夏の海風が頬を撫でる。潮騒が遠くから静かに響き、波が寄せては返しながら、規則正しいリズムを刻んでいる。風が吹くたび、かすかな潮の匂いが鼻をくすぐった。
シートの上には僕のスニーカーと、彼女の華奢なサンダルが並んでいる。夕暮れに伸びる影が、風に揺れる波のようにゆらゆらと揺れていた。
「勉強とか、人に教えたことないよ」
ぽつりと口にすると、風にさらわれそうなほど頼りない声になった。
「それでもいいから、お願い!」
彼女は勢いよく身を乗り出し、懇願するように両手の掌を合わせる。
その仕草が妙に子供っぽくて、僕は思わず笑いそうになった。けれど、彼女の瞳には真剣な色が宿っていて、からかう気にはなれなかった。
「……じゃあ、何が分からないの?」
僕が尋ねると、彼女は少しだけ口ごもり、指先でシートの端をもてあそぶ。遠くでカモメの鳴き声が聞こえた。
「ぶっちゃけ、中学の内容も全然分からない」
正直すぎる言葉に、一瞬だけ言葉を失う。
「……じゃあ、英語はどこで躓いた自覚がある?」
僕の問いに、彼女は少し考えるように目を泳がせた後、困ったように首を傾げた。
「うーん、最初から躓いてたと思うけど……三人称単数とかが未だに意味が分からない。何で一人なのに三人称なの?」
その瞬間、僕は思わず息を飲んだ。
予想外の質問だった。
けれど、同時に妙に腑に落ちる感覚もあった。
そういえば、ちょうどあの辺りでクラスの多くの生徒が英語に対して苦手意識を持ち始めていた気がする。動詞の変化、主語の区別、疑問形の作り方——そのあたりから、授業についていけなくなるやつが増えていった。
僕はシートの端を指でなぞりながら、彼女の問いを反芻する。
「一人なのに、三人称……か」
ぽつりとつぶやくと、潮風がさらりと髪を揺らした。
英語を習い始めたばかりの頃、僕自身も少し違和感を覚えたことを思い出す。
なぜheやsheが三人称なのか。
確かに、冷静に考えれば不思議だ。日本語ではそもそも「一人称」「二人称」「三人称」なんて意識しなくても会話は成り立つ。けれど、英語では動詞の形まで変わってしまう。
彼女は僕の顔をじっと見つめながら、次の言葉を待っていた。
その瞳には、わずかに焦燥の色が混じっているように見えた。
——教える、か。
これまで勉強は、あくまで自分のためにするものだと思っていた。いい成績を取るため、志望校に合格するため。それだけだった。
けれど、今この瞬間、目の前にいる彼女は、本気で僕の言葉を求めている。
彼女の真剣な眼差しが、胸の奥に小さな熱を灯した。
「……ああ、それはね、自分視点で見て『三人目』って意味なんだよ」
言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほどすんなりと、説明が形を成し始めるのを感じた。
海風が優しく吹き抜ける。波が遠くでさざめき、白い波頭が陽に照らされて淡く光っている。
僕は砂の上に一本の線を指でなぞった。
「例えば——俺視点だと、俺が一人称で、私のI。で、葵が二人称。あなたのYou。で——」
指先で線を引きながら、僕はふと視界の隅に映る一人の男性を示した。
観光客らしき初老の男が、少し離れた砂浜に座って、缶ビールを傾けている。赤く染まる空の下で、ひとり静かに夕陽を眺めているその姿が、不思議と穏やかに見えた。
「あそこにいるおじさんが、三人目の『三人称』。彼だからHe。こんな感じで、俺と葵以外の誰かは、全部三人称になるんだよ」
砂に引かれた線が、風で少しずつ崩れていく。
僕の言葉が正しく伝わったかどうか、不安だった。でも——
「……えっ? めっちゃ分かりやすいんだけど」
彼女はぱちくりと目を瞬かせ、驚いたように僕の顔を見つめた。
「陽、すごいね。今まで聞いた誰の説明よりも分かりやすいよ。将来、先生になりなよ」
