結末は君のもの〜全てが繋がる5つの物語〜

ほんの少しの痛み。それと痺れ。混ざり合った二つの違和感で揺さぶられるように目が覚める。重いまぶたをやっとの思いで開くと、(わず)かばかりの(よう)(こう)がカーテンの隙間から漏れていた。凝り固まった身体をほぐすようにくねらせて起き上がろうとした瞬間、ようやく身体の上にある確かな重みの存在を理解する。
「おはよう! ゆーくん!」
 彼女は寝転んでいるぼくの顔を覗きこむように近づいて、いかにも(はつ)(らつ)といった声を出した。その長く美しい黒髪がぼくの顔を遠慮なく覆う。静かで穏やかな朝を切り裂くように。
「何してるの?」
 顔中をこそばゆく撫でる柔らかい髪の毛をかき分けるように起き上がり、まさに目と鼻の先でニコニコと口を緩めている彼女にそう(たず)ねる。どんな返答が来るかはわかっているけれども。こういう形式上のコミュニケーションを大切にしなければならないと、確か誰かが言っていたはずだ。
「何って、冒険だよ。ぼ・う・け・ん!」
 そうして返ってきた想定通りの答えは、今まで幾度となく耳にしてきたものだった。

 彼女――しーちゃんの冒険は、ずっと前からもう何度も開催されている。冒険なんて大層な名前を冠しているけれど、早朝に自分の部屋を抜け出してぼくの部屋に入ってくるだけのとても小規模なものだ。
「ちょっと開催頻度が高すぎないかな。その冒険」
 まだ今年が始まって三ヶ月だというのに、その回数はかなりのハイペースで積み重ねられている。これだけ毎日のように行われてるものは、冒険ではなくただの日課なのではないだろうか。そんな風に考えを巡らせるぼくを気にすることなく、「いいじゃん。よくあるでしょ。隣の家のかわいい幼馴染が、窓越しに部屋へ忍び込んで起こしてあげるやつ。あれだよ、あれ」としーちゃんは笑い声を響かせている。
「かわいい、は必要ないのでは?」
 そもそもぼくはこんな早朝に起こしてもらわなきゃいけない状況に置かれていないという最適な異議を取り残して、真っ先にその一言が出てしまったことを一体誰が責められるだろうか。
「でも、かわいいでしょ?」
 しーちゃんは当たり前とでもいうように、一切の照れもなく誇らしそうに鼻から息を出した。まあこんなやりとりもまたいつものことなわけだけれど、結局ぼくはつい本心を口にしてしまう。
「……かわいい」
「でしょ〜」
 エヘヘと擬音が浮かび上がるかのような満点の笑顔だ。実際それがまたとてもかわいい。だけど、幼馴染――というほど幼い頃からの付き合いかと言われれば疑問が残るけれど――としてはちょっと心配になる。常日頃周囲の人々から「みんなを照らす太陽のような子」だともてはやされている彼女ではあるけれど、かわいさ一本槍で生きていこうとするのは流石に褒められたことではないだろう。
「で! 今日はどうする?」
「どうって、別にいつも通りだけど……」
「だめ! せっかくの春休みだよ。もっとちゃんと考えてよ」
 どう考えてもこんな朝早くから考えることではないと思う。本来中学生の春休みというものは、もっと昼頃から始まるべきものであるはずだ。それこそせっかくの休みなのだろうから。
「せっかくの春休みって。そんなこと言われても……関係ないし」
「もう、そんなことないでしょ! (もも)(さき)先生も言ってたよ。『何事も全力で楽しめ。それが若者の仕事だ』って」
 毎度のことながら、やけに上手く特徴を捉えた口真似だ。あの嘘のように真っ白な歯を光らせながら、そんなことを言っている先生の姿がありありと想像できてしまう。
 しかしその上出来な口真似は置いておくとして、あの人はまたずいぶんと適当なことを言ったようだ。大人だったら「勉強しろ」とか言えばいいのに。しーちゃんがかわいさ一本槍で生きようとしている責任の一端は先生にあるのではないかと、(もっと)もな感想と抗議が頭を(よぎ)ったけれど、あの人がそんなこと言えるわけないかと自己解決に至ってしまう。
 そうやってぼくが真っ白い歯の先生について考えていると、しーちゃんは無視をしていると思ったのか、畳みかけるように口を開いた。
「それにわたしたちもうすぐ中三になるんだよ? 受験生だよ? 今のうちに目いっぱい楽しいことしておかないと」
 受験。なんとも重々しい雰囲気の言葉だ。しかし、ぼくにはあまり想像ができず、なんだかふわふわと浮いてるようなものにも思える。実感なんてもちろんあるわけもない。
「受験なんて、それこそぼくには関係ないよ。どうでもいい」
 そんなものは小説や漫画の世界なんかに出てくるような、なんだか遠い架空のものに思えてしまう。ぼくの頭じゃどうしようもないのだから。
「だめだよ。そんなこと言ったら。そんなんじゃ、ちゃんとした大人になれないよ。桃崎先生みたいな」
 しーちゃんは本当に心配だというように口を尖らせている。さっきまでかわいさ一本槍だったくせに、どうやら立場が逆転したらしい。アヒルのようなその口がまたかわいいのもずるい話だ。
 それに、あの人はちゃんとしてると言えるのだろうか。定義によるところだけれども、なかなか怪しいものだと思ってしまう。まあ、少なくとも職業的に考えたら頭はいいと言えるのだろうけど……。
「そんなのなれないよぼくには」
 先生をギリギリちゃんとした大人に分類すると仮定しても、実際のところぼくには端から無理な話ではある。別に目指しているつもりもない。無理なものは無理だと最初から受け入れておいた方がよいのだ。
「そんなことない! なるの、一緒に。絶対。なるったらなるの」
 熱を帯びた言葉と連動するように、髪の毛が肩で跳ねている。まるで毛先に感情が乗り移ったみたいだ。そのくりくりとした丸っこい目はなんだか少し(うる)んでいるようにすら見える。
 どうしてこの子は、ぼくのことにこんなにも真剣になれるのだろう。本当に心の底からぼくのことが心配なんだと、そんな顔で見つめられたら眩しくてしかたがない。
 そんなぼくの目に答えるように、しーちゃんが真一文字に結んだ口を開いてつけ加える。
「わたしたちに、サヨナラなんてあるわけないから」
 それはしーちゃんがよく口にする言葉だった。わたしたちはこれからもずっと一緒にいるから。サヨナラなんて言っても離れることはできないから。だからあなたの問題はわたしの問題でもあるのだと。なんてずるいんだろう。こんなに真っ直ぐな眼差しを向けられて、ふいにするなんてできるわけがない。
「……わかったよ。なるから。一緒に……」
 おせっかいな幼馴染の強情さを前にしたら、結局ぼくが折れるしかない。太陽の前でシニカルぶってても溶かし(ほだ)されるだけだ。
「絶対だよ! いい?」
「わかったって……」
 しーちゃんが満足そうに頷く。なんだか職人みたいだ。実際ぼくの意見を動かすことに関して彼女は職人並みの技術を持っていると言ってもいいので、あながち間違いでもない。
「……じゃあ、勉強でもする? 今日は」
 そうして喉から「それならば」と言葉を絞り出したわけだけれど、しーちゃんは首をぶんぶんと横に振った。
「ううん。おこちゃまなゆーくんはそんなことだろうと思って、それよりもっといいこと考えてきてあげたから。大人になるための、と〜ってもいいこと。聞きたい?」
 しーちゃんは「聞きたい」と言われて当然だと、さっきまで潤んでいたはずの目を輝かせている。コロコロと表情が変わり続ける赤ちゃんのように。こんな感じでとんでもなくいいことを思いついたのだと得意げな顔をしている時にしーちゃんがする話は、ぼくの経験則からいうととてもじゃないけど(ろく)なことではないというのが定説だ。できれば聞かない方がいいことは間違いない。
 とはいえ、そんなことを言ってしまえばこの世界中の無邪気とかわいさを集約させたようなしーちゃんの笑顔をまた曇らせてしまうだろう。ほんの数分の間に二度もそんなことをしてしまったら、何かこの世界の(ことわり)のようなものに(とが)められてしまうかもしれない。本当に。真剣に。真面目な話。
 だからぼくは「まあ……」とどちらとも取れないような返事をする他なかった。
 しかし、そんな日和(ひより)()を後悔するほど、彼女の提案はあまりにも素っ頓狂なもので、時が止まったかのように思考が停止してしまう。
 これはもう本当に、かわいさ一本槍も大概にしてもらわなきゃだめだ。そう改めて思ってしまうくらい意味がわからない。それこそ何か時を止める呪文のようなものを唱えたのではないかと、そんな今まで話してきた前提を全て無視するような、わけのわからない言葉の羅列だ。しかし、その無邪気な口は確かにそう発していた。

