「俺とデートしてください!」
昼休みの中庭。取り囲むようにそびえ立つ校舎にこだまする俺の声。
これは儀式みたいなものだ。或いは様式美。隣町に先月開園したとかいう遊園地のチケットを差し出した目前には、今まで何人もの告白を斬り捨ててきた先輩。そうやって無数に積み重ねられた屍の山を賑やかす一つに俺も名を連ねようと。これはそういうイベント……のはずだった。
「……いつ?」
「へ?」
予め決められていたはずの負けイベントを消化しようとしていた俺に、全く想定してなかった言葉が突き刺さり反射的に生返事をしてしまう。今の俺はいつにも増して間抜けな顔をしているだろう。あまりにも無惨なストーリーに、ショックで幻覚でも見てしまっているのかもしれない。そうとしか考えられなかった。
「だから、いつ?」
しかしそれが聞き違いでも幻覚でもないと証明するように、先輩は至って冷淡な声でそう繰り返した。その切れ長な目から突き刺すように向けられた視線は、俺を全く捉えていないにもかかわらず。
そうして俺はフリーズしかけた脳をフル回転させながら、なんとか予定されていなかったはずの言葉を紡ぎ出した。
「……えっと、今度の日曜日……?」
「そう。じゃあ日曜日のお昼に。そこの最寄駅でいいわね」
先輩は事務的にそう言い残すと、長く下ろした髪の毛をなびかせてあっさりと立ち去ってしまった。一歩、一歩と踏み出すたびにコツコツと音を立てながら。俺と同じ上履きを履いているはずなのに、一体どこからあんな音が出ているのだろう。
先輩の後ろ姿が遠く離れていくにつれて、教室のベランダから観覧していたあちこちの見物人たちがざわざわと音を立て始める。困惑を隠し切れないといったように。
いつも通り負けイベを観覧しにきたつもりだったのだろうから当然だ。無惨な撃沈という用意されていた結末が訪れず、収拾のつけどころを見失ってしまったのだろう。俺だって意味がわからない。
結局俺はそんな観客たちに軽く一礼をして、逃げるように校舎へと駆け戻っていった。こんな空気のまま衆人の目に晒されては堪ったものじゃない。
*
「おいおい、どうなってんだよ!」
教室に戻ると開口一番、梅ちゃんが俺に駆け寄って大きな声を出した。クラスメイトたちの視線がヒソヒソと俺に注がれている。
「どうって言われても……」
「なんであの人がオッケーしてんだよ! おかしいだろ!」
そんなの俺が一番聞きたい。何がどうなっているのか。俺が一番理解できていないのだ。
長阿弥朝衣。実りの杜学園高等学校三年B組。図書委員会所属。帰宅部。だいたいわかっている情報はそれくらい。
そんな彼女を一言で表すならクールでミステリアス。教室ではいつも一人で、最低限の会話しかしない。頭からつま先まで一本の芯が通されているかのように、ピンとした姿勢でただ静かに座っている。長いまつ毛に縁取られた切れ長の瞳で、いつも刺すようにどこか遠くを見つめて。
そして何よりこの学校で一番と言っていいほど美しい。一切着崩していないはずの制服も、彼女が着ると何かの衣装のように様になって見えるほど。
それが長阿弥先輩。
そんな彼女は毎週のように誰かに呼び出されては、無惨な告白劇を披露している。
野球部のエース、サッカー部のキャプテン、芸能活動のようなものをしているというモデルの先輩、生徒会長等々、誰が前に立とうと彼女が首を縦に振ることは決してない。
そうしてその中の一人に俺もなるはずだった先刻。なぜか彼女は俺の誘いに初めて、頷きというモーションが実装されていたことを見せたのだ。運動ができるわけでも、勉強ができるわけでも、容姿が整っているわけでも、権力があるわけでもない俺とどういうわけかデートをしてくれるらしい。全くもって意味がわからない。
「俺だって何がなんだかわからないよ。だいたい梅ちゃんがいけって言うから……」
「星夜がシュレディンガー長阿弥のこと気になるって言ったんだろーが!」
俺の責任転嫁に梅ちゃんはすぐ反論を唱える。確かにそうなんだけど、まさかこんなことになるなんて思うはずがないだろう。ダメ元というよりダメで当然、ダメ当で俺は告白劇を演じる一人になろうとしただけなのだ。何よりあの秘密に少しでも近づくために。
長阿弥先輩はいつも左手に手袋をしている。その白く細い手首まで覆い尽くす、革製の真っ黒な手袋。それを先輩は学校にいる間、常に装着しているのだ。授業中はもちろん、食事や体育の時間まで。長阿弥先輩は片時たりともその手袋を外さない。
なぜいつも手袋をつけているのか、その手袋の中の左手がどうなってるのか。この春に入学してからまだ半年も経っていない俺たち一年生はもちろん、二年以上共に学園生活を過ごしてきた先輩たちまで、誰一人として一切知らないのだ。知り得ない。全てが謎に包まれている。
だからシュレディンガー長阿弥。誰も知らない手袋の先に何があるのか。酷い火傷の痕を隠しているんだとか、とんでもない刺青が入っているんだとか好き勝手に飛び交う噂の真偽も、実際に見てみなければ何もわからない。
そんな風に誰も観測できないそこには、噂されている全ての可能性が重なって存在している。シュレディンガーの猫とかけたその安直な言説がいつしか広まり、俺たちが入学した頃にはもう誰もがその異名で彼女を呼んでいた。深く人と関わろうとしない彼女では、その噂を否定する人もいなかったのだろう。
俺はそんな長阿弥先輩の左手が気になってしかたがなかった。深く閉ざされた黒に包まれた左手。そのぼんやりとした輪郭の向こう側には一体何があるのか。
誰も知らない隠された秘密。深い夜の底に沈められた秘密。誰の目にも触れたことのない宝石のような秘密。じっと息を潜めて、その時を待ち侘びている秘密。
そこにはただ身体の一部があるわけではなくて、何かこの世界の秘密全てのようなものが隠されているのではないかと、そんな風に思えてならなかった。謎めいたその左手を掴んで白日の下に引きずり出した時、一体自分は何を思うのか。どうしても知りたい。一度そう思うと、長阿弥先輩の左手が頭から離れなかった。
