夕暮れの境目が滲み、空がゆっくりと藍色へと変わり始めた頃、僕たちは祭りの喧騒の中にいた。
浜辺にずらりと並ぶ屋台の灯りが、砂浜を彩るように揺れている。赤や橙の提灯が連なり、風に吹かれるたびにかすかに揺らめいた。その温かな光が、人々の横顔を照らし、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。
焼きそばの香ばしい香りが鼻をくすぐり、たこ焼きのソースの匂いが風に乗って漂ってきた。綿あめの甘い香りや、かき氷のシロップの涼やかな気配も混ざり合い、祭り独特の高揚感を引き立てる。
屋台の前では、浴衣姿の女の子たちが楽しげに笑い合い、金魚すくいの水面には提灯の光が映り込んで揺れていた。時折、子供たちのはしゃぐ声や、どこかの屋台の店主の威勢のいい声が響き、まるで夏の熱気そのものが形を成したかのようだった。
「すごいね……人が多すぎて、歩くだけで大変」
隣を歩く葵が、小さく息を吐きながら呟いた。人混みに押されそうになりながらも、彼女はどこか楽しげに笑っている。
「まあな。でも、これぐらい賑やかなほうが祭りっぽいだろ?」
僕はそう言いながら、すぐ隣を歩く彼女を横目で見る。
浴衣の裾を片手で押さえながら、慎重に歩く姿がなんとも愛らしかった。少し背伸びしたような、落ち着いた藍色の浴衣に、細やかな朝顔の模様が映えている。祭りの灯りが彼女の頬をほんのりと照らし、その横顔は、いつもの制服姿よりもずっと大人びて見えた。
「何食べる?」
僕が尋ねると、葵はぱっと顔を上げ、屋台を見回しながら目を輝かせた。
「うーん、いろいろ迷っちゃうね……。あ、かき氷は絶対食べたい!」
「じゃあ、それとフランクフルトとポテトと唐揚げ。シェアしようか」
そう提案すると、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「いいね! 一人で全部食べると多いけど、分ければいろいろ食べられるし!」
その無邪気な笑顔に、僕は思わず口元を緩めた。
「じゃあ、俺はフランクフルト買ってくるから、かき氷頼んだ」
「了解!」
葵は小さく手を振ると、人混みの向こうへと向かっていった。その後ろ姿を見送ってから、僕もフランクフルトの屋台へと歩き出す。
鉄板の上では、赤く焼き上がったフランクフルトがジュウジュウと音を立て、表面に脂がきらきらと光っていた。屋台の主人が手際よく串を返し、ケチャップとマスタードをたっぷりとかけていく。その香ばしい香りが鼻を刺激し、思わず腹が鳴りそうになる。
「兄ちゃん、一本?」
「あ、はい」
小銭を渡し、熱々のフランクフルトを受け取る。串の先端を慎重に持ちながら、屋台を離れ、葵の元へと戻ると、彼女も無事にかき氷を手にしていた。
「フランクフルトゲット!」
「こっちもかき氷買えたよ! いちごシロップたっぷり!」
透明なカップに山盛りのかき氷。鮮やかな赤いシロップがたっぷりとかかり、氷の隙間からとろりと流れ落ちそうになっている。葵はそれを両手で持ち、満足げに微笑んだ。
ようやく人混みを抜け、僕たちは先ほど確保していたブルーシートへと戻ってきた。長い時間を歩き回ったせいで、足がじんわりと疲れているのを感じる。シートの四隅には、僕のスニーカーと彼女のサンダルの代わりに、拾ってきた大きめの石が置かれていた。誰が見ても仮の押さえだとわかるような不格好なその配置に、僕は思わず苦笑する。
「ふぅ……やっと座れる」
腰を下ろし、大きく息を吐く。祭りの喧騒が少し遠ざかり、ようやく落ち着ける空間に戻ってきた気がした。
夜空を見上げるが、まだ花火が打ち上がる気配はない。けれど、周囲を見渡せば、屋台の明かりが揺らめく幻想的な風景が広がっていた。赤、橙、黄色の提灯が川沿いに連なり、夜の帳にぽつぽつと灯る光の粒のようだ。風が吹くたび、明かりがゆらりと揺れ、影が踊る。その柔らかな輝きが砂浜の上にもぼんやりと落ちていて、まるで夏の夜そのものが夢幻の世界に変わったかのようだった。
