ほんの少しの痛み。それと痺れ。混ざり合った二つの違和感で揺さぶられるように目が覚める。重いまぶたをやっとの思いで開くと、僅かばかりの陽光がカーテンの隙間から漏れていた。凝り固まった身体をほぐす様にくねらせて起きあがろうとすると、ようやく身体の上にある確かな重みの存在を理解する。
「おはよう! ゆーくん!」
彼女は寝転んでいるぼくの顔を覗きこむように近づけて、いかにも溌剌といった声を出した。その長く美しい黒髪がぼくの顔を遠慮なく覆う。静かで穏やかな朝を切り裂くように。
「何してるの?」
顔中をこそばゆく撫でる柔らかい髪の毛をかき分けるように起き上がり、正に目と鼻の先でニコニコと口を緩めている彼女にそう訊ねる。どんな返答が来るかはわかっているけれども。こういう形式上のコミュニケーションを大切にしなければならないと、確か誰かが言っていたはずだ。
「何って、冒険だよ。ぼ・う・け・ん!」
そうして返ってきた想定通りの答えは、今まで幾度となく耳にして来たものだった。
彼女——しーちゃんの冒険は、ずっと前からもう何度も開催されている。冒険なんて大層な名前を冠しているが、早朝に自分の部屋を抜け出してぼくの部屋に入ってくるだけのとても小規模なものだ。
「ちょっと開催頻度が高すぎないかな。その冒険」
まだ今年が始まって三ヶ月だと言うのに、その数はかなりのハイペースで積み重ねられている。これだけ毎日のように行われてるものは、冒険ではなくただの日課なのではないだろうか。そんな風に考えを巡らせるぼくを気にすることなく、「いいじゃん。よくあるでしょ。隣の家のかわいい幼馴染が、窓越しに部屋へ忍び込んで起こしてあげるやつ。あれだよ、あれ」としーちゃんは笑い声を響かせている。
「かわいい、は必要ないのでは?」と反射的に声を出す。
そもそもぼくはこんな早朝に起こしてもらわなきゃいけない状況に置かれていないという、一番適切と言える疑問を取り残して真っ先にその一言が出てしまったことを、一体誰が責められるだろうか。
「でも、かわいいでしょ?」
しーちゃんは当たり前とでも言うように、一切の照れもなく誇らしそうに鼻から息を出した。まあこんなやりとりもまたいつものことなわけだけれど、結局ぼくはつい本心を口にしてしまう。
「……かわいい」
「でしょ〜」
エヘヘと擬音が書きこまれているかのような満点の笑顔だ。実際それがまたとてもかわいい。だけど、幼馴染——と言うほど幼い頃からの付き合いかと言われれば疑問が残るけれど——としてはちょっと心配になる。常日頃周囲の人々から「みんなを照らす太陽のような子」だともてはやされている彼女ではあるけれど、かわいさ一本槍で生きて行こうとするのは流石に褒められたことではないだろう。
「で! 今日はどうする?」
「どうって、別にいつも通りだけど……」
「だめ! せっかくの春休みだよ。もっとちゃんと考えてよ」
どう考えてもこんな朝早くから考えることではないと思う。本来中学生の春休みというものは、もっと昼頃から始まるべきものであるはずだ。それこそせっかくの休みなのだろうから。
「せっかくの春休みって。そんなこと言われても……関係ないし」
「もう、そんなことないでしょ! 桃崎先生も言ってたよ。『若者は大いに楽しめ。それが若者の仕事だ』って」
毎度のことながら、やけに上手く特徴を捉えた口真似だ。あの嘘のように真っ白な歯を光らせながら、そんなことを言っている先生の姿がありありと想像できてしまう。
しかしその上々な口真似は置いておくとして、あの人はまた随分と適当なことを言ったようだ。大人だったら「勉強しろ」とか言えばいいのに。しーちゃんがかわいさ一本槍で生きようとしている責任の一端は先生にあるのではないかと、尤もな感想と抗議が頭を過ったが、あの人がそんなこと言えるわけないかと自己解決に至ってしまう。
そうやってぼくが真っ白い歯の先生について考えていると、しーちゃんは無視をしていると思ったのか、畳み掛けるように口を開いた。
「それにわたしたちもうすぐ中三になるんだよ? 受験生だよ? 今のうちに目いっぱい楽しいことしておかないと」
受験。なんとも重々しい雰囲気の言葉だ。しかし、ぼくにはあまり想像ができず、なんだかふわふわと浮いてるようなものにも思える。実感なんてもちろんあるわけもない。
「受験なんて、それこそぼくには関係ないよ。どうでもいい」
そんなもの自分とは関係のない、なんだか遠い世界の架空のものに思えてしまう。ぼくの頭じゃどうしようもないのだから。
「だめだよ。そんなこと言ったら。そんなんじゃ、ちゃんとした大人になれないよ。桃崎先生みたいな」
しーちゃんは本当に心配だと言うように口を尖らせている。さっきまでかわいさ一本槍だったくせに、どうやら立場が逆転したらしい。アヒルのようなその口がまたかわいいのもずるい話だ。
それに、あの人はちゃんとしてると言えるのだろうか。定義によるところだけれども、なかなか怪しいものだと思ってしまう。まあ、少なくとも職業的に考えたら頭はいいと言えるのだろうけど……。
「そんなのなれないよぼくには」
先生をギリギリちゃんとした大人に分類すると仮定しても、実際のところぼくには土台無理な話ではある。別に目指しているつもりもない。無理なものは無理だと最初から受け入れておいた方が良いのだ。
「そんなことない! なるの、一緒に。絶対。なるったらなるの」
熱を帯びた言葉と連動するように、髪の毛が肩で跳ねている。まるで毛先に感情が乗り移ったみたいだ。そのくりくりとした丸っこい目はなんだか少し潤んでいるようにすら見える。
どうしてこの子は、ぼくのことにこんなにも真剣になれるのだろう。本当に心の底からぼくのことが心配なんだと、そんな顔で見つめられたら眩しくてしかたがない。そんなぼくの目に答えるように、しーちゃんが真一文字に結んだ口を開いて付け加える。
「わたしたちに、サヨナラなんてあるわけないから」
それはしーちゃんがよく口にする言葉だった。わたしたちはこれからもずっと一緒にいるから。サヨナラなんて言っても離れることはできないから。だからあなたの問題はわたしの問題でもあるのだと。なんてずるいんだろう。こんなに真っ直ぐな眼差しを向けられて、ふいにするなんてできるわけがない。
「……わかったよ。なるから。一緒に……」
おせっかいな幼馴染の強情さを前にしたら、結局ぼくが折れるしかない。太陽の前でシニカルぶってても溶かし絆されるだけだ。
「絶対だよ! いい?」
「わかったって……」
しーちゃんが満足そうに頷く。なんだか職人みたいだ。実際ぼくの意見を動かすことに関して彼女は職人並みの技術を持っていると言ってもいいので、あながち間違いでもない。
「……じゃあ、勉強でもする? 今日は」
そうして喉からそれならばと言葉を絞り出したわけだけれど、しーちゃんは首をぶんぶんと横に振った。
「ううん。おこちゃまなゆーくんはそんなことだろうと思って、それよりもっといいこと考えて来てあげたから。大人になるための、と〜ってもいいこと。聞きたい?」
しーちゃんは「聞きたい」と言われて当然だと、さっきまで潤んでいたはずの目を輝かせている。コロコロと表情が変わり続ける赤ちゃんのように。こんな感じでとんでもなくいいことを思いついたのだと得意げな顔をしている時にしーちゃんがする話は、ぼくの経験則から言うととてもじゃないけど碌なことではないというのが定説だ。できれば聞かない方がいいことは間違いない。とは言え、そんなことを言ってしまえばこの世界中の無邪気とかわいさを集約させたようなしーちゃんの笑顔をまた曇らせてしまうだろう。ほんの数分の間に二度もそんなことをしてしまったら、何かこの世界の理のようななものに咎められてしまうかもしれない。本当に。真剣に。真面目な話。だからぼくは「まあ……」とどちらとも取れないような返事をする他なかった。
しかし、そんな日和見を後悔するほど、彼女の提案はあまりにも素っ頓狂なものであった。時が止まったかのように思考が停止してしまう。これはもう本当に、かわいさ一本槍も大概にしてもらわなきゃだめだ。そう改めて思ってしまうくらい意味がわからない。それこそ何か時を止める呪文のようなものを唱えたのではないかと、そんな今まで話して来た前提を全て無視するような、わけのわからない言葉の羅列だ。しかし、その無邪気な口は確かにそう発していた。
「駆け落ち、しよう!」
*
「……ドリンクバーまぜまぜ実験って何?」
昼になって「とりあえずやりたいことまとめてみた!」と部屋に飛び込んで来たしーちゃんが広げた『計画書』を見て、自然にそう読み上げてしまった。
「ドリンクバーまぜまぜ実験だけど?」
しーちゃんは「他に何が?」とでも言うように目を丸くしている。辞書に載っている言葉以外でその顔をしないでもらいたい。切実に。
「一〇〇杯飲まなきゃいけないらしいよ。元取るには」
思考の追いつかないぼくを置いてけぼりにして話を続けようとして来る。そもそもこちらは朝にあの言葉を聞いた時から何一つ理解できていないと言うのに。
*
「駆け落ちって……駆け落ち……?」
立派な大人になるために駆け落ちをしよう。あまりに予想の範疇を逸脱する場所から投げかけられた言葉に、思わずオウム返しのように口を動かしていた。しーちゃんからその言葉が出て来たことも意味がわからないし、ぼくの口からその言葉が出ていることにも全く実感が湧かない。最早わけのわからないというその時のぼくの心情に、わけのわからないその言葉がピタリと当てはまっているようにすら思えるくらいわけがわからないから不思議だ。
「そうだよ、駆け落ち。愛し合う二人が結ばれるために、二人を邪魔する障害から逃げるの。それ以外ないでしょ?」
「愛し合う二人?」
辞書に書いてあることをそのまま読み上げたような文章に、また反射的に訊き返してしまう。
「そうだよ。好きでしょ? わたしのこと」
この世界のどこにでも書いてあるルールの確認とでも言うような顔で、しーちゃんが平然と言って退ける。何一つ疑う必要などないというその自信は、一体どこから湧いているのだろうか。しかし非常に不本意ながら、それを否定する手札をぼくが持ち合わせていないこともまた純然たる事実なのでどうしようもない。
「……まあ、それは否定しないけど」と言う他ないのだ。
そもそも、しーちゃんくらいしか同年代で話す人もいないのだから。だけど、そういう意味でもそういう問題でもないだろう。
「だったらいいよね。しようよ、駆け落ち」
「なんで?」
そうなる理由がわからない。あまりにも全てが唐突すぎて、なんで? どこへ? なにしに? どうやって? と溢れるほどの疑問符が脳味噌を覆い尽くしている。
「なんでって……。つまんないじゃん。毎日、毎日同じことばっかして、檻に閉じ込められてるみたい。せっかくの春休みなのに」
そう言ってしーちゃんは、両手で鉄格子を揺さぶるようなジェスチャーをした。よくある「助けてくれ〜」というやつ。妙な律儀さだ。
「だから駆け落ちするの。楽しそうでしょ?」