「駆け落ち、しよう!」

 *

「……ドリンクバーまぜまぜ実験って何?」
 昼になって「とりあえずやりたいことまとめてみた!」と舞い戻ってきたしーちゃんの『計画書』を見て、自然とそう読み上げてしまった。
「ドリンクバーまぜまぜ実験だけど?」
 しーちゃんは「他に何が?」とでも言うように目を丸くしている。辞書に載っている言葉以外でその顔をしないでもらいたい。切実に。
「一〇〇杯飲まなきゃいけないらしいよ。元取るには」
 思考の追いつかないぼくを置いてけぼりにして話を続けようとしてくる。そもそもこちらは朝にあの言葉を聞いた時から何一つ理解できていないというのに。

 *

「駆け落ちって……駆け落ち……?」
 立派な大人になるために駆け落ちをしよう。あまりに予想の(はん)(ちゅう)を逸脱する場所から投げかけられた言葉に、思わずオウム返しのように口を動かしていた。しーちゃんからその言葉が出てきたことも意味がわからないし、ぼくの口からその言葉が出ていることにも全く実感が湧かない。最早わけのわからないというその時のぼくの心情に、わけのわからないその言葉がピタリと当てはまっているようにすら思えるくらいわけがわからないから不思議だ。
「そうだよ、駆け落ち。愛し合う二人が結ばれるために、二人を邪魔する障害から逃げるの。それ以外ないでしょ?」
「愛し合う二人?」
 辞書に書いてあることをそのまま読み上げたような文章に、また反射的に()き返してしまう。
「うん。好きでしょ? わたしのこと」
 この世界のどこにでも書いてあるルールの確認とでもいうような顔で、しーちゃんが平然と言って退()ける。何一つ疑う必要などないというその自信は、一体どこから湧いているのだろうか。しかし非常に不本意ながら、それを否定する手札をぼくが持ち合わせていないこともまた純然たる事実なのでどうしようもない。
「……まあ、それは否定しないけど」と言う他ないのだ。
 そもそも、しーちゃんくらいしか同年代で話す人もいないのだから。だけど、そういう意味でもそういう問題でもないだろう。
「だったらいいよね。しようよ、駆け落ち」
「なんで?」
 そうなる理由がわからない。あまりにも全てが唐突すぎて、なんで、どこへ、なにしに、どうやって……と(あふ)れるほどの疑問符が脳味噌を覆い尽くしている。
「なんでって……。つまんないじゃん。毎日、毎日同じことばっかして、檻に閉じ込められてるみたい。せっかくの春休みなのに」
 そう言ってしーちゃんは、両手で(てつ)(ごう)()を揺さぶるようなジェスチャーをした。よくある「助けてくれ〜」というやつ。妙な律儀さだ。
「だから駆け落ちするの。楽しそうでしょ?」
「立派な大人がどうこうって話は?」
 駆け落ちなんて立派な大人から最もかけ離れた言葉だろう。インモラルの極みというやつだ。
「大人でしょ?」
「大人だとしても立派ではない」
「大人はみんな立派だよ?」
 なんなんだその純粋無垢な発想は。こんな子が駆け落ちとか口にしちゃだめだろう。しかも真っ向から否定しづらい。ぼくだって大人とは何かなんて言い切れるほど、理解しているわけがないのだから。
 しかし、そんな思いを飲み込んででも、反論しておくべきだろう。
「立派じゃない大人もいるでしょ」
「誰?」
「犯罪者とか」
「駆け落ちは犯罪?」
「……違うと思うけど」
 ぼくをじっと見つめるその眼差しが、「ほらね」と声高に主張してくる。絶対に向こうの言っていることがおかしいはずなのに、どうしてこうもピンポイントで返答に困るような言葉を投げかけられるのだろうか。
 立派であれば大人、立派でなければ大人ではない。どうやらしーちゃんの中で形成されているこの方程式を崩さないと、「大人な響き」というだけで駆け落ちは立派な大人になるためのステップになってしまうらしい。あまりにも無茶苦茶だ。
「でも桃崎先生は駆け落ちとかしなさそう――」
 とも言い切れないなと自分で思ってしまい言葉に詰まる。なんなんだあの人は。しーちゃんが立派な大人だと信じてやまないのだから、もう少しちゃんとしていてもらわないと困る。そう心の中で抗議しても、真珠のように磨き上げられた歯を光らせながら飄々(ひょうひょう)と(かわ)される姿しか思い浮かばなかった。
「ね? そういう経験が必要なんだよ。立派な大人になるには」
 そんなはずない。絶対にそんなはずがないのに、なぜかこんな無茶苦茶な理論でいつの間にかこちらが土俵際まで追い込まれている。どうしてこうなってしまうのか。不思議でしかたがない。しーちゃんと話しているといつもこうだ。
 そうして自分の押しの弱さに(がく)(ぜん)としながら、苦し紛れに声を絞り出すことしかできなくなった。
「そもそもなんで駆け落ちなんて……。ドラマか何かで観たの?」
 本当にどこからそんな言葉が出てきたのか。ぼくとしーちゃんが共有する()()の中に、そんなものは用意されていないはずだ。する必要もない。
「ん〜、ほら、これ」
 そう言うとしーちゃんはサイドテーブルに備えつけられた引き出しをガサゴソと漁り、一冊の本を取り出した。
 まず、どう見てもぼくのものではない、つまりはしーちゃんの私物であるその本がぼくの部屋の引き出しから出てくることがおかしいわけだけれども、まあそれはいい。しーちゃんが来るたびに自分のものをこの部屋の至るところに置いていき、最早ぼくが使うものよりもしーちゃんの持ち込んだものの方が多いと言っていい有様になっているのは今更のことだ。そんなことより問題はその本。ぼくの知らないうちに持ち込まれていたその本の表紙には、『運命完全網羅――魔女の占い大全――』と禍々(まがまが)しい文字のタイトルと鼻の長い魔女の絵が描かれていた。怪しいなんてもんじゃない。なぜこんなものを今取り出したのかも不明だけれど、何よりぼくは一体いつからこんなおどろおどろしいものと同居していたのだ。