海風が吹き抜け、彼女の髪がふわりと舞う。潮の香りが鼻をくすぐり、遠くでカモメの鳴き声がかすかに響いた。
僕は、彼女の無邪気な提案に苦笑しながら、肩を軽くすくめる。
「うーん、学校の先生は基本好きじゃないから、なりたくないな」
そう言いながら、僕は軽く肩をすくめた。
「えっ、そうなの?」
彼女が意外そうに首を傾げた。
「……あっ、そういえば私も学校の先生嫌いだった!」
次の瞬間、彼女は楽しそうに吹き出した。
「なんか、偉そうにしてるくせに、こっちの気持ち分かってない先生多いもんね!」
その言葉に、僕もつい笑ってしまう。
「分かる。変に説教臭い奴とか、やたら威圧的な先生とか、苦手なんだよな」
「でしょ? それなのに陽の説明は、ちゃんとこっちの目線に立ってて、すごく分かりやすいんだよ」
彼女はそう言いながら、指で砂をさらさらとなぞった。
「陽って、教えるの向いてると思うけどなぁ」
「いや、それはどうかな……」
照れくさくて、適当に言葉を濁す。
だけど、心のどこかで少し嬉しい気持ちもあった。
彼女がそんなふうに褒めてくれるなんて、予想していなかったから。
波の音が寄せては返し、太陽が燦燦と降り注いでいた。
青く輝く海面がきらきらと輝き、遠くのサーファーたちの影が波間に揺れている。
「何か陽って、不思議だよね」
ふと、彼女の声のトーンが少し落ち着いた。
「頭いいのに夜遊びしてて、綺麗な優等生の道も歩めるのに、そんな感じでもなくてさ」
僕は彼女の言葉を聞きながら、無言で足元の砂を指でなぞった。
「答えたくなかったら答えなくていいけど……家庭環境とか、色々あった?」
潮風が強くなり、僕の髪を少し乱す。
「……勘がいいね」
それだけ言って、僕は波の音に耳を傾けた。
遠くの水平線が、青く澄み渡っている。
彼女はそれ以上、何も言わず、ただ静かに僕の横顔を見つめていた。
そのまま、僕たちはしばらく無言で波の音を聞いていた。
「……そっか」
彼女はそれ以上、何も聞こうとはしなかった。
沈黙が流れる。
けれど、それは決して気まずいものではなく、むしろ心地よい静寂だった。余計な言葉を差し挟むことなく、ただ同じ時間を共有しているというだけで、妙な安心感があった。
海風が吹き抜けるたびに、潮の香りがふわりと鼻をかすめる。波が一定のリズムで寄せては返し、まるで世界が大きく呼吸をしているようだった。
彼女は足を伸ばして、軽くつま先で砂を掬い上げる。崩れ落ちた細かな粒が、さらさらと音を立てながら、白く滑らかな肌の上を転がっていく。
「花火まで、まだだいぶ時間あるけど……どうする?」
僕はそう問いかけながら、遠くの空を見上げた。
空はまだ、真っ青な夏の色を残している。太陽は高く、一日の中で最も輝いている時間帯だ。
遠くの方で、子どもたちのはしゃぐ声が風に乗って聞こえてくる。浜辺で遊んでいた家族連れだろうか。小さな波が足元をさらい、彼らの笑い声は波の音と混ざり合いながら、ゆっくりと昼の光に溶けていく。
「近くにはジャスコぐらいしかないけど」
僕は軽く指先で砂をなぞりながら、ぼんやりと遠くの光を見つめた。商業施設の明かりが、海沿いの街並みにぽつぽつと灯っている。少し歩けば辿り着く距離だが、こうして海辺で風を感じているのも悪くない。
彼女はしばらく黙ったまま、じっと波の動きを見つめていた。規則正しく寄せてくる波が、足元に流れ込んでは、音もなく引いていく。
やがて、そっと目を閉じ、深く息を吸い込む。
「このままでいいよ」
静かで、柔らかな声だった。
「波の音を聞いて、磯の香りを嗅ぎながら、陽と過ごす——私にとって、これ以上の贅沢はないよ」
彼女はそう言うと、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、遠くの水平線を映して、微かに揺らめいている。
僕は一瞬、言葉に詰まった。