「立派な大人がどうこうって話は?」
駆け落ちなんて立派な大人から最もかけ離れた言葉だろう。インモラルの極みというやつだ。
「大人でしょ?」
「大人だとしても立派ではない」
「大人はみんな立派だよ?」
なんなんだその純粋無垢な発想は。こんな子が駆け落ちとか口にしちゃ駄目だろう。しかも真っ向から否定しづらい。ぼくだって大人とは何かなんて言い切れるほど、理解しているわけがないのだから。しかし、そんな思いを飲み込んででも、反論しておくべきだろう。
「立派じゃない大人もいるでしょ」
「誰?」
「犯罪者とか」
「駆け落ちは犯罪?」
「……違うと思うけど」
ぼくをじっと見つめるその眼差しが、「ほらね」と声高に主張して来る。絶対に向こうの言っていることがおかしいはずなのに、どうしてこうもピンポイントで返答に困るような言葉を投げかけられるのだろうか。
立派であれば大人、立派でなければ大人ではない。どうやらしーちゃんの中で形成されているこの方程式を崩さないと、「大人な響き」というだけで駆け落ちは立派な大人になるためのステップになってしまうらしい。あまりにも無茶苦茶だ。
「でも桃崎先生は駆け落ちとかしなさそう——」
とも言い切れないなと自分で思ってしまい言葉に詰まる。なんなんだあの人は。しーちゃんが立派な大人だと信じてやまないのだから、もう少しちゃんとしていてもらわないと困る。そう心の中で抗議しても、真珠のように磨き上げられた歯を光らせながら飄々と躱される姿しか思い浮かばなかった。
「ね? そういう経験が必要なんだよ。立派な大人には」
そんなはずない。絶対にそんなはずがないのに、何故かこんな無茶苦茶な理論でいつの間にかこちらが土俵際まで追い込まれている。どうしてこうなってしまうのか。不思議でしかたがない。しーちゃんと話しているといつもこうだ。
そうして自分の押しの弱さに愕然としながら、苦し紛れに声を絞り出すことしかできなくなった。
「そもそもなんで駆け落ちなんて……。ドラマか何かで観たの?」
本当にどこからそんな言葉が出て来たのか。ぼくとしーちゃんが共有する語彙の中に、そんなものは書かれていないはずだ。書く必要もない。
「ん〜、ほら、これ」
そう言うとしーちゃんはサイドテーブルに備え付けられた引き出しをガサゴソと漁り、一冊の本を取り出した。まず、どう見てもぼくのものではない、つまりはしーちゃんの私物であるその本がぼくの部屋の引き出しから出てくることがおかしいわけだけれども、まあそれはいい。しーちゃんが来る度に自分のものをこの部屋の至る所に置いて行き、最早ぼくが使うものよりもしーちゃんの持ち込んだものの方が多いと言っていい有様になっているのは今更のことだ。それにはとっくの昔に占領済みだと白旗を揚げている。そんなことより問題はその本。ぼくの知らない内に持ち込まれていたその本の表紙には、『運命完全網羅——魔女の占い大全——』と禍々しい文字のタイトルと鼻の長い魔女の絵が描かれていた。怪しいなんてもんじゃない。何故こんなものを今取り出したのかも不明だけれど、何よりぼくは一体いつからこんなおどろおどろしいものと同居していたのだ。
そうしてしーちゃんは何かを探すようにパラパラと本をめくり、「あった!」と本を開いてこちらに向けた。
「ほら、ね?」
しーちゃんが得意げな顔で見せて来たその見開きには、『卯年×乙女座×O型の運命』と大きな文字で書かれている。それがしーちゃんの干支と星座と血液型であることはもちろん知っているけれど、「だから何?」という疑問符は何一つ解消されていない。
そんなぼくを見かねてか「ここ!」としーちゃんが指を差した先には、『駆け落ちをしてでも愛する人と結ばれる情熱的な運命』と、そう一言記されていた。
それを見てようやく、自分がこの意味不明な状況に巻き込まれた理由をぼくは理解する。なんて傍迷惑な本なのだろうか。こんな怪しげなものが裏で手ぐすねを引いていたとは。
「まさか、信じてないよね……?」と恐る恐る訊ねる。
「なんで! 絶対当たってるよこれ!」としーちゃんは自信満々だ。
なんてことだろう。真っ白い綿のように興味を持ったものは何でも吸収するしーちゃんではあるけれど、まさかここまでだとは。これを真に受けるのは、流石に少し心配になってしまう。
「怪し過ぎるでしょ、そんな本……」
「でも絶対当たるんだって」
一体その信頼はどこから湧いているのだ。そもそも当たるとはどういうことなのか。その人のパーソナリティを言い当てるようなことが書いてあるわけでもないのに。そりゃこの世には逃れられない運命のようなものはあるだろうけれど、駆け落ちをするかどうかはその人の気持ち次第なはずだ。当たるも何もない。
しかし、「だってほら」としーちゃんの指が差した先に書かれているものを見て、ぼくは黙りこくることになってしまう。
『運命の相手:卯年×獅子座×O型』と書かれたその一文で。
「だから言ったじゃん。すごいんだよこの本」
しーちゃんは鼻息を荒くしながら、勝ち誇ったような顔をしている。
「わたしの運命の相手はゆーくんだって。絶対当たってるでしょ? ね?」
それはズルい。運命なんて言葉はもちろん好きではないけれど、「あなたが運命の相手と書いてあるんだから本当だよね」なんて言われてしまったら悪い気はしない。「じゃあまあそれでいいか」と思ってしまって当然だ。しかし、ここで絆されてしーちゃんを怪しげな占いの道に進ませるわけにはいかないだろうという義務感から、ぼくはしかたなく異を唱える。
「……たまたまでしょ」
「え〜、違うよ。だって三つも揃うなんて、すごい確率だよ。きっと」
それぞれ一二種類の星座と干支に、四種類の血液型。掛け合わせること五七六通り。五七六分の一でぼくとしーちゃんが結ばれしまったということになる。
「もっとすごい確率のものだってあるよ。ぼくたちに関係してるものの中にも」
「例えば?」
それは上手く言えないけども。でも、あるだろう。間違いなく。冷静になって考えると五七六分の一なんてそこまで大きな数字でもない。いや、この場合小さな数字じゃないと言うべきだろうか。何にせよ、別にそこまでありがたがるものでもないだろう。ぼくとしーちゃんがこうして一緒にいることも、もしかしたらもっともっと天文学的な確率の元に成り立っている可能性だってあるのだから。それを奇跡なんて呼ぶつもりはないけれど。
しかし、結局具体例を提示できなかったぼくに、「駆け落ちの正当性が証明された」としーちゃんは満足げな顔を向けて来る。本当にどうしたものだろうか。やはりこうやっていつの間にか、しーちゃんの言ったことが正しいという風になっているのだ。本当に酷い話。
しかしまあ、それならそれでいい。こんな怪しげな占い本も、駆け落ちなんて突拍子のないことも、もうこの際全て受け入れよう。全くもって釈然としないけれど、これはもうしかたがない。そうやって受け入れたところで、結局のところ現実的な一つの問題に直面すると、ぼくが言えるのはそれだけだ。
「だとしても、無理でしょ。駆け落ちなんて」
そう、無理だ。万が一駆け落ちという行動に正当性が与えられたとしても、結局「できる」か「できない」かの話になったら「できない」としか言いようがない。無理なものは無理。考えてみれば、最初からそれで終わる話だった。
「すぐにどうしようもなくなって、……それこそ野垂れ死んじゃうんだからさ」
中学生二人で放り出されたとして——自分から出ていくのが駆け落ちだけれども——、どうやったって生きていけるわけがない。確かに毎日同じような繰り返しの生活に縛られているかもしれないけれど、そうやって色々なものの庇護下にあるからこそ生きていられるのだから。その『縛り』に守られてぼくたちは今日も息をしているのだ。
「できるよ。運命の人とするんだもん」
「無理だよ」
「できる」
「無理だって」
「できるもん」
頬を膨らませたしーちゃんと押し問答のような格好になってしまう。しーちゃんは一歩も引かないという様子だ。「できる」、「できない」。堂々巡りのようにぶつけ合った言葉は、絡み合ってどんどん強固にほどけなくなっていく。それでは答えなんて出るわけもない。
そうして結局先に痺れを切らしたのは、小さな風船でも入れてるのではないかと思うくらいにまで頬が膨れ上がったしーちゃんだった。
「とにかく、お昼に持ってくるからけーかくしょ! 待ってて!」
そう言い残して嵐のように自分の部屋に帰って行くしーちゃんを見て、あまりの奔放さに肩を落としながらぼくの騒々しい朝は一応落着を見せた。しーちゃんはいつも通り、ただ朝早くぼくを起こすためだけに一旦やって来たという事実と共に。
*
そうしてぼくの部屋に持ち込まれた『計画書』の一行目が「ドリンクバーまぜまぜ実験」だ。あれだけ戸惑った末、少し真剣に思案を巡らせた今朝を返してもらいたい。「駆け落ち」の次に来る言葉が、「ドリンクバーまぜまぜ実験」なんてことが許されていいのだろうか。しかもその前提には「立派な大人」があるわけだ。そんなことあっていいわけがない。どう考えても。
「……元を取るとか、考えてないでしょ。みんな」
「でも、どうせなら取りたいでしょ?」
なんでこんな庶民的な話をしているのだろう。今現在この場所では「駆け落ち」の話が行われているはずなのに……。
「元を取りたい気持ちより、一〇〇杯飲むのは嫌だし無理って方が勝つよ」
「だから、まぜまぜ実験するの。わかってるじゃん」
そんな「よく気づいたね」みたいな顔をされても、ぼくは全く理解できていないので困ってしまう。
「メロンソーダとコーラ混ぜたらどんな味になるかな〜」
もう目の前にその実験キットが用意されているのではないかと勘違いしてしまうくらい、しーちゃんは自分の世界に入り込んでいた。
「何色かな?」
「黒でしょ」
黒に何を混ぜても最後には全部黒になるだろう。知らないけど。
「量で元を取れないから、楽しいことして元を取ろうってこと?」
なんとか意図を汲み取ろうと必死に推察した結果辿り着いた答えだ。これが正解だとしたら、しーちゃん検定二級くらいはもらっていいだろう。
「そうだよ?」
「さっき言ったじゃん」みたいな顔をされても、全くもって言われてないので最早困ってしまうなんて次元ですらない。まず、ドリンクバーはそんなアトラクションのような気持ちで臨むものではないはずだ。食事をより良く摂るための添え物であって、それ自体を目的にするものでもない。最新型のおもちゃで遊ぶときくらいの熱意をドリンクバーに注いでいるしーちゃんならば、それこそ小一時間は平気で待つのが当たり前らしいテーマパークの行列のように、何の抵抗もなく並んでしまえそうだけれども。どちらもぼくには何一つ理解できない。
「メロンソーダにどんどんコーラを混ぜて行ったら、どこからメロンソーダじゃなくなるのかな」
しーちゃんはドリンクバーにおける全てを話し尽くすつもりなのかと言うくらい次々と風呂敷を広げていく。最早理解が追いつかず不思議そうな顔をしていると、「おこちゃまに優しく教えてあげよう」とでも言うように続けて口を開いた。「ドリンクバーまぜまぜ実験」の主催者がお姉さんぶるなんてあり得ていいわけがないのに。