そうやって何かしら関わりを持てないかと、面白半分の梅ちゃんに背中を押されるまま遊園地のチケットを片手に告白劇団員へ立候補した結果、なぜかあまりにも呆気なく通り抜けてしまった。観測するまでもなくNOしかないと思っていたイベントだったが、ちゃんとYESと重なり合って存在していたらしい。
本当に意味がわからないし未だ半信半疑とはいえ、とにかくこのチャンスをふいにするべきではないのは確かだ。
そうして未だワーワーと騒ぎ立てている梅ちゃんを尻目に俺は、来たる日曜日にその秘密を暴いてみせようと静かに決意をするのだった。
*
本当に長阿弥先輩はやって来るのか。何か壮大なドッキリでもかけられているんじゃないかと。そう未だ数日前に起きたことを信じられずにいながらも、「お昼」という先輩の漠然とした指定を漏らさないように、朝の九時から遊園地の最寄駅でその時が来るのを待つ。高校生になった時に満を持して機種変更した最新のスマートフォンは、先輩の連絡先なんて知るわけもないのでなんの役にも立たない。連絡先も知らない人とデート。やっぱりドッキリなんだろうか。考えれば考えるほど不安になっていく。
そうやってだいたい一時間くらいした頃、長阿弥先輩は間違いなく俺の目の前に姿を現した。杞憂だったとあっさり告げるように。
「……待たせたかしら? 私の方が早く着くと思っていたのだけれど。ごめんなさい」
「い、今来ました! だから大丈夫っす!」
「そう。ならよかった」
いつもの制服ではなく白いワンピースを身に纏った長阿弥先輩は、やっぱり淡々とそう言った。凛と研ぎ澄ましたようなあの先輩だと思うと、なんだか少し意外なチョイスだが、やはりその左手はいつものように黒い手袋で固く閉ざされている。
「あの! すごい、似合ってます、その服」
「……うん。行きましょうか」
この数日間考えに考え練習していた会話の糸口も、先輩の手にかかれば一言で一刀両断。やはり一筋縄でいくわけはなさそうだ。まあそんなの、普段の先輩を見ていれば想像せずともわかっていたことだが。
そうして徒歩五分の遊園地まで歩く道中、「車道側を歩くんだ。車道側を歩くんだ」と確認するように言い聞かせて自然に取ろうと、なんなら手でも繋げないだろうかと考えていたその位置も、先輩は決して譲ってはくれなかった。自分の左側には絶対に誰も通さないといった様子で。
そうして手持ち無沙汰になった右手を揺らしながら、本当に大丈夫なんだろうかと始まる前から暗雲立ち込めるデートが幕を開けた。
*
耳から耳を突き抜けていくような悲鳴が渦巻く空の上で、長阿弥先輩だけがいつも通り。叩きつけるような風で靡いた髪を辿ると、平然と澄ました顔でじっと一点を見つめている。
そのままコースターは一番高い山のてっぺんまで来て、あとはもう落ちていくだけ。ふと下を見ても何もかもがゴマ粒のようにしか映らない。そんな崖っぷちでも長阿弥先輩は微動だにせず、微かな声どころか息遣いすら漏らす気配は全くなかった。本当にどこまでも徹底している。鉄仮面のように。
落ちる。そう思った瞬間にはもう内臓が浮き上がっていた。身体中から全ての臓物が飛び出していくようなそんな速度に、俺も含めあちこちから上がる絶叫。ただ一人隣に座す長阿弥先輩を除いて。
横目でチラリと見た先輩は、目を閉じることなくやはりここではないどこかを見つめている。感情ごとどこかに脱ぎ捨ててしまったみたいだ。
まあ、なんでもいい。俺の目的は先輩の表情を崩すことじゃない。その手袋の秘密を掴むことだ。この坂を下りたら最後に待っているのは着水ポイント。そう、このジェットコースターは一度乗ったらびしょ濡れになって降りるしかないともっぱらのアトラクションなのだ。服にはビニールのカバーをかけてもらったが、あの手袋を守ることはできない。しかも最も水がかかるという最前列に座れるよう計算をして列に並んだ。
作戦は完璧。早々に手袋の中身を拝ませてもらおう。
降下するコースターの中で意気揚々とその時を待ち、そうして俺たちは水の奈落へと突進していった。
「……お疲れ様です」
「ええ。お疲れ様」
先輩の顔にはあまりにも飄々と、いつも通りの表情が張りついている。俺の足はまだ少し震えているというのに。
「あの、ごめんなさい。髪。いきなり濡れちゃいましたね」
「そうね。……大丈夫よ。一番人気のアトラクションなのでしょう?」
先輩はそのパックリと割れてしまった前髪を整えながら、事もなげに流した。ところどころ水の被ったその黒髪は、しっとりと艶めいている。それだけ。
肝心のその手元に目をやっても、そちらは全くの無傷。一体どうなっているんだ。どこまでも冷静な先輩と同じように、その手袋は深く黒くそこに在り続けている。全く濡れた様子もなく。
女の子は絶対に崩れない無敵の前髪を作るのに毎朝忙しいらしいが、長阿弥先輩のそれは全て左手の手袋に注がれているのだろうか。あれだけの豪風と水飛沫に晒されても、強固に守られた砦のように一切崩れる気配がないのだからそうとしか思えない。
「……あの! お昼食べませんか? あそこのハンバーガーが名物みたいで」
しかし、それもまた想定の範囲内だ。元々そう簡単に倒せる敵だとは思っていない。そうしてさっさとプランBに移行しようと、俺はその店を指差すのだった。
*
「お待たせしました〜。クラウンパークバーガーです」
顔の半分ほどあるそのハンバーガーを見ても、長阿弥先輩は眉一つ動かさない。店員が放つ満点の笑顔にも、凪のような顔で少し会釈を返すだけだ。崩れてしまった髪の毛を後ろで一つに結んだその頭で。
「先どうぞ!」
近くのテラス席に移動すると、俺はそう先輩に促す。「せっかくだから名物の超巨大ハンバーガーを半分ずつ食べませんか?」と、もしかしたら断られるかもしれないと思っていた提案にも先輩は特に異を唱えることなく順調に事は進んだ。
「……いいのかしら? 柚木くんが先に食べたら?」
「いいんです! 先輩が食べてください!」
先に食べてもらわないと俺の計画が意味を成さなくなる。別に間接キスを狙っているとか、そんなのじゃない。というか、そんなことより先輩が俺の名前を知っていたということに驚きだ。そりゃもちろん普通ならデートする相手の名前を知っているのは当然だけど。ここまでの先輩と俺には全くデートという雰囲気はない。最低限の会話こそしてくれているが、それだけ。本当になんで先輩は今日俺と一緒に遊園地なんかに来てくれたのか。謎は深まるばかりだ。