僕はフライドポテトを一本つまみ、口に運ぶ。指先にじんわりと油が馴染み、舌の上に塩気が広がる。シンプルな味だけど、こういう場所で食べるとやけに美味しく感じるから不思議だ。
ふと横を見ると、彼女が何やらじっとこちらを見つめていた。
「……?」
怪訝に思う間もなく、彼女は小さなスプーンを僕の前に差し出してきた。
スプーンの上には、鮮やかないちごシロップに染まったかき氷。透明感のある氷が、ほんのりと屋台の灯りを透かしてきらめいている。その光景に、まるで宝石のようだと、一瞬だけ見惚れてしまった。
「はい、ア~ン!」
彼女の楽しげな声に、思わず肩をすくめる。
「……いやいやいや」
思わず反射的に顔が熱くなるのがわかった。
周囲を見渡せば、近くには同じようにシートを敷いて座る家族連れや友人同士のグループがちらほらいる。中にはカップルもいて、向こうで並んで座る二人組が、こちらを見ながらひそひそと何か話しているのが視界の端に映った。いや、気のせいじゃない。完全に見られている。
「早く食べないと溶けちゃうよ? はい、ア~ン!」
彼女は躊躇なくスプーンを僕の口元へと近づけてくる。
いたずらっぽく細められた瞳は、まるで子供が面白がって仕掛ける悪戯そのものだ。口角を少し上げたその表情は、意地悪そうにも、楽しそうにも見える。断る余地なんて、はじめからなかったのかもしれない。
僕は一瞬、視線を泳がせる。
食べるか、食べないか——いや、選択肢はなかった。
「……わかったよ」
小さく息を吐き、観念したようにそっと口を開ける。
スプーンが唇に触れ、冷たい氷が舌の上に落ちた瞬間、ひんやりとした感触が一気に広がった。いちごシロップの甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、じんわりと体の奥まで冷やしていく。氷の粒がゆっくりと溶け、喉を滑り落ちるたびに、涼しさが体の中から染み込んでいくようだった。
僕がスプーンを口に含むのを見届けた彼女は、満足げに微笑んだ。まるでいたずらが成功した子供のような、少し得意げな表情。そんな顔をされると、照れくさい気持ちが倍増する。
彼女はそのまま自分の分のかき氷をすくい、小さく一口食べる。舌の上で転がすように味わいながら、ゆっくりと目を閉じた。
「ん~っ、やっぱり美味しい!」
まるで幸せを噛み締めるように、彼女は小さく体を揺らしながら微笑んでいた。その無邪気な仕草が可愛らしくて、思わず視線を逸らす。
しかし、僕の思考は別の方向に突き進んでいた。
──あっ、間接キスだ。
今、僕が口にしたスプーンは、さっきまで彼女が使っていたもの。その事実が頭の中で急激に膨らみ、気づいた瞬間、胸の奥がざわついた。まるで不意打ちを食らったように、指先がじんわりと熱を帯びていく。
けれど、そんなふうに間接キスを意識してしまう自分に、さらに別の思いが襲いかかる。
──いや、さっき直接キスしたんだぞ、俺。
ほんの数十分前。夏祭りの喧騒の中、彼女と交わしたキス。
唇に残る、微かな体温と甘やかな感触。
息が詰まりそうなほどに近く感じた距離。
──あんなに近くで、確かにキスをしたのに。
なのに、いまさら間接キスごときで動揺している自分は、なんて愚かで、なんて青臭いんだろう。
「……なに?」
ふと、彼女がこちらを見ていた。僕が思考の迷路に迷い込んでいるのが伝わったのか、首を傾げながら、不思議そうな顔をしている。
「いや、なんでもない」
取り繕うようにかき氷のカップに視線を落とし、スプーンを差し込んだ。
赤く染まった氷をすくい、無言のまま口に運ぶ。
ひんやりとした冷たさが舌の上で広がり、シロップの甘酸っぱさがじんわりと染み渡る。喉を通るたびに、先ほどまで熱を持っていた指先や頬が、少しずつ冷やされていくような気がした。
──落ち着け、俺。
自分にそう言い聞かせながら、ゆっくりと氷を溶かす。
「やっぱ、夏といえばかき氷だよね」