 そうしてしーちゃんは何かを探すようにパラパラと本をめくり、「あった!」とそのページを開いてこちらに向けた。
「ほら、ね?」
 しーちゃんが得意げな顔で見せてきたその見開きには、『卯年×乙女座×O型の運命』と大きな文字で書かれている。それがしーちゃんの干支と星座と血液型であることはもちろん知っているけれど、「だから何?」という疑問符は何一つ解消されていない。
 そんなぼくを見かねてか「ここ!」としーちゃんが指を差した先には、『駆け落ちをしてでも愛する人と結ばれる情熱的な運命』と、そう一言記されていた。
 それを見てようやく、この意味不明な状況に巻き込まれた理由をぼくは理解する。なんて(はた)(めい)(わく)な本なのだろうか。こんな怪しげなものが裏で手ぐすねを引いていたとは。
「まさか、信じてないよね……?」と、恐る恐る訊ねる。
「なんで! 絶対当たってるよこれ!」と、しーちゃんは自信満々だ。
 なんてことだろう。真っ白い綿(わた)のように興味を持ったものはなんでも吸収するしーちゃんではあるけれど、まさかここまでだとは。これを真に受けるのは、流石に少し心配になってしまう。
「怪しすぎるでしょ、そんな本……」
「でも絶対当たるんだって」
 一体その信頼はどこから湧いているのだ。そもそも当たるとはどういうことなのか。その人のパーソナリティを言い当てるようなことが書いてあるわけでもないのに。そりゃこの世には逃れられない運命のようなものはあるだろうけれど、駆け落ちをするかどうかはその人の気持ち次第なはずだ。当たるも何もない。
 しかし、「だってほら」としーちゃんの指が差した先に書かれているものを見て、ぼくは黙りこくることになってしまう。
『運命の相手:卯年×獅子座×O型』と書かれたその一文で。
「だから言ったじゃん。すごいんだよこの本」
 しーちゃんは鼻息を荒くしながら、勝ち誇ったような顔をしている。
「わたしの運命の相手はゆーくんだって。絶対当たってるでしょ? ね?」
 それはずるい。運命なんて言葉はもちろん好きではないけれど、「あなたが運命の相手と書いてあるんだから本当だよね」なんて言われてしまったら悪い気はしない。「じゃあまあそれでいいか」と思ってしまって当然だ。しかし、ここで絆されてしーちゃんを怪しげな占いの道に進ませるわけにはいかないだろうという義務感から、ぼくはしかたなく異を唱える。
「……たまたまでしょ」
「え〜、違うよ。だって三つも揃うなんて、すごい確率だよ。きっと」
 それぞれ一二種類の星座と干支に、四種類の血液型。かけ合わせること五七六通り。それを更にかけ合わせるわけだから、本当に途方もない確率でぼくとしーちゃんが結ばれてしまったということになる。
「もっとすごい確率のものだってあるよ。ぼくたちに関係してるものの中にも」
「例えば?」
 それは上手く言えないけども。でも、あるだろう。間違いなく。
 だから何もそこまでありがたがるものではないのだ。ぼくとしーちゃんがこうして一緒にいることも、もしかしたらもっともっと天文学的な確率の元に成り立っている可能性だってあるのだから。それを奇跡なんて呼ぶつもりはないけれど。
 しかし、結局具体例を提示できなかったぼくに、「駆け落ちの正当性が証明された」としーちゃんは満足げな顔を向けてくる。本当にどうしたものだろうか。やはりこうやっていつの間にか、しーちゃんの言ったことが正しいという風になっているのだ。本当に酷い話。
 しかしまあ、それならそれでいい。こんな怪しげな占い本も、駆け落ちなんて突拍子のないことも、もうこの際全て受け入れよう。全くもって釈然としないけれど、これはもうしかたがない。
 そうやって受け入れたところで、結局のところ現実的な一つの問題に直面すると、ぼくが言えるのはこれだけだ。
「だとしても、無理でしょ。駆け落ちなんて」
 そう、無理だ。万が一駆け落ちという行動に正当性が与えられたとしても、結局「できる」か「できない」かの話になったら「できない」としか言いようがない。無理なものは無理。考えてみれば、最初からそれで終わる話だった。
「すぐにどうしようもなくなって、……それこそ野垂れ死んじゃうんだからさ」
 中学生二人で放り出されたとして――自分から出ていくのが駆け落ちだけれども――、どうやったって生きていけるわけがない。確かに毎日同じような繰り返しの生活に縛られているかもしれないけれど、そうやって色々なものの()()()にあるからこそ生きていられるのだから。その「縛り」に守られてぼくたちは今日も息をしているのだ。
「できるよ。運命の人とするんだもん」
「無理だよ」
「できる」
「無理だって」
「できるもん」
 頬を膨らませたしーちゃんと押し問答のような格好になってしまう。しーちゃんは一歩も引かないという様子だ。「できる」、「できない」。堂々巡りのようにぶつけ合った言葉は、絡み合ってどんどん強固にほどけなくなっていく。それでは答えなんて出るわけもない。
 そうして結局先に痺れを切らしたのは、小さな風船でも入れているのではないかと思うくらいにまで頬が膨れ上がったしーちゃんだった。
「とにかく、お昼に持ってくるからけーかくしょ! 待ってて!」
 そう言い残して嵐のように自分の部屋に帰っていくしーちゃんを見て、あまりの奔放さに肩を落としながらぼくの騒々しい朝は一応落着をみせた。しーちゃんはいつも通り、ただ朝早くぼくを起こすためだけに一旦やって来たという事実と共に。