なんにせよ俺は俺の目的を果たせればそれでいい。この超巨大ハンバーガーはもちろん片手で食べるなんてできるわけもなければ、あの手袋をつけたまま上手く食べるのは相当難しいだろう。もし片手に手袋という枷を背負ってこんなものを食べたとしたら、手袋ごと汚れてしまうこと必至。どう転ぼうと手袋を外さなきゃいけなくなると、これが俺のプランBだ。
先輩は「それなら」とハンバーガーの包みにあっさり手を伸ばす。掌を優に超える大きさのバンズからこれでもかと溢れるベーコン、レタス、トマト、オニオンリング、そして特大パティ。そもそも手袋とか関係なくどうやって食べるんだよというような代物だ。
どう考えても俺の目論見通りいくだろうという確信を持って見つめる最中、先輩は手袋をつけたままハンバーガーにかぶりついた。
それはなんだか魔法のようだった。洗練された手つきで細い指を踊らせて、少しでもバランスが崩れたらぐしゃぐしゃに崩れてしまうであろうハンバーガーを器用に持ち上げる先輩。顔を少し逸らしながら、とてもとても小さい口で一口、また一口と齧る。
それでは一向に量は減らないだろうというようなその一口で、なぜか具材たっぷりのハンバーガーの質量はどんどん削られていった。レタスのシャキシャキとした音、トマトの果汁が滲む音、オニオンリングのザクザクとした音。その小さな口で全ての音が順番に奏でられる。その所作はとてもジャンクフードを食べているとは思えないほど至って上品で、ゆったりとしたリズムであるにもかかわらず、クラウンなんて大層な名前を冠しているはずのハンバーガーは確かに形を変えていった。
「……うん。ごちそうさま」
気づけばあっという間に半身を失ったハンバーガーをテーブルに置くと、先輩は静かにそう呟いた。一切の汚れを持たない手袋で、ハンバーガーの包みを折り曲げながら。
またしても俺の敗北のようだ。そうして俺は先輩に渡されたそれを口に入れる。こぼれた。半分しかないのに。半バーガーなのに。なんなんだ本当に。
*
結局あれからメリーゴーランド、お化け屋敷、回転ブランコ、コーヒーカップと、計画した通りにどんどん回っていったが、先輩は手袋を外す素振りすら見せはしなかった。
長阿弥先輩の左手は、怪盗の前に立ちはだかる金庫のように、どんな時でもあまりにも強固に守られている。まさに難攻不落。本当にどうしようもない。
もう手袋のことなんて忘れて、学校一の美人と過ごすひとときをただただ純粋に楽しむべきなのではないか。そんな考えが頭を過りながらも、やっぱりどうしても諦め切れない。そんな狭間で揺れていると、突然隣からその声が聞こえた。
「……ねえ、ちょっと行きたいところがあるのだけれど。いい?」
「えっ、はい。もちろん……?」
それは思いも寄らない一言だった。思わず言葉に詰まってしまうくらい。
そもそも今日、先輩から話しかけてきてくれたのも初めてなのではないか。ここまで、俺が何か話せば必要最低限ではあるものの会話を返してくれていた。しかし本当にただそれだけで、一応はデートとされているこの時間を先輩は少しでも楽しんでくれているのかと疑心は尽きなかったわけだ。というか、楽しめているわけないだろうとしか思えなかったが、この遊園地の中に先輩のお眼鏡にかなうものがどうやらあったらしい。晴天に雷が落ちたような衝撃だ。これでその「行きたい場所」がお手洗いとかだったら腰を抜かしてしまうけど。それでもその可能性の方が高いのではないかと思えてしまう。しかし、先輩が告げたその場所は、確かに遊園地のアトラクションの一つだった。
「すごいっすねこれ。本当に穴が空いてるみたいです」
「ええ。そうね」
先輩がまじまじと視線を落とす。その切れ長の目はしっかりと目の前のそれを捉えていて、そんな先輩の姿は今日初めて見た。ここまで先輩は俺の隣にずっといたはずなのに、ずっと本当はどこか他の場所にいるようなそんな不思議な感覚があったのだ。
その先輩が確かに今ここにいる。
行きたいところがあるという先輩にくっついて足を進めると、遊園地の開園記念で特別開催されているトリックアート展に辿り着いた。『ルビンの壺』や『妻と義母』といった様々な騙し絵だったり、『エイムズの部屋』や角度によって錯視を引き起こすアナモルフォーシスなど、多種多様なトリックアートを体験することのできる特設展だ。
中でも一番人気なのはSNSに投稿できるフォトスポットで、場所によってはそれこそ外のアトラクションのように行列ができているのだが、先輩の興味は実際に今肉眼で見て体験できるものに注がれているようだった。
「でもなんか意外でした。先輩がこういうのに興味あるって」
平面に描かれているにもかかわらず、一度足を踏み入れたら吸い込まれてしまいそうな落とし穴。先輩の手袋のように深く暗いその上に意を決して飛び乗ると、いつの間にか口からそうこぼれていた。ちゃんと床があると頭ではわかっていても、一瞬心臓がギュッと掴まれたような感覚で身がすくむ。ゲームのアバターを高いところからわざと飛び降りさせた時みたいだ。
「……妹が騙し絵とかそういう絵本が好きで、昔よく一緒に見ていたの」
妹と一緒に絵本を見る先輩。俺の知っている先輩からでは、あまり想像できない姿だ。
そもそも先輩に妹がいるなんて話は聞いたことがない。もしかしたら俺以外誰も知らないんじゃないだろうか。そう思うとなんだか少し嬉しいと、小さくガッツポーズを作ってしまった。
「もしかして、ここが気になってたから俺と遊園地に来てくれたんですか?」
そう考えるとわりとだいたいのことに合点がいく。あの日差し出したのが遊園地のチケットだったから、いつもなら造作なく振り払われるはずだった手を取ってくれたと。
「……そうかもしれないわね」
なんだか煮え切らない答えだ。まあもしそうなんだとしたら、バイト先から優待チケットをもらってきてくれた梅ちゃんに感謝しなければならないかもしれない。