彼女が嬉しそうに言いながら、スプーンですくった氷を口に運ぶ。白い器の上には、夕焼けのように鮮やかな赤いシロップが広がっている。舌の上で溶ける冷たさに、彼女は一瞬目を閉じ、幸せそうに肩をすくめた。
「うん。夏の味がした気がする」
そう呟いた僕の言葉に、彼女はふと手を止める。
「夏の味?」
小首をかしげながら、僕の顔を覗き込んできた。その瞳は、夜空に灯る屋台の明かりを映して、わずかに揺れている。
「うん。何て言うか……夕暮れの風とか、祭りのざわめきとか、こういうひんやりした甘さとか。そういうの全部ひっくるめて、夏の味って感じがする」
口にしてみると、思っていた以上に気恥ずかしいことを言ってしまった気がして、僕はスプーンを握る手に少し力を込めた。だが、彼女はぱちりと瞬きをして、しばらく考え込むように視線を落とす。
やがて、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「何か素敵だね、陽。センスあるよ」
「何のセンス?」
不意に褒められて、僕は肩をすくめる。彼女はスプーンを口に運びながら、少し得意げに目を細めた。
「うーん、何だろう? ワードセンス的な?」
「ワードセンス?」
「うん。詩人っぽいっていうか、言葉の選び方がいい感じ」
「それ、褒めてる?」
「もちろん!」
彼女は胸を張ると、再びかき氷を口に含んだ。ほんのり赤く染まった唇の端が、ゆるりと綻ぶ。その頬が少し赤くなっているのは、照れ隠しなのか、それとも夏の熱気のせいなのか──。
僕はそっと視線を逸らしながら、自分のスプーンで氷をすくった。ほんのり甘いシロップの香りが、ふわりと鼻をくすぐる。口に含むと、ひんやりとした冷たさが舌の上でじんわりと溶けていった。
そんな穏やかな時間の中で、ふいに祭りのスピーカーからアナウンスが流れた。
「花火開始三十分前です。この後、試し打ちとして一発花火が上がりますので、お楽しみに!」
その瞬間──。
夜空を裂くように、小さな光の筋が弧を描いた。
「わあ……!」
彼女がぱっと顔を上げ、目を輝かせる。
屋台の明かりが届かない夜の帳の中、暗闇に放たれた光は、一瞬だけ星のように瞬き、尾を引きながら消えていった。
あれが本番の花火だったら、きっともっと大きな歓声が上がっていたことだろう。でも、今の一発だけでも、僕の胸の奥にはじんわりとした熱が広がっていく。
「……何か緊張してきた」
隣で並んで座る彼女が、ぽつりと呟いた。
夜風がそっと吹き抜ける。砂浜に敷かれたブルーシートの上、僕たちは並んで腰を下ろしていた。周りには、同じように花火を待つ人々の姿がある。浴衣姿のカップルや、家族連れ、友人同士のグループ。それぞれが思い思いの時間を過ごしている。
遠くでは屋台の呼び込みの声が響き、焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが漂ってくる。けれど、それらのざわめきが不思議と遠く感じるほど、彼女の言葉は静かに僕の耳に届いた。
「俺も」
素直にそう返すと、彼女が驚いたように顔を上げる。
「え? 陽は初めてじゃないでしょ?」
暗がりの中でも、その瞳が僕をまっすぐに見つめているのがわかる。
「でも、葵と一緒に見るのは初めてじゃん」
そう言った瞬間、彼女の表情が一瞬固まり、ぱちりと瞬きをした。まるで予想外の答えだったかのように。
そして、次の瞬間──。
「……このプレイボーイが!」
ぷくっと頬を膨らませ、拗ねたような声を出した。
「えっ!? 何で!?」
突然の言葉に、思わず身を乗り出す。
「何でもないよっ!」
ぷいっと顔を背ける彼女の仕草が、無性に可愛く思えた。
僕は、そんな彼女の姿を見つめながら、胸の奥にくすぐったいような感覚が広がるのを感じていた。
気まずいわけじゃない。でも、妙に落ち着かない。
彼女が視線を逸らしたまま、手遊びをしているのを見て、何となくその気持ちが伝わってくる気がした。
──もしかして、照れてる?
