棚だなとなんとなしに眺めていたら、たまたま隣のゴミ箱との隙間に落ちているそれが目に入ってしまったのだ。
『死ね。死ね。死ね。死ね。死ね——』
 その紙には真っ赤な文字で、おびただしいほどの呪詛(じゅそ)が書き殴られていた。何が起きているのか理解できず、一瞬フリーズしてしまう。なんでこんな悪意の塊のようなものが、一途の部屋にあるのか。身体中を鳥肌が巡っていくのが、ありありとわかった。
「どうしたの——」
 両手にマグカップを持って軽快に戻って来た一途は、立ちすくむ俺見るなり目に影を落としてその紙を引ったくった。——ガシャンと、床に落ちたマグカップの割れる音が遅れて耳を突き刺す。しかし、そんなことを気にしている場合ではないだろう。
 そうして事態を飲み込めとでも言うように、数秒の沈黙が用意された。雨が屋根を打つ音だけが響く。そんな音と共に呼吸を整えながら、意を決して俺は声を出した。
「なあ、それ……?」
「大丈夫! 大丈夫だから」
 一途が引き()った顔で笑って見せる。
「大丈夫なわけないだろ!」
 思わず荒げてしまった声に、一途が一瞬(ひる)んだように肩をすくめた。何をしてるんだ俺は……。
「……ごめん。大きな声出して。……でも、何かあるなら話して欲しい。力になりたいなんて、偉そうかもしれない。でも、……それでも心配なんだ」
 俺はそう語りかけるように、小刻みに震えている一途の手を握った。しかし、その手にはすぐ力が込められほどかれる。
「……だめだよ。もしそれで悠樹に何かあったら……。そんな迷惑かけられ——」
「かけてよ。迷惑」
「えっ……」
「迷惑かけて欲しい。何かあった時は頼って欲しいし、一緒に抱えさせて欲しい。……もしそれを迷惑だと思ってるんだとしたら、迷惑かけてもらえない方が俺は嫌だよ。そんな風に思われてる方が嫌だ。……だって俺はこんなに一途のことが好きなんだから」
 迷惑なんでいくらでもかけて欲しい。それを嫌だなんて思うわけがなかった。それより何も知らないでこんな(おび)えた顔をしている一途を見過ごす方が耐えられない。一人で抱え込んで取り返しがつかなくなってしまった時に、後悔させないでよと。そう自分の気持ちを真っ直ぐにぶつけると、(かす)れた調子で(すす)り泣くような音が聞こえて来る。
「……うん。ごめん……、ありがとう」
 そう泣きじゃくりながら肩を震わす一途に、俺はもう一度そっと手を添えた。


