二回の乗り換えを挟みながら、僕たちは五時間かけて熊野駅へとたどり着いた。
 長い道のりだったはずなのに、不思議と退屈することはなかった。
 電車が進むにつれ、景色は刻一刻と表情を変えた。
 最初は見慣れた住宅街や工場地帯が続いていたが、それがいつしか広大な田園風景へと移り変わる。黄金色の稲穂が風に揺れ、その間を縫うように一本の小川が流れている。
 さらに電車が進むと、今度は緑濃い山々が車窓に映り込んだ。木々の合間には、小さな神社や古びた駅舎がぽつんと佇んでいる。
 そして、山を抜けると、一気に視界が開けた。
 目の前に広がるのは、どこまでも続く青い海。
 波が寄せては返し、太陽の光を受けて白くきらめいている。その美しさに、思わず息をのんだ。
 そのとき、隣から小さな声が聞こえてくる。
「すごい……!」
 彼女はまるで子どものように目を輝かせ、窓の外を見つめていた。
 目を大きく見開き、息を呑むたびに、表情がくるくると変わる。
「ねえ見て! あの川、すっごく透き通ってる!」
 車窓の外には、まるでガラス細工のように澄んだ川が広がっていた。川底の丸い石までもがはっきりと見える。川の流れは穏やかで、その上を白鷺がゆったりと舞い降りる。
 彼女は身を乗り出すように窓の向こうを覗き込み、そのたびに肩まで届く髪がふわりと揺れた。
「わっ、今の鳥、すごい飛び方しなかった? 何て名前だろう?」
 彼女が指さしたのは、風を切るように滑空する一羽の猛禽類だった。鋭い翼が空を裂くように動き、やがて川沿いの木々の間へと消えていく。
 僕はちらりと彼女の横顔を盗み見た。目を大きく見開き、まるで今この瞬間を記憶に刻みつけるかのように、じっと景色を追っている。
「海! ほら、陽! 見て! めっちゃ青いよ!」
 彼女の声が弾む。
 電車はちょうど山間を抜け、目の前には大きく開けた海が広がっていた。深い群青の水面が、陽の光を受けてきらめいている。寄せては返す波が、白く泡立ちながら岸を洗う。その広大な景色に、僕も思わず息をのんだ。
 それでも、僕の視線は彼女の方へと引き寄せられる。
 彼女はずっと窓に張り付き、感動を全身で表現していた。
 手を頬に当て、目を輝かせながら、小さな子供のように次々と言葉を紡ぐ。
 そんな彼女を横目で見ながら、僕は心の奥で密かに思ってしまっていた。
——可愛いな。
 年上の女性に対して「可愛い」と思うのは、これが初めてだった。
 彼女の笑顔は作り物ではなく、純粋な感情の発露だった。まるで子供のように無邪気で、でも子供とは違う、どこか儚げな輝きを宿している。
 この人は、いつもこんな風に笑っているのだろうか? それとも、こうやって旅に出たときだけ?
 彼女が窓の外に見入る横顔を見つめながら、そんなことを考えていた。
 電車の振動がわずかに変わる。
 列車はゆるやかに速度を落とし、車内アナウンスが流れる。
「終点、熊野駅です」
 その言葉とともに、電車は静かにホームへと滑り込んだ。
 電車を降りた瞬間、潮の香りが鼻をかすめた。
 それまで車内に満ちていた空調の乾いた空気とは違う、生温かく、少し湿った潮風。
 思わず大きく息を吸い込むと、磯の香りが肺の奥まで満ちていく。
 海が近い。
 駅の構内は決して広くはない。
 木造の屋根がかすかに軋み、年季の入ったベンチが並ぶ。誰が書いたのか分からない落書きが、ベンチの隅にこっそりと刻まれている。
 壁には色褪せた観光案内のポスターがいくつも貼られていた。
 鮮やかな花火が夜空を彩るもの。熊野古道の緑深い木々に囲まれたもの。そして、青い海と広い砂浜が広がるもの。
 彼女はポスターの一枚を指さして言った。
「ねえ、ここ! この景色、絶対に本物で見たい!」
 そこには、夕暮れに染まる砂浜と真っ青な海が写っていた。
 その景色が、これから僕たちが向かう場所なのだと思うと——少しだけ、胸が高鳴った。
 駅を出ると、そこには静かな漁村の風景が広がっていた。
