昼下がりの海は、思いのほか穏やかだった。
打ち寄せる波は規則正しく砂を濡らし、波打ち際には白い泡がふわふわと漂っている。陽射しが水面に反射し、きらきらと眩しく輝いていた。
潮風がそっと頬を撫で、磯の香りがふわりと鼻をくすぐる。夏の熱を含んだ空気は、どこか懐かしい匂いがした。
僕たちは並んで腰を下ろし、しばらく黙ったまま、ただ海を眺めていた。夜ばかり会っていた僕たちにとって、こうして昼間の光の下で過ごす時間は、妙に新鮮だった。
空がまだ青いこと。
周囲が明るいこと。
葵の髪が、光を受けて柔らかく波打っていること。
普段は影に溶け込んでしまいがちな瞳の色が、昼の光を受けて、深い藍色に透き通っていること。
そんな些細なことが、今の僕にはやけに特別なものに思えた。まるで、知らない誰かを見ているような気さえしてくる。
「……人、増えてきたね」
葵がふと、周囲を見渡しながら呟く。
その声に、僕も視線を向ける。
昼間はまばらだった浜辺が、いつの間にか人で溢れかえっていた。
「場所取りしてた連中が戻ってきてる感じだな」
ビニールシートを広げていたグループや、クーラーボックスを抱えた家族連れが、次々と戻ってくる。子どもたちの笑い声が弾け、若者たちは楽しげにスマートフォンをかざして写真を撮っていた。
僕たちのすぐ近くにも、団体客が陣取っていた。右隣では、会社の同僚らしき数人の男性が缶ビールを片手に盛り上がり、左隣には、カップルグループが楽しげに輪を作っている。潮風に乗って、ビールの苦い匂いや、ポテトチップスの塩気が漂ってきた。
葵は軽く息を吐くと、足元の砂を指で掬い、ぱらぱらと落とす。
彼女の横顔が、どこか遠いものを見つめているようだった。
僕はただ、彼女の隣で波の音を聞いていた。
周囲の賑やかな声が、じわじわと僕たちの小さな空間を侵食していくような感覚があった。まるで、僕たち二人だけが場違いな存在になったような——そんな落ち着かなさを、僕は覚えていた。
砂浜の賑わいは、時間が経つにつれてさらに活気を増していた。
潮風に乗って、どこか遠くで焼かれているバーベキューの香ばしい匂いが漂ってくる。すぐ近くでは、波打ち際を走る子どもたちの歓声が絶え間なく響いていた。笑い声、ビール缶のプルタブを開ける音、遠くで鳴るウクレレの音色——それらが入り混じって、浜辺はまるで一つの生き物のようにざわめいている。
そんな中、不意に隣のグループの男性の一人が、僕たちの方へと身を乗り出してきた。
「君たち、高校生? どこから来たの?」
突然の声に、僕は一瞬驚き、無意識に葵の方をちらりと見た。彼女は特に表情を変えず、ただ軽く首を傾げている。どうやら返事をするのは僕の役目らしい。
「えっと……僕たちは四日市から来ました」
なるべく落ち着いた声を意識しながら答える。
「僕が中三で、彼女が高三です」
その瞬間、相手の表情が明らかに驚いたものへと変わった。
「えっ? 中学生と高校生?」
男性は思わず声を上げると、隣の仲間に「おい、聞いたか?」とでも言うように目を向ける。すると、グループの何人かが興味深げにこちらを振り返った。ビール片手に談笑していた男性陣も、一瞬だけ会話を止めて僕たちに視線を送る。
「二人だけで来たの?」
「はい。そうです」
正直に答えると、男性は少し眉を寄せた。
「親御さんとか、心配しない? 大丈夫?」
その問いに、僕は一瞬だけ答えを考えた。別に嘘をつく理由はない。けれど、この人たちが何を気にしているのか、なんとなく察することはできた。
「はい。大丈夫です」
そう短く答えると、男性は少し考え込むように目を細めた。それから、僕の顔と葵の顔を交互に見つめ、何かを測るような表情をした後、ゆっくりと頷いた。
「そっか……まあ、気を付けてな」
それだけ言うと、彼は深く追及することもなく、再び仲間たちの会話へと戻っていった。
僕は小さく息をつき、握りしめていた指をほどいた。
言葉には出さなかったが、葵もどこか緊張していたのかもしれない。ふと横を見ると、彼女がじっと僕の横顔を見つめていた。
「……何?」
そう尋ねると、葵は少しだけ目を細めて、口元に小さな笑みを浮かべた。
肩が小さく震えている。まるで笑いを堪えているかのようだった。
「……どうしたの?」
僕の問いに彼女はすぐには答えず、しばらくの間、唇を引き結んでいた。しかし、耐えきれなくなったのか、ついに「ぷっ」と小さな吹き出す音を漏らすと、クスクスと楽しそうに笑い始めた。
