三十分後。
夜の帳がすっかり降り、世界は静かに深い闇に包まれていた。祭りの賑わいは続いているはずなのに、どこか空気が変わった気がする。誰もが、これから始まる夜の芸術に息を潜めているようだった。
その時。
遠くで、低く唸るような音が響いた。
──ゴォォォ……。
それは、地の奥底から湧き上がるような重みを帯びた音だった。祭りの喧騒も、屋台の呼び込みも、一瞬にしてかき消される。
そして次の瞬間。
──ドンッ!!
夜空が震える。
胸にまで響くような打ち上げの衝撃が広がり、その直後、漆黒の空へ向かって火球が一直線に弾け飛んだ。
一瞬の静寂。
風が止まり、鼓動すらも聞こえなくなるような刹那の間。
そして──。
目の前の空が、燃えるように輝いた。
金色の光が闇を裂くように広がり、花開く。まるで夏の夜に咲く一輪の大輪の花。光の花びらが四方八方に散り、残像が夜の空気に溶けていく。煌めく破片が、宝石のように儚くきらめきながら、ゆっくりと夜の深みへと吸い込まれていった。
「わあ、綺麗!」
隣から、彼女の弾んだ声が聞こえた。
視線をそっと横に向ける。
花火の光に照らされた彼女の顔は、まるでその輝きの一部になったかのようだった。目を大きく見開き、唇はわずかに開いている。瞳に映るのは、色とりどりの光の軌跡。その表情は、まるで幼い少女のような純粋さに満ちていて、心の奥が強く揺さぶられた。
──こんな顔、普段は見せないのにな。
いつもは少し勝気で、意地っ張りで、それでいてどこか大人びている彼女。だけど今、彼女の頬には微かに火照ったような紅が差し、目を輝かせている。その横顔が、花火の光と影に交互に照らされるたび、胸の奥がじわりと熱を持った。
「……すごいね」
自分でも驚くほど小さな声がこぼれる。
でも、彼女にはちゃんと届いたみたいだった。
「うん!」
嬉しそうに頷く彼女の声は、弾むように軽やかだった。
──ドンッ!!
再び響く轟音。
夜空には、紅と蒼、紫と橙が混じり合いながら、まるで宇宙の果てまで届きそうなほどに大きな花が咲く。
そのたびに、僕の心臓の鼓動も一緒に高鳴る。
どんどん速くなっていく。
きっと、花火のせいじゃない。
たぶん、彼女の横顔があまりにも綺麗だからだ。
──触れたい。
気がつけば、ブルーシートの上に置かれた彼女の手へと、そっと手を伸ばしていた。
指先が、彼女の手の甲にかすかに触れる。
少しひんやりとしていて、それでいてどこか温かい。
彼女の指先が、かすかに震えた気がした。
だけど、拒まれはしなかった。
花火の光がまた一瞬、空を彩る。
その瞬間、彼女がそっとこちらを見た。
その瞳に映っているのは、僕の姿だろうか。それとも、夜空に咲いた光の軌跡だろうか。
僕はあえて視線を外さなかった。
まるで、この一瞬が永遠になればいいと願うように。
──今、目が合ったら。
そんな予感がして、まっすぐに夜空を見上げ続ける。
胸の奥が妙にざわついていた。
夜風に乗って、彼女の髪がふわりと揺れるのが視界の端に映る。そのわずかな動きすらも、僕の意識を彼女へと引き寄せてしまう。
彼女はどう思ったのだろう。
僕と同じように、胸の奥で何かを感じているのだろうか。
確かめる勇気はなかった。
だからこそ、視線を交わさないままでいることを選ぶ。
それでも、すぐに彼女がそっと夜空へと視線を戻したのが分かった。
まるで、互いの気持ちを探るように。
そして、次の瞬間だった。
そっと、彼女の手が動いた。
ほんのわずかに、ゆっくりと。
指先がかすかに揺れて、僕の手の上を滑るように動く。
──え……?