 潮風に晒されて色あせた家々が、道の両側に肩を寄せ合うように並んでいる。屋根には塩の結晶がこびりつき、ところどころ瓦が欠けていた。壁には古びた看板が掛けられているが、かすれた文字は長年の風雨に削られて、かろうじて判読できる程度だった。
 道端には、今にも崩れそうな木のベンチ。誰が置いたのか分からない花の鉢植えが端に乗っていて、そこだけぽつんと鮮やかな色を添えている。
 ゆるやかな坂道の途中に、昔ながらの商店がぽつんと一軒だけあった。店先には、年季の入った木の引き戸。その上にぶら下がる氷旗が、潮風を受けて静かに揺れている。赤と青の染料が色褪せ、布の端がほつれているのが見えた。
 その光景は、僕の記憶の中の熊野とほとんど変わらなかった。
 それでも、今日のこの町は、いつもの姿とは少し違う。
 花火大会の日だからだ。
 普段なら人通りの少ない道にも、ちらほらと観光客の姿が見える。
 小さな子どもを連れた家族、浴衣姿の若い女性たち、手を繋いだカップル――。それぞれが、どこか浮き立つような足取りで歩いていた。
 道沿いの電柱には、花火大会の案内看板がいくつも括り付けられている。白地に赤い筆文字で「熊野大花火大会」と書かれたそれは、時間の経過とともに少しずつ傾き、風に吹かれるたびにかすかに揺れていた。
 僕たちは、その看板を目印にするように、ゆっくりと歩き出す。
 僕たちの前を歩く二人組の高校生が、スマホを片手にどこか楽しげに笑い合っている。その隣では、小さな女の子が浴衣の裾をぱたぱたと翻しながら、母親の手を引いて小走りになっていた。
 まるで町全体が、一つの方向へと吸い寄せられているようだった。
「なんか、いいね。こういうの」
 ふいに、隣を歩く葵が、小さく呟いた。
 僕は視線を向ける。
 彼女は少し顔を上げ、遠くを見つめながら、風を受けるように目を細めていた。
「こういうの?」
「うん。みんなが同じ方向に向かって歩いてるのって、何かワクワクしない?」
 そう言うと、彼女はくすりと微笑んだ。
 その笑顔は、どこか遠い昔の記憶を呼び覚ますような、懐かしさを含んでいた。
 僕は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく頷いた。
「そうかもな」
 彼女につられるように、僕も微笑む。
 不思議な一体感があった。
 この町を初めて訪れた人も、何度も来ている人も、今この瞬間だけは、同じ目的地を目指している。
 見知らぬ人同士なのに、同じ期待を共有し、同じ未来を見ている。
 まるで大きな流れに乗るように、僕たちはゆっくりと歩みを進めた。

 そして歩くこと十分ほど。
 狭い路地を抜け、潮の香りが一層強くなった瞬間、視界がぱっと開けた。
 目の前には、広大な青い海が広がっていた。
 空の青さをそのまま映したような水面が、陽の光を受けて煌めき、遠く水平線の向こうへと溶け込んでいく。穏やかに揺れる波は、寄せては返し、白く砕けるたびにさらさらと細やかな音を奏でていた。
 海岸にはすでに多くの人々が集まり、所狭しとビニールシートが敷かれている。
 砂浜の上には、無数のブルーシートが折り重なるように広がっていた。遠目に見れば、それはまるで海の一部が陸地へと流れ込んだような光景にも思えた。
 中には、木の杭とロープで自分たちの区画を確保している団体もいれば、家族連れが折り畳み椅子をずらりと並べ、子供たちは小さなスコップを手に穴を掘って遊んでいた。カップルはレジャーシートの上に座り、日差しを避けるように肩を寄せ合いながら、お弁当を広げている。
「うわあ、もうこんなに場所取りされてるよ。本当に人気なんだね」
 彼女の弾んだ声が、潮風に乗って耳に届く。
 横を見ると、葵は驚いたように目を丸くしながら、砂浜を見渡していた。
 その瞳には、無数のブルーシートや折りたたみ椅子、色とりどりのパラソルが映り込んでいる。まるでパズルのピースが砂の上に散りばめられたように、整然とはしていないが、それぞれの形を持った賑やかな風景が広がっていた。
