八月十七日、花火大会当日の朝。
 列車は静かに揺れながら、都市の喧騒を後ろへと遠ざけていく。
 車窓の外に広がる景色は、先程までビルがポツポツと立ち並んでいたかと思えば、今では田園風景へと移り変わっていた。稲穂がわずかに風にそよぎ、陽の光を反射して黄金色の波のように揺れる。
 その奥には、青々とした山並みが連なっている。空はまだ朝焼けの名残を残し、淡い橙色が地平線を染めていた。
 僕たちは、そんな風景を横目に、熊野市へと向かっていた。
 車内には人影もまばらで、聞こえてくるのは時折響くアナウンスと、レールの上を進む車輪の軋む音だけ。
 車窓から差し込む朝の光が、薄く肌を照らす。
 夏の湿った空気が、微かに汗ばんだ肌にまとわりつき、Tシャツの裾が少しだけ背中に貼り付くのが気になった。
 始発の鈍行列車は、単調なリズムを刻みながら進む。
 僕は、窓の外をぼんやりと眺めたまま、ゆっくりと深呼吸をする。
 熊野の花火大会――僕の記憶の中では、何度か訪れたはずなのに、思い出そうとするとどうにも輪郭が曖昧だった。
 光が弾ける瞬間の鮮烈な色彩も、夜空を彩る大輪の美しさも、きっと幼い頃に見たはずなのに、今では夢の中の出来事のようにぼやけている。
 ただひとつ、確かに覚えていることがあった。
――朝早く行かないと、良い場所を確保できない。
 その記憶だけは、不思議と鮮明に残っていた。
 だから僕たちは、夜が明けきる前の始発列車に乗ったのだった。
 彼女との待ち合わせは、驚くほどスムーズだった。
 僕と彼女の家は少し離れていたが、最寄り駅が同じ沿線で一駅違いということもあり、乗るべき電車を決めておけば簡単に合流できた。
 最寄り駅のホームに降り立った時、まだ空には薄暗さが残っていた。
 駅の蛍光灯が白く足元を照らし、夏の朝独特の静けさが漂っている。
 改札を抜けて、待ち合わせの場所へ向かう。
 そして――彼女を見つけた瞬間、思わず足が止まった。
 普段の彼女と、今朝の彼女はまるで別人だった。
 クラブで会うときの彼女は、夜の世界に溶け込むような存在だった。
 濃いめのアイメイクに、唇は艶やかな赤。肌にはほのかにラメが光り、纏う香水は甘く、どこか挑発的な匂いを放っていた。手に持つグラスには琥珀色の酒が揺れ、足を組む仕草ひとつすら洗練されていて、大人びた雰囲気を纏っていた。
 フロアの照明がゆっくりと色を変え、流れる音楽が彼女の仕草にリズムを刻む。男たちの視線を惹きつけながらも、どこか退屈そうな顔で、彼女はカウンターに寄りかかっていた。
 それが、僕の知る夜の葵だった。
 けれど、今朝の彼女は――シンプルな白のTシャツに、デニムのショートパンツというラフな服装。足元は軽やかなサンダルで、アクセサリーもほとんどつけていない。髪は無造作にひとつに束ねられ、化粧も薄い。
 その姿には、夜の妖艶さも、酔いに滲んだ気怠さもなかった。
 まるで別人のように見えた。
 いや、それどころか――本来の彼女が、今ここにいるような気がした。
 化粧や香水のベールを脱ぎ捨て、夜の街の喧騒から離れたその姿は、朝の光に溶け込んでいた。
 ほんのりと日焼けした肌が、健康的な輝きを放っている。
 僕はそんな彼女を見つめながら、不思議な違和感と新鮮さを覚えた。
――この葵を知っているのは、きっと、今この瞬間の僕だけなのかもしれない。
 電車がホームに滑り込むと、僕たちは無言のまま乗り込んだ。
 車内はまだ朝の空気を含んでいて、涼しさが残っていた。
 吊り革が揺れる音、車輪の軋む低い音、時折聞こえるアナウンス。
 僕がふと窓の外に目を向けると、彼女が急に僕の前に立ちはだかった。
 そして、落ち着きなく車内を見回しながら、妙にハイテンションではしゃぎ始めた。
「ねぇねぇ、なんかさ、冒険の旅に出てるみたいじゃない?」