触れるか触れないかの絶妙な距離感のまま、その指は慎重に、けれど確実に僕の手を探るように動いていた。
やがて、彼女の指が僕の指と絡む。
その動きは、どこかためらいがちだった。
でも、決して拒絶ではなく、まるでそっと確かめるような仕草だった。
手のひらと手のひらがゆっくりと重なり、指先が絡み合う。
強くもなく、かといって弱くもなく、ちょうどいい温度で。
それは、彼女なりの答えのような気がした。
──握り返してくれた。
僕の手を、導くように。
視線を交わさずとも、確かに伝わるものがあった。
胸の奥が熱くなる。
花火の音が響く。
──ドンッ!!
耳をつんざくような轟音が夜空を揺らし、無数の光が広がる。
黄金色、深紅、瑠璃色、翡翠色。
色とりどりの光が、暗闇に咲き誇る。
大輪の花が夜空を彩り、儚く散る。
そのたびに、まるでこの瞬間だけが世界のすべてになったような錯覚に陥る。
まわりからは歓声が飛び交っていた。
「すごい!」「綺麗!」「わぁ……!」
そんな声が、あちこちから弾むように聞こえてくる。
だけど、不思議と僕の耳には、それらが遠く感じられた。
まるで、僕たちだけが時間の流れから切り取られたみたいに。
今、僕に聞こえているのは、彼女のかすかな息遣いだけだった。
すぐ隣で、静かに、微かに、震えるように。
風が吹いた。
夜風が、ゆるやかに僕らの間を撫でる。
その風に乗って、ふと、彼女の声が響いた。
「ねえ、陽……」
その声は、かすかに震えていた。
「ん? 何?」
彼女は夜空を見上げたまま、微笑んでいるように見えた。
でも──。
その横顔は、どこか寂しげにも見えた。
花火の光が、彼女の頬を照らすたびに、その表情の奥に隠された何かが浮かび上がる気がした。
彼女は今、何を考えているのだろう。
知りたい。
でも、知るのが怖いような気もした。
次の言葉を待つ間、鼓動が少しだけ速くなる。
「ありがとうね。本当に……」
突然の言葉に、僕は戸惑った。
どうしたんだろう。
さっきまで笑っていたのに。
ほんの数秒前まで、彼女は楽しそうに花火を見上げていたはずだ。
僕の隣で、小さな声で「すごいね」と言いながら、嬉しそうに光の花が開く瞬間を追いかけていたはずだ。
なのに。
「急にどうした……?」
彼女の様子が気になって、そっと顔を覗き込む。
そして──息を呑んだ。
彼女の瞳から、透き通るような涙が、ゆっくりと頬を伝い落ちていた。
大粒の涙が、ぽろり、ぽろりとこぼれる。
花火の光を映したその涙は、まるで宝石みたいにきらめいていた。
けれど、僕の胸が痛くなるのは、どうしてだろう。
見てはいけないものを見てしまった気がして、言葉を失う。
彼女は泣いていた。
静かに、けれど確かに。
頬を伝った涙は顎先で揺れ、やがてぽつりと地面に落ちた。
その瞬間、心臓がきゅっと締めつけられる。
「こんな綺麗なもの……生まれて初めて見た……」
夜風に溶けるように、彼女の声が震えながらこぼれる。
花火の美しさに圧倒されているだけなのか。
それとも──。
何か別の想いが、その涙に混じっているのか。
僕には分からなかった。
けれど、彼女が泣いている。
その事実だけが、胸の奥に突き刺さった。
どうすればいいんだろう。
何を言えば、彼女の涙を止められるんだろう。
分からなくて。
分かりたくて。
言葉を探して、けれど見つからなくて、ただ握っていた彼女の手を、少しだけ強く握り直した。
彼女の指が、かすかに震える。
それでも、逃げようとはしなかった。
そっと包み込むように、僕の手の中に収まっている。
──ありがとうは、こっちのセリフだよ。
気づけば、そんな言葉が自然と口をついて出ていた。
彼女が、驚いたようにこちらを見上げる。
涙の跡が残る瞳が、ゆっくりと僕を捉えた。
「……えっ?」
不思議そうな表情のまま、瞬きをする。