 ロープで区画を確保しているグループは、まるでここが自分たちの庭であるかのようにくつろぎ、簡易テントの中では幼い子どもが昼寝をしている。近くのシートでは、学生らしき若者たちがカードゲームに興じ、たまに響く笑い声が波の音に混じって心地よく響いていた。
 僕たちが到着したのはまだ午前中だった。
 それでも、空いているスペースはほとんどない。
 砂浜を一望すると、人の波が生き物のようにうねりながら、じわじわと広がっていくのが分かった。まるで夏の太陽が照りつけるこの海岸の熱が、人々を引き寄せ、離さないようにしているみたいだった。
 僕は足元の砂を軽く蹴ってみる。
 細かい砂粒がふわりと舞い、すぐにまた元の場所へと戻る。
 こんなに早くからこれほど多くの人が集まっているのに、海は変わらず静かだった。どこまでも広がる水面は、何事もないかのように凪いでいる。
 この場所で、夜には綺麗な花火が打ち上がる。
 そして、葵と一緒にそれを見ることができる。
 そんなことを考えながら、僕は再び彼女に目を向けた。
 葵は風を感じるように目を閉じ、一瞬、じっと立ち尽くしていた。
 彼女の肩まで伸びる髪が潮風に乗ってふわりと揺れ、その隙間から覗く横顔には、どこか遠い記憶を辿るような、淡い感情が滲んでいる気がした。
 まるでこの風景が、彼女の中にある何かと重なっているみたいに――。
「子供の頃の記憶のまんまだよ」
 ふと、そんな言葉が口をついた。
 潮風に乗って運ばれてくる、どこか懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。
 海の匂いは、単なる塩の香りだけじゃない。潮が運んでくる海藻や砂の匂い、浜辺に打ち上げられた貝殻や流木のかすかな香り、それらが混ざり合い、この場所独特の空気を作り出している。
 耳を澄ませば、寄せては返す波の音の合間に、子供たちの甲高い笑い声が響いていた。波打ち際で無邪気に走り回る姿が、まるで小さな魚たちが跳ね回っているように見える。裸足で砂の上を駆けるたびに、白いしぶきが舞い上がり、太陽の光を反射して一瞬だけきらめく。
 足元を見れば、砂に半ば埋もれながらも、浜昼顔が健気に咲いている。淡い紫色の花びらが、風に揺れながらも決して倒れず、陽の光をいっぱいに受け止めている。
 その光景を目にした途端、胸の奥で何かがじんわりと広がった。
 ただの風景のはずなのに、記憶の中の景色と重なり合い、心の奥底に眠っていた感覚がゆっくりと目を覚ます。幼い頃、家族とともに訪れた夏の海。父に手を引かれ、母の笑顔に包まれ、姉と競い合うように波打ち際を駆けたあの日。眩しすぎる太陽の光と、肌を焼くような砂の熱さ。氷で冷やされたラムネの瓶が、手のひらの中でひんやりとした感触を残していたことまで、鮮明に蘇ってくる。
「おっ、表情がキラキラしてきたね」
 突然、間近に声が響いた。
 はっとして顔を上げると、彼女がいたずらっぽく微笑みながら、僕の顔を覗き込んでいる。
「当時の陽少年に戻っちゃった感じ?」
 僕は一瞬、どう答えようか迷った。
 確かに懐かしさに胸を満たされているけれど、同時に、あの頃とは違う感覚もある。それが何なのかは、うまく言葉にできなかった。ただ、あの頃は家族と一緒にいた。両親や姉と過ごした時間が、今の自分の記憶の中でやわらかな光を放っている。
「……いや、子供の頃は家族と来たから。その時とはちょっと違うよね」
「ふうん、そっか」
 彼女は軽く頷き、それ以上は深く聞こうとしなかった。
 たわいもない会話を交わしながら、僕たちは砂浜を歩く。
 足を踏み出すたびに、白い砂がスニーカーの隙間から入り込み、くすぐったい感触が足裏をかすめた。柔らかい砂に足を取られながら進むたびに、重心のかけ方を工夫しないといけなくて、まるで軽く足踏みをしながら歩いているような気分になる。