「な、なんだよ?」
理由も分からずに僕が戸惑っていると、葵はようやく落ち着いたのか、片手を軽く振りながら言った。
「多分、あのおじさん、私たちのことカップルだと思ってるよ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「ん? 姉弟だと思われてるんじゃね? 親御さんとか言ってたし」
そう指摘すると、葵は「違うよ」と言わんばかりにゆっくりと首を横に振った。
「ううん、多分ね、お互いの親御さんって意味だよ。陽が彼女とか言うから」
その瞬間、僕の思考が凍りついた。
――僕が中三で、彼女が高三です。
さっき、当たり前のように口にした言葉。あれのどこに誤解される要素があったのか、一瞬だけ考えて――それから、ハッとした。
「……あ」
言葉が遅れて理解に追いつく。
僕が「彼女」と言ったのを、向こうの男性は「恋人」として解釈したんじゃないか――。
「ち、違うって、それはさ、英語で言うところのSheで、ガールフレンドって意味じゃないよ!」
慌てて弁解する僕に、葵は肩をすくめて笑った。
「分かってるよ。でも、多分おじさんはそう解釈したと思うよ」
そう言って、楽しそうに目を細める。
潮風が、さらりと彼女の長い髪を揺らした。夕日に染まりかけた海が、きらきらと光る。
それにしても、無意識のうちにそんなふうに彼女を呼んでいたのか。
改めて思い返してみると、「僕が中3で、彼女が高3です」という言い方は、確かに交際を前提とした響きがあったのかもしれない。実際、あのおじさんはあからさまに驚いた顔をしていたし、仲間内でも小声で何か話していた。たぶん、僕たちの関係についてあれこれ詮索していたのだろう。
――でも、僕にとってはただの言葉の選び間違いだった。
それだけのはずなのに。
「……」
ふと、気恥ずかしさが込み上げてきた。胸の奥が妙にむずむずする。なんだろう、この感じ。
僕は何でもない風を装って、つま先で砂を弄った。サラサラと乾いた砂がこぼれ、足元に新しい模様を描く。ほんの少しだけ波が寄せてきて、僕のつま先を掠めると、ひんやりとした感触が肌に伝わった。その冷たさが、熱を持ちかけた頭をほんの少しだけ落ち着かせてくれる気がした。
しかし、そんな僕の様子をじっと見つめていた葵は、口元を押さえながら、ますます楽しそうに笑い始める。
「ねえ、陽って、そういうときすぐ耳が赤くなるよね」
クスクスと、どこか小悪魔のような声色で言う。
「……うるさいな……」
耳が赤くなったと言われると、余計に熱を帯びてくる気がして、僕は反射的にそっぽを向いた。
「図星?」
楽しそうな彼女の声が、波の音に混ざって届く。
「別に……」
ぎこちなく答えながら、ちらりと視線を向けると、葵は目を細めて僕を見ていた。
海風がふわりと吹き抜ける。
その風に乗って、葵の髪がさらさらと揺れた。長い黒髪が陽の光を受けて、まるで水面のようにきらめく。そんな彼女の姿が妙に印象的で、僕は思わず目を奪われてしまった。
――こんなふうに彼女にからかわれるのは、これが初めてじゃない。
葵はいつだって、僕の反応を楽しみながら笑う。そして僕は、その度にどうしようもなく気恥ずかしくなるのだ。
でも、不思議なことに、嫌ではなかった。
むしろ、心地よいとさえ思ってしまう。
からかわれているはずなのに、どこかくすぐったいような感覚が胸の奥に残る。この気持ちは、一体なんなのだろう。
「陽?」
不意に、葵が首をかしげながら僕の顔を覗き込む。
至近距離で向けられたその瞳に、心臓が一瞬だけ跳ねた。
「な、なんだよ」
「ううん、なんか考え込んでたから」
「べ、別に何も」
慌てて誤魔化そうとした僕の態度に、彼女はまたふっと笑った。
その笑顔が、どうしようもなく眩しかった。
海の向こうで、太陽が少しずつ傾いていく。淡い橙色が波に映り込み、さざめく水面をやわらかく照らしていた。潮風の匂いと、遠くで響く子どもたちの笑い声。そんな何気ない風景のすべてが、なぜかいつもより鮮やかに見えた。
――それがどうしてなのか。
このときの僕は、まだはっきりと分かっていなかった。
ただ、確かなのは――。
僕は葵のことを、これまでとは違う視点で意識し始めたということ。
彼女の仕草。
彼女の声。
彼女の笑顔。
それら全てが、今までよりも強く、鮮やかに僕の心に焼き付いていく。
まるで、波紋のように。
静かに、しかし確実に、僕の心の奥へと広がっていくのを感じていた。