 *

 あと少しだ。もう少しで一途の家に着く。待っててくれ。絶対に守るから。君の涙なんて見たくないんだ。

 *

 そいつとは前期のゼミ入門——来年に控えたゼミ選抜の導入講義——のクラスで出会ったらしい。たまたま隣の席に座っていて、小テストなんかの丸付けでちょっと話したくらいの、最初はそれだけの印象だったと。
 しかし、そいつがおかしいと気づくのに、そう時間はかからなかった。
 最初はなんとなくよく会うなくらいの感覚だったという。通路ですれ違ったり、大講堂の講義でなんか近くに座っているなとか。それがだんだん異常な頻度で起きているかもと思い始めて、一度そう思うとなんとなく不自然なところが多かったことに気づいた。なんだか妙に馴れ馴れしかったり、すれ違う時にアイコンタクトのようなものをされたり、ゼミ入門で振り分けられた班活動の連絡のためだからと軽い手紙のようなものを渡されたりと。それでも一途は勘違いだと思うように努めた。しかし、そこで決定的な事件が起きる。
 一人で受けていた講義のあとそいつに呼び出されて、最初はなんだか話が噛み合わないような少しの違和感。そうやってなんだか奇妙な感覚を覚えながら話していると、「そろそろデートに行こうよ」とその言葉が飛び出た。困惑しきりの一途を置いてけぼりにするようにそいつは一方的に話続けて、一途はようやくその違和感の正体に気づく。
 そうして自分と親密な関係にあると思っている目の前の男に、一途は俺の話をしたらしい。自分には恋人がいるから、二人でどこかにいったりとかはできないと。すると今度は逆に相手の方が困惑したように狼狽(うろたえ)始めて、次第にそれは怒りに変わっていったという。そうやってそいつは何かを(まく)し立てるように沸騰していき、半ば強引に手首を掴まれた一途は腕を振り払って逃げその場は一旦収まった。
 その後、直接の接触こそなかったものの、友人を通して何か手紙のようなものを渡されたり、同じようにいつのまにかカバンの中に入っていたり、なんとなく常に人影を感じたりなど気味の悪い日々が続き、そうして遂に俺が見てしまったあの紙がカバンに入れられていたというのがつい先日の話だそうだ。
 警察に相談するべきなのか、しかしそいつがやったという証拠もないのに対応してくれるのかとそう思い悩む中で一途は、もし俺に何かあったらとずっと思い悩んでいたという。自分が交際を明かしてしまったばかりに、何か俺に危害が加えられたらどうしようと。そんなことになるくらいなら別れてしまった方がなんて、今日もずっとそんなことを考えていたらしい。こんな異常なことが起きているというのに、ずっと俺のことを心配していたと。
 思えばなんとなく最近、一途の表情が暗かったかもしれない。今日だって……。いや、そんなこと今更言うなんて情けない話だ。俺は一途の不安に気づくことができなかったというのが、ただ一つの事実だから。
 だから、今度こそ守らなきゃ。そう思った。たとえ何をしてでも。絶対に一途を守る。
 一連の事情を話し終えた一途は、今まで一度も見たことないような青ざめた顔をしていた。一途にもう二度とそんな顔をさせたくない。いつもの飄々(ひょうひょう)とした笑顔に戻れるように。

 一途はきっと自分に向けられる感情に(うと)いのだと思う。だから知らず知らずのうちに様々な想いが周囲に積み重ねられていって、それが遂に決壊(けっかい)して今回のようなことが起きた。その気持ちは少しだけわかるかもしれない。何を考えているのかわからない彼女に、俺だってずっと惹かれていたわけだから。しかし、一途にはなんの責任もない。こんな怖い思いをしなきゃいけない道理なんてどこにもないんだ。
 だから俺が一途を守る。何に変えても。絶対に。

 *

 走れ。走れ。走れ!
 もう、目と鼻の先。
 約束を果たす。一途を守る。それだけ。
 走れ、走れ。

 *

 頬に(にぶ)い衝撃が打ちつけられた。(くら)む視界に(ゆが)んだ顔の男が映し出される。
 ああ、俺は殴られたのか。あまり経験して来なかった痛みに、脳味噌が追いついていかない。無菌室で大切に保護されながら育って来たタイプの人間なんだこっちは。

 一途から話を聞いた数日後、大学裏口の隅にある喫煙スペースにそいつはポツリと座っていた。特にタバコを吸っているわけでもなく、異様な雰囲気で虚空を見つめている燻んだ金髪の男。話に聞いていた通りだ。二限目の空きコマということもあって、他には人っこ一人いない。そうして一度深呼吸をして気を奮い立たせ、あの脅迫文について問いただしにいった数秒後、俺の身体は呆気なく黒ずんだ地面に叩きつけられた。

「どこだよぉ! 一途は、どこだ! 出せよ! 出せ!」
 男は血走った目で寝転ぶ俺の胸ぐらを掴みながら喚いた。ぐわんぐわんと身体が揺らされ、脳味噌が回るような感覚。
 これはまずいかもしれない。波打つように揺れる脳味噌が、身体中にそう危険を伝えている。このままだと、殺されるんじゃないか。本気でそう思った。
 それでも、俺は引くわけにはいかない。一途のために、絶対に。
 そうして俺はなんとか男の腕を振り払って、地面に散乱した自分のカバンがある方へ転がっていく。カバンの中を必死にまさぐって、あった……! これを使うしかない。できれば避けたかったが、結局これしかなかった。
 ……一途を守る。そのために。
 そう強く決意して、カバンの中で強く拳を握りしめた。