そうやって心の中で梅ちゃんに手を合わせていると、突然その声が耳を刺した。
「――きゃっ」
「大丈夫っすか……!」
黒と白のタイルが交互に敷き詰められている中で、ところどころうねるようにそのタイルを変形させ地面が歪んでいると錯視させるトリックアート。それで平衡感覚をなくすという展示の中にいつの間にか入っていたらしい。
そんなトラップに注文通り引っかかってしまった先輩。なんだか本当にここに入ってからの先輩は、なんとなくそれまでと違う何かを感じさせた。
俺は地面に尻餅をつく先輩へ自然と手を差し出したが、先輩は「……ええ。ありがとう」と一言だけ断って、何もなかったというように自分の手で立ち上がる。そんな風にいつも通り平然と涼しい顔をしていたが、心なしかばつが悪そうに目線が動いていたことを俺は見逃さなかった。なんだかかわいい。あと転んだ時の声もかわいかった。俺しか知らない先輩の一面ということにしておこう。
そうやってトリックアート展にいる間、先輩の目にはいつもとは違う何か光のようなものが常に灯されていた。
*
「今日はありがとう。……楽しかった」
トリックアート展を出ると、先輩はすぐにそう言った。それは敗北へのカウントダウン。結局手袋を巡る秘密の輪郭にすら触れられないまま終わるのか。頭の中でそう警告の鐘が鳴り響いたような気がして、パニックになってしまう。
どうしよう、どうしようとその言葉だけが頭の中をぐるぐると渦巻いて、気がついたら俺はとんでもないことを口走っていた。
「あの! えっと……蟹! 蟹……食べに行きませんか? 剥くやつ」
意味がわからない。本当に自分の口がそう動いたのか信じられないくらいに無茶苦茶だ。蟹なんて難解な食べ物を食べるとなったら、流石に手袋を外さざるを得ないのではないかと。頭が正常な判断をできなくなっているとしか言いようがなかった。
そうして先輩はこんな不可解の極みのようなことを言う男を前にして、一体どんな顔をしているのだろうと恐る恐る視線を上げる。
「……ごめんなさい。あまり持ち合わせがないし、そういうお店もこの辺りにはないんじゃないかしら?」
しかし先輩はそんな俺の常軌を逸した誘いにも、至極真っ当な答えを返してくれた。手袋に包まれた左手を顎に当てて、真面目に考え込むようなポーズを取っている。
先輩は毎週のように敢行される告白を無惨にも斬り捨ててきた。だけど、思えば毎回律儀に半ば告白スポットと化したあの中庭まで赴いて、しっかりと本人を前に断っているのだ。あんな衆人環視に晒される場所になんか行かないで、無視してしまえば済む話なのに。それなのに先輩はどこか違う場所を見ながらも、しっかり一つ一つの告白を真摯に断っている。
感情なんてどこかに捨て去ってしまったように見える先輩だけど、それでもちゃんと向き合って考えてくれていたのかもしれない。きっと今みたいに。
そう思うと途端に自分のふざけた提案が恥ずかしくなって、俺は目を伏せて俯いてしまう。すると、視界の外で一つ大きく息を吐くような音が聞こえて、そうして心なしか温度が上がったようなそんな先輩の声が確かに俺の耳に届いた。
「……ねぇ、最後にあれ乗ってみない?」
顔を上げて視界に捉えた先輩の指の先では、すっかり暗くなった夜空を照らすように眩い光を放つ大きな観覧車がゆっくりと回っていた。
*
想像するよりも大きな音を立てて乗降口に滑り込んで来たゴンドラに、先輩はすいすいと乗り込んでいった。
おずおずとあとに続く俺に出現した二択。正面か隣か。一応デートと冠しているのだからどうだとか頭の中で呟きながら、結局俺は先輩の正面に腰を落とした。そうして扉が閉められて、作られた密室が夜空に向かって浮き上がっていく。
狭く小さい箱の中に、先輩と俺二人きり。ゴンドラの動く音に紛れて、確かに自分の鼓動を感じる。先輩はまたいつものように澄ました顔を崩さない。そうしてゆっくり、ゆっくりと上へ運ばれていくゴンドラの中で、息を潜めるような無言の時間が流れた。
二人だけの世界でどこを見ていいのかわからなくなって、目を泳がせながら時折先輩に目をやる。空中から見える夜の景色と先輩を交互に。
そうしてそよ風にすら追い越されそうなくらいノロノロと進んで行くゴンドラが、ようやく四分の一程度進んだかというその時、その日初めて俺と先輩の視線が重なった。まじまじと俺を見つめてくる先輩。どこを見ているかわからなかったその目が、確かに俺に向けられていた。
「そんなにこの手袋が気になる?」
先輩がゆっくりと口を開いたその瞬間、心臓を鷲掴みにされたかのように時が静止する。何もかも見透かされているような、そんな気分にどことない居心地の悪さを感じざるを得ない。声帯ごと握り潰されたように声を出せずにいる俺に、先輩はゆっくりと言葉を重ねた。
「ねぇ、見たい?」
「……はい」
妖艶に全身を撫で回すようなその声に「もう、いっそ……」と、俺は本心を腹から吐き出し口にする。深く閉ざされた黒のその先に何があるのか、それだけをずっと……。
「いいよ」
先輩はそうあっさりと一言。ただそれだけを口にして、左手の甲を差し出すように俺の前へ伸ばした。どこまでも果てしなく底知れない黒。そこはこの世界から断絶された場所。白雪姫の眠る森のように。人間が決して足を踏み入れてはいけない魔の国のように。
そこに踏み入る許可をもらったということなのだろうか。先輩が発したたった三文字の言葉に、意識を保てないくらい心臓が騒めき立った。
その黒に俺は恐る恐る手を近づける。この空をなぞるゴンドラのようにじわじわと。指先がその黒に触れた瞬間、吸い込まれてしまいそうなくらい引き寄せられて。
そこにあるべき温度はない。そうして微かに乱れる呼吸のままにそっと力を入れ、確かにその左手を掴んで。先輩の肌に沿ってゆっくりと導かれるように、黒で隠されたその秘密を暴き出す。ちょうどゴンドラがこの夜の頂点に辿り着いたその時だった。
※試し読みは以上となります。この先物語がどう繋がっていくのか、是非スターツ出版文庫より発売中の『結末は君のもの〜全てが繋がる5つの物語〜」にてお確かめください。