打ち寄せる波は規則正しく砂を濡らし、波打ち際には白い泡がふわふわと漂っている。陽射しが水面に反射し、きらきらと眩しく輝いていた。
潮風がそっと頬を撫で、磯の香りがふわりと鼻をくすぐる。夏の熱を含んだ空気は、どこか懐かしい匂いがした。
僕たちは並んで腰を下ろし、しばらく黙ったまま、ただ海を眺めていた。夜ばかり会っていた僕たちにとって、こうして昼間の光の下で過ごす時間は、妙に新鮮だった。
空がまだ青いこと。
周囲が明るいこと。
葵の髪が、光を受けて柔らかく波打っていること。
普段は影に溶け込んでしまいがちな瞳の色が、昼の光を受けて、深い藍色に透き通っていること。
そんな些細なことが、今の僕にはやけに特別なものに思えた。まるで、知らない誰かを見ているような気さえしてくる。
「……人、増えてきたね」
葵がふと、周囲を見渡しながら呟く。
その声に、僕も視線を向ける。
昼間はまばらだった浜辺が、いつの間にか人で溢れかえっていた。
「場所取りしてた連中が戻ってきてる感じだな」
ビニールシートを広げていたグループや、クーラーボックスを抱えた家族連れが、次々と戻ってくる。子どもたちの笑い声が弾け、若者たちは楽しげにスマートフォンをかざして写真を撮っていた。
僕たちのすぐ近くにも、団体客が陣取っていた。右隣では、会社の同僚らしき数人の男性が缶ビールを片手に盛り上がり、左隣には、カップルグループが楽しげに輪を作っている。潮風に乗って、ビールの苦い匂いや、ポテトチップスの塩気が漂ってきた。
葵は軽く息を吐くと、足元の砂を指で掬い、ぱらぱらと落とす。
彼女の横顔が、どこか遠いものを見つめているようだった。
僕はただ、彼女の隣で波の音を聞いていた。
周囲の賑やかな声が、じわじわと僕たちの小さな空間を侵食していくような感覚があった。まるで、僕たち二人だけが場違いな存在になったような——そんな落ち着かなさを、僕は覚えていた。
砂浜の賑わいは、時間が経つにつれてさらに活気を増していた。
潮風に乗って、どこか遠くで焼かれているバーベキューの香ばしい匂いが漂ってくる。すぐ近くでは、波打ち際を走る子どもたちの歓声が絶え間なく響いていた。笑い声、ビール缶のプルタブを開ける音、遠くで鳴るウクレレの音色——それらが入り混じって、浜辺はまるで一つの生き物のようにざわめいている。
そんな中、不意に隣のグループの男性の一人が、僕たちの方へと身を乗り出してきた。
「君たち、高校生? どこから来たの?」
突然の声に、僕は一瞬驚き、無意識に葵の方をちらりと見た。彼女は特に表情を変えず、ただ軽く首を傾げている。どうやら返事をするのは僕の役目らしい。
「えっと……僕たちは四日市から来ました」
なるべく落ち着いた声を意識しながら答える。
「僕が中三で、彼女が高三です」
その瞬間、相手の表情が明らかに驚いたものへと変わった。
「えっ? 中学生と高校生?」
男性は思わず声を上げると、隣の仲間に「おい、聞いたか?」とでも言うように目を向ける。すると、グループの何人かが興味深げにこちらを振り返った。ビール片手に談笑していた男性陣も、一瞬だけ会話を止めて僕たちに視線を送る。
「二人だけで来たの?」
「はい。そうです」
正直に答えると、男性は少し眉を寄せた。
「親御さんとか、心配しない? 大丈夫?」
その問いに、僕は一瞬だけ答えを考えた。別に嘘をつく理由はない。けれど、この人たちが何を気にしているのか、なんとなく察することはできた。
「はい。大丈夫です」
そう短く答えると、男性は少し考え込むように目を細めた。それから、僕の顔と葵の顔を交互に見つめ、何かを測るような表情をした後、ゆっくりと頷いた。
「そっか……まあ、気を付けてな」
それだけ言うと、彼は深く追及することもなく、再び仲間たちの会話へと戻っていった。
僕は小さく息をつき、握りしめていた指をほどいた。
言葉には出さなかったが、葵もどこか緊張していたのかもしれない。ふと横を見ると、彼女がじっと僕の横顔を見つめていた。
「……何?」
そう尋ねると、葵は少しだけ目を細めて、口元に小さな笑みを浮かべた。
肩が小さく震えている。まるで笑いを堪えているかのようだった。
「……どうしたの?」
僕の問いに彼女はすぐには答えず、しばらくの間、唇を引き結んでいた。しかし、耐えきれなくなったのか、ついに「ぷっ」と小さな吹き出す音を漏らすと、クスクスと楽しそうに笑い始めた。
「な、なんだよ?」