「メロンソーダをコップに半分入れるでしょ? そこにどんどんコーラを注いで行って、どれくらいになったらメロンソーダじゃなくなるのか調べるの。どう?」
どうもこうもない。なんだか哲学的な問い……なのだろうか。もう少しで思考実験じみたものになるかもしれない。その実態は「ドリンクバーませまぜ実験」だけれども。
「……色が緑とは言い切れないくらい変わったら、とか?」と一応真面目に考えてみる。
「じゃあコーラはずっと黒だからずっとコーラ?」
「それは……違うね」
なんでこう妙に痛いところをついて来るのかと思わず感心してしまう。使い所は明らかに間違っているけれど。
「泥水に一滴のワインを垂らしても泥水のままだけれど、ワインに一滴の泥水を垂らしたらそれは泥水になる」なんて話を先生から聞かされたことがある、ただ今回はどちらも飲み物なのだからまた少し違う話なのだろうか。しかし泥水とまではいかないものの、メロンソーダには決められた原料があってそう呼ばれているのだから、そこにコーラという余計なものが一滴でも混ざったらそれはもうメロンソーダとは呼べないのかもしれない。泥水のような「泥と様々な物質が混ざった状態」の総称であるものでない限り、少しでも異物が混ざったならそれはもう全く別のものであると。
これならそれなりの納得感があるだろう。今朝運命だどうだと言われた時には出せなかったが、やっぱり実例があると説得力が増す気がする。そう僅かな自信を持って依然ドリンクバーに想いを馳せているしーちゃんにぶつけたが、「じゃあ、じゃあ最初にコーラを飲んだあと同じコップにメロンソーダを入れて飲もうとしてもそれはもう別のもの?」とまたしても無邪気な難問を投げかけられてしまった。
もうお手上げだ。結局ここで理屈をこねくり回していても、しーちゃんの疑問は一向に止まりはしないだろう。そうして押し黙っていると、必然的に一つの結果に辿り着いてしまう。
「ほら。ちゃんと飲んで調べないと。だめでしょ?」
またいつの間にかしーちゃんの方が正しいということになってしまった。「ドリンクバーまぜまぜ実験」の開催が正義の側にいるなんて理不尽にも程がある。それでも何故かこうなってしまうのだ。何か化かされているような気分としか言いようがない。
その上、困惑しきりのぼくにしーちゃんが思わぬ追撃をして来る。
「メロンソーダはゆーくんの色なんだからさ」
「……ぼくの? なんで?」
よくわからない方向からの強襲に、なんだか間抜けな声が出ていた。
「帽子の色。緑じゃん。いつも」
それは母さんが昔買って来た帽子がたまたま緑色だっただけで、ぼくに拘りがあるというわけではない。母さんには何か拘りがあったのかもしれないけれど。ぼくの好きな色は、強いて言えば黒だ。しかし、しーちゃんはそんなことなどお構いなしで、ぼく=メロンソーダのイメージを崩す気はないらしい。なんと言うか、いつもながら独特な視点だ。
「だから、ちゃんと調査しなきゃだめだよ。ね?」
本当に、このまましーちゃんのペースに呑まれていてはまずい。その一心でぼくは話の軌道修正を試みる。ささやかな抵抗だ。
「立派な大人になるために?」
「そう」
「駆け落ちの一環として?」
「もちろん」
やはりぼくには到底結びつけられないこの三つが、しーちゃんの中では当然のごとくイコールで結ばれているらしい。ぼくが立派な大人の条件を決めていい立場になったとしたら、まず途中式の省略禁止を第一条件にすると今ここで誓っておこう。
「立派な大人はドリンクバーで遊ばないと思うけど」
流石の桃崎先生もドリンクバーでは遊ばないだろう。……多分。
「ドリンクバーを楽しみ切ったから大人になれたんだよ」
もう何でもありじゃないか。子供の卒業式にはドリンクバーが備え付けられているらしい。
「でも駆け落ちとドリンクバーは絶対関係ないよ。流石に」
「好きな人とやりたいことをやるってことでしょ? 駆け落ちって」
しーちゃんが何の気無しに放ったその一言で、ようやくぼくの中でも決して結ばれるはずのなかった三つが繋がった。あまりにも薄く脆い糸のようにではあるが。
「……そうなのかな」
「そうだよ。おこちゃまなゆーくんには難しかった?」
そんなわけがない。そんなわけがないのに本当に理不尽なしたり顔を向けられてしまったけれど、本来の駆け落ちなんてものに誘い込まれていると思っていた先刻よりは遥かにマシなのでしかたなく口を噤む。人間は不条理を乗り越えて立派な大人になっていくのかもしれない。立派な大人への道第二条件だ。
「で、一番やりたかったのが、ドリンクバーまぜまぜ実験なわけ?」
「んー、一番じゃないけど。気になるでしょ? ドリンクバー。ゆーくんもさ」
また思わぬところから矢が飛んで来た。思えば今朝から数々の難問を痛いほどぶつけられて来たけれど、これが本日の最難関問題と言っていいかもしれない。それくらい難しい問いだ。本当にどうしたものかとこの一瞬、熟慮に熟慮を重ねてしかたなく白状するように小さな声で喉を押し開く。
「……ちょっとだけね」
本当にちょっとだけ、だ。一応首を縦に振っただけで、しーちゃんと同じ熱量だと思われるのは心外ということだけちゃんと付け加えておく。至って控えめに、本当に、本当にちょっとだけなのだから。だからその「素直じゃないなぁ」みたいな目をするのは即刻やめるべきだと、そう心から主張したい。
本当に面白くて、面白くてしかたがないというようにこちらを見るしーちゃんと視線が重なって、ぼくは抗議するように口を真一文字に結んだ。この世界の全てが静止したかのように、音一つない静かな時間が流れる——訂正、しーちゃんの長い髪だけは、その時を待ちわびるようにたなびいている。静止した世界に溶け落ちるように、ゆらゆらと——。そうして視線の交換を終えると行き場を失ったように目を伏せて数秒、結んだ唇が決壊するように綻んで二人、ただ笑い声だけを響かせた。心の奥底で見ている同じ景色を共有するように共鳴して。それが「ドリンクバーまぜまぜ実験」だなんて、なんだか格好がつかないけれど。
「あるよ。まだまだ。他にも」
そうやって一頻り笑い尽くした所で一息吐くと、しーちゃんは「楽しいことはまだまだここからだよ」と『駆け落ち計画書』の続きを話し始めた。この世界の全てを楽しみ尽くしてやるんだとでも言うように、前のめりになって。
*
「全部やるの? 一日で」
カーテンの隙間から差し込む光がすっかり茜色に染まった頃、ふとそう訊ねた。
あれからしーちゃんは夢中になって「やりたいこと」を話し続けた。カラオケで思いっ切り歌ったり、回転寿司で大盛りのイクラを食べたり、ゲームセンターのメダルゲームとか、大きいショッピングモールを探検して、それでプリクラを撮って、あったかいたこ焼き食べて——。あとお祭りは絶対に外せないと。その小さな身体から次々と繰り出される「やりたいこと」は、やっぱりどれもこれもささやかなもので、それでもとても幸せで楽しくて夢みたいなことばかりだった。全く、とんだ駆け落ちだ。
「何日かかったっていいよ。駆け落ちなんだもん」
「そっか」
「やろうよ。一緒に。全部」
「うん。いつか、できたらいいね」
「いつかじゃないよ。今、やらないと!」
それはわからないけれど、やりたいことを全部叶えて嬉しそうに笑っているしーちゃんの側にいたい。一緒に。ぼくだってそう思っている。
「でも、お祭りは夏にならないとやってないんじゃない?」
しーちゃんは「あっ」と顔にも声にも出した。
「だから、一つずつやって行こうよ」
「……ドリンクバーまぜまぜ実験から?」
非常に不本意——とも言い切れないけれど——ながらそういうことになる。
「そうだね。ドリンクバーまぜまぜ実験から」
「絶対?」
「うん」
「じゃあ指切り」
そう言っててしーちゃんが差し出した小指にぼくもそっと自分の指を絡める。僅かな体温と共に繋がったその小さな指を通して、ドクドクと心臓の音が伝わって来るような気がした。重なりあったその鼓動に約束を誓う。必ず。二人で。
——ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのます。
指切った。その瞬間、しーちゃんはぼくの身体ごと連れ去るように指を引き、腰掛けていたベッド倒れ込んだ。ぼくはしーちゃんにぶつかってしまうすんでのところでベッドに手をつく。ぼくが上で、しーちゃんが下。朝とは逆の状態だ。ベッドには乱れた髪の毛が地図のように広がっていて、柔らかい匂いが鼻をくすぐる。指はほどけたはずなのに、更にはっきりとした心臓の音が耳を鳴らした。ぼくの左にある心臓と、しーちゃんの左にある心臓が向き合うことでピタリと二対のものであるかのように嵌め込まれて、二人で一つの音を共有しているみたいだ。それに呼応するように、漏れた吐息が混ざり合って、触れ合う脚には微かな温もり。身体中からしーちゃんの存在が伝わって来た。
「絶対。絶対だよ」
覗き込むような格好になったぼくの目をしっかりと見つめて、しーちゃんは繰り返す。
ぼくは突然の事態に困惑しながらも、「わかってる。絶対」と言い聞かせるように唱えた。
しーちゃんは唇を少し緩めて笑い声を漏らすと静かに目を閉じ、また静寂が場を支配するように時が止まる。
「よしっ!」
永遠のように感じられる数秒が過ぎ、静止した世界を切り裂くような声がぼくの耳を貫いた。その一瞬で全ての活動が再開する。女王の一声で号令をかけられた働き蜂のように。そうしてしーちゃんは器用に身体をくねらせてベッドから足を降ろし、あっという間に立ち上がってしまう。
「約束、だからね」
気持ち良さそうに軽く伸びをする姿をぼんやり見つめていると、しーちゃんはこちらを向いてそう念を押した。そうして部屋の扉に向かって歩いて行く。その足取りは心なしかゆっくりに感じられた。何かもったいぶっているかのように。それでもこんな狭い部屋ではその時が訪れるまでの時間なんて一瞬で、すぐ扉の前に辿り着く。取っ手に手をかけて横に引いたその瞬間、しーちゃんは髪をたなびかせながら半身で振り替えると、ふんわりと唇を持ち上げて綺麗な笑顔を作った。ぼくは驚きの連続で機能を失っていた喉を振り絞って、「また明日」と声をかけたが、既に扉の向こうに歩き出していた背中にその声が届いたのかわからない。
一体なんだったのだろうか。いたずらな幼馴染の思惑を考えることすら難しい。最後の最後で今日一番だと思っていた難問を優に更新する、最難関の謎を突きつけられてしまった。明日答え合わせをする他ないが、こんなことの後ではなんだか緊張してしまうかもしれない。
そうして少し火照ったような空気と身体だけが取り残されたまま、ぼくのいつも通りのようでどこかいつもとは違う一日が終わった。
*