昼休みの中庭。取り囲むようにそびえ立つ校舎にこだまする俺の声。
これは儀式みたいなものだ。或いは様式美。隣町に先月開園したとかいう遊園地のチケットを差し出した目前には、今まで何人もの告白を斬り捨ててきた先輩。そうやって無数に積み重ねられた屍の山を賑やかす一つに俺も名を連ねようと。これはそういうイベント……のはずだった。
「……いつ?」
「へ?」
予め決められていたはずの負けイベントを消化しようとしていた俺に、全く想定してなかった言葉が突き刺さり反射的に生返事をしてしまう。今の俺はいつにも増して間抜けな顔をしているだろう。あまりにも無惨なストーリーに、ショックで幻覚でも見てしまっているのかもしれない。そうとしか考えられなかった。
「だから、いつ?」
しかしそれが聞き違いでも幻覚でもないと証明するように、先輩は至って冷淡な声でそう繰り返した。その切れ長な目から突き刺すように向けられた視線は、俺を全く捉えていないにもかかわらず。
そうして俺はフリーズしかけた脳をフル回転させながら、なんとか予定されていなかったはずの言葉を紡ぎ出した。
「……えっと、今度の日曜日……?」
「そう。じゃあ日曜日のお昼に。そこの最寄駅でいいわね」
先輩は事務的にそう言い残すと、長く下ろした髪の毛をなびかせてあっさりと立ち去ってしまった。一歩、一歩と踏み出すたびにコツコツと音を立てながら。俺と同じ上履きを履いているはずなのに、一体どこからあんな音が出ているのだろう。
先輩の後ろ姿が遠く離れていくにつれて、教室のベランダから観覧していたあちこちの見物人たちがざわざわと音を立て始める。困惑を隠し切れないといったように。
いつも通り負けイベを観覧しにきたつもりだったのだろうから当然だ。無惨な撃沈という用意されていた結末が訪れず、収拾のつけどころを見失ってしまったのだろう。俺だって意味がわからない。
結局俺はそんな観客たちに軽く一礼をして、逃げるように校舎へと駆け戻っていった。こんな空気のまま衆人の目に晒されては堪ったものじゃない。
*
「おいおい、どうなってんだよ!」
教室に戻ると開口一番、梅ちゃんが俺に駆け寄って大きな声を出した。クラスメイトたちの視線がヒソヒソと俺に注がれている。
「どうって言われても……」
「なんであの人がオッケーしてんだよ! おかしいだろ!」
そんなの俺が一番聞きたい。何がどうなっているのか。俺が一番理解できていないのだ。
長阿弥朝衣。実りの杜学園高等学校三年B組。図書委員会所属。帰宅部。だいたいわかっている情報はそれくらい。
そんな彼女を一言で表すならクールでミステリアス。教室ではいつも一人で、最低限の会話しかしない。頭からつま先まで一本の芯が通されているかのように、ピンとした姿勢でただ静かに座っている。長いまつ毛に縁取られた切れ長の瞳で、いつも刺すようにどこか遠くを見つめて。
そして何よりこの学校で一番と言っていいほど美しい。一切着崩していないはずの制服も、彼女が着ると何かの衣装のように様になって見えるほど。
それが長阿弥先輩。
そんな彼女は毎週のように誰かに呼び出されては、無惨な告白劇を披露している。
野球部のエース、サッカー部のキャプテン、芸能活動のようなものをしているというモデルの先輩、生徒会長等々、誰が前に立とうと彼女が首を縦に振ることは決してない。
そうしてその中の一人に俺もなるはずだった先刻。なぜか彼女は俺の誘いに初めて、頷きというモーションが実装されていたことを見せたのだ。運動ができるわけでも、勉強ができるわけでも、容姿が整っているわけでも、権力があるわけでもない俺とどういうわけかデートをしてくれるらしい。全くもって意味がわからない。
「俺だって何がなんだかわからないよ。だいたい梅ちゃんがいけって言うから……」
「星夜がシュレディンガー長阿弥のこと気になるって言ったんだろーが!」
俺の責任転嫁に梅ちゃんはすぐ反論を唱える。確かにそうなんだけど、まさかこんなことになるなんて思うはずがないだろう。ダメ元というよりダメで当然、ダメ当で俺は告白劇を演じる一人になろうとしただけなのだ。何よりあの秘密に少しでも近づくために。
長阿弥先輩はいつも左手に手袋をしている。その白く細い手首まで覆い尽くす、革製の真っ黒な手袋。それを先輩は学校にいる間、常に装着しているのだ。授業中はもちろん、食事や体育の時間まで。長阿弥先輩は片時たりともその手袋を外さない。
なぜいつも手袋をつけているのか、その手袋の中の左手がどうなってるのか。この春に入学してからまだ半年も経っていない俺たち一年生はもちろん、二年以上共に学園生活を過ごしてきた先輩たちまで、誰一人として一切知らないのだ。知り得ない。全てが謎に包まれている。
だからシュレディンガー長阿弥。誰も知らない手袋の先に何があるのか。酷い火傷の痕を隠しているんだとか、とんでもない刺青が入っているんだとか好き勝手に飛び交う噂の真偽も、実際に見てみなければ何もわからない。
そんな風に誰も観測できないそこには、噂されている全ての可能性が重なって存在している。シュレディンガーの猫とかけたその安直な言説がいつしか広まり、俺たちが入学した頃にはもう誰もがその異名で彼女を呼んでいた。深く人と関わろうとしない彼女では、その噂を否定する人もいなかったのだろう。
俺はそんな長阿弥先輩の左手が気になってしかたがなかった。深く閉ざされた黒に包まれた左手。そのぼんやりとした輪郭の向こう側には一体何があるのか。
誰も知らない隠された秘密。深い夜の底に沈められた秘密。誰の目にも触れたことのない宝石のような秘密。じっと息を潜めて、その時を待ち侘びている秘密。
そこにはただ身体の一部があるわけではなくて、何かこの世界の秘密全てのようなものが隠されているのではないかと、そんな風に思えてならなかった。謎めいたその左手を掴んで白日の下に引きずり出した時、一体自分は何を思うのか。どうしても知りたい。一度そう思うと、長阿弥先輩の左手が頭から離れなかった。