 *

 着いた。着いたよ。長かった。ここに来るまで、もうだめなんじゃないかと何回も思った。それでも一途のために必死に、必死にここまで来たんだ。
 ……一途を守る。そのために。一途を守るヒーローになるんだ。
 そう強く決意して、ドアノブを掴み強く拳を握りしめた。

 *

「……なんだよ。なんでなんだよ! なんでおれじゃダメなんだよぉ!」
 顔をくしゃくしゃにして(むせ)び泣く男の手には、俺がカバンから取り出した手紙が握られていた。一途が彼に向けて書いた手紙。脅迫文に対して返事をするなんて馬鹿げて見えるかもしれないが、それでも一途は本当に真剣にこれを書いていた。彼が手紙というものに拘っていたから。班で作ったグループチャットから連絡先を追加できるのに手紙のようなもので連絡して来たり、彼を避けるようになってからも友人づてに手紙を渡して来たし、カバンの中にもいつのまにか入れられていたその手紙という形式が、彼にとっては何か大きな意味を持つものなのではないかと。だからその手紙で真摯に向き合えばわかってくれるんじゃないかと、一途はそう言っていた。あの透き通るような目で。
 正直俺はそんなこと全く信じてなかった。ここまでされて、どうしてまだそんなことが言えるのだろうと。本当にどこまでも純粋で、俺はそんな一途を守りたいと思っているわけだが、だからと言って脅迫文を送るような人間の善性を信じるなんて無理だ。
 それでもさっきこの男に殴られた時、そんな時に一途の顔が浮かんでこの手紙のことを思い出してしまった。こんな血走った目で半狂乱になっている人間だとしても、それでも一途は対話を諦めないと言うなら、俺も賭けてみたいと思ってしまったんだ。
「なあ? なんでお前なんだよ……。なんでおれじゃ……」
 少しだけ呼吸を落ち着けた男が、涙目で俺を見つめてくる。俺はなんて答えればいいのだろう。なんで一途が俺を選んでくれたのか、そんなのわからない。本当にただ運がよかっただけなのかもしれないし、別に俺が何か特別だったなんてことはないのだろう。脅迫文を送るかは別にしても、今ここにいる彼と俺の立場が逆だった可能性だってあったのかもしれない。それでも……。
「……それはわかりません。でも……、お願いします。もう一途に何かするのはやめてください」
 そう頭を下げる。それが俺に言える精一杯だった。
 俺はヒーローみたいに格好よく退治したりとかそんなことできない。特別なことなんて何もできないし、ただ運良く一途の隣にいるだけなのかもしれないが、それでも一途が俺を選んでくれたのだから、せめて一途のためにできる限りのことをしよう。それが俺の全てだった。どれだけ不格好でも頭を下げて、そして心から向き合って。一途にそう教えてもらったように。
「……わかった。もうわかったから、お願いだから一人にしてくれ……」
 頭を抱えて俯きベンチに座り込むと彼はそう言った。わかってもらえたなんて言い切れはしないが、一先(ひとま)ずこの場は落ち着いたみたいだ。それになんとなくではあるものの、もう大丈夫なんじゃないかと、目の前の彼の姿を見てそう思った。もちろん油断なんてできないし、純粋無垢(じゅんすいむく)な一途に感化されすぎてしまっただけなのかもしれないが。
 俺は彼に一礼して言われた通りに背を向けた。これ以上騒ぎになって誰かが来ても困るだろう。そうして後ろ目で見た彼のその寂しそうな姿を、俺は決して忘れてはいけないのだと、なぜだかそう強く感じた。

 *

 ドアを開けると、真っ暗な部屋の隅で彼女はうずくまっていた。

 柑露寺一途。

 やっぱり綺麗だ。透明で、繊細で、儚くて、薄氷(はくひょう)のように。美しく、綺麗だ。
 (はや)る気持ちを抑えながら、彼女の方へ進んで行く。一歩、一歩、また一歩——。
 あと少しだ。あと少しで……。
 物音に気づいたのか、彼女がゆっくりと顔を上げた。暗闇の中でもしっかりと目と目が重なる。どんな暗闇でも、彼女のことなら見つけられる。当たり前だ。
 そうして彼女の目が大きく見開かれた。驚いているんだろう。もしかしたらもう会えないなんて思っていたのかも。大丈夫。ちゃんとここにいるから。
 自然と口元が緩んでいることに遅れて気づく。そんなに嬉しがってもらえるなんて、“僕”が来たこ——。