 *

 そうしてぼくの部屋に持ち込まれた『計画書』の一行目が「ドリンクバーまぜまぜ実験」だ。あれだけ戸惑った末、少し真剣に思案を巡らせた今朝を返してもらいたい。「駆け落ち」の次に来る言葉が「ドリンクバーまぜまぜ実験」なんて、許されていいのだろうか。しかもその前提には「立派な大人」があるわけだ。そんなことあっていいわけがない。どう考えても。
「……元を取るとか、考えてないでしょ。みんな」
「でも、どうせなら取りたいでしょ?」
 なんでこんな庶民的な話をしているのだろう。今現在この場所では「駆け落ち」についての話が進んでいるはずなのに……。
「元を取りたい気持ちより、一〇〇杯飲むのは嫌だし無理って方が勝つよ」
「だから、まぜまぜ実験するの。わかってるじゃん」
 そんな「よく気づいたね」みたいな顔をされても、ぼくは全く理解できていないので困ってしまう。
「メロンソーダとコーラ混ぜたらどんな味になるかな〜」
 もう目の前にその実験キットが用意されているのではないかと勘違いしてしまうくらい、しーちゃんは自分の世界に入り込んでいた。
「何色かな?」
「黒でしょ」
 黒に何を混ぜても最後には全部黒になるだろう。知らないけど。
「量で元を取れないから、楽しいことして元を取ろうってこと?」
 なんとか意図を汲み取ろうと必死に推察した結果辿(たど)り着いた答えだ。これが正解だとしたら、しーちゃん検定二級くらいはもらっていいだろう。
「そうだよ?」
「さっき言ったじゃん」みたいな顔をされても、全くもって言われてないので最早困ってしまうなんて次元ですらない。まず、ドリンクバーはそんなアトラクションのような気持ちで臨むものではないはずだ。食事をより楽しみながら摂取するための添え物であって、それ自体を目的にするものでもない。最新型のおもちゃで遊ぶ時くらいの熱意をドリンクバーに注いでいるしーちゃんならば、それこそ小一時間は平気で待つのが当たり前らしいテーマパークの行列のように、なんの抵抗もなく並んでしまえそうだけれども。どちらもぼくには何一つ理解できない。
「メロンソーダはどこからメロンソーダじゃなくなるのかな」
 しーちゃんはドリンクバーにおける全てを話し尽くすつもりなのかというくらい次々と風呂敷を広げていく。最早理解が追いつかず不思議そうな顔をしていると、「おこちゃまに優しく教えてあげよう」とでも言うように続けて口を開いた。「ドリンクバーまぜまぜ実験」の主催者がお姉さんぶるなんてあり得ていいわけがないのに。
「メロンソーダをコップに半分入れるでしょ? そこにどんどんコーラを注いでいって、どれくらいになったらメロンソーダじゃなくなるのか調べるの。どう?」
 どうもこうもない。なんだか哲学的な問い……なのだろうか。もう少しで思考実験じみたものになるかもしれない。その実態は「ドリンクバーまぜまぜ実験」だけれども。
「……色が緑とは言い切れないくらい変わったら、とか?」と一応真面目に考えてみる。
「じゃあコーラはずっと黒だからずっとコーラ?」
「それは……違うね」
 なんでこう妙に痛いところをついてくるのかと思わず感心してしまう。使いどころは明らかに間違っているけれど。
「泥水に一滴のワインを垂らしても泥水のままだけれど、ワインに一滴の泥水を垂らしたらそれは泥水になる」なんて話を先生から聞かされたことがある。ただ今回はどちらも飲み物なのだからまた少し違う話なのだろうか。しかし泥水とまではいかないものの、メロンソーダには決められた原料があってそう呼ばれているのだから、そこにコーラという余計なものが一滴でも混ざったらそれはもうメロンソーダとは呼べないのかもしれない。泥水のような「泥と様々な物質が混ざった状態」の総称であるものでない限り、少しでも異物が混ざったならそれはもう全く別のものであると。
 これならそれなりの納得感があるだろう。今朝運命だどうだと言われた時には出せなかったけれど、やっぱり実例があると説得力が増す気がする。そう僅かな自信を持って依然ドリンクバーに想いを()せているしーちゃんにぶつけると、「じゃあ、じゃあ最初にコーラを飲んだあと同じコップにメロンソーダを入れて飲もうとしてもそれはもう別のもの?」と、またしても無邪気な難問を投げかけられてしまった。
 もうお手上げだ。結局ここで理屈をこねくり回していても、しーちゃんの疑問は一向に止まりはしないだろう。そうして押し黙っていると、必然的に一つの結果に辿り着いてしまう。
「ほら。ちゃんと飲んで調べないと。わからないじゃん?」
 またいつの間にかしーちゃんの方が正しいということになってしまった。「ドリンクバーまぜまぜ実験」の開催が正義の側にいるなんて理不尽にも程がある。それでもなぜかこうなってしまうのだ。何か()かされているような気分としか言いようがない。
 その上、困惑しきりのぼくにしーちゃんが思わぬ追撃をしてくる。
「メロンソーダはゆーくんの色なんだからさ」
「……ぼくの? なんで?」
 よくわからない方向からの強襲に、なんだか間抜けな声が出ていた。
「帽子の色。緑じゃん。いつも」
 それは母さんが昔買ってきた帽子がたまたま緑色だっただけで、ぼくに(こだわ)りがあるというわけではない。母さんには何か拘りがあったのかもしれないけれど。ぼくの好きな色は、()いて言えば黒だ。
 しかし、しーちゃんはそんなことなどお構いなしで、メロンソーダ=ぼくのイメージを崩す気はないらしい。なんというか、いつもながら独特な視点だ。
「だから、ちゃんと調査しなきゃだめだよ。ね?」
 本当に、このまましーちゃんのペースに呑まれていてはまずい。その一心でぼくは話の軌道修正を試みる。ささやかな抵抗だ。
「立派な大人になるために?」
「そう」
「駆け落ちの一環として?」
「もちろん」
 ドリンクバー、立派な大人、……そして駆け落ち。やはりぼくには到底結びつけられないこの三つが、しーちゃんの中では当然のごとくイコールで結ばれているらしい。ぼくが立派な大人の定義を決めていい立場になったとしたら、まず途中式の省略禁止を第一条件にすると今ここで誓っておこう。
「立派な大人はドリンクバーで遊ばないと思うけど」
 流石の桃崎先生もドリンクバーでは遊ばないだろう。……多分。
「ドリンクバーを楽しみ切ったから大人になれたんだよ」
 もうなんでもありじゃないか。子供の卒業式にはドリンクバーが備えつけられているらしい。
「でも駆け落ちとドリンクバーは絶対関係ないよ。流石に」
「好きな人とやりたいことをやるってことでしょ? 駆け落ちって」
 しーちゃんがなんの気なしに放ったその一言で、ようやくぼくの中でも決して結ばれるはずのなかった三つが繋がった。あまりにも薄く(もろ)い糸のようにではあるけれど。
「……そうなのかな」
「そうだよ。おこちゃまなゆーくんには難しかった?」
 そんなわけがない。そんなわけがないのに本当に理不尽なしたり顔を向けられてしまったけれど、本来の駆け落ちなんてものに誘い込まれていると思っていた先刻よりは遥かにマシなのでしかたなく口を(つぐ)む。人間は不条理を乗り越えて立派な大人になっていくのかもしれない。立派な大人への道第二条件だ。
「で、一番やりたかったのが、ドリンクバーまぜまぜ実験なわけ?」
「んー、一番じゃないけど。気になるでしょ? ドリンクバー。ゆーくんもさ」
 また思わぬところから矢が飛んできた。思えば今朝から数々の難問を痛いほどぶつけられてきたけれど、これが本日の最難関問題と言っていいかもしれない。それくらい難しい問いだ。本当にどうしたものかとこの一瞬、熟慮に熟慮を重ねてしかたなく白状するように小さな声で喉を押し開く。
「……ちょっとだけね」
 本当にちょっとだけ、だ。一応首を縦に振っただけで、しーちゃんと同じ熱量だと思われるのは心外ということだけちゃんとつけ加えておく。至って控えめに、本当に、本当にちょっとだけなのだから。だからその「素直じゃないなぁ」みたいな目をするのは即刻やめるべきだと、そう心から主張したい。
 本当に面白くて、面白くてしかたがないというようにこちらを見るしーちゃんと視線が重なって、ぼくは抗議するように口を真一文字に結んだ。
 この世界の全てが静止したかのように、音一つない静かな時間が流れる――訂正、しーちゃんの長い髪だけは、その時を待ち侘びるようにたなびいている。静止した世界に溶け落ちるように、ゆらゆらと――。
 そうして視線の交換を終えると行き場を失ったように目を伏せて数秒、結んだ唇が決壊するように(ほころ)んで二人、ただ笑い声だけを響かせた。心の奥底で見ている同じ景色を共有するように共鳴して。それが「ドリンクバーまぜまぜ実験」だなんて、なんだか格好がつかないけれど。
「あるよ。まだまだ。他にも」
 そうやって(ひと)(しき)り笑い尽くしたところで一息吐()くと、しーちゃんは「楽しいことはまだまだここからだよ」と『駆け落ち計画書』の続きを話し始めた。この世界の全てを楽しみ尽くしてやるんだとでもいうように、前のめりになって。