花火の光が、彼女の瞳の奥できらめく。
僕は、そのまま静かに言葉を続けた。
「きっと、葵がいなければ……もう一度、ここに来ようとは思わなかった」
ぽつりと呟いた自分の声は、夜風に乗ってどこかへと溶けていった。
言葉にした途端、それが思った以上に本心だったことに気づく。
あの時の自分なら、きっとここへ戻ることはなかった。
楽しかった思い出も、苦しかった記憶も、すべてが胸の奥で色褪せて、ただ過去の断片として封じ込められていたはずだ。
けれど、今は違う。
彼女がいる。
目の前で、風に揺れる髪をかき上げながら、じっと僕の言葉を待っている彼女の存在が、僕の心をそっと引き寄せる。
遠くでまた、一筋の光が空へと昇っていく。
夜の闇に吸い込まれるように、小さな点が一瞬の静寂を生んだ。
次の瞬間──ドンッ、と腹に響くほどの衝撃音が響き渡り、夜空に大輪の花が咲いた。
眩い光が広がり、葵の横顔を優しく照らし出す。
「ずっと忘れていたものを、取り戻した気がする」
言葉足らずな自分なりに、精一杯の想いを紡いだ。
ちゃんと伝わっているかどうかは分からない。
けれど、これは紛れもなく、本心だった。
葵は、何かを言いたげにこちらを見つめていた。
揺れる瞳。
けれど、何も言わずに、ただ僕の表情を確かめるように見つめている。
そして、次の瞬間だった。
不意に、そっと、僕の肩に寄りかかってきた。
驚く間もなく、ふわりと柔らかい髪が頬に触れる。
それと同時に、微かにシャンプーの香りが漂ってきた。
甘すぎず、爽やかで、どこか懐かしさを感じさせる香り。
心臓が跳ねる。
ほんの少しだけ、僕の肩に彼女の重みがのしかかる。
戸惑いながらも、その温もりが心地よくて、僕は何も言えなくなった。
──ああ、これは。
女性に、こんなふうに甘えられるのは、生まれて初めてだった。
どうすればいいのか分からない。
けれど、嫌ではなくて。
不思議な安心感が、僕の中に広がっていく。
花火が次々と夜空を彩る。
その音が耳に届くたび、彼女の肩がわずかに揺れる。
この瞬間が、いつまでも続けばいいのに。
そう思った。
「もう少し、早く出逢いたかったなあ……」
ぽつりと、葵が呟いた。
その声は、打ち上げ花火の轟音にかき消されそうなほど小さかった。
けれど、なぜか僕の心には深く響いた。
「まだお互い十代じゃん。これからまだまだずっと一緒にいられるよ」
当たり前のことのように言いながら、僕はそっと彼女の横顔を盗み見る。
葵の瞳は、夜空に咲く大輪の花を映していた。
赤や青、紫に橙――次々と色を変えながら、花火は夜空を彩る。
けれど、彼女の表情にはどこか影が落ちていた。
それが何を意味するのか。
今の僕には、まだ分からなかった。
「……そうだね」
葵は静かにそう答えた。
けれど、その声はどこか遠く、響きを持たない。
口では肯定しながらも、本当にそう思っているのだろうか。
心の奥底では、違うことを考えているのではないか。
彼女の言葉に、ふとそんな疑念がよぎる。
夏になると、葵は少し感傷的になる。
それは、まるで過去の欠片をそっと拾い上げるような仕草で、誰にも気づかれないように、そっと胸に抱えているようだった。
ふとした瞬間に見せる遠い目。
夕暮れの茜色に染まる空をじっと見つめる横顔。
何かを探しているかのように、時折、虚空を仰ぐ仕草。
それらすべてが、彼女の心の奥に眠る記憶の断片なのかもしれない。
過去の思い出を振り返るように、懐かしそうで、それでいてどこか寂しげな表情を浮かべる。
そして、今年の夏。
そんな彼女の隣にいるのは、僕だった。
今まで知らなかった彼女の表情。
少しずつ触れていくたびに、僕の胸は熱くなる。
僕は、本当に彼女のことを分かってあげられているのだろうか。
彼女の心にそっと寄り添い、その寂しさを和らげることができるのだろうか。