窓を叩きつけるように降り頻る雨。それと何人かが慌ただしく床を蹴り付けて駆け回る音。混ざり合わない二つの不協和音で揺さぶられるように目が覚める。重いまぶたをやっとの思いで開いたが、当然カーテンの向こう側に陽の光は用意されていなかった。凝り固まった身体をほぐす様にくねらせて起きあがろうとすると、身体の上にあの重みの存在がないことに気がつく。
どうやら今日はしーちゃんの冒険が開催されなかったらしい。雨天中止と言ったところだろうか。天気なんて別に関係はないのだけれど。
それとも昨日のことで気まずいなんて気持ちがしーちゃんにも少しはあるのかもしれない。てっきりまた平然とした態度でやって来ると思っていたのに。もちろんぼくの方が遥かに困惑しているし、気まずいなんてものじゃないわけだけれども、このままの状態で放置されるのは落ち着かない。ずっとソワソワとしてしまう。それに——しーちゃんの言うところの——せっかくの春休みに、悶々としたまま何も手がつかず一日を過ごさなきゃいけないのはもったいないだろう。だからもしこの後お昼になってもしーちゃんがやって来なかったとしたら、たまにはぼくの方から向こうへ行くのもいいのかもしれない。
そうして答え合わせをしようと、そう決意した瞬間だった。その扉が開いたのは。
「……どうしたんですか?」
何やら神妙な面持ちをして部屋に入って来たその人にぼくは訊ねる。彼がこの部屋に来るのは何とも珍しい。それもこんな時間に。
「……落ち着いて聞いて欲しい」
その一言で一気に空気が張り詰めるような、重苦しい緊張感が生まれる。規則正しく音を刻む時計の針が、いやに大きく聞こえた。沈黙の数秒間に、たくさんの可能性が頭を過ぎる。もし「そう」なのだとしたら、それだけは駄目だ。それだけは絶対にと、そう願ったその名前で沈黙は切り裂かれた。
「しーちゃんのことなんだけど……」
嘘だ。その名前だけは今聞きたくない。あり得ないと、脳味噌がその声を拒もうとしても、当然言うことを聞きはしなかった。
「……さっき、容態が急変してね。意識を失って、今は集中治療室にいるんだ……」
桃崎先生が発したその言葉の羅列を、ぼくは何一つ理解できなかった。理解したくなかった。
*
病室に入ると、しーちゃんはなんだか大きな機械に繋がれていた。一定のリズムを刻む無機質な電子音が耳を突き刺す。力無く横たわるしーちゃんの胸の辺りが、その音に合わせて動いていた。いや、動かされていた。自分の力では息ができないと主張するように。機械の音に合わせて上下するしーちゃんの身体。確かにしーちゃんの身体であるはずなのに、しーちゃんの力で、意思で動いていない。動けない。
なんなんだこれは。そんなわけがない。昨日まで一緒に話していて、何もかもいつも通りだったはずだ。それがどうして……。
「声をかけてあげて欲しい」
呆然と立ち尽くすぼくに、桃崎先生がそう促す。
なんだよそれ。そんなのまるで……。強く握りしめた掌に自分の爪が食い込む。滲んで広がっていくような痛み。紛れもない現実がそこにはあった。
声を出そうとしても、上手く口が動かない。固まり切った喉の奥から声を運ぼうとしても、舌先で消えてしまうようなそんな感覚。ぼくは一体何をしているのだろうか。
そうして途切れるようにかろうじて絞り出した声にも、返答は訪れることはなかった。無機質な電子音だけが、病室に響く。しーちゃんがまだそこにいると証明してくれるのは、その音ただ一つだ。
「本当は家族しか入っちゃいけないんだけど……」と、ここに入る時に看護師長の杏西さんは言っていた。
——未だ連絡が取れていないという——しーちゃんの家族しか入れないこの場所に、ぼくが呼ばれる。それがどういう状況なのか、しーちゃんがどういう状態にあるのか。嫌な考えばかりがいくつも浮かんで来る。何も考えたくないのに、どうしてこのどうしようもない頭は、こんな時ばかり張り切って稼働してしまうのだろう。何でこんな……。
あれほど艶々しく輝いていたしーちゃんの黒い髪が、ひび割れた大地のようになんだか干からびて見える。そんなわけがない。そんなわけがないのに、そう気づいてしまった瞬間、ぼくの何かで何かが壊れた。ぼくの知っているしーちゃんがどこかに行ってしまったような、そんな恐怖だけが渦巻いて止まらない。目の前の事実も、この先のことも、何もかもが怖い。纏わりつくように脳味噌に、いや身体中にこびりついた恐怖が呼吸を不規則に乱れさせた。機械に繋がれたしーちゃんとは正反対に。
そうして気づいた時にはもう、ぼくは病室から逃げ出していた。
*
三月には似合わないひんやりとした空気が顔を覆う。地面には点々と小さな水溜りができていた。頭を冷やすなんていうのはこういうことを指すのかもしれないが、この熱は一向に引く気配を見せない。消えるわけがない。
こんな雨上がりの早朝では、当然屋上になんて誰一人おらず、まるでぼくだけが世界から切り離されたみたいだった。異様なまでに高いフェンスと、世界を覆い尽くすような黒い雲がそれを助長している。息苦しい。ずっと、ずっと、息苦しかった。こんな小さな世界に閉じ込められていることが。
ぼくは脳にかなり厄介な病気を抱えていて、小さい頃からほとんどの時間をこの病院で過ごして来た。何度も何度も入退院を繰り返して、人生における大半の記憶はこの白い棺桶の中にある。
そうやってぼくが何度目かの入院をした少し後に、ここへやって来たのがしーちゃんだ。彼女もまた問題のある心臓も持って生まれており、やはりぼくと同じようにもう何年もここで一緒に入院生活を送っている。そんな風に同じ境遇と未来を共有していたぼくたちは、同い年ということもあってか自然と一緒にいるのが当たり前のような関係になっていた。結局それから何年も入院し続けているのもぼくたちだけだったし、そうなるのは必然だったのかもしれない。
ぼくとしーちゃんは、この限られた病院の中で色々なことをした。しーちゃんが自分の病室を抜け出してぼくの部屋にやってくるあの冒険や、こうして子供の患者には解放されていない屋上にこっそり忍び込んだり。そうしたうちのいくつかは、桃崎先生に叱られたりなんてこともあった。
桃崎先生はしーちゃんの担当医だけれど、子供たちが集まるプレイルーム——ほとんどぼくとしーちゃんしかいなかったけれど——なんかによく顔を出して、たくさんのことを教えてくれた。面白くて、優しくて、でも叱る時は叱ってくれる。普段はふざけているけれど、本当はとても誠実な人。だからそんな桃崎先生は、なかなか学校に行けないぼくたちにとって本当に教師のような存在だった。
そうやって身体に病という爆弾を抱えながらも、ぼくたちの日常は回っていたのだ。
学校に行けない時間を埋めるように、しーちゃんとたくさんのことを話して、先生にたくさんのことを教えてもらって、そんな風にぼくたちは特殊な形ではありながらも、日常を送れているはずだった。
昨日までは。
初めからわかり切っていた話だ。重い病に蝕まれたぼくたちの生活が、そう長く続くわけなどないと。ぼくたちは大人になんてなれるわけがない。吹けば消えてしまう蝋燭のような時間しか残されていないと。そうわかっていたはずなのに、しーちゃんとは過ごすうちにいつしか、この生活が当たり前のものだと勘違いしてしまっていたのだろうか。たくさんの不自由に縛られながらも、大切な人が隣にいるほんの小さな幸せくらいは守ってもらえるなんて。そんなはずないのに。
しーちゃんが倒れて、ぼくだってもうそのうち死んでしまうだろう。それは明日かもしれない。そうなったって何もおかしくないのだ。それなのに昨日のぼくは、また明日もしーちゃんと一緒に居られるなんて勘違いしていた。自分に将来なんてものがあるわけないと受け入れていたはずなのに、心のどこかで目の前の明日くらいは信じてもいいとそう思ってしまっていたのだ。愚かとしか言いようがない。
ぼくたちは数年前駅の近くに出来たらしいショッピンモールに行ったことがない。カラオケで思い切り歌ったことももちろん、ゲームセンターなんてもっての外。撮るのはプリクラじゃなくてMRI。夏にみんなが屋台の料理を食べながら観る花火も、病室の小さな窓越しに眺めるだけだ。ぼくたちはドリンクバーすら知らないのだから。それこそテーマパークのアトラクションだと思ってしまうくらいには。
白い棺桶に閉じ込められて、同じような年の子たちが経験するようなことなんて何一つ知らないまま。それでも、それでもささやかな、本当に本当にささやかな幸せを大切に握りしめてどうにか生きていたのに、どうしてそれすらも奪われなきゃいけないのだろう。
しーちゃんは何故昨日「駆け落ち」なんて言い出したのか。どんな気持ちで。今日こうなることがわかっていたなんて当然そんなわけないだろうけれど、それでもそう思わずにはいられない。どうしてぼくは「いつか」なんて言ってしまったのだ。そんなものあるはずがなかったのに。もちろん、駆け落ちなんてできるはずがなかった。ショッピングモールもカラオケも、ゲームセンターも、お祭りも、ドリンクバーのあるファミレスにすらそう簡単には行けやしない。ましてや昨日いきなりそれを叶えるなんてあり得るはずもなかった。あり得るはずもなかったけれど、それでもぼくはしーちゃんの差し出した手を取るべきだったのだ。何もできないとわかっていても、しーちゃんの手を取って走り出さなきゃいけなかった。全力で走ったらバラバラになってしまうようなこの身体で、精一杯踠くべきだった。「いつか」なんて絶対に口にしちゃいけなかったのだ。
ぼくたちの最期に、サヨナラなんてあるわけないから。
黒く蝕まれたこの命はいともたやすく、唐突に無くなる。心の準備なんて待ってくれない。「また明日」と言って別れても、それが最後の会話になってしまう。朝起きた時に、もう二度と会えなくなっていても何もおかしくない。人生最期の日に「サヨナラ」なんて言って、綺麗に終われるわけがなかった。いまこの瞬間生きているということ以外に、信じられるものなんてどこにもあるはずが……。だからぼくたちは、常に「もしこれが最後なら」と考えて生きなきゃいけなかったのだ。そうわかっていたらあの時ぼくは——。
どうしてぼくたちなのだろう。どうしてぼくたちだけこんな……。疾うの昔に諦めたはずの感情が、渦を巻いてぼくを呑み込んで行く。
そんなに大層なことを望んだだろうか? ファミレスのドリンクバーすら夢みたいに思っていたぼくらから、どうしてこれ以上奪えると言うのだ。
もうじきぼくだってきっと死ぬ。そうしたらそこでぼくたちの物語はお終いだ。至って短い、たった一四年の短い物語。ドリンクバーすら知らずに終わる、そんな話。誰も望まないバッドエンド。
もしぼくがあの時しーちゃんの手を取っていたら何か、それこそ物語のような奇跡が起きていただろうか。そんなわけないけれど、それでも今よりはマシな何かがそこにはあったのかもしれない。
なんだか頭が痛い。もう何も考えられない。ふわふわと宙に浮くような感覚がして、気づけば上も下も混ざり合うようにあやふやだった。残っているのはひんやりとした地面が頬に触れる感触。ああ、これで終わりなのか? こんなところで終わるのか?