 *

「全部やるの? 一日で」
 カーテンの隙間から差し込む光がすっかり茜色に染まった頃、ふとそう訊ねた。
 あれからしーちゃんは夢中になって「やりたいこと」を話し続けた。カラオケで思いっ切り歌ったり、回転寿司で大盛りのイクラを食べたり、ゲームセンターのメダルゲームとか、大きいショッピングモールを探検して、それでプリクラを撮って、あったかいたこ焼き食べて――。あとお祭りは絶対に外せないと。
 その小さな身体から次々と繰り出される「やりたいこと」は、やっぱりどれもこれもささやかなもので、それでもとても幸せで楽しくて夢みたいなことばかりだった。全く、とんだ駆け落ちだ。
「何日かかったっていいよ。駆け落ちなんだもん」
「そっか」
「やろうよ。一緒に。全部」
「うん。いつか、できたらいいね」
「いつかじゃないよ。今、やらないと!」
 それはわからないけれど、やりたいことを全部叶えて嬉しそうに笑っているしーちゃんの側にいたい。一緒に。ぼくだってそう思っている。
「でも、お祭りは夏にならないとやってないんじゃない?」
 しーちゃんは「あっ」と顔にも声にも出した。
「だから、一つずつやっていこうよ」
「……ドリンクバーまぜまぜ実験から?」
 非常に不本意――とも言い切れないけれど――ながらそういうことになる。
「そうだね。ドリンクバーまぜまぜ実験から」
「絶対?」
「うん」
「じゃあ指切り」
 そう言ってしーちゃんが差し出した小指にぼくもそっと自分の指を絡める。僅かな体温と共に繋がったその小さな指を通して、ドクドクと心臓の音が伝わってくるような気がした。重なり合ったその鼓動に約束を誓う。必ず。二人で。

 ――ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのます。

 指切った。その瞬間、しーちゃんはぼくの身体ごと連れ去るように指を引き、腰かけていたベッドに倒れ込んだ。ぼくはしーちゃんにぶつかってしまうすんでのところでベッドに手をつく。ぼくが上で、しーちゃんが下。朝とは逆の状態だ。ベッドには乱れた髪の毛が地図のように広がっていて、柔らかい匂いが鼻をくすぐる。指はほどけたはずなのに、更にはっきりとした心臓の音が耳を鳴らした。
 ぼくの左にある心臓と、しーちゃんの左にある心臓が向き合うことでピタリと一対のものであるかのように()め込まれて、二人で一つの音を共有しているみたいだ。それに呼応するように、漏れた吐息が混ざり合って、触れ合う脚には(かす)かな温もり。身体中からしーちゃんの存在が伝わってきた。
「絶対。絶対だよ」
 覗き込むような格好になったぼくの目をしっかりと見つめて、しーちゃんは繰り返す。
 ぼくは突然の事態に困惑しながらも、「わかってる。絶対」と言い聞かせるように唱えた。
 しーちゃんは唇を少し緩めて笑い声を漏らすと静かに目を閉じ、また静寂が場を支配するように時が止まる。
「よしっ!」
 永遠のように感じられる数秒が過ぎ、静止した世界を切り裂く声がぼくの耳を貫いた。その一瞬で全ての活動が再開する。女王の一声で号令をかけられた働き蜂のように。そうしてしーちゃんは器用に身体をくねらせてベッドから足を下ろし、あっという間に立ち上がってしまう。
「約束、だからね」
 気持ちよさそうに軽く伸びをする姿をぼんやり見つめていると、しーちゃんはこちらを向いてそう念を押した。そうして部屋の扉に向かって歩いていく。その足取りは心なしかゆっくりに感じられた。何かもったいぶっているかのように。それでもこんな狭い部屋ではその時が訪れるまでの時間なんて一瞬で、すぐ扉の前に辿り着く。取っ手に手をかけて横に引いたその瞬間、しーちゃんは髪をたなびかせながら半身で振り返ると、ふんわりと唇を持ち上げて綺麗な笑顔を作った。
 ぼくは驚きの連続で機能を失っていた喉を振り絞って、「また明日」と声をかける。だけど、既に扉の向こうへ歩き出していた背中にその声が届いたのかはわからない。
 一体なんだったのだろうか。いたずらな幼馴染の思惑は考えることすら難しい。
 最後の最後で今日一番だと思っていた難問を優に更新する、最難関の謎を突きつけられてしまった。明日答え合わせをする他ないけれど、こんなことのあとではなんだか緊張してしまうかもしれない。
 そうして少し()()ったような空気と身体だけが取り残されたまま、ぼくのいつも通りのようでどこかいつもとは違う一日が終わった。