葵が僕のことを「分かってあげる」と言ってくれたように。
僕も彼女のことを、もっと深く知りたい。
もっと理解できるようになりたい。
彼女の笑顔も、涙も、言葉にならない心の揺れも。
全部、ちゃんと受け止められるようになりたい。
そう強く思った。
夜風が吹き抜ける。
葵の髪が風に乗って僕の肩をかすめた。
彼女のぬくもりを感じる距離。
けれど、僕はまだ、彼女の心の深い場所には届いていない気がした。
僕はそっと拳を握る。
そのとき──。
「スターマイン」
場内アナウンスの声が響き渡った。
直後、夜空が一気に光に包まれる。
まるで宇宙そのものが爆ぜるような、壮大な閃光。
無数の火花が一斉に弾け、夜空に鮮やかな光の波が広がる。
赤、青、金、紫──次々と色を変えながら、まるで生き物のように夜空を舞う。
その姿はまるで、花畑が空に浮かんだかのようだった。
星々を追い越し、瞬きながら散っていく光。
ひとつ、またひとつと消えていくその儚さが、胸を締めつける。
僕も彼女も、思わず息をのんだ。
「すごい……」
葵が呟いた。
その声は、感動に満ちていた。
僕はそっと彼女の横顔を盗み見る。
そこには、先ほどまでの翳りはなく、ただただ花火に魅入る純粋な表情があった。
瞳の奥に映る、夜空の輝き。
はじける光を追いかけるように、彼女の目が揺れる。
僕は、そんな彼女を見つめながら、心の中でそっと願う。
──どうか、この瞬間がずっと続きますように。
けれど、花火は燃え尽きるもの。
美しく、儚く、夜空に咲いて、そして消えていく。
それでも。
たとえ、一瞬であったとしても。
この夏の記憶が、ずっと彼女の心の中に残るものであってほしい。
そして僕は、その記憶の中に、ほんの少しでもいいから、居場所を持ち続けたいと思った。
花火が終わっても、夏が終わっても。
僕たちの時間が、このままずっと続いていきますように。
次々と夜空を照らす花火を見上げながら、僕は静かにそう誓った。
夜の帳がすっかり降り、世界は静かに深い闇に包まれていた。祭りの賑わいは続いているはずなのに、どこか空気が変わった気がする。誰もが、これから始まる夜の芸術に息を潜めているようだった。
その時。
遠くで、低く唸るような音が響いた。
──ゴォォォ……。
それは、地の奥底から湧き上がるような重みを帯びた音だった。祭りの喧騒も、屋台の呼び込みも、一瞬にしてかき消される。
そして次の瞬間。
──ドンッ!!
夜空が震える。
胸にまで響くような打ち上げの衝撃が広がり、その直後、漆黒の空へ向かって火球が一直線に弾け飛んだ。
一瞬の静寂。
風が止まり、鼓動すらも聞こえなくなるような刹那の間。
そして──。
目の前の空が、燃えるように輝いた。
金色の光が闇を裂くように広がり、花開く。まるで夏の夜に咲く一輪の大輪の花。光の花びらが四方八方に散り、残像が夜の空気に溶けていく。煌めく破片が、宝石のように儚くきらめきながら、ゆっくりと夜の深みへと吸い込まれていった。
「わあ、綺麗!」
隣から、彼女の弾んだ声が聞こえた。
視線をそっと横に向ける。
花火の光に照らされた彼女の顔は、まるでその輝きの一部になったかのようだった。目を大きく見開き、唇はわずかに開いている。瞳に映るのは、色とりどりの光の軌跡。その表情は、まるで幼い少女のような純粋さに満ちていて、心の奥が強く揺さぶられた。
──こんな顔、普段は見せないのにな。
いつもは少し勝気で、意地っ張りで、それでいてどこか大人びている彼女。だけど今、彼女の頬には微かに火照ったような紅が差し、目を輝かせている。その横顔が、花火の光と影に交互に照らされるたび、胸の奥がじわりと熱を持った。
「……すごいね」
自分でも驚くほど小さな声がこぼれる。
でも、彼女にはちゃんと届いたみたいだった。
「うん!」
嬉しそうに頷く彼女の声は、弾むように軽やかだった。
──ドンッ!!