くすぐったいような、でもどこか嬉しくなるような感覚が胸の奥を満たしていく。
風が吹き、彼女の髪がふわりと揺れる。横顔をそっと照らす太陽の光が、彼女を淡く彩る。
不意に、喉が渇いた気がした。
「……大袈裟だな」
海風に紛れてしまいそうなほど小さな声で呟く。
それでも——
「でも、何か嬉しい。ありがと……」
言い切る前に、不意に彼女の顔が近づいてきた。
心臓が一瞬、大きく跳ねる。
距離が近い。
彼女の瞳が、まっすぐに僕を捉えている。
波がそっと寄せ、僕たちの間の空気が、少しだけ甘くなった気がした——。
唇に、温かく、柔らかな感触が触れる。
その瞬間、思考が止まった。
まるで時間が凍りついたかのように、周囲の音が遠のいていく。
波の音も、風のざわめきも、遠くを歩く人々の話し声も、すべてがかき消される。ただ、彼女のぬくもりだけが鮮やかに感じられた。
頬に、昼の潮風が優しく吹き抜ける。
彼女の唇が、そっと離れる。
その一瞬、名残惜しさのような感覚が胸をかすめる。
彼女の顔が、すぐ目の前にあった。
太陽を背にした彼女の横顔は、ほんのりと赤みを帯びている。
風が吹くたびに、長い髪がふわりと揺れた。陽の光を受けた髪の毛の先が、きらきらと光って見える。
僕は、まだ余韻に囚われたままだった。
心臓が、煩わしいほどに高鳴っている。
胸の奥から、波打つように鼓動が響いているのがわかる。
「……えっ?」
ようやく絞り出した声は、ひどく頼りなかった。
そんな僕の反応を見て、彼女はふっと微笑む。そして、軽く唇に指を当てた。
「酒臭くなかったでしょ?」
少し得意げな顔で、彼女は続ける。
「この日のために、三日間禁酒したんだからね」
僕は、まだ思考が追いつかず、ただ彼女の顔をじっと見つめることしかできなかった。
三日間——。
そう言われて初めて、彼女の真剣さが胸の奥にじわじわと広がっていく。
彼女は、この瞬間のために、ずっと準備していたのか。
それを思うと、胸の奥が妙に熱くなる。
風が吹いた。
彼女の髪が、さらりと舞う。
太陽の下で、その髪はまるで光をまとった絹糸のように柔らかく輝いていた。
何か言わなければいけない。
何か、伝えなければいけないのに——。
なのに、言葉が、うまく出てこない。
彼女はじっと僕を見つめる。
その瞳の奥に、わずかな不安の色が滲んでいることに気づいた。
「……嫌だった?」
ほんの少し眉をひそめながら、彼女が小さく呟く。
その瞬間、僕の心が大きく揺れた。
違う。そうじゃない。
そんなふうに思わせるつもりなんて、まったくなかった。
「……嫌じゃない。全然嫌じゃないよ!」
思わず、強い口調になってしまった。
彼女の瞳が、一瞬驚いたように見開かれる。
そして——次の瞬間、彼女はふっと笑った。
それは、先ほどまでの照れや緊張が溶けていくような、柔らかく温かな笑みだった。
安心したように、彼女の肩が少しだけ緩む。
そのまま、彼女はそっと僕の手を握った。
細くて、温かくて、少しだけ力のこもった指先が、僕の手のひらに絡まる。
波の音が、再び耳に戻ってきた。
遠くの空には、まだ太陽が燦燦と輝いている。
彼女のぬくもりが、確かに僕の心へと広がっていく。
風が吹く。
その風がどれほど強くても、僕の手の中にあるこの温もりが、すべてを包み込んでくれそうな気がした——。
「はあ……まさか私のファーストキスの相手が、三つも年下の中学生になるとはな……」
海風に髪を揺らしながら、葵はどこか自嘲気味に呟いた。
彼女の長い髪がさらりと靡く。太陽の光が波間に反射し、海辺全体を明るく照らしていた。穏やかな波の音が、打ち寄せては引いていく。空はまだ青く、昼の時間がゆっくりと流れている。
僕は彼女の言葉をすぐには理解できなかった。
「えっ?」
口をついて出た言葉は、それだけだった。
今の、どういう意味だ?