 *

 明晰夢。夢の中で「これは夢だ」と理解できたら、自由にその内容を操作することができるというもの。以前それを聞いたぼくは、毎晩眠りに就く際強く「これから見るのは夢だ」と意識するよう試みた。すると案外すんなり、ぼくは夢の中で意識を保てるようになったわけだ。
 だからぼくは、これが夢だとわかっている。だけど、どういうわけか身体は自由に動かない。むしろ金縛りに遭っているような感覚すらある。全てが自分の思い通りになる世界なんて、想像することすら難しいからだろうか。見る夢も過去の記憶や体験が多少非現実的に改変されたくらいのもので、結果として夢を夢だと理解しながらただぼんやりと追体験するような、無意味な時間を過ごすだけの日々が始まったのだ。椅子に縛りつけられて観たくもない映画を見せ続けられるどころか、その世界に身動きも取れず放り込まれる日々が。

「花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが人生だ」
 ぼやけた意識の中で響いた先生の一声によって、夢の輪郭がだんだんとくっきりしていく。大した人生経験もないぼくが見る夢のレパートリーなんて、そう数があるわけもなくて、台詞を一つくらい聞けばだいたいわかってしまうのだ。だから、今日は多分あの日の話。
『サヨナラだけが人生だ』。先生が読み上げたそれは、とある漢詩を日本の小説家が訳したものの一節で、その印象的なフレーズから一般的に惜別の詩として知られているらしい。「せっかく花が咲いてもすぐに雨風が散らしてしまう。そんな風に人の一生には別ればかりがついて回るものだ」と。先生がしてくれたそんな小難しい説明も、もう何度も――夢の中で――聞いているので覚えてしまっている。覚えてしまっているから夢で見るという方が、実際には正しいのだろうけど。
 出会いがあれば必ず別れもある。なんとも物悲しい詩。ぼくなんかは「なかなか上手いことを言うな」と感心してしまうわけだけれど、我らがしーちゃんはそう簡単にはいかない。「そんな哀しいことをすんなり飲み込んであげるものか」と、フンフン鼻を鳴らして異議を唱える準備は万端のようだった。
「なにそれ。そんなの寂しいじゃん」と、何度も聞いた声が響き渡る。
「そうかな?」と、見えるのは先生の白い歯。
「そうだよ! サヨナラ以外が人生の方がいいよ……!」
 これまた語呂が悪い。しかし、自信満々なしーちゃんの言葉を聞いて、先生は妙に嬉しそうな顔を浮かべていた。しーちゃんならそう言うとわかっていたかのように、きっと(あらかじ)め用意していたであろう台詞で(まく)し立て始める。
「実は、さっき読んだのは詩の後半部分でね。その前にこれがどういう状況で出てきた言葉なのかっていう前提の説明があるんだ」
「前提?」
「そう。前提。――ふと訪ねてきた友人のために、すごく貴重な容れ物にお酒を注いであげて、『遠慮せずに飲んでくれ』と言っている場面。元の漢詩ではこの前半部分の方が重要とされていて、そのあとに『人生には別れがつきまとうからこそ、今一緒に居られるこの時間を大切にしよう』と続くわけ。つまり、状況からして少し落ち込んでいると解釈されるその友人に対して、『せっかくの時間なんだから酔って楽しもうじゃないか』と励ましている詩。そう取るのが通説とされているんだ」
「えー。全然違うじゃん。さっきと」
 上機嫌でつらつらと語る先生に、堪らずしーちゃんが口を挟んだ。好きなことを語っている人はこんな風に映るんだなと、自戒も込めて覚えておきたくなる。
 しかし、しーちゃんの言う通り前提から話がひっくり返っているのは確かだ。意味もほとんど正反対になるくらい。そういうことは先に話しておくのがフェアというものだろう。
 ただ、先生が言うところによると、これを日本語に訳した人はその直前に現実で感傷的な別れを経験していて、だからこそ印象的なその一文が生まれたと言われているらしい。それで、あまりにもキャッチーなそのフレーズが一人歩きして前半部分の印象が薄まった結果、日本では物悲しい言葉としての側面が強まったと。
「でもね、それでいいんだよ。その人が見てきたもの、学んできたもの、考えてきたこと。それによって受け取り方は変わってくるんだから。もちろん、嘘を吐いたりするのはだめだよ? こうやって原文があってそこに書かれている文字は何があっても絶対に変わらない。でも、その先は訳し方……つまり解釈する人によって意味も変わっていくものなんだ。だから、どう捉えるかは全部君たち次第ってこと」
 完全にキマった。妙に芝居がかった感じで言いたいことを言い尽くした先生が、そんな風にご機嫌そうなのは結構なことだけれど、「君たち」と全く関係ないぼくまで自然に巻き込むのはどうなのだろうか。そんな風に思考すら何度も繰り返しているあの日のまま、再放送のように時間が流れていく。しかし、しーちゃんはそれに納得したようで、意気揚々と声を出した。
「じゃあサヨナラ以外が人生ね!」
「以外って、なんか語呂が悪い気がするけど」と、そこでようやくぼくが口を開ける場面がやってきたので台本通りに読み上げる。
 ここまで空気のような振る舞いに徹してきたけれど、「君たち」とその一言で舞台に上げられてしまったのでしかたがない。
「えー。じゃあサヨナラの対義語って何?」
 不満げな言葉とは裏腹に、しーちゃんはとても嬉しそうな顔を作って訊き返してきた。ぼくが舞台に上がってきたことを喜ぶように。別にしーちゃんの味方をしにきたわけではないのだけれど。
 しかし、そう言われるとなんだか難しい。挨拶と考えるなら「こんにちは」が一番近いとは思うけれど、この詩の意味には当てはまらなさそうだ。他にも「またね」とか「初めまして」とか、どれも微妙にしっくりこない。というか「何々だけが人生だ」に当てはめるんだとしたら、更に語呂が悪くなっている気がする。こうやって改めて訊かれてみると、「サヨナラ」というのはかなり特殊な言葉で、ぴったり反対の言葉なんて決められないのかもしれない。
 ぼくが言葉に詰まっていると、しーちゃんは答えを求めるように先生の方を向いた。なんとも言えない沈黙の時間が数秒の間続く。
「……それも君たち次第でいいんじゃないかな?」
 逃げた。明らかに逃げている。真っ白なくせに歯切れが悪い。しーちゃんもぼくと同じことを思ったようで、わかりやすく頬を膨らませていた。
「じゃあ、わたしたちが教えてあげるよ。先生に。サヨナラの反対にいるのが、わたしとゆーくんだって」
 また、「たち(・・)」。「君たち(・・)」。「わたしたち(・・)」。ぼくの意見を介在させずにどんどん話が進んでいくのは、これが夢の中だからというわけではないのが恐ろしい。別に今ぼくが藪をつついたわけじゃない。ただあの日のまま再現されているだけ。蛇は最初からそこにいたのだ。
 そうしてしーちゃんはとっておきの決め台詞を言うみたいに、ピンと伸ばした指を差して宣言する。
「だってわたしたちに、サヨナラなんてあるわけないから」