そう思ったら、心の奥がじんわりと温かくなった。
風が吹く。夜の匂いが混じった心地よい風が、僕たちの間をそっと撫でる。遠くで笑い声が弾け、誰かが「りんご飴、食べる?」と無邪気な声を上げる。
それでも、僕たちの周りだけは、まるで時間がゆっくりと流れているみたいだった。
──もうすぐ、花火が始まる。
「さあ、ゆっくり待とう!」
沈黙を破るように、彼女が僕の袖を軽く引く。
その手のひらは、小さくて、ほんのりと温かかった。
満面の笑みを浮かべた彼女の顔が、夜空の下で一段と輝いて見えた。
僕も、それに応えるように微笑んだ。
どこか胸が高鳴る。まるで、これから夜空に咲く花火の音が、もうすぐ心の中で鳴り響くような気がしていた。
浜辺にずらりと並ぶ屋台の灯りが、砂浜を彩るように揺れている。赤や橙の提灯が連なり、風に吹かれるたびにかすかに揺らめいた。その温かな光が、人々の横顔を照らし、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。
焼きそばの香ばしい香りが鼻をくすぐり、たこ焼きのソースの匂いが風に乗って漂ってきた。綿あめの甘い香りや、かき氷のシロップの涼やかな気配も混ざり合い、祭り独特の高揚感を引き立てる。
屋台の前では、浴衣姿の女の子たちが楽しげに笑い合い、金魚すくいの水面には提灯の光が映り込んで揺れていた。時折、子供たちのはしゃぐ声や、どこかの屋台の店主の威勢のいい声が響き、まるで夏の熱気そのものが形を成したかのようだった。
「すごいね……人が多すぎて、歩くだけで大変」
隣を歩く葵が、小さく息を吐きながら呟いた。人混みに押されそうになりながらも、彼女はどこか楽しげに笑っている。
「まあな。でも、これぐらい賑やかなほうが祭りっぽいだろ?」
僕はそう言いながら、すぐ隣を歩く彼女を横目で見る。
浴衣の裾を片手で押さえながら、慎重に歩く姿がなんとも愛らしかった。少し背伸びしたような、落ち着いた藍色の浴衣に、細やかな朝顔の模様が映えている。祭りの灯りが彼女の頬をほんのりと照らし、その横顔は、いつもの制服姿よりもずっと大人びて見えた。
「何食べる?」
僕が尋ねると、葵はぱっと顔を上げ、屋台を見回しながら目を輝かせた。
「うーん、いろいろ迷っちゃうね……。あ、かき氷は絶対食べたい!」
「じゃあ、それとフランクフルトとポテトと唐揚げ。シェアしようか」
そう提案すると、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「いいね! 一人で全部食べると多いけど、分ければいろいろ食べられるし!」
その無邪気な笑顔に、僕は思わず口元を緩めた。
「じゃあ、俺はフランクフルト買ってくるから、かき氷頼んだ」
「了解!」
葵は小さく手を振ると、人混みの向こうへと向かっていった。その後ろ姿を見送ってから、僕もフランクフルトの屋台へと歩き出す。
鉄板の上では、赤く焼き上がったフランクフルトがジュウジュウと音を立て、表面に脂がきらきらと光っていた。屋台の主人が手際よく串を返し、ケチャップとマスタードをたっぷりとかけていく。その香ばしい香りが鼻を刺激し、思わず腹が鳴りそうになる。
「兄ちゃん、一本?」
「あ、はい」
小銭を渡し、熱々のフランクフルトを受け取る。串の先端を慎重に持ちながら、屋台を離れ、葵の元へと戻ると、彼女も無事にかき氷を手にしていた。