そうやって何かしら関わりを持てないかと、面白半分の梅ちゃんに背中を押されるまま遊園地のチケットを片手に告白劇団員へ立候補した結果、なぜかあまりにも呆気なく通り抜けてしまった。観測するまでもなくNOしかないと思っていたイベントだったが、ちゃんとYESと重なり合って存在していたらしい。
本当に意味がわからないし未だ半信半疑とはいえ、とにかくこのチャンスをふいにするべきではないのは確かだ。
そうして未だワーワーと騒ぎ立てている梅ちゃんを尻目に俺は、来たる日曜日にその秘密を暴いてみせようと静かに決意をするのだった。
*
本当に長阿弥先輩はやって来るのか。何か壮大なドッキリでもかけられているんじゃないかと。そう未だ数日前に起きたことを信じられずにいながらも、「お昼」という先輩の漠然とした指定を漏らさないように、朝の九時から遊園地の最寄駅でその時が来るのを待つ。高校生になった時に満を持して機種変更した最新のスマートフォンは、先輩の連絡先なんて知るわけもないのでなんの役にも立たない。連絡先も知らない人とデート。やっぱりドッキリなんだろうか。考えれば考えるほど不安になっていく。
そうやってだいたい一時間くらいした頃、長阿弥先輩は間違いなく俺の目の前に姿を現した。杞憂だったとあっさり告げるように。
「……待たせたかしら? 私の方が早く着くと思っていたのだけれど。ごめんなさい」
「い、今来ました! だから大丈夫っす!」
「そう。ならよかった」
いつもの制服ではなく白いワンピースを身に纏った長阿弥先輩は、やっぱり淡々とそう言った。凛と研ぎ澄ましたようなあの先輩だと思うと、なんだか少し意外なチョイスだが、やはりその左手はいつものように黒い手袋で固く閉ざされている。
「あの! すごい、似合ってます、その服」
「……うん。行きましょうか」
この数日間考えに考え練習していた会話の糸口も、先輩の手にかかれば一言で一刀両断。やはり一筋縄でいくわけはなさそうだ。まあそんなの、普段の先輩を見ていれば想像せずともわかっていたことだが。
そうして徒歩五分の遊園地まで歩く道中、「車道側を歩くんだ。車道側を歩くんだ」と確認するように言い聞かせて自然に取ろうと、なんなら手でも繋げないだろうかと考えていたその位置も、先輩は決して譲ってはくれなかった。自分の左側には絶対に誰も通さないといった様子で。
そうして手持ち無沙汰になった右手を揺らしながら、本当に大丈夫なんだろうかと始まる前から暗雲立ち込めるデートが幕を開けた。
*
耳から耳を突き抜けていくような悲鳴が渦巻く空の上で、長阿弥先輩だけがいつも通り。叩きつけるような風で靡いた髪を辿ると、平然と澄ました顔でじっと一点を見つめている。
そのままコースターは一番高い山のてっぺんまで来て、あとはもう落ちていくだけ。ふと下を見ても何もかもがゴマ粒のようにしか映らない。そんな崖っぷちでも長阿弥先輩は微動だにせず、微かな声どころか息遣いすら漏らす気配は全くなかった。本当にどこまでも徹底している。鉄仮面のように。
落ちる。そう思った瞬間にはもう内臓が浮き上がっていた。身体中から全ての臓物が飛び出していくようなそんな速度に、俺も含めあちこちから上がる絶叫。ただ一人隣に座す長阿弥先輩を除いて。
横目でチラリと見た先輩は、目を閉じることなくやはりここではないどこかを見つめている。感情ごとどこかに脱ぎ捨ててしまったみたいだ。
まあ、なんでもいい。俺の目的は先輩の表情を崩すことじゃない。その手袋の秘密を掴むことだ。この坂を下りたら最後に待っているのは着水ポイント。そう、このジェットコースターは一度乗ったらびしょ濡れになって降りるしかないともっぱらのアトラクションなのだ。服にはビニールのカバーをかけてもらったが、あの手袋を守ることはできない。しかも最も水がかかるという最前列に座れるよう計算をして列に並んだ。
作戦は完璧。早々に手袋の中身を拝ませてもらおう。
降下するコースターの中で意気揚々とその時を待ち、そうして俺たちは水の奈落へと突進していった。
「……お疲れ様です」
「ええ。お疲れ様」
先輩の顔にはあまりにも飄々と、いつも通りの表情が張りついている。俺の足はまだ少し震えているというのに。
「あの、ごめんなさい。髪。いきなり濡れちゃいましたね」
「そうね。……大丈夫よ。一番人気のアトラクションなのでしょう?」
先輩はそのパックリと割れてしまった前髪を整えながら、事もなげに流した。ところどころ水の被ったその黒髪は、しっとりと艶めいている。それだけ。
肝心のその手元に目をやっても、そちらは全くの無傷。一体どうなっているんだ。どこまでも冷静な先輩と同じように、その手袋は深く黒くそこに在り続けている。全く濡れた様子もなく。
女の子は絶対に崩れない無敵の前髪を作るのに毎朝忙しいらしいが、長阿弥先輩のそれは全て左手の手袋に注がれているのだろうか。あれだけの豪風と水飛沫に晒されても、強固に守られた砦のように一切崩れる気配がないのだからそうとしか思えない。
「……あの! お昼食べませんか? あそこのハンバーガーが名物みたいで」
しかし、それもまた想定の範囲内だ。元々そう簡単に倒せる敵だとは思っていない。そうしてさっさとプランBに移行しようと、俺はその店を指差すのだった。
*
「お待たせしました〜。クラウンパークバーガーです」
顔の半分ほどあるそのハンバーガーを見ても、長阿弥先輩は眉一つ動かさない。店員が放つ満点の笑顔にも、凪のような顔で少し会釈を返すだけだ。崩れてしまった髪の毛を後ろで一つに結んだその頭で。
「先どうぞ!」
近くのテラス席に移動すると、俺はそう先輩に促す。「せっかくだから名物の超巨大ハンバーガーを半分ずつ食べませんか?」と、もしかしたら断られるかもしれないと思っていた提案にも先輩は特に異を唱えることなく順調に事は進んだ。
「……いいのかしら? 柚木くんが先に食べたら?」
「いいんです! 先輩が食べてください!」
先に食べてもらわないと俺の計画が意味を成さなくなる。別に間接キスを狙っているとか、そんなのじゃない。というか、そんなことより先輩が俺の名前を知っていたということに驚きだ。そりゃもちろん普通ならデートする相手の名前を知っているのは当然だけど。ここまでの先輩と俺には全くデートという雰囲気はない。最低限の会話こそしてくれているが、それだけ。本当になんで先輩は今日俺と一緒に遊園地なんかに来てくれたのか。謎は深まるばかりだ。