 *

 窓を叩きつけるように降り頻る雨。それと何人かが慌ただしく床を蹴りつけて駆け回る音。混ざり合わない二つの不協和音で揺さぶられるように目が覚める。重いまぶたをやっとの思いで開いたけれど、当然カーテンの向こう側に()の光は用意されていなかった。凝り固まった身体をほぐすようにくねらせて起き上がろうとした瞬間、身体の上にあの重みの存在がないことに気がつく。
 どうやら今日はしーちゃんの冒険が開催されなかったらしい。雨天中止といったところだろうか。天気なんて別に関係はないのだけれど。
 それとも昨日のことで気まずいなんて気持ちがしーちゃんにも少しはあるのかもしれない。てっきりまた平然とした態度でやって来ると思っていたのに。
 もちろんぼくの方が遥かに困惑しているし、気まずいなんてものじゃないわけだけれども、このままの状態で放置されるのは落ち着かない。ずっとソワソワとしてしまう。それに――しーちゃんが言うところの――せっかくの春休みに、悶々(もんもん)としたまま何も手がつかず一日を過ごさなきゃいけないのはもったいないだろう。
 だからもしこのあとお昼になってもしーちゃんがやって来なかったとしたら、たまにはぼくの方から向こうへ行ってもいいのかもしれない。
 そうして答え合わせをしようと、そう決意した瞬間だった。その扉が開いたのは。
「……どうしたんですか?」
 何やら神妙な面持ちをして部屋に入ってきたその人にぼくは訊ねる。彼がこの部屋に来るのはなんとも珍しい。それもこんな時間に。
「……落ち着いて聞いてほしい」
 その一言で一気に空気が張り詰めるような、重苦しい緊張感が生まれる。規則正しく音を刻む時計の針が、いやに大きく聞こえた。沈黙の数秒間に、たくさんの可能性が頭を過る。もし「そう」なのだとしたら、それだけはだめだ。それだけは絶対にと、そう願ったその名前で沈黙は切り裂かれた。
「しーちゃんのことなんだけど……」
 嘘だ。その名前だけは今聞きたくない。あり得ないと、脳味噌がその声を拒もうとしても、当然言うことを聞きはしなかった。首からぶら下げている電話がまるで何かの警告音かのように鳴り始めても、その口は止まってくれない。
「……さっき、容態が急変してね。意識を失って、今は集中治療室にいるんだ……」
 桃崎先生が発したその言葉の羅列を、ぼくは何一つ理解できなかった。理解したくなかった。

 *

 病室に入ると、しーちゃんはよくわからない大きな機械に繋がれていた。一定のリズムを刻む無機質な電子音が耳を突き刺す。力なく横たわるしーちゃんの胸の辺りが、その音に合わせて動いていた。いや、動かされていた。自分の力では息ができないと主張するように。機械の音に合わせて上下するしーちゃんの身体。確かにしーちゃんの身体であるはずなのに、しーちゃんの力で、意思で動いていない。動けない。
 なんなんだこれは。そんなわけがない。昨日まで一緒に話していて、何もかもいつも通りだったはずだ。それがどうして……。
「声をかけてあげてほしい」
 呆然と立ち尽くすぼくに、桃崎先生がそう促す。
 なんだよそれ。そんなのまるで……。強く握りしめた(てのひら)に自分の爪が食い込む。
 滲んで広がっていくような痛み。紛れもない現実がそこにはあった。
 声を出そうとしても、上手く口が動かない。固まり切った喉の奥から音を運ぼうとしても、舌先で消えてしまうようなそんな感覚。ぼくは一体何をしているのだろうか。
 そうして途切れるようにかろうじて絞り出した声にも、返答が訪れることはなかった。
 無機質な電子音だけが、病室に響く。しーちゃんがまだそこにいると証明してくれるのは、その音ただ一つだ。

「本当は家族しか入っちゃいけないんだけど……」と、ここに入る時に看護師長の(あん)西(ざい)さんは言っていた。
 ――未だ連絡が取れていないという――しーちゃんの家族しか入れないこの場所に、ぼくが呼ばれる。それがどういう状況なのか、しーちゃんがどういう状態にあるのか。嫌な考えばかりがいくつも浮かんでくる。何も考えたくないのに、どうしてこのどうしようもない頭は、こんな時ばかり張り切って稼働してしまうのだろう。なんでこんな……。
 あれほど艶々(つやつや)しく輝いていたしーちゃんの黒い髪が、ひび割れた大地のようになんだか()からびて見える。そんなわけがない。そんなわけがないのに、そう気づいてしまった瞬間、ぼくの中で何かが壊れた。
 ぼくの知っているしーちゃんがどこかに行ってしまったような、そんな恐怖だけが渦巻いて止まらない。目の前の事実も、この先のことも、何もかもが怖い。(まと)わりつくように脳味噌に、いや身体中にこびりついた恐怖が呼吸を不規則に乱れさせた。機械に繋がれたしーちゃんとは正反対に。
 そうして気づいた時にはもう、ぼくは病室から逃げ出していた。