「やめて! 来ないで!」

 は? 世界をひっくり返すようなその声に、思わずそう口にしてしまう。彼女が(おび)えた目で腕に持っていたクッションを抱きしめている。何を言ってるんだ? ふざけてるのか?
 僕が来たんだぞ? そうか気が動転しているのだろう。僕が命からがらここまで来たことに。
「どうしたんだよ? 大丈夫か? 僕だよ僕。彼氏の顔忘れるなんてさ——」
「何それ……。やめて。近づかないで……!」
 なんだよそれ。冗談がキツイな。君のことだけを考えて、ここまで来たって言うのに。
「いい加減にしろよ? ほら、こっち来なって。せっかく彼氏が来たんだからさ」
「……ふざけないで。私の彼氏は、悠樹は……、貴方が、貴方が刺したんでしょ……!」
 本当に何言ってるんだよ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ——僕が刺したのは君を傷つける——。
「なんで……。ねぇ。なんで悠樹にあんなこと……。どうして、岩梨くん……」
 彼女の透明な目から流れた一滴の涙が(あわ)く暗闇を照らした。

 *

「おお、久しぶり。最近どうしてたんだよ?」
 喫煙所を離れて中庭の図書館前辺りまで歩いて来ると、往来の中で岩梨の顔をたまたま見つけた。そういえば最近サークルにも顔を出さなくなっていた気がする。こんなボロボロの姿で話しかけるのもどうかと思ったが、岩梨も俺に気づいたのか近づいて来たのでそう声をかけた。
「……さ……い、い……えせ」
「え?」
 なんだか様子がおかしいなと思った。それこそさっきの彼のように。岩梨は声にならないような声を出しながら、口をもぞもぞと動かしている。よく見ると格好も少し変だ。パーカーのフードを深く被って、ポケットに手を——。

 ——え?

 それはなんだか不思議な感覚だった。異物がするりと身体の中に入っていくような、そんな感覚で感触。なんだこれは。おかしい。何が起こって——。
 途端、左胸に激痛が走る。考えられないような痛み。一度気づくと、それだけが身体中を打ち鳴らしている。
「おいおい、な……んだよ、これ……」
 思わず胸に回した手を見ると、暗い赤色がそこにあった。近くから悲鳴のような声が聞こえる。
「う……そだ……ろ」
 だめだ。力が入らない。電池の切れた人形のように、地面に吸い込まれていく。どこも動かない。動けない。自分の身体じゃなくなってしまったみたいだ。
 薄れゆく意識の中で、最後に岩梨のその声が耳に反響し続けていた。
「許さない、一途を返せ」

 *

「何言ってんだよ! あんなやつが彼氏って……ふざけるな! お前に……、君に相応しいのは僕だろ?」
 あんなやつは柑露寺一途に相応しくない。透き通るように綺麗で、完璧で、美しい君に相応しいのは僕だけだ。あんなやつが柑露寺一途を汚していいわけがない。
「それなのにお前はなんでアイツと……!」
 僕だけが柑露寺一途のことを理解しているのに。ずっと、ずっと見ていたのに。なんでだ? なんで僕じゃないんだ? アイツみたいに軽薄でみっともない口調で話せばいいのか? ほら、これがいいんだろ。だから僕はこんな吐き気がしそうな話し方を()してやったって言うのに。それなのに君は見向きもしないで……。こんなこと許されていいはずがない。
「見てたんだぞ! あの日。映画の打ち上げの日。勝手に抜け出したお前らの後を追いかけて、そうしたらお前らは……。見てた。僕は全部見てたんだ。コソコソ居酒屋に行ってた時も! 学祭の時も! いつも! いつも! いつもお前らは……!」
 その席に座っているべきは僕のはずなのに。僕だけが君の隣に相応しいのに。どうしてそんな簡単なこともわからない? あの映画の脚本だって僕と一途のために書いたのに。柑露寺一途は完璧だった。僕の理想のヒロイン。君のために創ったんだから当たり前だ。そして主人公は僕。出しゃばって来た柿迫にも罰が下って、これが愛の力なんだとそう思ってたのに。それなのになんであんなやつが。どうして檎上なんかが柑露寺一途の横にふんぞり帰って座っているんだ? ふざけるな。
 それでも僕はそんな一途を許してあげたんだ。一途がそうやって僕を裏切り続ける間も、君のことを第一に考えて。あの柘植(つげ)とかいう君に付き纏っていた犯罪者も、僕が裁いてやろうとしていたのに。それなのにまた檎上が邪魔して……! 本当に、本当にアイツはどこまでも……。
「だから今度こそ僕が罰を下したんだ。アイツには相応しい末路だろ? もう君を汚す邪魔者はいない。ほら、こっちにおいで。大丈夫、僕が君を守るから。君に相応しいのは僕だけなんだから」
「やめて……来ないで……。やだ、やめて……!」
 本当に手がかかるな一途は。わがままばっか言ってるといい加減怒るよ僕だって。
 そうして一歩、また一歩と近づいていくと、一途が抱えていたクッションを投げて来た。もう本当にいい加減にしてくれよ。だめだろそんなことしたら。一回キツくお仕置きをし——。