僕は思わず彼女の横顔を見つめる。彼女はどこか遠くを眺めるように視線を投げていた。太陽を背にした横顔は、どこか儚げで、それでもどこか吹っ切れたような、そんな表情を浮かべていた。
「葵もファーストキスなの!?」
驚きがそのまま声になった。
彼女ほど綺麗で、少し大人びた雰囲気を持つ人なら、これまでに恋人の一人や二人いてもおかしくない——いや、むしろいて当然だと、勝手に思い込んでいた。だから、彼女の口から「ファーストキス」なんて単語が出てくること自体、まったく信じられなかった。
葵はそんな僕の反応を見て、ふっと小さく笑う。
「葵も、ってことは……陽も?」
そう言って、彼女が小首を傾げる。
その仕草があまりにも自然で、大人っぽさの中にどこか少女のような無邪気さが混じっていて、僕は一瞬、視線を逸らしそうになった。
「うん。まあ……そうなるかな」
正直に頷くと、葵は少し驚いたように目を丸くしたあと、すぐに苦笑しながら肩をすくめた。
「ごめんね。貴重なファーストキス、奪っちゃって」
昼下がりの海風に紛れるような、控えめな声だった。
彼女の瞳が、申し訳なさそうに伏せられる。
その仕草が、なぜか胸に引っかかった。
奪った——そんなふうに言うけれど、僕は嫌だったわけじゃない。むしろ、まだ心臓の鼓動が落ち着かないくらいには、動揺していた。
「いや、それは別にいいんだけど……」
慌てて首を振る。
「だけど?」
葵が僕の顔を覗き込むように、少し身を寄せてくる。
近い。
潮風に乗って、微かに甘いシャンプーの香りがした。
心臓が、また跳ねる。
彼女の瞳の奥には、冗談めいた色が浮かんでいたけれど、どこか探るような、そんな視線にも思えた。
「いや、ちょっと意外だった。葵も今までキスしたことがなかったなんて」
僕はそう呟きながら、波打ち際へと視線を向ける。
「アハハ」
葵は海へと目を向け、短く笑った。
波の音に紛れるような、軽やかな笑い声だった。でも、その響きの奥に、どこか寂しげなものが混じっているような気がした。
「こんな世捨て人みたいな女のこと、誰も好きにならんよ」
冗談めかした口調だった。でも、その言葉はまるで、長年染み付いた何かを吐き出すようで——。
僕はなぜだか、その言葉を否定したくなった。
「そんなことないよ」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。
彼女が驚いたように僕を見つめる。
「葵は優しいし、普通に可愛いし」
自分で言いながら、少しだけ気恥ずかしくなる。でも、本心だった。
彼女は一瞬、目を瞬かせた。
「……年下から可愛いなんて、初めて言われたよ」
日差しに照らされた彼女の横顔が、ほんのりと赤みを帯びる。
「ありがとう」
そう呟くと、葵はふっと身体を寄せてきた。
彼女の体温が、ふわりと触れる。
海辺の静けさの中で、彼女の唇が再び僕に触れた。
さっきよりも、少しだけ長く。
それは、頬を撫でる潮風よりも温かくて、砂浜を打つ波よりも静かだった。
波の音が、まるで遠くの記憶のようにぼんやりと響いている。
ゆっくりと唇が離れたあと、葵は恥ずかしそうに微笑んだ。
「これで……セカンドキスだね」
頬を火照らせながら、少し照れくさそうに言う。
「セカンドキスなんて言葉、初めて聞いたよ」
僕がそう返すと、彼女は肩をすくめて小さく笑った。
「うん。私も、自分で言っておいて初めて聞いた」
二人して顔を見合わせ、くすくすと笑う。
まるで秘密を共有する子どもみたいに。
さっきまでのぎこちなさが嘘のように、そこには穏やかで無邪気な空気が広がっていた。
シートの上には僕のスニーカーと、彼女の華奢なサンダルが並んでいる。夕暮れに伸びる影が、風に揺れる波のようにゆらゆらと揺れていた。