 じりじりと照りつける太陽の熱が、肌の上にまとわりつくようだった。額にはうっすらと汗がにじみ、頬のあたりに一筋の汗が流れ落ちる。けれど、その熱をほんの少しだけ和らげるように、時折、海風が吹いてくる。風が肌を撫でるたび、汗ばんだ体が一瞬だけ涼しくなり、心地よさと夏特有のけだるさが入り混じった感覚が広がる。
「結構、ギリギリな感じだね」
 彼女が苦笑しながら、周囲を見渡した。
 確かに、どこも人でいっぱいだ。
 ブルーシートやパラソルが敷き詰められ、砂浜はまるで色とりどりの絵の具を無造作に塗り重ねたキャンバスのようになっている。カップルが肩を寄せ合いながらお弁当を広げ、子供たちは夢中になって砂の城を作り、年配の夫婦はのんびりと波の音に耳を傾けていた。
 それぞれが思い思いに過ごしているこの光景は、まさに夏の風物詩そのものだった。
 けれど、僕たちが座るスペースは、ほとんど残されていない。
 このままでは、どこかのグループの隙間に無理やり入り込むしかないかもしれない。そう考えながら視線を巡らせると、ふと、団体と団体の間にぽっかりと空いた、ちょうどいいスペースが目に入った。
「……あそこ、どう?」
 指を差すと、彼女もそちらを見て、ぱっと表情を明るくした。
「いいじゃん! 行こ!」
 僕たちは目を合わせると、軽く頷き合い、足を速めてその場所へと向かった。
 風が吹き抜けるたび、どこか遠い記憶がふわりと舞い上がり、また静かに胸の奥へと沈んでいくのを感じながら。
「ラッキーだったな。とりあえずここにシートを敷こう」
 僕は手に持っていたブルーシートを広げ、彼女と息を合わせながら砂浜の上に慎重に広げていった。風が少し強く、端がふわりと舞い上がる。慌てて端を押さえようとすると、彼女も同じタイミングで手を伸ばしたせいで、僕たちの指がかすかに触れた。
「おっと」
 思わず声を上げると、彼女は軽く笑いながら「風、けっこう強いね」と呟いた。
 シートが飛ばされないように、四隅にお互いの靴を置く。僕のスニーカーと、彼女の少し華奢なサンダル。並べられたそれらを見つめると、そのアンバランスさが妙に可笑しく感じられた。僕のゴツゴツしたスニーカーに対して、彼女のサンダルは繊細で、まるで小さな魚と大きな貝殻が並んでいるようだった。
「ふふっ、なんかこれ、ちょっと面白くない?」
 彼女がくすっと笑いながら、シートの上にぺたんと座り込む。
「確かにな。サイズ感バラバラだしな」
 僕も隣に腰を下ろした。シートが砂の上に沈み込み、軽くふわっとした感触がする。
 じりじりとした日差しが、肌の上に熱を落とす。潮騒が心地よく響き、遠く水平線の向こうで波が静かに煌めいていた。
 見渡せば、家族連れや友人同士のグループが思い思いに過ごしている。水着姿で砂の上を駆け回る子供たち、波打ち際で手をつなぐカップル、折りたたみ椅子に座って読書をしている初老の男性。そのどれもが、夏の風景の一部になっていた。
「何か懐かしいな、こういうの。小学校の遠足以来かも」
 シートの上に両手をついて、彼女がしみじみと言う。
「ああ、確かに。中学以降の遠足って、こんな風にブルーシート広げたりしなかったよな」
「ねっ、童心を思い出すよね」
 彼女はくるりと寝転がった。仰向けになりながら、指で何かをなぞるように空へ向かって動かしている。その仕草が、まるで見えない何かを描いているように見えて、僕はふと気になった。
「何描いてんの?」
「んー、飛行機雲の軌跡?」
 彼女はそう言いながら、目を細めた。
 僕も同じように空を見上げる。真っ青なキャンバスのような空に、ふわりと白い雲が流れていた。その隙間を縫うように、一本の飛行機雲が真っ直ぐに伸びている。
「飛行機雲って、どこまでも続いてるみたいに見えるよな」
「そうだね。でも、あれってすぐに消えちゃうんだよね」
 彼女の言葉には、どこか儚さが滲んでいた。
「……それがいいんじゃない?」
「え?」
「一瞬だから、きれいなんだよ。ずっと残ってたら、ただの雲と変わらないし」
 僕がそう言うと、彼女は少し驚いたように僕を見て、それから静かに微笑んだ。
「……そうかもね」
 風が吹き抜け、シートの端が少しめくれる。僕は軽く押さえながら、彼女の横に寝転んだ。