 ——ギギィッ。その音に気づいた時には、もう新しい音が鳴り響いていた。

 視界が弾けて、何が起きたのか理解する間もなく世界が潰される。遅れて耳に入って来たのは途轍もない衝撃音。身体中が圧迫されていることに気づくと、骨が砕けるような音が頭の中を反響し出した。
「……な、……んだ……これは」
 床に打ちつけられた身体の近くに、本が散乱している。痛い。痛い。痛い。ようやく現れた全身を襲う激痛と共に、巨大な本棚が僕を押し潰したことを理解する。身体に力が入らない。動かない。なんなんだこれは。やめろ。邪魔するなよ。なあ? あと少しなんだ。あと少しで一途と。
「い、一途……」
 (きし)む首を必死に動かして一途を見上げると、(おび)えと困惑をかき混ぜたような顔が月明かりで照らされていた。ああ、なんだか久しぶりに一途の顔を見た気がするな。せっかくここまで来たのに、思えば一途の顔をちゃんと見ていなかった。やっぱり綺麗だ。この世界の何よりも透き通っている。あれ? ここに来てから一途と何を話したんだっけ? せっかく彼女の所に来たって言うのに。まあいいよ。これからはずっと一緒なんだから。
 砕け散った腕を一途の方へと伸ばす。
 ほら、僕の手を掴んでよ。誓うから、君のことを必ず僕が守る。そうだ、君のために突き刺した心臓を、君に捧げるから。だから……。
 僕が必ず君のことを幸せにするよ。

 *

 ああ、そっか。俺刺されたんだ。
 じゃあもしかして、今まで見てたのは走馬灯ってやつなんだろうか。なんか笑っちゃうな。こんな今際(いまわ)の時に思い出すのも、ほとんど一途のことばっかじゃないか。どれだけ好きなんだよ。まだ出会ってから一年も経ってないのに。それなのにずっと前から一途のことだけを見ていたような、そんな気すらする。
 楽しかったなあ。全部、全部楽しかった。子供の頃から(くす)んでいた世界が、一途に出会ってようやく色づいた気がした。ずっと停滞してた人生から、一途が手を引いて連れ出してくれたんだ。一途と一緒にいると何もかもが新鮮で、一途を通して見る世界を歩くのが本当に楽しかった。
 それなのに、せっかく一途に会えたのに俺は死ぬのか?
 嫌だな。もっと一途と一緒にいたい。一途と色々なところへ行きたい。一途と一緒にもっともっといろんな景色を見たい。一途が作るあの摩訶不思議(まかふしぎ)な飲み物を、まだまだ飲みたいよ……。
 こんなところで終わりなんて、そんなの——。