こんな黒い雲に押し潰されて。そんな風に終わってしまうんだとしたら。
どうか最後に一つだけ、メロンソーダくらいは一緒に——。
そうして最後に捉えた黒は、どうしようもないくらい冷たくぼくらの行く末を暗示するかのように深く閉ざされていた。
「おはよう! ゆーくん!」
彼女は寝転んでいるぼくの顔を覗きこむように近づけて、いかにも溌剌といった声を出した。その長く美しい黒髪がぼくの顔を遠慮なく覆う。静かで穏やかな朝を切り裂くように。
「何してるの?」
顔中をこそばゆく撫でる柔らかい髪の毛をかき分けるように起き上がり、正に目と鼻の先でニコニコと口を緩めている彼女にそう訊ねる。どんな返答が来るかはわかっているけれども。こういう形式上のコミュニケーションを大切にしなければならないと、確か誰かが言っていたはずだ。
「何って、冒険だよ。ぼ・う・け・ん!」
そうして返ってきた想定通りの答えは、今まで幾度となく耳にして来たものだった。
彼女——しーちゃんの冒険は、ずっと前からもう何度も開催されている。冒険なんて大層な名前を冠しているが、早朝に自分の部屋を抜け出してぼくの部屋に入ってくるだけのとても小規模なものだ。
「ちょっと開催頻度が高すぎないかな。その冒険」
まだ今年が始まって三ヶ月だと言うのに、その数はかなりのハイペースで積み重ねられている。これだけ毎日のように行われてるものは、冒険ではなくただの日課なのではないだろうか。そんな風に考えを巡らせるぼくを気にすることなく、「いいじゃん。よくあるでしょ。隣の家のかわいい幼馴染が、窓越しに部屋へ忍び込んで起こしてあげるやつ。あれだよ、あれ」としーちゃんは笑い声を響かせている。
「かわいい、は必要ないのでは?」と反射的に声を出す。
そもそもぼくはこんな早朝に起こしてもらわなきゃいけない状況に置かれていないという、一番適切と言える疑問を取り残して真っ先にその一言が出てしまったことを、一体誰が責められるだろうか。
「でも、かわいいでしょ?」
しーちゃんは当たり前とでも言うように、一切の照れもなく誇らしそうに鼻から息を出した。まあこんなやりとりもまたいつものことなわけだけれど、結局ぼくはつい本心を口にしてしまう。
「……かわいい」
「でしょ〜」
エヘヘと擬音が書きこまれているかのような満点の笑顔だ。実際それがまたとてもかわいい。だけど、幼馴染——と言うほど幼い頃からの付き合いかと言われれば疑問が残るけれど——としてはちょっと心配になる。常日頃周囲の人々から「みんなを照らす太陽のような子」だともてはやされている彼女ではあるけれど、かわいさ一本槍で生きて行こうとするのは流石に褒められたことではないだろう。
「で! 今日はどうする?」
「どうって、別にいつも通りだけど……」
「だめ! せっかくの春休みだよ。もっとちゃんと考えてよ」
どう考えてもこんな朝早くから考えることではないと思う。本来中学生の春休みというものは、もっと昼頃から始まるべきものであるはずだ。それこそせっかくの休みなのだろうから。
「せっかくの春休みって。そんなこと言われても……関係ないし」
「もう、そんなことないでしょ! 桃崎先生も言ってたよ。『若者は大いに楽しめ。それが若者の仕事だ』って」
毎度のことながら、やけに上手く特徴を捉えた口真似だ。あの嘘のように真っ白な歯を光らせながら、そんなことを言っている先生の姿がありありと想像できてしまう。
しかしその上々な口真似は置いておくとして、あの人はまた随分と適当なことを言ったようだ。大人だったら「勉強しろ」とか言えばいいのに。しーちゃんがかわいさ一本槍で生きようとしている責任の一端は先生にあるのではないかと、尤もな感想と抗議が頭を過ったが、あの人がそんなこと言えるわけないかと自己解決に至ってしまう。
そうやってぼくが真っ白い歯の先生について考えていると、しーちゃんは無視をしていると思ったのか、畳み掛けるように口を開いた。
「それにわたしたちもうすぐ中三になるんだよ? 受験生だよ? 今のうちに目いっぱい楽しいことしておかないと」
受験。なんとも重々しい雰囲気の言葉だ。しかし、ぼくにはあまり想像ができず、なんだかふわふわと浮いてるようなものにも思える。実感なんてもちろんあるわけもない。
「受験なんて、それこそぼくには関係ないよ。どうでもいい」
そんなもの自分とは関係のない、なんだか遠い世界の架空のものに思えてしまう。ぼくの頭じゃどうしようもないのだから。
「だめだよ。そんなこと言ったら。そんなんじゃ、ちゃんとした大人になれないよ。桃崎先生みたいな」
しーちゃんは本当に心配だと言うように口を尖らせている。さっきまでかわいさ一本槍だったくせに、どうやら立場が逆転したらしい。アヒルのようなその口がまたかわいいのもずるい話だ。
それに、あの人はちゃんとしてると言えるのだろうか。定義によるところだけれども、なかなか怪しいものだと思ってしまう。まあ、少なくとも職業的に考えたら頭はいいと言えるのだろうけど……。
「そんなのなれないよぼくには」
先生をギリギリちゃんとした大人に分類すると仮定しても、実際のところぼくには土台無理な話ではある。別に目指しているつもりもない。無理なものは無理だと最初から受け入れておいた方が良いのだ。
「そんなことない! なるの、一緒に。絶対。なるったらなるの」
熱を帯びた言葉と連動するように、髪の毛が肩で跳ねている。まるで毛先に感情が乗り移ったみたいだ。そのくりくりとした丸っこい目はなんだか少し潤んでいるようにすら見える。
どうしてこの子は、ぼくのことにこんなにも真剣になれるのだろう。本当に心の底からぼくのことが心配なんだと、そんな顔で見つめられたら眩しくてしかたがない。そんなぼくの目に答えるように、しーちゃんが真一文字に結んだ口を開いて付け加える。
「わたしたちに、サヨナラなんてあるわけないから」
それはしーちゃんがよく口にする言葉だった。わたしたちはこれからもずっと一緒にいるから。サヨナラなんて言っても離れることはできないから。だからあなたの問題はわたしの問題でもあるのだと。なんてずるいんだろう。こんなに真っ直ぐな眼差しを向けられて、ふいにするなんてできるわけがない。
「……わかったよ。なるから。一緒に……」
おせっかいな幼馴染の強情さを前にしたら、結局ぼくが折れるしかない。太陽の前でシニカルぶってても溶かし絆されるだけだ。
「絶対だよ! いい?」
「わかったって……」
しーちゃんが満足そうに頷く。なんだか職人みたいだ。実際ぼくの意見を動かすことに関して彼女は職人並みの技術を持っていると言ってもいいので、あながち間違いでもない。
「……じゃあ、勉強でもする? 今日は」
そうして喉からそれならばと言葉を絞り出したわけだけれど、しーちゃんは首をぶんぶんと横に振った。
「ううん。おこちゃまなゆーくんはそんなことだろうと思って、それよりもっといいこと考えて来てあげたから。大人になるための、と〜ってもいいこと。聞きたい?」
しーちゃんは「聞きたい」と言われて当然だと、さっきまで潤んでいたはずの目を輝かせている。コロコロと表情が変わり続ける赤ちゃんのように。こんな感じでとんでもなくいいことを思いついたのだと得意げな顔をしている時にしーちゃんがする話は、ぼくの経験則から言うととてもじゃないけど碌なことではないというのが定説だ。できれば聞かない方がいいことは間違いない。とは言え、そんなことを言ってしまえばこの世界中の無邪気とかわいさを集約させたようなしーちゃんの笑顔をまた曇らせてしまうだろう。ほんの数分の間に二度もそんなことをしてしまったら、何かこの世界の理のようななものに咎められてしまうかもしれない。本当に。真剣に。真面目な話。だからぼくは「まあ……」とどちらとも取れないような返事をする他なかった。
しかし、そんな日和見を後悔するほど、彼女の提案はあまりにも素っ頓狂なものであった。時が止まったかのように思考が停止してしまう。これはもう本当に、かわいさ一本槍も大概にしてもらわなきゃだめだ。そう改めて思ってしまうくらい意味がわからない。それこそ何か時を止める呪文のようなものを唱えたのではないかと、そんな今まで話して来た前提を全て無視するような、わけのわからない言葉の羅列だ。しかし、その無邪気な口は確かにそう発していた。
「駆け落ち、しよう!」
*
「……ドリンクバーまぜまぜ実験って何?」
昼になって「とりあえずやりたいことまとめてみた!」と部屋に飛び込んで来たしーちゃんが広げた『計画書』を見て、自然にそう読み上げてしまった。
「ドリンクバーまぜまぜ実験だけど?」
しーちゃんは「他に何が?」とでも言うように目を丸くしている。辞書に載っている言葉以外でその顔をしないでもらいたい。切実に。
「一〇〇杯飲まなきゃいけないらしいよ。元取るには」
思考の追いつかないぼくを置いてけぼりにして話を続けようとして来る。そもそもこちらは朝にあの言葉を聞いた時から何一つ理解できていないと言うのに。
*
「駆け落ちって……駆け落ち……?」
立派な大人になるために駆け落ちをしよう。あまりに予想の範疇を逸脱する場所から投げかけられた言葉に、思わずオウム返しのように口を動かしていた。しーちゃんからその言葉が出て来たことも意味がわからないし、ぼくの口からその言葉が出ていることにも全く実感が湧かない。最早わけのわからないというその時のぼくの心情に、わけのわからないその言葉がピタリと当てはまっているようにすら思えるくらいわけがわからないから不思議だ。
「そうだよ、駆け落ち。愛し合う二人が結ばれるために、二人を邪魔する障害から逃げるの。それ以外ないでしょ?」
「愛し合う二人?」
辞書に書いてあることをそのまま読み上げたような文章に、また反射的に訊き返してしまう。
「そうだよ。好きでしょ? わたしのこと」
この世界のどこにでも書いてあるルールの確認とでも言うような顔で、しーちゃんが平然と言って退ける。何一つ疑う必要などないというその自信は、一体どこから湧いているのだろうか。しかし非常に不本意ながら、それを否定する手札をぼくが持ち合わせていないこともまた純然たる事実なのでどうしようもない。
「……まあ、それは否定しないけど」と言う他ないのだ。
そもそも、しーちゃんくらいしか同年代で話す人もいないのだから。だけど、そういう意味でもそういう問題でもないだろう。
「だったらいいよね。しようよ、駆け落ち」
「なんで?」
そうなる理由がわからない。あまりにも全てが唐突すぎて、なんで? どこへ? なにしに? どうやって? と溢れるほどの疑問符が脳味噌を覆い尽くしている。
「なんでって……。つまんないじゃん。毎日、毎日同じことばっかして、檻に閉じ込められてるみたい。せっかくの春休みなのに」
そう言ってしーちゃんは、両手で鉄格子を揺さぶるようなジェスチャーをした。よくある「助けてくれ〜」というやつ。妙な律儀さだ。
「だから駆け落ちするの。楽しそうでしょ?」
「立派な大人がどうこうって話は?」
駆け落ちなんて立派な大人から最もかけ離れた言葉だろう。インモラルの極みというやつだ。