「勉強とか、人に教えたことないよ」
ぽつりと口にすると、風にさらわれそうなほど頼りない声になった。
「それでもいいから、お願い!」
彼女は勢いよく身を乗り出し、懇願するように両手の掌を合わせる。
その仕草が妙に子供っぽくて、僕は思わず笑いそうになった。けれど、彼女の瞳には真剣な色が宿っていて、からかう気にはなれなかった。
「……じゃあ、何が分からないの?」
僕が尋ねると、彼女は少しだけ口ごもり、指先でシートの端をもてあそぶ。遠くでカモメの鳴き声が聞こえた。
「ぶっちゃけ、中学の内容も全然分からない」
正直すぎる言葉に、一瞬だけ言葉を失う。
「……じゃあ、英語はどこで躓いた自覚がある?」
僕の問いに、彼女は少し考えるように目を泳がせた後、困ったように首を傾げた。
「うーん、最初から躓いてたと思うけど……三人称単数とかが未だに意味が分からない。何で一人なのに三人称なの?」
その瞬間、僕は思わず息を飲んだ。
予想外の質問だった。
けれど、同時に妙に腑に落ちる感覚もあった。
そういえば、ちょうどあの辺りでクラスの多くの生徒が英語に対して苦手意識を持ち始めていた気がする。動詞の変化、主語の区別、疑問形の作り方——そのあたりから、授業についていけなくなるやつが増えていった。
僕はシートの端を指でなぞりながら、彼女の問いを反芻する。
「一人なのに、三人称……か」
ぽつりとつぶやくと、潮風がさらりと髪を揺らした。
英語を習い始めたばかりの頃、僕自身も少し違和感を覚えたことを思い出す。
なぜheやsheが三人称なのか。
確かに、冷静に考えれば不思議だ。日本語ではそもそも「一人称」「二人称」「三人称」なんて意識しなくても会話は成り立つ。けれど、英語では動詞の形まで変わってしまう。
彼女は僕の顔をじっと見つめながら、次の言葉を待っていた。
その瞳には、わずかに焦燥の色が混じっているように見えた。
——教える、か。
これまで勉強は、あくまで自分のためにするものだと思っていた。いい成績を取るため、志望校に合格するため。それだけだった。
けれど、今この瞬間、目の前にいる彼女は、本気で僕の言葉を求めている。
彼女の真剣な眼差しが、胸の奥に小さな熱を灯した。
「……ああ、それはね、自分視点で見て『三人目』って意味なんだよ」
言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほどすんなりと、説明が形を成し始めるのを感じた。
海風が優しく吹き抜ける。波が遠くでさざめき、白い波頭が陽に照らされて淡く光っている。
僕は砂の上に一本の線を指でなぞった。
「例えば——俺視点だと、俺が一人称で、私のI。で、葵が二人称。あなたのYou。で——」
指先で線を引きながら、僕はふと視界の隅に映る一人の男性を示した。
観光客らしき初老の男が、少し離れた砂浜に座って、缶ビールを傾けている。赤く染まる空の下で、ひとり静かに夕陽を眺めているその姿が、不思議と穏やかに見えた。
「あそこにいるおじさんが、三人目の『三人称』。彼だからHe。こんな感じで、俺と葵以外の誰かは、全部三人称になるんだよ」
砂に引かれた線が、風で少しずつ崩れていく。
僕の言葉が正しく伝わったかどうか、不安だった。でも——
「……えっ? めっちゃ分かりやすいんだけど」
彼女はぱちくりと目を瞬かせ、驚いたように僕の顔を見つめた。
「陽、すごいね。今まで聞いた誰の説明よりも分かりやすいよ。将来、先生になりなよ」
海風が吹き抜け、彼女の髪がふわりと舞う。潮の香りが鼻をくすぐり、遠くでカモメの鳴き声がかすかに響いた。
僕は、彼女の無邪気な提案に苦笑しながら、肩を軽くすくめる。