 *

 泣いてるなと思った。その透き通るような目から、透き通った液体が流れて頬を(つた)っている。そんなのだめだ。自然とそう手を伸ばしていた。口をぱくぱくさせて(のぞ)き込む彼女の方へ。
 「悠樹……!」
 嗚咽(おえつ)混じりの声にならない声が聞こえて来た。なんとか動かした手で彼女の目尻に触れる。その綺麗な顔に似つかわしくない隈をなぞった。
 「全然返事してくれなくて、このまま死んじゃうんじゃないかって。怖かった……。怖かったよ……」
 声を出そうとしても掠れたうめき声のよう何かが喉の途中で消え入るだけだった。だからせめてと震える手で何度もその涙を拭ったが、次から次へと(あふ)れて来て止まらない。ポロポロと(せき)を切ったようなその雫は、俺の顔にまで(したた)って来た。なんだか俺が泣いてるみたいだ。

 ああ、やっぱり俺は一途が大好きなんだな。こんな状況で真っ先に思ったことがそれだった。その気持ちだけが頭の中を反響する。目に入る一途の全てが愛おしくて、もし動けたなら抱きしめたかった。強く、強く。そして声を出して大丈夫だよと言いたかった。
 でも、やっぱりこの身体は言うことを聞いてくれそうにないから、精一杯伸ばした手でその涙を拭う。一途が流す涙は全部俺が拭い取りたい。
 そうして俺の指と触れ合ったその水滴は、なんだか少し温かいような気がした。

 *

 内臓逆位(ないぞうぎゃくい)。初めてそう言われたのは、小学校へ入学するために受けた健康診断の時だった。俺を聴診していた医者が(いぶか)しげな顔をして、「心臓が右側にあるかもしれない」と。そうしてそのまま大きな病院で検査をすることになって、結果としては全ての内臓が通常とは左右反転になっている、いわゆる内臓逆位だと判明したわけだ。小学一年生の俺にはよくわからなかったが、母親がとても不安そうにしていたのは覚えている。
 そうしてそれから何回か入院することになったり、少し年齢を重ねて自分で内臓逆位について調べてみると、心臓疾患のリスク等々様々な心配事が羅列されていて、どうしようもなく不安になった夜もあった。結果この歳まで特に問題が発生することもなく健康に生きて来られたわけだが、退屈な入院生活や心配した母によって激しい運動が制限されたりと、まあ俺にとってこの左右あべこべの身体がいいものでなかったことは確かだろう。
 それが今回岩梨に左胸を刺されて、どうやらようやく役に立ったと言うのだから、なんだか不思議な話だ。もしこの心臓が正常に左側で動いていたら、俺が今こうしていることはあり得なかったと思うと身体が(すく)んでしまう。
「よかったね。右側にあって。心臓」
 目の前で柿迫がお見舞いに持って来たリンゴを()いている一途もそう笑っていた。俺が目を覚ましてから二週間、もう三〇回くらいは聞いた台詞だ。
「心臓がない方でも助かったのは奇跡だって。先生は言ってたよ」
 普通なら心臓がどっち側にあろうが、胸を刺されたら大抵は死んでしまうだろう。即死とはいかないだけで。それがなんとか九死に一生を得たわけだから、本当に奇跡のような話だと担当医の先生は言っていた。まあこの身体のおかげでこうして一途と一緒に居られるわけだから、本当に今回ばかりは感謝しておこう。
「ふふっ。日頃の行いがいいからかもね」
 一途は今でこそこんな風に笑顔を見せてくれているが、やっぱり俺が目を覚ました直後は「自分のせいでこんなことになってしまった」と何度も繰り返していた。自らを責めるように。
 でも、俺はそんなこと思って欲しくない。一途は何も悪くなんてないんだ。それにこの傷は一途を守れた名誉の勲章(くんしょう)でもあると思ってるから。守れたなんて言っても、別に俺は何もできていないし、ただ刺されただけだが。それでもとにかく俺は一途には笑っていて欲しい。そう精一杯伝え続けたら、こうやっていつものように(ほころ)んだ顔を見せてくれるようになった。まだ完全に回復したわけではないのだろうが、今はそれで十分だ。
岩梨幽平(いわなしゆうへい)容疑者は——』
 そうやってベッドに縛り付けられた身体から一途の顔を眺めていると、病室のテレビからその名前を呼ぶアナウンサーの声が聞こえて来る。一途は剥いていたリンゴを皿の上に落とすと、慌てて立ち上がってチャンネルを変えた。
「あっ、切れちゃった。皮。残念」
 話題を()らすように、一()きにしようとしていたリンゴの皮を持ち上げて笑顔を作っている。そうだ。今はまだ、これで十分。