「大人でしょ?」
「大人だとしても立派ではない」
「大人はみんな立派だよ?」
なんなんだその純粋無垢な発想は。こんな子が駆け落ちとか口にしちゃ駄目だろう。しかも真っ向から否定しづらい。ぼくだって大人とは何かなんて言い切れるほど、理解しているわけがないのだから。しかし、そんな思いを飲み込んででも、反論しておくべきだろう。
「立派じゃない大人もいるでしょ」
「誰?」
「犯罪者とか」
「駆け落ちは犯罪?」
「……違うと思うけど」
ぼくをじっと見つめるその眼差しが、「ほらね」と声高に主張して来る。絶対に向こうの言っていることがおかしいはずなのに、どうしてこうもピンポイントで返答に困るような言葉を投げかけられるのだろうか。
立派であれば大人、立派でなければ大人ではない。どうやらしーちゃんの中で形成されているこの方程式を崩さないと、「大人な響き」というだけで駆け落ちは立派な大人になるためのステップになってしまうらしい。あまりにも無茶苦茶だ。
「でも桃崎先生は駆け落ちとかしなさそう——」
とも言い切れないなと自分で思ってしまい言葉に詰まる。なんなんだあの人は。しーちゃんが立派な大人だと信じてやまないのだから、もう少しちゃんとしていてもらわないと困る。そう心の中で抗議しても、真珠のように磨き上げられた歯を光らせながら飄々と躱される姿しか思い浮かばなかった。
「ね? そういう経験が必要なんだよ。立派な大人には」
そんなはずない。絶対にそんなはずがないのに、何故かこんな無茶苦茶な理論でいつの間にかこちらが土俵際まで追い込まれている。どうしてこうなってしまうのか。不思議でしかたがない。しーちゃんと話しているといつもこうだ。
そうして自分の押しの弱さに愕然としながら、苦し紛れに声を絞り出すことしかできなくなった。
「そもそもなんで駆け落ちなんて……。ドラマか何かで観たの?」
本当にどこからそんな言葉が出て来たのか。ぼくとしーちゃんが共有する語彙の中に、そんなものは書かれていないはずだ。書く必要もない。
「ん〜、ほら、これ」
そう言うとしーちゃんはサイドテーブルに備え付けられた引き出しをガサゴソと漁り、一冊の本を取り出した。まず、どう見てもぼくのものではない、つまりはしーちゃんの私物であるその本がぼくの部屋の引き出しから出てくることがおかしいわけだけれども、まあそれはいい。しーちゃんが来る度に自分のものをこの部屋の至る所に置いて行き、最早ぼくが使うものよりもしーちゃんの持ち込んだものの方が多いと言っていい有様になっているのは今更のことだ。それにはとっくの昔に占領済みだと白旗を揚げている。そんなことより問題はその本。ぼくの知らない内に持ち込まれていたその本の表紙には、『運命完全網羅——魔女の占い大全——』と禍々しい文字のタイトルと鼻の長い魔女の絵が描かれていた。怪しいなんてもんじゃない。何故こんなものを今取り出したのかも不明だけれど、何よりぼくは一体いつからこんなおどろおどろしいものと同居していたのだ。
そうしてしーちゃんは何かを探すようにパラパラと本をめくり、「あった!」と本を開いてこちらに向けた。
「ほら、ね?」
しーちゃんが得意げな顔で見せて来たその見開きには、『卯年×乙女座×O型の運命』と大きな文字で書かれている。それがしーちゃんの干支と星座と血液型であることはもちろん知っているけれど、「だから何?」という疑問符は何一つ解消されていない。
そんなぼくを見かねてか「ここ!」としーちゃんが指を差した先には、『駆け落ちをしてでも愛する人と結ばれる情熱的な運命』と、そう一言記されていた。
それを見てようやく、自分がこの意味不明な状況に巻き込まれた理由をぼくは理解する。なんて傍迷惑な本なのだろうか。こんな怪しげなものが裏で手ぐすねを引いていたとは。
「まさか、信じてないよね……?」と恐る恐る訊ねる。
「なんで! 絶対当たってるよこれ!」としーちゃんは自信満々だ。
なんてことだろう。真っ白い綿のように興味を持ったものは何でも吸収するしーちゃんではあるけれど、まさかここまでだとは。これを真に受けるのは、流石に少し心配になってしまう。
「怪し過ぎるでしょ、そんな本……」
「でも絶対当たるんだって」
一体その信頼はどこから湧いているのだ。そもそも当たるとはどういうことなのか。その人のパーソナリティを言い当てるようなことが書いてあるわけでもないのに。そりゃこの世には逃れられない運命のようなものはあるだろうけれど、駆け落ちをするかどうかはその人の気持ち次第なはずだ。当たるも何もない。
しかし、「だってほら」としーちゃんの指が差した先に書かれているものを見て、ぼくは黙りこくることになってしまう。
『運命の相手:卯年×獅子座×O型』と書かれたその一文で。
「だから言ったじゃん。すごいんだよこの本」
しーちゃんは鼻息を荒くしながら、勝ち誇ったような顔をしている。
「わたしの運命の相手はゆーくんだって。絶対当たってるでしょ? ね?」
それはズルい。運命なんて言葉はもちろん好きではないけれど、「あなたが運命の相手と書いてあるんだから本当だよね」なんて言われてしまったら悪い気はしない。「じゃあまあそれでいいか」と思ってしまって当然だ。しかし、ここで絆されてしーちゃんを怪しげな占いの道に進ませるわけにはいかないだろうという義務感から、ぼくはしかたなく異を唱える。
「……たまたまでしょ」
「え〜、違うよ。だって三つも揃うなんて、すごい確率だよ。きっと」
それぞれ一二種類の星座と干支に、四種類の血液型。掛け合わせること五七六通り。五七六分の一でぼくとしーちゃんが結ばれしまったということになる。
「もっとすごい確率のものだってあるよ。ぼくたちに関係してるものの中にも」
「例えば?」
それは上手く言えないけども。でも、あるだろう。間違いなく。冷静になって考えると五七六分の一なんてそこまで大きな数字でもない。いや、この場合小さな数字じゃないと言うべきだろうか。何にせよ、別にそこまでありがたがるものでもないだろう。ぼくとしーちゃんがこうして一緒にいることも、もしかしたらもっともっと天文学的な確率の元に成り立っている可能性だってあるのだから。それを奇跡なんて呼ぶつもりはないけれど。
しかし、結局具体例を提示できなかったぼくに、「駆け落ちの正当性が証明された」としーちゃんは満足げな顔を向けて来る。本当にどうしたものだろうか。やはりこうやっていつの間にか、しーちゃんの言ったことが正しいという風になっているのだ。本当に酷い話。
しかしまあ、それならそれでいい。こんな怪しげな占い本も、駆け落ちなんて突拍子のないことも、もうこの際全て受け入れよう。全くもって釈然としないけれど、これはもうしかたがない。そうやって受け入れたところで、結局のところ現実的な一つの問題に直面すると、ぼくが言えるのはそれだけだ。
「だとしても、無理でしょ。駆け落ちなんて」
そう、無理だ。万が一駆け落ちという行動に正当性が与えられたとしても、結局「できる」か「できない」かの話になったら「できない」としか言いようがない。無理なものは無理。考えてみれば、最初からそれで終わる話だった。
「すぐにどうしようもなくなって、……それこそ野垂れ死んじゃうんだからさ」
中学生二人で放り出されたとして——自分から出ていくのが駆け落ちだけれども——、どうやったって生きていけるわけがない。確かに毎日同じような繰り返しの生活に縛られているかもしれないけれど、そうやって色々なものの庇護下にあるからこそ生きていられるのだから。その『縛り』に守られてぼくたちは今日も息をしているのだ。
「できるよ。運命の人とするんだもん」
「無理だよ」
「できる」
「無理だって」
「できるもん」
頬を膨らませたしーちゃんと押し問答のような格好になってしまう。しーちゃんは一歩も引かないという様子だ。「できる」、「できない」。堂々巡りのようにぶつけ合った言葉は、絡み合ってどんどん強固にほどけなくなっていく。それでは答えなんて出るわけもない。
そうして結局先に痺れを切らしたのは、小さな風船でも入れてるのではないかと思うくらいにまで頬が膨れ上がったしーちゃんだった。
「とにかく、お昼に持ってくるからけーかくしょ! 待ってて!」
そう言い残して嵐のように自分の部屋に帰って行くしーちゃんを見て、あまりの奔放さに肩を落としながらぼくの騒々しい朝は一応落着を見せた。しーちゃんはいつも通り、ただ朝早くぼくを起こすためだけに一旦やって来たという事実と共に。
*
そうしてぼくの部屋に持ち込まれた『計画書』の一行目が「ドリンクバーまぜまぜ実験」だ。あれだけ戸惑った末、少し真剣に思案を巡らせた今朝を返してもらいたい。「駆け落ち」の次に来る言葉が、「ドリンクバーまぜまぜ実験」なんてことが許されていいのだろうか。しかもその前提には「立派な大人」があるわけだ。そんなことあっていいわけがない。どう考えても。
「……元を取るとか、考えてないでしょ。みんな」
「でも、どうせなら取りたいでしょ?」
なんでこんな庶民的な話をしているのだろう。今現在この場所では「駆け落ち」の話が行われているはずなのに……。
「元を取りたい気持ちより、一〇〇杯飲むのは嫌だし無理って方が勝つよ」
「だから、まぜまぜ実験するの。わかってるじゃん」
そんな「よく気づいたね」みたいな顔をされても、ぼくは全く理解できていないので困ってしまう。
「メロンソーダとコーラ混ぜたらどんな味になるかな〜」
もう目の前にその実験キットが用意されているのではないかと勘違いしてしまうくらい、しーちゃんは自分の世界に入り込んでいた。
「何色かな?」
「黒でしょ」
黒に何を混ぜても最後には全部黒になるだろう。知らないけど。
「量で元を取れないから、楽しいことして元を取ろうってこと?」
なんとか意図を汲み取ろうと必死に推察した結果辿り着いた答えだ。これが正解だとしたら、しーちゃん検定二級くらいはもらっていいだろう。
「そうだよ?」
「さっき言ったじゃん」みたいな顔をされても、全くもって言われてないので最早困ってしまうなんて次元ですらない。まず、ドリンクバーはそんなアトラクションのような気持ちで臨むものではないはずだ。食事をより良く摂るための添え物であって、それ自体を目的にするものでもない。最新型のおもちゃで遊ぶときくらいの熱意をドリンクバーに注いでいるしーちゃんならば、それこそ小一時間は平気で待つのが当たり前らしいテーマパークの行列のように、何の抵抗もなく並んでしまえそうだけれども。どちらもぼくには何一つ理解できない。
「メロンソーダにどんどんコーラを混ぜて行ったら、どこからメロンソーダじゃなくなるのかな」
しーちゃんはドリンクバーにおける全てを話し尽くすつもりなのかと言うくらい次々と風呂敷を広げていく。最早理解が追いつかず不思議そうな顔をしていると、「おこちゃまに優しく教えてあげよう」とでも言うように続けて口を開いた。「ドリンクバーまぜまぜ実験」の主催者がお姉さんぶるなんてあり得ていいわけがないのに。