 潮騒の音が遠くまで響き、どこまでも広がる青空の下で、僕たちはただぼんやりと夏を感じていた。
「……あのさ」
 ふいに、彼女が体を起こした。シートの上で膝を抱えるように座り、真っ直ぐに僕の方を向く。
 その仕草に気づき、僕も視線を向けると、彼女の瞳がどこか真剣な色を帯びていた。
「せっかくだから、色々と陽について聞いてもいい?」
「ん? 急にどうした?」
 思いがけない言葉に、一瞬だけ戸惑う。さっきまでの軽い会話の流れからすると、あまりにも唐突だった。
「いや、全然いいよ」
 そう返すと、彼女は少しだけ口ごもった。まるで、言おうかどうか迷っているように、視線を海の方へ彷徨わせる。潮風が彼女の髪を揺らし、陽射しが横顔を照らしていた。
 やがて、意を決したように、彼女がゆっくりと口を開いた。
「陽さ、受験生でしょ? こんなことしてていいの?」
 その言葉があまりにも意外すぎて、僕は思わず吹き出してしまった。
「アハハ。心配してくれてるの? ありがとう。でもさ、こんなことって、そもそも葵が誘ったんじゃん」
「いや、それはそうなんだけど……」
 彼女は言葉を詰まらせ、少し頬を染めながら、指先でシートの端をいじる。その仕草がどこか子供っぽくて、少しだけ可笑しかった。
「でも、よくクラブにも来てるし、夜遊びしてて大丈夫なのかな? って実は何気に心配してた」
 彼女の声には、冗談めかした響きが混ざっていたけれど、その奥に隠れた本音が微かに伝わってくる。
 僕は空を仰いだ。
 澄み渡る青空の中を、ゆっくりと雲が流れている。日差しは少し強くなってきていて、肌の上をじんわりと焼くような感覚があった。潮風が吹き抜けるたび、シートの端がひらりと揺れる。
「うーん……」
 少し考えた後、肩をすくめて笑ってみせた。
「でもまぁ、志望校っていうか、自分の学力に見合った高校なら、間違いなく合格できると思うから大丈夫だよ」
「えっ?」
 彼女の目が驚きで丸くなる。
「陽ってもしかして頭いい系?」
「頭いいかどうかは分からないけど、四日市高校とかは無理だよ。まぁ、ちょっと落として川越辺りに行こうかなって感じ」
 その瞬間、彼女の表情が固まった。
 ほんの一瞬だったけれど、確かにその変化を僕は見逃さなかった。
「ハァー? 川越高校ってめっちゃ頭いいじゃん! 私なんて朝明高校だよ?」
 彼女が突然むくれたように頬を膨らませた。その表情が可愛らしくて、思わず吹き出しそうになる。
「いや、別に頭良くないよ。上には上がいるし。何処の高校に行くかより、そこで何を学ぶかの方が大事なんじゃない?」
 さらりと口にした言葉だったけれど、言ってから少し気恥ずかしくなる。自分で言うと、どこか格好つけているような気がした。
「うっ……ご尤も過ぎる正論を言われて返す言葉もないや」
 彼女は眉を寄せ、ふてくされたように指先で砂をかき回す。さらさらとした砂が指の間をすり抜けていく。
「でも、純粋にすごいと思うよ。尊敬した」
 そう言うと、彼女はまっすぐ僕を見つめた。
「いやいや、そんな尊敬されるような存在じゃないよ」
 少し照れくさくて、僕は軽く笑いながら肩をすくめた。
「いや、普通に凄いって」
 彼女の目は真剣だった。冗談でもお世辞でもなく、心からそう思っているのが伝わってくる。
 潮風が吹き抜け、彼女の髪がふわりと舞った。柔らかな光を受けて、長い髪の一筋一筋が金色に輝くように見える。
 彼女は一度、ためらうように唇を噛みしめ、それから意を決したように言った。
「……あのさ、もし良かったら私にちょっと勉強教えてくれない? 英語とか数学とかヤバいんだ」
 その言葉に、僕は少しだけ目を見開いた。
 花火を見に来たはずなのに、なぜか今、この会話の方がずっと特別なものに思えた。
 遠くから、波の音が静かに響いている。夏の夜風が心地よく肌を撫で、潮の香りが鼻をくすぐった。
 今思い返すと、あの時の彼女の何気ない一言が、僕を教育者の道へと導いたのかもしれない。