「フランクフルトゲット!」
「こっちもかき氷買えたよ! いちごシロップたっぷり!」
透明なカップに山盛りのかき氷。鮮やかな赤いシロップがたっぷりとかかり、氷の隙間からとろりと流れ落ちそうになっている。葵はそれを両手で持ち、満足げに微笑んだ。
ようやく人混みを抜け、僕たちは先ほど確保していたブルーシートへと戻ってきた。長い時間を歩き回ったせいで、足がじんわりと疲れているのを感じる。シートの四隅には、僕のスニーカーと彼女のサンダルの代わりに、拾ってきた大きめの石が置かれていた。誰が見ても仮の押さえだとわかるような不格好なその配置に、僕は思わず苦笑する。
「ふぅ……やっと座れる」
腰を下ろし、大きく息を吐く。祭りの喧騒が少し遠ざかり、ようやく落ち着ける空間に戻ってきた気がした。
夜空を見上げるが、まだ花火が打ち上がる気配はない。けれど、周囲を見渡せば、屋台の明かりが揺らめく幻想的な風景が広がっていた。赤、橙、黄色の提灯が川沿いに連なり、夜の帳にぽつぽつと灯る光の粒のようだ。風が吹くたび、明かりがゆらりと揺れ、影が踊る。その柔らかな輝きが砂浜の上にもぼんやりと落ちていて、まるで夏の夜そのものが夢幻の世界に変わったかのようだった。
僕はフライドポテトを一本つまみ、口に運ぶ。指先にじんわりと油が馴染み、舌の上に塩気が広がる。シンプルな味だけど、こういう場所で食べるとやけに美味しく感じるから不思議だ。
ふと横を見ると、彼女が何やらじっとこちらを見つめていた。
「……?」
怪訝に思う間もなく、彼女は小さなスプーンを僕の前に差し出してきた。
スプーンの上には、鮮やかないちごシロップに染まったかき氷。透明感のある氷が、ほんのりと屋台の灯りを透かしてきらめいている。その光景に、まるで宝石のようだと、一瞬だけ見惚れてしまった。
「はい、ア~ン!」
彼女の楽しげな声に、思わず肩をすくめる。
「……いやいやいや」
思わず反射的に顔が熱くなるのがわかった。
周囲を見渡せば、近くには同じようにシートを敷いて座る家族連れや友人同士のグループがちらほらいる。中にはカップルもいて、向こうで並んで座る二人組が、こちらを見ながらひそひそと何か話しているのが視界の端に映った。いや、気のせいじゃない。完全に見られている。
「早く食べないと溶けちゃうよ? はい、ア~ン!」
彼女は躊躇なくスプーンを僕の口元へと近づけてくる。
いたずらっぽく細められた瞳は、まるで子供が面白がって仕掛ける悪戯そのものだ。口角を少し上げたその表情は、意地悪そうにも、楽しそうにも見える。断る余地なんて、はじめからなかったのかもしれない。
僕は一瞬、視線を泳がせる。
食べるか、食べないか——いや、選択肢はなかった。
「……わかったよ」
小さく息を吐き、観念したようにそっと口を開ける。
スプーンが唇に触れ、冷たい氷が舌の上に落ちた瞬間、ひんやりとした感触が一気に広がった。いちごシロップの甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、じんわりと体の奥まで冷やしていく。氷の粒がゆっくりと溶け、喉を滑り落ちるたびに、涼しさが体の中から染み込んでいくようだった。