理由も分からずに僕が戸惑っていると、葵はようやく落ち着いたのか、片手を軽く振りながら言った。
「多分、あのおじさん、私たちのことカップルだと思ってるよ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「ん? 姉弟だと思われてるんじゃね? 親御さんとか言ってたし」
そう指摘すると、葵は「違うよ」と言わんばかりにゆっくりと首を横に振った。
「ううん、多分ね、お互いの親御さんって意味だよ。陽が彼女とか言うから」
その瞬間、僕の思考が凍りついた。
――僕が中三で、彼女が高三です。
さっき、当たり前のように口にした言葉。あれのどこに誤解される要素があったのか、一瞬だけ考えて――それから、ハッとした。
「……あ」
言葉が遅れて理解に追いつく。
僕が「彼女」と言ったのを、向こうの男性は「恋人」として解釈したんじゃないか――。
「ち、違うって、それはさ、英語で言うところのSheで、ガールフレンドって意味じゃないよ!」
慌てて弁解する僕に、葵は肩をすくめて笑った。
「分かってるよ。でも、多分おじさんはそう解釈したと思うよ」
そう言って、楽しそうに目を細める。
潮風が、さらりと彼女の長い髪を揺らした。夕日に染まりかけた海が、きらきらと光る。
それにしても、無意識のうちにそんなふうに彼女を呼んでいたのか。
改めて思い返してみると、「僕が中3で、彼女が高3です」という言い方は、確かに交際を前提とした響きがあったのかもしれない。実際、あのおじさんはあからさまに驚いた顔をしていたし、仲間内でも小声で何か話していた。たぶん、僕たちの関係についてあれこれ詮索していたのだろう。
――でも、僕にとってはただの言葉の選び間違いだった。
それだけのはずなのに。
「……」
ふと、気恥ずかしさが込み上げてきた。胸の奥が妙にむずむずする。なんだろう、この感じ。
僕は何でもない風を装って、つま先で砂を弄った。サラサラと乾いた砂がこぼれ、足元に新しい模様を描く。ほんの少しだけ波が寄せてきて、僕のつま先を掠めると、ひんやりとした感触が肌に伝わった。その冷たさが、熱を持ちかけた頭をほんの少しだけ落ち着かせてくれる気がした。
しかし、そんな僕の様子をじっと見つめていた葵は、口元を押さえながら、ますます楽しそうに笑い始める。
「ねえ、陽って、そういうときすぐ耳が赤くなるよね」
クスクスと、どこか小悪魔のような声色で言う。
「……うるさいな……」
耳が赤くなったと言われると、余計に熱を帯びてくる気がして、僕は反射的にそっぽを向いた。
「図星?」
楽しそうな彼女の声が、波の音に混ざって届く。
「別に……」
ぎこちなく答えながら、ちらりと視線を向けると、葵は目を細めて僕を見ていた。
海風がふわりと吹き抜ける。
その風に乗って、葵の髪がさらさらと揺れた。長い黒髪が陽の光を受けて、まるで水面のようにきらめく。そんな彼女の姿が妙に印象的で、僕は思わず目を奪われてしまった。
――こんなふうに彼女にからかわれるのは、これが初めてじゃない。
葵はいつだって、僕の反応を楽しみながら笑う。そして僕は、その度にどうしようもなく気恥ずかしくなるのだ。
でも、不思議なことに、嫌ではなかった。
むしろ、心地よいとさえ思ってしまう。
からかわれているはずなのに、どこかくすぐったいような感覚が胸の奥に残る。この気持ちは、一体なんなのだろう。
「陽?」
不意に、葵が首をかしげながら僕の顔を覗き込む。
至近距離で向けられたその瞳に、心臓が一瞬だけ跳ねた。
「な、なんだよ」
「ううん、なんか考え込んでたから」
「べ、別に何も」
慌てて誤魔化そうとした僕の態度に、彼女はまたふっと笑った。
その笑顔が、どうしようもなく眩しかった。
海の向こうで、太陽が少しずつ傾いていく。淡い橙色が波に映り込み、さざめく水面をやわらかく照らしていた。潮風の匂いと、遠くで響く子どもたちの笑い声。そんな何気ない風景のすべてが、なぜかいつもより鮮やかに見えた。
――それがどうしてなのか。
このときの僕は、まだはっきりと分かっていなかった。
ただ、確かなのは――。
僕は葵のことを、これまでとは違う視点で意識し始めたということ。
彼女の仕草。
彼女の声。
彼女の笑顔。
それら全てが、今までよりも強く、鮮やかに僕の心に焼き付いていく。
まるで、波紋のように。
静かに、しかし確実に、僕の心の奥へと広がっていくのを感じていた。