なんにせよ俺は俺の目的を果たせればそれでいい。この超巨大ハンバーガーはもちろん片手で食べるなんてできるわけもなければ、あの手袋をつけたまま上手く食べるのは相当難しいだろう。もし片手に手袋という枷を背負ってこんなものを食べたとしたら、手袋ごと汚れてしまうこと必至。どう転ぼうと手袋を外さなきゃいけなくなると、これが俺のプランBだ。
先輩は「それなら」とハンバーガーの包みにあっさり手を伸ばす。掌を優に超える大きさのバンズからこれでもかと溢れるベーコン、レタス、トマト、オニオンリング、そして特大パティ。そもそも手袋とか関係なくどうやって食べるんだよというような代物だ。
どう考えても俺の目論見通りいくだろうという確信を持って見つめる最中、先輩は手袋をつけたままハンバーガーにかぶりついた。
それはなんだか魔法のようだった。洗練された手つきで細い指を踊らせて、少しでもバランスが崩れたらぐしゃぐしゃに崩れてしまうであろうハンバーガーを器用に持ち上げる先輩。顔を少し逸らしながら、とてもとても小さい口で一口、また一口と齧る。
それでは一向に量は減らないだろうというようなその一口で、なぜか具材たっぷりのハンバーガーの質量はどんどん削られていった。レタスのシャキシャキとした音、トマトの果汁が滲む音、オニオンリングのザクザクとした音。その小さな口で全ての音が順番に奏でられる。その所作はとてもジャンクフードを食べているとは思えないほど至って上品で、ゆったりとしたリズムであるにもかかわらず、クラウンなんて大層な名前を冠しているはずのハンバーガーは確かに形を変えていった。
「……うん。ごちそうさま」
気づけばあっという間に半身を失ったハンバーガーをテーブルに置くと、先輩は静かにそう呟いた。一切の汚れを持たない手袋で、ハンバーガーの包みを折り曲げながら。
またしても俺の敗北のようだ。そうして俺は先輩に渡されたそれを口に入れる。こぼれた。半分しかないのに。半バーガーなのに。なんなんだ本当に。
*
結局あれからメリーゴーランド、お化け屋敷、回転ブランコ、コーヒーカップと、計画した通りにどんどん回っていったが、先輩は手袋を外す素振りすら見せはしなかった。
長阿弥先輩の左手は、怪盗の前に立ちはだかる金庫のように、どんな時でもあまりにも強固に守られている。まさに難攻不落。本当にどうしようもない。
もう手袋のことなんて忘れて、学校一の美人と過ごすひとときをただただ純粋に楽しむべきなのではないか。そんな考えが頭を過りながらも、やっぱりどうしても諦め切れない。そんな狭間で揺れていると、突然隣からその声が聞こえた。
「……ねえ、ちょっと行きたいところがあるのだけれど。いい?」
「えっ、はい。もちろん……?」
それは思いも寄らない一言だった。思わず言葉に詰まってしまうくらい。
そもそも今日、先輩から話しかけてきてくれたのも初めてなのではないか。ここまで、俺が何か話せば必要最低限ではあるものの会話を返してくれていた。しかし本当にただそれだけで、一応はデートとされているこの時間を先輩は少しでも楽しんでくれているのかと疑心は尽きなかったわけだ。というか、楽しめているわけないだろうとしか思えなかったが、この遊園地の中に先輩のお眼鏡にかなうものがどうやらあったらしい。晴天に雷が落ちたような衝撃だ。これでその「行きたい場所」がお手洗いとかだったら腰を抜かしてしまうけど。それでもその可能性の方が高いのではないかと思えてしまう。しかし、先輩が告げたその場所は、確かに遊園地のアトラクションの一つだった。
「すごいっすねこれ。本当に穴が空いてるみたいです」
「ええ。そうね」
先輩がまじまじと視線を落とす。その切れ長の目はしっかりと目の前のそれを捉えていて、そんな先輩の姿は今日初めて見た。ここまで先輩は俺の隣にずっといたはずなのに、ずっと本当はどこか他の場所にいるようなそんな不思議な感覚があったのだ。
その先輩が確かに今ここにいる。
行きたいところがあるという先輩にくっついて足を進めると、遊園地の開園記念で特別開催されているトリックアート展に辿り着いた。『ルビンの壺』や『妻と義母』といった様々な騙し絵だったり、『エイムズの部屋』や角度によって錯視を引き起こすアナモルフォーシスなど、多種多様なトリックアートを体験することのできる特設展だ。
中でも一番人気なのはSNSに投稿できるフォトスポットで、場所によってはそれこそ外のアトラクションのように行列ができているのだが、先輩の興味は実際に今肉眼で見て体験できるものに注がれているようだった。
「でもなんか意外でした。先輩がこういうのに興味あるって」
平面に描かれているにもかかわらず、一度足を踏み入れたら吸い込まれてしまいそうな落とし穴。先輩の手袋のように深く暗いその上に意を決して飛び乗ると、いつの間にか口からそうこぼれていた。ちゃんと床があると頭ではわかっていても、一瞬心臓がギュッと掴まれたような感覚で身がすくむ。ゲームのアバターを高いところからわざと飛び降りさせた時みたいだ。
「……妹が騙し絵とかそういう絵本が好きで、昔よく一緒に見ていたの」
妹と一緒に絵本を見る先輩。俺の知っている先輩からでは、あまり想像できない姿だ。
そもそも先輩に妹がいるなんて話は聞いたことがない。もしかしたら俺以外誰も知らないんじゃないだろうか。そう思うとなんだか少し嬉しいと、小さくガッツポーズを作ってしまった。
「もしかして、ここが気になってたから俺と遊園地に来てくれたんですか?」
そう考えるとわりとだいたいのことに合点がいく。あの日差し出したのが遊園地のチケットだったから、いつもなら造作なく振り払われるはずだった手を取ってくれたと。
「……そうかもしれないわね」
なんだか煮え切らない答えだ。まあもしそうなんだとしたら、バイト先から優待チケットをもらってきてくれた梅ちゃんに感謝しなければならないかもしれない。