僕がスプーンを口に含むのを見届けた彼女は、満足げに微笑んだ。まるでいたずらが成功した子供のような、少し得意げな表情。そんな顔をされると、照れくさい気持ちが倍増する。
彼女はそのまま自分の分のかき氷をすくい、小さく一口食べる。舌の上で転がすように味わいながら、ゆっくりと目を閉じた。
「ん~っ、やっぱり美味しい!」
まるで幸せを噛み締めるように、彼女は小さく体を揺らしながら微笑んでいた。その無邪気な仕草が可愛らしくて、思わず視線を逸らす。
しかし、僕の思考は別の方向に突き進んでいた。
──あっ、間接キスだ。
今、僕が口にしたスプーンは、さっきまで彼女が使っていたもの。その事実が頭の中で急激に膨らみ、気づいた瞬間、胸の奥がざわついた。まるで不意打ちを食らったように、指先がじんわりと熱を帯びていく。
けれど、そんなふうに間接キスを意識してしまう自分に、さらに別の思いが襲いかかる。
──いや、さっき直接キスしたんだぞ、俺。
ほんの数十分前。夏祭りの喧騒の中、彼女と交わしたキス。
唇に残る、微かな体温と甘やかな感触。
息が詰まりそうなほどに近く感じた距離。
──あんなに近くで、確かにキスをしたのに。
なのに、いまさら間接キスごときで動揺している自分は、なんて愚かで、なんて青臭いんだろう。
「……なに?」
ふと、彼女がこちらを見ていた。僕が思考の迷路に迷い込んでいるのが伝わったのか、首を傾げながら、不思議そうな顔をしている。
「いや、なんでもない」
取り繕うようにかき氷のカップに視線を落とし、スプーンを差し込んだ。
赤く染まった氷をすくい、無言のまま口に運ぶ。
ひんやりとした冷たさが舌の上で広がり、シロップの甘酸っぱさがじんわりと染み渡る。喉を通るたびに、先ほどまで熱を持っていた指先や頬が、少しずつ冷やされていくような気がした。
──落ち着け、俺。
自分にそう言い聞かせながら、ゆっくりと氷を溶かす。
「やっぱ、夏といえばかき氷だよね」
彼女が嬉しそうに言いながら、スプーンですくった氷を口に運ぶ。白い器の上には、夕焼けのように鮮やかな赤いシロップが広がっている。舌の上で溶ける冷たさに、彼女は一瞬目を閉じ、幸せそうに肩をすくめた。
「うん。夏の味がした気がする」
そう呟いた僕の言葉に、彼女はふと手を止める。
「夏の味?」
小首をかしげながら、僕の顔を覗き込んできた。その瞳は、夜空に灯る屋台の明かりを映して、わずかに揺れている。
「うん。何て言うか……夕暮れの風とか、祭りのざわめきとか、こういうひんやりした甘さとか。そういうの全部ひっくるめて、夏の味って感じがする」
口にしてみると、思っていた以上に気恥ずかしいことを言ってしまった気がして、僕はスプーンを握る手に少し力を込めた。だが、彼女はぱちりと瞬きをして、しばらく考え込むように視線を落とす。
やがて、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「何か素敵だね、陽。センスあるよ」
「何のセンス?」
不意に褒められて、僕は肩をすくめる。彼女はスプーンを口に運びながら、少し得意げに目を細めた。
「うーん、何だろう? ワードセンス的な?」
「ワードセンス?」
「うん。詩人っぽいっていうか、言葉の選び方がいい感じ」
「それ、褒めてる?」
「もちろん!」