再び響く轟音。
夜空には、紅と蒼、紫と橙が混じり合いながら、まるで宇宙の果てまで届きそうなほどに大きな花が咲く。
そのたびに、僕の心臓の鼓動も一緒に高鳴る。
どんどん速くなっていく。
きっと、花火のせいじゃない。
たぶん、彼女の横顔があまりにも綺麗だからだ。
──触れたい。
気がつけば、ブルーシートの上に置かれた彼女の手へと、そっと手を伸ばしていた。
指先が、彼女の手の甲にかすかに触れる。
少しひんやりとしていて、それでいてどこか温かい。
彼女の指先が、かすかに震えた気がした。
だけど、拒まれはしなかった。
花火の光がまた一瞬、空を彩る。
その瞬間、彼女がそっとこちらを見た。
その瞳に映っているのは、僕の姿だろうか。それとも、夜空に咲いた光の軌跡だろうか。
僕はあえて視線を外さなかった。
まるで、この一瞬が永遠になればいいと願うように。
──今、目が合ったら。
そんな予感がして、まっすぐに夜空を見上げ続ける。
胸の奥が妙にざわついていた。
夜風に乗って、彼女の髪がふわりと揺れるのが視界の端に映る。そのわずかな動きすらも、僕の意識を彼女へと引き寄せてしまう。
彼女はどう思ったのだろう。
僕と同じように、胸の奥で何かを感じているのだろうか。
確かめる勇気はなかった。
だからこそ、視線を交わさないままでいることを選ぶ。
それでも、すぐに彼女がそっと夜空へと視線を戻したのが分かった。
まるで、互いの気持ちを探るように。
そして、次の瞬間だった。
そっと、彼女の手が動いた。
ほんのわずかに、ゆっくりと。
指先がかすかに揺れて、僕の手の上を滑るように動く。
──え……?
触れるか触れないかの絶妙な距離感のまま、その指は慎重に、けれど確実に僕の手を探るように動いていた。
やがて、彼女の指が僕の指と絡む。
その動きは、どこかためらいがちだった。
でも、決して拒絶ではなく、まるでそっと確かめるような仕草だった。
手のひらと手のひらがゆっくりと重なり、指先が絡み合う。
強くもなく、かといって弱くもなく、ちょうどいい温度で。
それは、彼女なりの答えのような気がした。
──握り返してくれた。
僕の手を、導くように。
視線を交わさずとも、確かに伝わるものがあった。
胸の奥が熱くなる。
花火の音が響く。
──ドンッ!!
耳をつんざくような轟音が夜空を揺らし、無数の光が広がる。
黄金色、深紅、瑠璃色、翡翠色。
色とりどりの光が、暗闇に咲き誇る。
大輪の花が夜空を彩り、儚く散る。
そのたびに、まるでこの瞬間だけが世界のすべてになったような錯覚に陥る。
まわりからは歓声が飛び交っていた。
「すごい!」「綺麗!」「わぁ……!」
そんな声が、あちこちから弾むように聞こえてくる。
だけど、不思議と僕の耳には、それらが遠く感じられた。
まるで、僕たちだけが時間の流れから切り取られたみたいに。
今、僕に聞こえているのは、彼女のかすかな息遣いだけだった。
すぐ隣で、静かに、微かに、震えるように。
風が吹いた。
夜風が、ゆるやかに僕らの間を撫でる。
その風に乗って、ふと、彼女の声が響いた。
「ねえ、陽……」
その声は、かすかに震えていた。
「ん? 何?」
彼女は夜空を見上げたまま、微笑んでいるように見えた。
でも──。
その横顔は、どこか寂しげにも見えた。
花火の光が、彼女の頬を照らすたびに、その表情の奥に隠された何かが浮かび上がる気がした。
彼女は今、何を考えているのだろう。
知りたい。
でも、知るのが怖いような気もした。
次の言葉を待つ間、鼓動が少しだけ速くなる。
「ありがとうね。本当に……」
突然の言葉に、僕は戸惑った。
どうしたんだろう。
さっきまで笑っていたのに。
ほんの数秒前まで、彼女は楽しそうに花火を見上げていたはずだ。