 *

 三月には似合わないひんやりとした空気が顔を覆う。地面には点々と小さな水溜まりができていた。頭を冷やすなんていうのはこういうことを指すのかもしれないけれど、この熱は一向に引く気配を見せない。消えるわけがない。
 こんな雨上がりの早朝では、当然屋上になんて誰一人おらず、まるでぼくだけが世界から切り離されたみたいだった。異様なまでに高いフェンスと、世界を覆い尽くすような黒い雲がそれを助長している。息苦しい。ずっと、ずっと、息苦しかった。こんな小さな世界に閉じ込められていることが。
 ぼくは脳にかなり厄介な病気を抱えていて、小さい頃からほとんどの時間をこの病院で過ごしてきた。何度も何度も入退院を繰り返して、人生における大半の記憶はこの白い(かん)(おけ)の中にある。
 そうやってぼくが何度目かの入院をした少しあとに、ここへやって来たのがしーちゃんだ。彼女もまた問題のある心臓を持って生まれており、やはりぼくと同じようにもう何年もここで一緒に入院生活を送っている。そんな風に同じ境遇と未来を共有していたぼくたちは、同い年ということもあってか自然と一緒にいるのが当たり前のような関係になっていた。結局それから何年も入院し続けているのもぼくたちだけだったし、そうなるのは必然だったのかもしれない。
 ぼくとしーちゃんは、この限られた病院の中で色々なことをした。しーちゃんが自分の病室を抜け出してぼくの部屋にやってくるあの冒険や、こうして子供の患者には開放されていない屋上にこっそり忍び込んだり。そうしたうちのいくつかは、桃崎先生に叱られたりなんてこともあった。
 桃崎先生はしーちゃんの担当医だけれど、子供たちが集まるプレイルーム――ほとんどぼくとしーちゃんしかいなかったけれど――なんかによく顔を出して、たくさんのことを教えてくれた。面白くて、優しくて、でも叱る時は叱ってくれる。普段はふざけているけれど、本当はとても誠実な人。だからそんな桃崎先生は、なかなか学校に行けないぼくたちにとって本当に教師のような存在だった。それこそ、たまに勉強を教えてもらったりなんかもして。ほとんど先生の趣味の領域だったような気もするけど。
 そうやって身体に病という爆弾を抱えながらも、ぼくたちの日常は回っていたのだ。
 学校に行けない時間を埋めるように、しーちゃんとたくさんのことを話して、先生にたくさんのことを教えてもらって、そんな風にぼくたちは特殊な形ではありながらも、日常を送れているはずだった。
 昨日までは。
 初めからわかり切っていた話だ。重い病に(むしば)まれたぼくたちの生活が、そう長く続くわけなどないと。ぼくたちは大人になんてなれるわけがない。吹けば消えてしまう蝋燭(ろうそく)のような時間しか残されていないと。
 そうわかっていたはずなのに、しーちゃんと過ごすうちにいつしか、この生活が当たり前のものだと勘違いしてしまっていたのだろうか。たくさんの不自由に縛られながらも、大切な人が隣にいるほんの小さな幸せくらいは守ってもらえるなんて。そんなわけないのに。ぼくたちは自分の人生の結末すら自分で決めることができないと、病気のことを知ったあの日にそう受け入れたはずだった。それなのに……。
 しーちゃんが倒れて、ぼくだってもうそのうち死んでしまうだろう。それは明日かもしれない。そうなったって何もおかしくないのだ。それなのに昨日のぼくは、また明日もしーちゃんと一緒に居られるなんて勘違いしていた。自分に将来なんてものがあるわけないと受け入れていたはずなのに、心のどこかで目の前の明日くらいは信じてもいいとそう思ってしまっていたのだ。愚かとしか言いようがない。
 ぼくたちは数年前駅の近くにできたらしいショッピングモールに行ったことがない。カラオケで思い切り歌ったことももちろん、ゲームセンターなんてもっての外。撮るのはプリクラじゃなくてMRI。夏にみんなが屋台の料理を食べながら観る花火も、病室の小さな窓越しに眺めるだけだ。ぼくたちはドリンクバーすら知らないのだから。それこそテーマパークのアトラクションだと思ってしまうくらいには。
 白い棺桶に閉じ込められて、同じ年の子たちが経験するようなことなんて何一つ知らないまま。それでも、それでもささやかな、本当に本当にささやかな幸せを大切に握りしめてどうにか生きていたのに、どうしてそれすらも奪われなきゃいけないのだろう。
 しーちゃんはなぜ昨日「駆け落ち」なんて言い出したのか。どんな気持ちで。
 今日こうなることがわかっていたなんて当然そんなわけないだろうけれど、それでもそう思わずにはいられない。どうしてぼくは「いつか」なんて言ってしまったのだ。そんなものあるはずがなかったのに。
 もちろん、駆け落ちなんてできるはずがなかった。ショッピングモールもカラオケも、ゲームセンターも、お祭りも、ドリンクバーのあるファミレスにすらそう簡単には行けやしない。ましてや昨日いきなりそれを叶えるなんてあり得るはずもなかった。あり得るはずもなかったけれど、それでもぼくはしーちゃんの差し出した手を取るべきだったのだ。何もできないとわかっていても、しーちゃんの手を取って走り出さなきゃいけなかった。全力で走ったらバラバラになってしまうようなこの身体で、精一杯踠(もが)くべきだった。「いつか」なんて絶対に口にしちゃいけなかったのだ。

 ぼくたちの最期に、サヨナラなんてあるわけないから。

 黒く蝕まれたこの命はいともたやすく、唐突になくなる。心の準備なんて待ってくれない。「また明日」と言って別れても、それが最後の会話になってしまう。朝起きた時に、もう二度と会えなくなっていても何もおかしくない。人生最後の日に「サヨナラ」なんて言って、綺麗に終われるわけがなかった。今この瞬間生きているということ以外に、信じられるものなんてどこにもあるはずが……。だからぼくたちは、常に「もしこれが最後なら」と考えて生きなきゃいけなかったのだ。そうわかっていたらあの時ぼくは――。
 どうしてぼくたちなのだろう。どうしてぼくたちだけこんな……。()うの昔に諦めたはずの感情が、渦を巻いてぼくを呑み込んでいく。
 そんなに大層なことを望んだだろうか?
 ファミレスのドリンクバーすら夢みたいに思っていたぼくらから、どうしてこれ以上奪えるというのだ。

 もうじきぼくだってきっと死ぬ。そうしたらそこでぼくたちの物語はお終いだ。至って短い、たった一四年の物語。ドリンクバーすら知らずに終わる、そんな話。誰も望まないバッドエンド。
 もしぼくがあの時しーちゃんの手を取っていたら何か、それこそ物語のような奇跡が起きていただろうか。そんなわけないけれど、それでも今よりはマシな何かがそこにはあったのかもしれない。

 なんだか頭が痛い。もう何も考えられない。ふわふわと宙に浮くような感覚がして、気づけば上も下も混ざり合うようにあやふやだった。残っているのはひんやりとした地面が頬に触れる感触。ああ、これで終わりなのか? こんなところで終わるのか?
 こんな黒い雲に押し潰されて。そんな風に終わってしまうんだとしたら。
 どうか最後に一つだけ、メロンソーダくらいは一緒に――。

 そうして最後に捉えた黒は、どうしようもないくらい冷たくぼくらの行く末を暗示するかのように深く閉ざされていた。