「メロンソーダをコップに半分入れるでしょ? そこにどんどんコーラを注いで行って、どれくらいになったらメロンソーダじゃなくなるのか調べるの。どう?」
どうもこうもない。なんだか哲学的な問い……なのだろうか。もう少しで思考実験じみたものになるかもしれない。その実態は「ドリンクバーませまぜ実験」だけれども。
「……色が緑とは言い切れないくらい変わったら、とか?」と一応真面目に考えてみる。
「じゃあコーラはずっと黒だからずっとコーラ?」
「それは……違うね」
なんでこう妙に痛いところをついて来るのかと思わず感心してしまう。使い所は明らかに間違っているけれど。
「泥水に一滴のワインを垂らしても泥水のままだけれど、ワインに一滴の泥水を垂らしたらそれは泥水になる」なんて話を先生から聞かされたことがある、ただ今回はどちらも飲み物なのだからまた少し違う話なのだろうか。しかし泥水とまではいかないものの、メロンソーダには決められた原料があってそう呼ばれているのだから、そこにコーラという余計なものが一滴でも混ざったらそれはもうメロンソーダとは呼べないのかもしれない。泥水のような「泥と様々な物質が混ざった状態」の総称であるものでない限り、少しでも異物が混ざったならそれはもう全く別のものであると。
これならそれなりの納得感があるだろう。今朝運命だどうだと言われた時には出せなかったが、やっぱり実例があると説得力が増す気がする。そう僅かな自信を持って依然ドリンクバーに想いを馳せているしーちゃんにぶつけたが、「じゃあ、じゃあ最初にコーラを飲んだあと同じコップにメロンソーダを入れて飲もうとしてもそれはもう別のもの?」とまたしても無邪気な難問を投げかけられてしまった。
もうお手上げだ。結局ここで理屈をこねくり回していても、しーちゃんの疑問は一向に止まりはしないだろう。そうして押し黙っていると、必然的に一つの結果に辿り着いてしまう。
「ほら。ちゃんと飲んで調べないと。だめでしょ?」
またいつの間にかしーちゃんの方が正しいということになってしまった。「ドリンクバーまぜまぜ実験」の開催が正義の側にいるなんて理不尽にも程がある。それでも何故かこうなってしまうのだ。何か化かされているような気分としか言いようがない。
その上、困惑しきりのぼくにしーちゃんが思わぬ追撃をして来る。
「メロンソーダはゆーくんの色なんだからさ」
「……ぼくの? なんで?」
よくわからない方向からの強襲に、なんだか間抜けな声が出ていた。
「帽子の色。緑じゃん。いつも」
それは母さんが昔買って来た帽子がたまたま緑色だっただけで、ぼくに拘りがあるというわけではない。母さんには何か拘りがあったのかもしれないけれど。ぼくの好きな色は、強いて言えば黒だ。しかし、しーちゃんはそんなことなどお構いなしで、ぼく=メロンソーダのイメージを崩す気はないらしい。なんと言うか、いつもながら独特な視点だ。
「だから、ちゃんと調査しなきゃだめだよ。ね?」
本当に、このまましーちゃんのペースに呑まれていてはまずい。その一心でぼくは話の軌道修正を試みる。ささやかな抵抗だ。
「立派な大人になるために?」
「そう」
「駆け落ちの一環として?」
「もちろん」
やはりぼくには到底結びつけられないこの三つが、しーちゃんの中では当然のごとくイコールで結ばれているらしい。ぼくが立派な大人の条件を決めていい立場になったとしたら、まず途中式の省略禁止を第一条件にすると今ここで誓っておこう。
「立派な大人はドリンクバーで遊ばないと思うけど」
流石の桃崎先生もドリンクバーでは遊ばないだろう。……多分。
「ドリンクバーを楽しみ切ったから大人になれたんだよ」
もう何でもありじゃないか。子供の卒業式にはドリンクバーが備え付けられているらしい。
「でも駆け落ちとドリンクバーは絶対関係ないよ。流石に」
「好きな人とやりたいことをやるってことでしょ? 駆け落ちって」
しーちゃんが何の気無しに放ったその一言で、ようやくぼくの中でも決して結ばれるはずのなかった三つが繋がった。あまりにも薄く脆い糸のようにではあるが。
「……そうなのかな」
「そうだよ。おこちゃまなゆーくんには難しかった?」
そんなわけがない。そんなわけがないのに本当に理不尽なしたり顔を向けられてしまったけれど、本来の駆け落ちなんてものに誘い込まれていると思っていた先刻よりは遥かにマシなのでしかたなく口を噤む。人間は不条理を乗り越えて立派な大人になっていくのかもしれない。立派な大人への道第二条件だ。
「で、一番やりたかったのが、ドリンクバーまぜまぜ実験なわけ?」
「んー、一番じゃないけど。気になるでしょ? ドリンクバー。ゆーくんもさ」
また思わぬところから矢が飛んで来た。思えば今朝から数々の難問を痛いほどぶつけられて来たけれど、これが本日の最難関問題と言っていいかもしれない。それくらい難しい問いだ。本当にどうしたものかとこの一瞬、熟慮に熟慮を重ねてしかたなく白状するように小さな声で喉を押し開く。
「……ちょっとだけね」
本当にちょっとだけ、だ。一応首を縦に振っただけで、しーちゃんと同じ熱量だと思われるのは心外ということだけちゃんと付け加えておく。至って控えめに、本当に、本当にちょっとだけなのだから。だからその「素直じゃないなぁ」みたいな目をするのは即刻やめるべきだと、そう心から主張したい。
本当に面白くて、面白くてしかたがないというようにこちらを見るしーちゃんと視線が重なって、ぼくは抗議するように口を真一文字に結んだ。この世界の全てが静止したかのように、音一つない静かな時間が流れる——訂正、しーちゃんの長い髪だけは、その時を待ちわびるようにたなびいている。静止した世界に溶け落ちるように、ゆらゆらと——。そうして視線の交換を終えると行き場を失ったように目を伏せて数秒、結んだ唇が決壊するように綻んで二人、ただ笑い声だけを響かせた。心の奥底で見ている同じ景色を共有するように共鳴して。それが「ドリンクバーまぜまぜ実験」だなんて、なんだか格好がつかないけれど。
「あるよ。まだまだ。他にも」
そうやって一頻り笑い尽くした所で一息吐くと、しーちゃんは「楽しいことはまだまだここからだよ」と『駆け落ち計画書』の続きを話し始めた。この世界の全てを楽しみ尽くしてやるんだとでも言うように、前のめりになって。
*
「全部やるの? 一日で」
カーテンの隙間から差し込む光がすっかり茜色に染まった頃、ふとそう訊ねた。
あれからしーちゃんは夢中になって「やりたいこと」を話し続けた。カラオケで思いっ切り歌ったり、回転寿司で大盛りのイクラを食べたり、ゲームセンターのメダルゲームとか、大きいショッピングモールを探検して、それでプリクラを撮って、あったかいたこ焼き食べて——。あとお祭りは絶対に外せないと。その小さな身体から次々と繰り出される「やりたいこと」は、やっぱりどれもこれもささやかなもので、それでもとても幸せで楽しくて夢みたいなことばかりだった。全く、とんだ駆け落ちだ。
「何日かかったっていいよ。駆け落ちなんだもん」
「そっか」
「やろうよ。一緒に。全部」
「うん。いつか、できたらいいね」
「いつかじゃないよ。今、やらないと!」
それはわからないけれど、やりたいことを全部叶えて嬉しそうに笑っているしーちゃんの側にいたい。一緒に。ぼくだってそう思っている。
「でも、お祭りは夏にならないとやってないんじゃない?」
しーちゃんは「あっ」と顔にも声にも出した。
「だから、一つずつやって行こうよ」
「……ドリンクバーまぜまぜ実験から?」
非常に不本意——とも言い切れないけれど——ながらそういうことになる。
「そうだね。ドリンクバーまぜまぜ実験から」
「絶対?」
「うん」
「じゃあ指切り」
そう言っててしーちゃんが差し出した小指にぼくもそっと自分の指を絡める。僅かな体温と共に繋がったその小さな指を通して、ドクドクと心臓の音が伝わって来るような気がした。重なりあったその鼓動に約束を誓う。必ず。二人で。
——ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのます。
指切った。その瞬間、しーちゃんはぼくの身体ごと連れ去るように指を引き、腰掛けていたベッド倒れ込んだ。ぼくはしーちゃんにぶつかってしまうすんでのところでベッドに手をつく。ぼくが上で、しーちゃんが下。朝とは逆の状態だ。ベッドには乱れた髪の毛が地図のように広がっていて、柔らかい匂いが鼻をくすぐる。指はほどけたはずなのに、更にはっきりとした心臓の音が耳を鳴らした。ぼくの左にある心臓と、しーちゃんの左にある心臓が向き合うことでピタリと二対のものであるかのように嵌め込まれて、二人で一つの音を共有しているみたいだ。それに呼応するように、漏れた吐息が混ざり合って、触れ合う脚には微かな温もり。身体中からしーちゃんの存在が伝わって来た。
「絶対。絶対だよ」
覗き込むような格好になったぼくの目をしっかりと見つめて、しーちゃんは繰り返す。
ぼくは突然の事態に困惑しながらも、「わかってる。絶対」と言い聞かせるように唱えた。
しーちゃんは唇を少し緩めて笑い声を漏らすと静かに目を閉じ、また静寂が場を支配するように時が止まる。
「よしっ!」
永遠のように感じられる数秒が過ぎ、静止した世界を切り裂くような声がぼくの耳を貫いた。その一瞬で全ての活動が再開する。女王の一声で号令をかけられた働き蜂のように。そうしてしーちゃんは器用に身体をくねらせてベッドから足を降ろし、あっという間に立ち上がってしまう。
「約束、だからね」
気持ち良さそうに軽く伸びをする姿をぼんやり見つめていると、しーちゃんはこちらを向いてそう念を押した。そうして部屋の扉に向かって歩いて行く。その足取りは心なしかゆっくりに感じられた。何かもったいぶっているかのように。それでもこんな狭い部屋ではその時が訪れるまでの時間なんて一瞬で、すぐ扉の前に辿り着く。取っ手に手をかけて横に引いたその瞬間、しーちゃんは髪をたなびかせながら半身で振り替えると、ふんわりと唇を持ち上げて綺麗な笑顔を作った。ぼくは驚きの連続で機能を失っていた喉を振り絞って、「また明日」と声をかけたが、既に扉の向こうに歩き出していた背中にその声が届いたのかわからない。
一体なんだったのだろうか。いたずらな幼馴染の思惑を考えることすら難しい。最後の最後で今日一番だと思っていた難問を優に更新する、最難関の謎を突きつけられてしまった。明日答え合わせをする他ないが、こんなことの後ではなんだか緊張してしまうかもしれない。
そうして少し火照ったような空気と身体だけが取り残されたまま、ぼくのいつも通りのようでどこかいつもとは違う一日が終わった。
*
窓を叩きつけるように降り頻る雨。それと何人かが慌ただしく床を蹴り付けて駆け回る音。混ざり合わない二つの不協和音で揺さぶられるように目が覚める。重いまぶたをやっとの思いで開いたが、当然カーテンの向こう側に陽の光は用意されていなかった。凝り固まった身体をほぐす様にくねらせて起きあがろうとすると、身体の上にあの重みの存在がないことに気がつく。