 岩梨幽平。サークルの仲間。一年生映画の脚本担当。俺を刺したやつ。
 「もう会えなくなった幼馴染に似ていたから」。一途に執着していた理由について、岩梨はそう供述しているらしい。どこかで聞いたような話だ。この二週間で一途が病室にいなかった、本当に(わず)かほどの時間に見たニュースによると、だが。
 つくづく俺があっち側に立っていた可能性だってあるのかもしれないなと思う。金髪の彼の時にも思わされたことだ。もちろんストーキングや殺人未遂をするなんて言うつもりはないが、それでも俺がこうして一途の隣に居られることは本当にたまたま、運がよかっただけなのだろうやっぱり。それこそこの左右あべこべの身体に生まれついたことのように。自分が特別だったなんて微塵も思えない。透明という言葉と共に生まれて来たような柑露寺一途の隣には、本当はもっと相応しい人がいるのだろうなとどうしても思ってしまう。俺が初めて恋をしたあの子だってそうだった。
 ただ、それでも一途は俺を選んでくれたから。偶然でもたまたまでも、それだけがたった一つの事実だから。
 それなら俺はこの拾ったような命を、一途のために使いたい。
 何よりも純粋に生きている一途には、きっとまた今回のように望まない誰かを()きつけるようなことがこの先何回だって起きてしまうかもしれない。そうやってまた傷ついて、涙を流してしまう日が来るのだろう。だったら、その涙を俺が全部拭いたい。一途を傷つけるものから全部守って、それでも取りこぼしてしまった時に涙が流れるなら、せめてそれを隣で拭いたい。なんとか生きながらえたこの人生を、これからはそんな風に使いたい。そう切に思う。
 そうやってこれからずっと、柑露寺一途と共に生きていきたいと。

 *

「気持ちいいね」
 一二月とは思えない温かな日差しが身体を照らした。地面にぽつぽつと小さな水溜りが作られている。塞がりかけた傷口にも心地いい温もりだ。車椅子を押して来てくれた一途は、上機嫌で口笛を鳴らしている。
 雨上がりの屋上には俺たちしかいなくて、なんだかこの世界を二人占めしているみたいだ。
「見て見て。出てるよ、虹」
 先程まで雨が降っていた名残(なごり)を感じさせない青く()み渡った空を見上げて目を()らすと、遠くの方にぼんやりと虹が架けられていた。別の空と空を結ぶように。虹なんて久しぶりに見たなと思う。というか最後にこうやってまじまじと空を眺めたのも、いつだったか曖昧だ。ずっと入院しているからとかじゃなくて、普通に生活していた時から。空なんてちゃんと見ていなかったかもしれない。いつだってそこにあるものだと。
 久々に見た透き通るような青。どこまで伸びやかに広がって俺たちを包み込んでくれている。痛みや苦しみを解き放ってくれるような、そんな温かくて優しい青色だ。
「ちょっと立ってもいい?」
「……大丈夫?」
「うん。リハビリも順調なんだよ」
「ちょっとだけね。じゃあ」
 少しでもその青に近づきたくて。どうしてもその青を感じたくて。一途に腕を引いてもらう。一途の手は少し冷たくなっていたが、それがなんだか心地よかった。そうして少し膝を震わせながら、なんとか地面を踏み締めて腰に力を入れる。
「わっ……!」
 少しよろけてしまって、一途が慌てたような声を出す。そうして一途に覆い被さるような格好になりながら、なんとか立ち上がることができた。情けないななんか。
「ごめん」
「ふふっ。いいよ。あったかいね。なんか」
 温かい。うん。温かい。俺の右にある心臓と、一途の左にある心臓は抱き合うことで同じ場所で重なって、二人で一つの音を奏でているみたいだ。ドク、ドクと温かい音が響き渡る。ああ、生きていてよかった。本当に。一途と一緒に居られて。こんな時間が永遠に続けばいいなんて、月並みだろうか。でも、それでも心からそう思う。いつまでも、いつまでも一途と一緒に。二人で幸せになろう。

 そうして近づいた青は、どこまでも温かく受け入れるように柔らかく()み渡っていた。