「うーん、学校の先生は基本好きじゃないから、なりたくないな」
そう言いながら、僕は軽く肩をすくめた。
「えっ、そうなの?」
彼女が意外そうに首を傾げた。
「……あっ、そういえば私も学校の先生嫌いだった!」
次の瞬間、彼女は楽しそうに吹き出した。
「なんか、偉そうにしてるくせに、こっちの気持ち分かってない先生多いもんね!」
その言葉に、僕もつい笑ってしまう。
「分かる。変に説教臭い奴とか、やたら威圧的な先生とか、苦手なんだよな」
「でしょ? それなのに陽の説明は、ちゃんとこっちの目線に立ってて、すごく分かりやすいんだよ」
彼女はそう言いながら、指で砂をさらさらとなぞった。
「陽って、教えるの向いてると思うけどなぁ」
「いや、それはどうかな……」
照れくさくて、適当に言葉を濁す。
だけど、心のどこかで少し嬉しい気持ちもあった。
彼女がそんなふうに褒めてくれるなんて、予想していなかったから。
波の音が寄せては返し、太陽が燦燦と降り注いでいた。
青く輝く海面がきらきらと輝き、遠くのサーファーたちの影が波間に揺れている。
「何か陽って、不思議だよね」
ふと、彼女の声のトーンが少し落ち着いた。
「頭いいのに夜遊びしてて、綺麗な優等生の道も歩めるのに、そんな感じでもなくてさ」
僕は彼女の言葉を聞きながら、無言で足元の砂を指でなぞった。
「答えたくなかったら答えなくていいけど……家庭環境とか、色々あった?」
潮風が強くなり、僕の髪を少し乱す。
「……勘がいいね」
それだけ言って、僕は波の音に耳を傾けた。
遠くの水平線が、青く澄み渡っている。
彼女はそれ以上、何も言わず、ただ静かに僕の横顔を見つめていた。
そのまま、僕たちはしばらく無言で波の音を聞いていた。
「……そっか」
彼女はそれ以上、何も聞こうとはしなかった。
沈黙が流れる。
けれど、それは決して気まずいものではなく、むしろ心地よい静寂だった。余計な言葉を差し挟むことなく、ただ同じ時間を共有しているというだけで、妙な安心感があった。
海風が吹き抜けるたびに、潮の香りがふわりと鼻をかすめる。波が一定のリズムで寄せては返し、まるで世界が大きく呼吸をしているようだった。
彼女は足を伸ばして、軽くつま先で砂を掬い上げる。崩れ落ちた細かな粒が、さらさらと音を立てながら、白く滑らかな肌の上を転がっていく。
「花火まで、まだだいぶ時間あるけど……どうする?」
僕はそう問いかけながら、遠くの空を見上げた。
空はまだ、真っ青な夏の色を残している。太陽は高く、一日の中で最も輝いている時間帯だ。
遠くの方で、子どもたちのはしゃぐ声が風に乗って聞こえてくる。浜辺で遊んでいた家族連れだろうか。小さな波が足元をさらい、彼らの笑い声は波の音と混ざり合いながら、ゆっくりと昼の光に溶けていく。
「近くにはジャスコぐらいしかないけど」
僕は軽く指先で砂をなぞりながら、ぼんやりと遠くの光を見つめた。商業施設の明かりが、海沿いの街並みにぽつぽつと灯っている。少し歩けば辿り着く距離だが、こうして海辺で風を感じているのも悪くない。
彼女はしばらく黙ったまま、じっと波の動きを見つめていた。規則正しく寄せてくる波が、足元に流れ込んでは、音もなく引いていく。
やがて、そっと目を閉じ、深く息を吸い込む。
「このままでいいよ」
静かで、柔らかな声だった。
「波の音を聞いて、磯の香りを嗅ぎながら、陽と過ごす——私にとって、これ以上の贅沢はないよ」
彼女はそう言うと、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、遠くの水平線を映して、微かに揺らめいている。
僕は一瞬、言葉に詰まった。
くすぐったいような、でもどこか嬉しくなるような感覚が胸の奥を満たしていく。