彼女は胸を張ると、再びかき氷を口に含んだ。ほんのり赤く染まった唇の端が、ゆるりと綻ぶ。その頬が少し赤くなっているのは、照れ隠しなのか、それとも夏の熱気のせいなのか──。
僕はそっと視線を逸らしながら、自分のスプーンで氷をすくった。ほんのり甘いシロップの香りが、ふわりと鼻をくすぐる。口に含むと、ひんやりとした冷たさが舌の上でじんわりと溶けていった。
そんな穏やかな時間の中で、ふいに祭りのスピーカーからアナウンスが流れた。
「花火開始三十分前です。この後、試し打ちとして一発花火が上がりますので、お楽しみに!」
その瞬間──。
夜空を裂くように、小さな光の筋が弧を描いた。
「わあ……!」
彼女がぱっと顔を上げ、目を輝かせる。
屋台の明かりが届かない夜の帳の中、暗闇に放たれた光は、一瞬だけ星のように瞬き、尾を引きながら消えていった。
あれが本番の花火だったら、きっともっと大きな歓声が上がっていたことだろう。でも、今の一発だけでも、僕の胸の奥にはじんわりとした熱が広がっていく。
「……何か緊張してきた」
隣で並んで座る彼女が、ぽつりと呟いた。
夜風がそっと吹き抜ける。砂浜に敷かれたブルーシートの上、僕たちは並んで腰を下ろしていた。周りには、同じように花火を待つ人々の姿がある。浴衣姿のカップルや、家族連れ、友人同士のグループ。それぞれが思い思いの時間を過ごしている。
遠くでは屋台の呼び込みの声が響き、焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが漂ってくる。けれど、それらのざわめきが不思議と遠く感じるほど、彼女の言葉は静かに僕の耳に届いた。
「俺も」
素直にそう返すと、彼女が驚いたように顔を上げる。
「え? 陽は初めてじゃないでしょ?」
暗がりの中でも、その瞳が僕をまっすぐに見つめているのがわかる。
「でも、葵と一緒に見るのは初めてじゃん」
そう言った瞬間、彼女の表情が一瞬固まり、ぱちりと瞬きをした。まるで予想外の答えだったかのように。
そして、次の瞬間──。
「……このプレイボーイが!」
ぷくっと頬を膨らませ、拗ねたような声を出した。
「えっ!? 何で!?」
突然の言葉に、思わず身を乗り出す。
「何でもないよっ!」
ぷいっと顔を背ける彼女の仕草が、無性に可愛く思えた。
僕は、そんな彼女の姿を見つめながら、胸の奥にくすぐったいような感覚が広がるのを感じていた。
気まずいわけじゃない。でも、妙に落ち着かない。
彼女が視線を逸らしたまま、手遊びをしているのを見て、何となくその気持ちが伝わってくる気がした。
──もしかして、照れてる?
そう思ったら、心の奥がじんわりと温かくなった。
風が吹く。夜の匂いが混じった心地よい風が、僕たちの間をそっと撫でる。遠くで笑い声が弾け、誰かが「りんご飴、食べる?」と無邪気な声を上げる。
それでも、僕たちの周りだけは、まるで時間がゆっくりと流れているみたいだった。
──もうすぐ、花火が始まる。
「さあ、ゆっくり待とう!」
沈黙を破るように、彼女が僕の袖を軽く引く。
その手のひらは、小さくて、ほんのりと温かかった。
満面の笑みを浮かべた彼女の顔が、夜空の下で一段と輝いて見えた。
僕も、それに応えるように微笑んだ。
どこか胸が高鳴る。まるで、これから夜空に咲く花火の音が、もうすぐ心の中で鳴り響くような気がしていた。