そうやって心の中で梅ちゃんに手を合わせていると、突然その声が耳を刺した。
「――きゃっ」
「大丈夫っすか……!」
黒と白のタイルが交互に敷き詰められている中で、ところどころうねるようにそのタイルを変形させ地面が歪んでいると錯視させるトリックアート。それで平衡感覚をなくすという展示の中にいつの間にか入っていたらしい。
そんなトラップに注文通り引っかかってしまった先輩。なんだか本当にここに入ってからの先輩は、なんとなくそれまでと違う何かを感じさせた。
俺は地面に尻餅をつく先輩へ自然と手を差し出したが、先輩は「……ええ。ありがとう」と一言だけ断って、何もなかったというように自分の手で立ち上がる。そんな風にいつも通り平然と涼しい顔をしていたが、心なしかばつが悪そうに目線が動いていたことを俺は見逃さなかった。なんだかかわいい。あと転んだ時の声もかわいかった。俺しか知らない先輩の一面ということにしておこう。
そうやってトリックアート展にいる間、先輩の目にはいつもとは違う何か光のようなものが常に灯されていた。
*
「今日はありがとう。……楽しかった」
トリックアート展を出ると、先輩はすぐにそう言った。それは敗北へのカウントダウン。結局手袋を巡る秘密の輪郭にすら触れられないまま終わるのか。頭の中でそう警告の鐘が鳴り響いたような気がして、パニックになってしまう。
どうしよう、どうしようとその言葉だけが頭の中をぐるぐると渦巻いて、気がついたら俺はとんでもないことを口走っていた。
「あの! えっと……蟹! 蟹……食べに行きませんか? 剥くやつ」
意味がわからない。本当に自分の口がそう動いたのか信じられないくらいに無茶苦茶だ。蟹なんて難解な食べ物を食べるとなったら、流石に手袋を外さざるを得ないのではないかと。頭が正常な判断をできなくなっているとしか言いようがなかった。
そうして先輩はこんな不可解の極みのようなことを言う男を前にして、一体どんな顔をしているのだろうと恐る恐る視線を上げる。
「……ごめんなさい。あまり持ち合わせがないし、そういうお店もこの辺りにはないんじゃないかしら?」
しかし先輩はそんな俺の常軌を逸した誘いにも、至極真っ当な答えを返してくれた。手袋に包まれた左手を顎に当てて、真面目に考え込むようなポーズを取っている。
先輩は毎週のように敢行される告白を無惨にも斬り捨ててきた。だけど、思えば毎回律儀に半ば告白スポットと化したあの中庭まで赴いて、しっかりと本人を前に断っているのだ。あんな衆人環視に晒される場所になんか行かないで、無視してしまえば済む話なのに。それなのに先輩はどこか違う場所を見ながらも、しっかり一つ一つの告白を真摯に断っている。
感情なんてどこかに捨て去ってしまったように見える先輩だけど、それでもちゃんと向き合って考えてくれていたのかもしれない。きっと今みたいに。
そう思うと途端に自分のふざけた提案が恥ずかしくなって、俺は目を伏せて俯いてしまう。すると、視界の外で一つ大きく息を吐くような音が聞こえて、そうして心なしか温度が上がったようなそんな先輩の声が確かに俺の耳に届いた。
「……ねぇ、最後にあれ乗ってみない?」
顔を上げて視界に捉えた先輩の指の先では、すっかり暗くなった夜空を照らすように眩い光を放つ大きな観覧車がゆっくりと回っていた。
*
想像するよりも大きな音を立てて乗降口に滑り込んで来たゴンドラに、先輩はすいすいと乗り込んでいった。
おずおずとあとに続く俺に出現した二択。正面か隣か。一応デートと冠しているのだからどうだとか頭の中で呟きながら、結局俺は先輩の正面に腰を落とした。そうして扉が閉められて、作られた密室が夜空に向かって浮き上がっていく。
狭く小さい箱の中に、先輩と俺二人きり。ゴンドラの動く音に紛れて、確かに自分の鼓動を感じる。先輩はまたいつものように澄ました顔を崩さない。そうしてゆっくり、ゆっくりと上へ運ばれていくゴンドラの中で、息を潜めるような無言の時間が流れた。
二人だけの世界でどこを見ていいのかわからなくなって、目を泳がせながら時折先輩に目をやる。空中から見える夜の景色と先輩を交互に。
そうしてそよ風にすら追い越されそうなくらいノロノロと進んで行くゴンドラが、ようやく四分の一程度進んだかというその時、その日初めて俺と先輩の視線が重なった。まじまじと俺を見つめてくる先輩。どこを見ているかわからなかったその目が、確かに俺に向けられていた。
「そんなにこの手袋が気になる?」
先輩がゆっくりと口を開いたその瞬間、心臓を鷲掴みにされたかのように時が静止する。何もかも見透かされているような、そんな気分にどことない居心地の悪さを感じざるを得ない。声帯ごと握り潰されたように声を出せずにいる俺に、先輩はゆっくりと言葉を重ねた。
「ねぇ、見たい?」
「……はい」
妖艶に全身を撫で回すようなその声に「もう、いっそ……」と、俺は本心を腹から吐き出し口にする。深く閉ざされた黒のその先に何があるのか、それだけをずっと……。
「いいよ」
先輩はそうあっさりと一言。ただそれだけを口にして、左手の甲を差し出すように俺の前へ伸ばした。どこまでも果てしなく底知れない黒。そこはこの世界から断絶された場所。白雪姫の眠る森のように。人間が決して足を踏み入れてはいけない魔の国のように。
そこに踏み入る許可をもらったということなのだろうか。先輩が発したたった三文字の言葉に、意識を保てないくらい心臓が騒めき立った。
その黒に俺は恐る恐る手を近づける。この空をなぞるゴンドラのようにじわじわと。指先がその黒に触れた瞬間、吸い込まれてしまいそうなくらい引き寄せられて。
そこにあるべき温度はない。そうして微かに乱れる呼吸のままにそっと力を入れ、確かにその左手を掴んで。先輩の肌に沿ってゆっくりと導かれるように、黒で隠されたその秘密を暴き出す。ちょうどゴンドラがこの夜の頂点に辿り着いたその時だった。
※試し読みは以上となります。この先物語がどう繋がっていくのか、是非スターツ出版文庫より発売中の『結末は君のもの〜全てが繋がる5つの物語〜」にてお確かめください。