風が吹き、彼女の髪がふわりと揺れる。横顔をそっと照らす太陽の光が、彼女を淡く彩る。
不意に、喉が渇いた気がした。
「……大袈裟だな」
海風に紛れてしまいそうなほど小さな声で呟く。
それでも——
「でも、何か嬉しい。ありがと……」
言い切る前に、不意に彼女の顔が近づいてきた。
心臓が一瞬、大きく跳ねる。
距離が近い。
彼女の瞳が、まっすぐに僕を捉えている。
波がそっと寄せ、僕たちの間の空気が、少しだけ甘くなった気がした——。
唇に、温かく、柔らかな感触が触れる。
その瞬間、思考が止まった。
まるで時間が凍りついたかのように、周囲の音が遠のいていく。
波の音も、風のざわめきも、遠くを歩く人々の話し声も、すべてがかき消される。ただ、彼女のぬくもりだけが鮮やかに感じられた。
頬に、昼の潮風が優しく吹き抜ける。
彼女の唇が、そっと離れる。
その一瞬、名残惜しさのような感覚が胸をかすめる。
彼女の顔が、すぐ目の前にあった。
太陽を背にした彼女の横顔は、ほんのりと赤みを帯びている。
風が吹くたびに、長い髪がふわりと揺れた。陽の光を受けた髪の毛の先が、きらきらと光って見える。
僕は、まだ余韻に囚われたままだった。
心臓が、煩わしいほどに高鳴っている。
胸の奥から、波打つように鼓動が響いているのがわかる。
「……えっ?」
ようやく絞り出した声は、ひどく頼りなかった。
そんな僕の反応を見て、彼女はふっと微笑む。そして、軽く唇に指を当てた。
「酒臭くなかったでしょ?」
少し得意げな顔で、彼女は続ける。
「この日のために、三日間禁酒したんだからね」
僕は、まだ思考が追いつかず、ただ彼女の顔をじっと見つめることしかできなかった。
三日間——。
そう言われて初めて、彼女の真剣さが胸の奥にじわじわと広がっていく。
彼女は、この瞬間のために、ずっと準備していたのか。
それを思うと、胸の奥が妙に熱くなる。
風が吹いた。
彼女の髪が、さらりと舞う。
太陽の下で、その髪はまるで光をまとった絹糸のように柔らかく輝いていた。
何か言わなければいけない。
何か、伝えなければいけないのに——。
なのに、言葉が、うまく出てこない。
彼女はじっと僕を見つめる。
その瞳の奥に、わずかな不安の色が滲んでいることに気づいた。
「……嫌だった?」
ほんの少し眉をひそめながら、彼女が小さく呟く。
その瞬間、僕の心が大きく揺れた。
違う。そうじゃない。
そんなふうに思わせるつもりなんて、まったくなかった。
「……嫌じゃない。全然嫌じゃないよ!」
思わず、強い口調になってしまった。
彼女の瞳が、一瞬驚いたように見開かれる。
そして——次の瞬間、彼女はふっと笑った。
それは、先ほどまでの照れや緊張が溶けていくような、柔らかく温かな笑みだった。
安心したように、彼女の肩が少しだけ緩む。
そのまま、彼女はそっと僕の手を握った。
細くて、温かくて、少しだけ力のこもった指先が、僕の手のひらに絡まる。
波の音が、再び耳に戻ってきた。
遠くの空には、まだ太陽が燦燦と輝いている。
彼女のぬくもりが、確かに僕の心へと広がっていく。
風が吹く。
その風がどれほど強くても、僕の手の中にあるこの温もりが、すべてを包み込んでくれそうな気がした——。
「はあ……まさか私のファーストキスの相手が、三つも年下の中学生になるとはな……」
海風に髪を揺らしながら、葵はどこか自嘲気味に呟いた。
彼女の長い髪がさらりと靡く。太陽の光が波間に反射し、海辺全体を明るく照らしていた。穏やかな波の音が、打ち寄せては引いていく。空はまだ青く、昼の時間がゆっくりと流れている。
僕は彼女の言葉をすぐには理解できなかった。
「えっ?」
口をついて出た言葉は、それだけだった。
今の、どういう意味だ?