僕の隣で、小さな声で「すごいね」と言いながら、嬉しそうに光の花が開く瞬間を追いかけていたはずだ。
なのに。
「急にどうした……?」
彼女の様子が気になって、そっと顔を覗き込む。
そして──息を呑んだ。
彼女の瞳から、透き通るような涙が、ゆっくりと頬を伝い落ちていた。
大粒の涙が、ぽろり、ぽろりとこぼれる。
花火の光を映したその涙は、まるで宝石みたいにきらめいていた。
けれど、僕の胸が痛くなるのは、どうしてだろう。
見てはいけないものを見てしまった気がして、言葉を失う。
彼女は泣いていた。
静かに、けれど確かに。
頬を伝った涙は顎先で揺れ、やがてぽつりと地面に落ちた。
その瞬間、心臓がきゅっと締めつけられる。
「こんな綺麗なもの……生まれて初めて見た……」
夜風に溶けるように、彼女の声が震えながらこぼれる。
花火の美しさに圧倒されているだけなのか。
それとも──。
何か別の想いが、その涙に混じっているのか。
僕には分からなかった。
けれど、彼女が泣いている。
その事実だけが、胸の奥に突き刺さった。
どうすればいいんだろう。
何を言えば、彼女の涙を止められるんだろう。
分からなくて。
分かりたくて。
言葉を探して、けれど見つからなくて、ただ握っていた彼女の手を、少しだけ強く握り直した。
彼女の指が、かすかに震える。
それでも、逃げようとはしなかった。
そっと包み込むように、僕の手の中に収まっている。
──ありがとうは、こっちのセリフだよ。
気づけば、そんな言葉が自然と口をついて出ていた。
彼女が、驚いたようにこちらを見上げる。
涙の跡が残る瞳が、ゆっくりと僕を捉えた。
「……えっ?」
不思議そうな表情のまま、瞬きをする。
花火の光が、彼女の瞳の奥できらめく。
僕は、そのまま静かに言葉を続けた。
「きっと、葵がいなければ……もう一度、ここに来ようとは思わなかった」
ぽつりと呟いた自分の声は、夜風に乗ってどこかへと溶けていった。
言葉にした途端、それが思った以上に本心だったことに気づく。
あの時の自分なら、きっとここへ戻ることはなかった。
楽しかった思い出も、苦しかった記憶も、すべてが胸の奥で色褪せて、ただ過去の断片として封じ込められていたはずだ。
けれど、今は違う。
彼女がいる。
目の前で、風に揺れる髪をかき上げながら、じっと僕の言葉を待っている彼女の存在が、僕の心をそっと引き寄せる。
遠くでまた、一筋の光が空へと昇っていく。
夜の闇に吸い込まれるように、小さな点が一瞬の静寂を生んだ。
次の瞬間──ドンッ、と腹に響くほどの衝撃音が響き渡り、夜空に大輪の花が咲いた。
眩い光が広がり、葵の横顔を優しく照らし出す。
「ずっと忘れていたものを、取り戻した気がする」
言葉足らずな自分なりに、精一杯の想いを紡いだ。
ちゃんと伝わっているかどうかは分からない。
けれど、これは紛れもなく、本心だった。
葵は、何かを言いたげにこちらを見つめていた。
揺れる瞳。
けれど、何も言わずに、ただ僕の表情を確かめるように見つめている。
そして、次の瞬間だった。
不意に、そっと、僕の肩に寄りかかってきた。
驚く間もなく、ふわりと柔らかい髪が頬に触れる。
それと同時に、微かにシャンプーの香りが漂ってきた。
甘すぎず、爽やかで、どこか懐かしさを感じさせる香り。
心臓が跳ねる。
ほんの少しだけ、僕の肩に彼女の重みがのしかかる。
戸惑いながらも、その温もりが心地よくて、僕は何も言えなくなった。
──ああ、これは。
女性に、こんなふうに甘えられるのは、生まれて初めてだった。
どうすればいいのか分からない。
けれど、嫌ではなくて。
不思議な安心感が、僕の中に広がっていく。
花火が次々と夜空を彩る。
その音が耳に届くたび、彼女の肩がわずかに揺れる。