どうやら今日はしーちゃんの冒険が開催されなかったらしい。雨天中止と言ったところだろうか。天気なんて別に関係はないのだけれど。
それとも昨日のことで気まずいなんて気持ちがしーちゃんにも少しはあるのかもしれない。てっきりまた平然とした態度でやって来ると思っていたのに。もちろんぼくの方が遥かに困惑しているし、気まずいなんてものじゃないわけだけれども、このままの状態で放置されるのは落ち着かない。ずっとソワソワとしてしまう。それに——しーちゃんの言うところの——せっかくの春休みに、悶々としたまま何も手がつかず一日を過ごさなきゃいけないのはもったいないだろう。だからもしこの後お昼になってもしーちゃんがやって来なかったとしたら、たまにはぼくの方から向こうへ行くのもいいのかもしれない。
そうして答え合わせをしようと、そう決意した瞬間だった。その扉が開いたのは。
「……どうしたんですか?」
何やら神妙な面持ちをして部屋に入って来たその人にぼくは訊ねる。彼がこの部屋に来るのは何とも珍しい。それもこんな時間に。
「……落ち着いて聞いて欲しい」
その一言で一気に空気が張り詰めるような、重苦しい緊張感が生まれる。規則正しく音を刻む時計の針が、いやに大きく聞こえた。沈黙の数秒間に、たくさんの可能性が頭を過ぎる。もし「そう」なのだとしたら、それだけは駄目だ。それだけは絶対にと、そう願ったその名前で沈黙は切り裂かれた。
「しーちゃんのことなんだけど……」
嘘だ。その名前だけは今聞きたくない。あり得ないと、脳味噌がその声を拒もうとしても、当然言うことを聞きはしなかった。
「……さっき、容態が急変してね。意識を失って、今は集中治療室にいるんだ……」
桃崎先生が発したその言葉の羅列を、ぼくは何一つ理解できなかった。理解したくなかった。
*
病室に入ると、しーちゃんはなんだか大きな機械に繋がれていた。一定のリズムを刻む無機質な電子音が耳を突き刺す。力無く横たわるしーちゃんの胸の辺りが、その音に合わせて動いていた。いや、動かされていた。自分の力では息ができないと主張するように。機械の音に合わせて上下するしーちゃんの身体。確かにしーちゃんの身体であるはずなのに、しーちゃんの力で、意思で動いていない。動けない。
なんなんだこれは。そんなわけがない。昨日まで一緒に話していて、何もかもいつも通りだったはずだ。それがどうして……。
「声をかけてあげて欲しい」
呆然と立ち尽くすぼくに、桃崎先生がそう促す。
なんだよそれ。そんなのまるで……。強く握りしめた掌に自分の爪が食い込む。滲んで広がっていくような痛み。紛れもない現実がそこにはあった。
声を出そうとしても、上手く口が動かない。固まり切った喉の奥から声を運ぼうとしても、舌先で消えてしまうようなそんな感覚。ぼくは一体何をしているのだろうか。
そうして途切れるようにかろうじて絞り出した声にも、返答は訪れることはなかった。無機質な電子音だけが、病室に響く。しーちゃんがまだそこにいると証明してくれるのは、その音ただ一つだ。
「本当は家族しか入っちゃいけないんだけど……」と、ここに入る時に看護師長の杏西さんは言っていた。
——未だ連絡が取れていないという——しーちゃんの家族しか入れないこの場所に、ぼくが呼ばれる。それがどういう状況なのか、しーちゃんがどういう状態にあるのか。嫌な考えばかりがいくつも浮かんで来る。何も考えたくないのに、どうしてこのどうしようもない頭は、こんな時ばかり張り切って稼働してしまうのだろう。何でこんな……。
あれほど艶々しく輝いていたしーちゃんの黒い髪が、ひび割れた大地のようになんだか干からびて見える。そんなわけがない。そんなわけがないのに、そう気づいてしまった瞬間、ぼくの何かで何かが壊れた。ぼくの知っているしーちゃんがどこかに行ってしまったような、そんな恐怖だけが渦巻いて止まらない。目の前の事実も、この先のことも、何もかもが怖い。纏わりつくように脳味噌に、いや身体中にこびりついた恐怖が呼吸を不規則に乱れさせた。機械に繋がれたしーちゃんとは正反対に。
そうして気づいた時にはもう、ぼくは病室から逃げ出していた。
*
三月には似合わないひんやりとした空気が顔を覆う。地面には点々と小さな水溜りができていた。頭を冷やすなんていうのはこういうことを指すのかもしれないが、この熱は一向に引く気配を見せない。消えるわけがない。
こんな雨上がりの早朝では、当然屋上になんて誰一人おらず、まるでぼくだけが世界から切り離されたみたいだった。異様なまでに高いフェンスと、世界を覆い尽くすような黒い雲がそれを助長している。息苦しい。ずっと、ずっと、息苦しかった。こんな小さな世界に閉じ込められていることが。
ぼくは脳にかなり厄介な病気を抱えていて、小さい頃からほとんどの時間をこの病院で過ごして来た。何度も何度も入退院を繰り返して、人生における大半の記憶はこの白い棺桶の中にある。
そうやってぼくが何度目かの入院をした少し後に、ここへやって来たのがしーちゃんだ。彼女もまた問題のある心臓も持って生まれており、やはりぼくと同じようにもう何年もここで一緒に入院生活を送っている。そんな風に同じ境遇と未来を共有していたぼくたちは、同い年ということもあってか自然と一緒にいるのが当たり前のような関係になっていた。結局それから何年も入院し続けているのもぼくたちだけだったし、そうなるのは必然だったのかもしれない。
ぼくとしーちゃんは、この限られた病院の中で色々なことをした。しーちゃんが自分の病室を抜け出してぼくの部屋にやってくるあの冒険や、こうして子供の患者には解放されていない屋上にこっそり忍び込んだり。そうしたうちのいくつかは、桃崎先生に叱られたりなんてこともあった。
桃崎先生はしーちゃんの担当医だけれど、子供たちが集まるプレイルーム——ほとんどぼくとしーちゃんしかいなかったけれど——なんかによく顔を出して、たくさんのことを教えてくれた。面白くて、優しくて、でも叱る時は叱ってくれる。普段はふざけているけれど、本当はとても誠実な人。だからそんな桃崎先生は、なかなか学校に行けないぼくたちにとって本当に教師のような存在だった。
そうやって身体に病という爆弾を抱えながらも、ぼくたちの日常は回っていたのだ。
学校に行けない時間を埋めるように、しーちゃんとたくさんのことを話して、先生にたくさんのことを教えてもらって、そんな風にぼくたちは特殊な形ではありながらも、日常を送れているはずだった。
昨日までは。
初めからわかり切っていた話だ。重い病に蝕まれたぼくたちの生活が、そう長く続くわけなどないと。ぼくたちは大人になんてなれるわけがない。吹けば消えてしまう蝋燭のような時間しか残されていないと。そうわかっていたはずなのに、しーちゃんとは過ごすうちにいつしか、この生活が当たり前のものだと勘違いしてしまっていたのだろうか。たくさんの不自由に縛られながらも、大切な人が隣にいるほんの小さな幸せくらいは守ってもらえるなんて。そんなはずないのに。
しーちゃんが倒れて、ぼくだってもうそのうち死んでしまうだろう。それは明日かもしれない。そうなったって何もおかしくないのだ。それなのに昨日のぼくは、また明日もしーちゃんと一緒に居られるなんて勘違いしていた。自分に将来なんてものがあるわけないと受け入れていたはずなのに、心のどこかで目の前の明日くらいは信じてもいいとそう思ってしまっていたのだ。愚かとしか言いようがない。
ぼくたちは数年前駅の近くに出来たらしいショッピンモールに行ったことがない。カラオケで思い切り歌ったことももちろん、ゲームセンターなんてもっての外。撮るのはプリクラじゃなくてMRI。夏にみんなが屋台の料理を食べながら観る花火も、病室の小さな窓越しに眺めるだけだ。ぼくたちはドリンクバーすら知らないのだから。それこそテーマパークのアトラクションだと思ってしまうくらいには。
白い棺桶に閉じ込められて、同じような年の子たちが経験するようなことなんて何一つ知らないまま。それでも、それでもささやかな、本当に本当にささやかな幸せを大切に握りしめてどうにか生きていたのに、どうしてそれすらも奪われなきゃいけないのだろう。
しーちゃんは何故昨日「駆け落ち」なんて言い出したのか。どんな気持ちで。今日こうなることがわかっていたなんて当然そんなわけないだろうけれど、それでもそう思わずにはいられない。どうしてぼくは「いつか」なんて言ってしまったのだ。そんなものあるはずがなかったのに。もちろん、駆け落ちなんてできるはずがなかった。ショッピングモールもカラオケも、ゲームセンターも、お祭りも、ドリンクバーのあるファミレスにすらそう簡単には行けやしない。ましてや昨日いきなりそれを叶えるなんてあり得るはずもなかった。あり得るはずもなかったけれど、それでもぼくはしーちゃんの差し出した手を取るべきだったのだ。何もできないとわかっていても、しーちゃんの手を取って走り出さなきゃいけなかった。全力で走ったらバラバラになってしまうようなこの身体で、精一杯踠くべきだった。「いつか」なんて絶対に口にしちゃいけなかったのだ。
ぼくたちの最期に、サヨナラなんてあるわけないから。
黒く蝕まれたこの命はいともたやすく、唐突に無くなる。心の準備なんて待ってくれない。「また明日」と言って別れても、それが最後の会話になってしまう。朝起きた時に、もう二度と会えなくなっていても何もおかしくない。人生最期の日に「サヨナラ」なんて言って、綺麗に終われるわけがなかった。いまこの瞬間生きているということ以外に、信じられるものなんてどこにもあるはずが……。だからぼくたちは、常に「もしこれが最後なら」と考えて生きなきゃいけなかったのだ。そうわかっていたらあの時ぼくは——。
どうしてぼくたちなのだろう。どうしてぼくたちだけこんな……。疾うの昔に諦めたはずの感情が、渦を巻いてぼくを呑み込んで行く。
そんなに大層なことを望んだだろうか? ファミレスのドリンクバーすら夢みたいに思っていたぼくらから、どうしてこれ以上奪えると言うのだ。
もうじきぼくだってきっと死ぬ。そうしたらそこでぼくたちの物語はお終いだ。至って短い、たった一四年の短い物語。ドリンクバーすら知らずに終わる、そんな話。誰も望まないバッドエンド。
もしぼくがあの時しーちゃんの手を取っていたら何か、それこそ物語のような奇跡が起きていただろうか。そんなわけないけれど、それでも今よりはマシな何かがそこにはあったのかもしれない。
なんだか頭が痛い。もう何も考えられない。ふわふわと宙に浮くような感覚がして、気づけば上も下も混ざり合うようにあやふやだった。残っているのはひんやりとした地面が頬に触れる感触。ああ、これで終わりなのか? こんなところで終わるのか?
こんな黒い雲に押し潰されて。そんな風に終わってしまうんだとしたら。
どうか最後に一つだけ、メロンソーダくらいは一緒に——。
そうして最後に捉えた黒は、どうしようもないくらい冷たくぼくらの行く末を暗示するかのように深く閉ざされていた。