僕は思わず彼女の横顔を見つめる。彼女はどこか遠くを眺めるように視線を投げていた。太陽を背にした横顔は、どこか儚げで、それでもどこか吹っ切れたような、そんな表情を浮かべていた。
「葵もファーストキスなの!?」
驚きがそのまま声になった。
彼女ほど綺麗で、少し大人びた雰囲気を持つ人なら、これまでに恋人の一人や二人いてもおかしくない——いや、むしろいて当然だと、勝手に思い込んでいた。だから、彼女の口から「ファーストキス」なんて単語が出てくること自体、まったく信じられなかった。
葵はそんな僕の反応を見て、ふっと小さく笑う。
「葵も、ってことは……陽も?」
そう言って、彼女が小首を傾げる。
その仕草があまりにも自然で、大人っぽさの中にどこか少女のような無邪気さが混じっていて、僕は一瞬、視線を逸らしそうになった。
「うん。まあ……そうなるかな」
正直に頷くと、葵は少し驚いたように目を丸くしたあと、すぐに苦笑しながら肩をすくめた。
「ごめんね。貴重なファーストキス、奪っちゃって」
昼下がりの海風に紛れるような、控えめな声だった。
彼女の瞳が、申し訳なさそうに伏せられる。
その仕草が、なぜか胸に引っかかった。
奪った——そんなふうに言うけれど、僕は嫌だったわけじゃない。むしろ、まだ心臓の鼓動が落ち着かないくらいには、動揺していた。
「いや、それは別にいいんだけど……」
慌てて首を振る。
「だけど?」
葵が僕の顔を覗き込むように、少し身を寄せてくる。
近い。
潮風に乗って、微かに甘いシャンプーの香りがした。
心臓が、また跳ねる。
彼女の瞳の奥には、冗談めいた色が浮かんでいたけれど、どこか探るような、そんな視線にも思えた。
「いや、ちょっと意外だった。葵も今までキスしたことがなかったなんて」
僕はそう呟きながら、波打ち際へと視線を向ける。
「アハハ」
葵は海へと目を向け、短く笑った。
波の音に紛れるような、軽やかな笑い声だった。でも、その響きの奥に、どこか寂しげなものが混じっているような気がした。
「こんな世捨て人みたいな女のこと、誰も好きにならんよ」
冗談めかした口調だった。でも、その言葉はまるで、長年染み付いた何かを吐き出すようで——。
僕はなぜだか、その言葉を否定したくなった。
「そんなことないよ」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。
彼女が驚いたように僕を見つめる。
「葵は優しいし、普通に可愛いし」
自分で言いながら、少しだけ気恥ずかしくなる。でも、本心だった。
彼女は一瞬、目を瞬かせた。
「……年下から可愛いなんて、初めて言われたよ」
日差しに照らされた彼女の横顔が、ほんのりと赤みを帯びる。
「ありがとう」
そう呟くと、葵はふっと身体を寄せてきた。
彼女の体温が、ふわりと触れる。
海辺の静けさの中で、彼女の唇が再び僕に触れた。
さっきよりも、少しだけ長く。
それは、頬を撫でる潮風よりも温かくて、砂浜を打つ波よりも静かだった。
波の音が、まるで遠くの記憶のようにぼんやりと響いている。
ゆっくりと唇が離れたあと、葵は恥ずかしそうに微笑んだ。
「これで……セカンドキスだね」
頬を火照らせながら、少し照れくさそうに言う。
「セカンドキスなんて言葉、初めて聞いたよ」
僕がそう返すと、彼女は肩をすくめて小さく笑った。
「うん。私も、自分で言っておいて初めて聞いた」
二人して顔を見合わせ、くすくすと笑う。
まるで秘密を共有する子どもみたいに。
さっきまでのぎこちなさが嘘のように、そこには穏やかで無邪気な空気が広がっていた。