この瞬間が、いつまでも続けばいいのに。
そう思った。
「もう少し、早く出逢いたかったなあ……」
ぽつりと、葵が呟いた。
その声は、打ち上げ花火の轟音にかき消されそうなほど小さかった。
けれど、なぜか僕の心には深く響いた。
「まだお互い十代じゃん。これからまだまだずっと一緒にいられるよ」
当たり前のことのように言いながら、僕はそっと彼女の横顔を盗み見る。
葵の瞳は、夜空に咲く大輪の花を映していた。
赤や青、紫に橙――次々と色を変えながら、花火は夜空を彩る。
けれど、彼女の表情にはどこか影が落ちていた。
それが何を意味するのか。
今の僕には、まだ分からなかった。
「……そうだね」
葵は静かにそう答えた。
けれど、その声はどこか遠く、響きを持たない。
口では肯定しながらも、本当にそう思っているのだろうか。
心の奥底では、違うことを考えているのではないか。
彼女の言葉に、ふとそんな疑念がよぎる。
夏になると、葵は少し感傷的になる。
それは、まるで過去の欠片をそっと拾い上げるような仕草で、誰にも気づかれないように、そっと胸に抱えているようだった。
ふとした瞬間に見せる遠い目。
夕暮れの茜色に染まる空をじっと見つめる横顔。
何かを探しているかのように、時折、虚空を仰ぐ仕草。
それらすべてが、彼女の心の奥に眠る記憶の断片なのかもしれない。
過去の思い出を振り返るように、懐かしそうで、それでいてどこか寂しげな表情を浮かべる。
そして、今年の夏。
そんな彼女の隣にいるのは、僕だった。
今まで知らなかった彼女の表情。
少しずつ触れていくたびに、僕の胸は熱くなる。
僕は、本当に彼女のことを分かってあげられているのだろうか。
彼女の心にそっと寄り添い、その寂しさを和らげることができるのだろうか。
葵が僕のことを「分かってあげる」と言ってくれたように。
僕も彼女のことを、もっと深く知りたい。
もっと理解できるようになりたい。
彼女の笑顔も、涙も、言葉にならない心の揺れも。
全部、ちゃんと受け止められるようになりたい。
そう強く思った。
夜風が吹き抜ける。
葵の髪が風に乗って僕の肩をかすめた。
彼女のぬくもりを感じる距離。
けれど、僕はまだ、彼女の心の深い場所には届いていない気がした。
僕はそっと拳を握る。
そのとき──。
「スターマイン」
場内アナウンスの声が響き渡った。
直後、夜空が一気に光に包まれる。
まるで宇宙そのものが爆ぜるような、壮大な閃光。
無数の火花が一斉に弾け、夜空に鮮やかな光の波が広がる。
赤、青、金、紫──次々と色を変えながら、まるで生き物のように夜空を舞う。
その姿はまるで、花畑が空に浮かんだかのようだった。
星々を追い越し、瞬きながら散っていく光。
ひとつ、またひとつと消えていくその儚さが、胸を締めつける。
僕も彼女も、思わず息をのんだ。
「すごい……」
葵が呟いた。
その声は、感動に満ちていた。
僕はそっと彼女の横顔を盗み見る。
そこには、先ほどまでの翳りはなく、ただただ花火に魅入る純粋な表情があった。
瞳の奥に映る、夜空の輝き。
はじける光を追いかけるように、彼女の目が揺れる。
僕は、そんな彼女を見つめながら、心の中でそっと願う。
──どうか、この瞬間がずっと続きますように。
けれど、花火は燃え尽きるもの。
美しく、儚く、夜空に咲いて、そして消えていく。
それでも。
たとえ、一瞬であったとしても。
この夏の記憶が、ずっと彼女の心の中に残るものであってほしい。
そして僕は、その記憶の中に、ほんの少しでもいいから、居場所を持ち続けたいと思った。
花火が終わっても、夏が終わっても。
僕たちの時間が、このままずっと続いていきますように。
次々と夜空を照らす花火を見上げながら、僕は静かにそう誓った。