 朝の光を浴びた彼女の顔は、信じられないほど無邪気だった。
 目を輝かせて、少しだけ頬を紅潮させながら、まるで遠足に出かける小学生みたいに楽しそうだった。
 彼女のそんな姿を見て、僕は思わず目を細める。
 クラブのカウンターで気だるげに微笑んでいた彼女とは、まるで別人だった。
「……それ、私だけ?」
 少し不安げに僕の顔を覗き込む彼女の瞳には、純粋な好奇心が揺れていた。
 僕は苦笑しながら肩をすくめる。
「いや、俺も楽しいよ。ただ……葵が全身で表現しすぎなんだよ」
 冗談めかして言うと、彼女はふっと目を見開いた。
 そして――妙に嬉しそうに、僕の顔を覗き込むように近づいてきた。
「……ふぅん」
 わずかに上気した頬、いたずらっぽく光る瞳。
 彼女は少しだけ唇を噛みしめ、まるで何かを確かめるように僕の表情を覗き込む。
 その距離の近さに、思わず喉が鳴った。
 僕はごまかすように窓の外へと視線を向ける。
――彼女は、いったいどれが"本当の顔"なんだろう。
 夜の葵と、朝の葵。
 どちらが仮面で、どちらが素顔なのか。
 それとも、どちらも彼女で、どちらも嘘なのか。
 電車はゆっくりと動き出す。
 その瞬間、彼女は軽やかに笑った。
 まるで、何か面白いことを思いついたかのように。
 電車の揺れに合わせるように、ゆっくりと僕との距離が縮まっていく。
 窓の外を流れる田園風景は、朝日を受けて淡く輝いていた。水田には空の青が映り込み、風にそよぐ稲の葉が、まるで波のように揺れている。
 彼女の髪がふわりと揺れ、微かにシャンプーの香りが鼻をかすめた。
 クラブで会うときの彼女とは違う、ほんのりと甘い、だけど清潔感のある香り。
 いつもなら、濃厚な香水と混じったアルコールの匂いが彼女の存在を強く主張するはずなのに、今の彼女は驚くほど素のままだった。
 それがなんだか不思議で、少しだけ戸惑いを覚える。
 夜の葵は、どこか遠い存在だった。
 カウンターで微笑みながら、男たちの視線を受け流し、時には退屈そうにグラスを傾ける。酔いが回ると、気だるげな声で僕に話しかけ、けれどその瞳の奥はいつも醒めていた。
 そんな彼女と、今ここにいる彼女が、どうしても結びつかなかった。
 まるで、違う世界に住む別の人間みたいに。
「……何?」
 彼女が突然、僕の顔を覗き込んできた。
 思わず肩をすくめて、一歩引く。
 だが、彼女は構わずさらに顔を近づける。
 その瞳は、どこか期待に満ちていた。
「名前!」
「ん? 名前?」
「今、めっちゃ自然に『葵』って呼んでくれた。何か嬉しい」
 彼女はにっこりと笑った。
 その笑顔が、まるで夏の朝日に溶け込むように眩しくて、僕は思わず目をそらした。
 言われてみれば、確かにそうだ。
 これまで、彼女のことを直接名前で呼ぶことはほとんどなかった気がする。
 どこか距離を置いていたというか、あえて呼ばないことで、自分の中の線引きを守っていたのかもしれない。
 彼女は僕にとって、夜の知り合いだった。
 クラブで偶然出会い、何度か言葉を交わし、気づけば顔見知りになった。でも、それ以上でもそれ以下でもなく、決して踏み込むことはなかった。
 けれど――今日は自然に呼んでしまった。
 そのことに気づいた途端、胸の奥が妙にくすぐったくなる。
 彼女は、そんな僕の心境の変化に気づいたのかもしれない。
「ふふっ、ちょっと照れてる?」
「……別に」
 ごまかすように窓の外へ視線を向ける。
 車窓には、朝日を浴びた川面がきらきらと光っていた。
 ゆったりと流れる景色と、静かな車内。
 そして、すぐそばにいる、まるで別人のような彼女。
 この夏の日の始まりが、なんとなく特別なものになるような気がして――僕は話題を変えようとした。
「今日は、酒の匂いを漂わせてないんだな」
 電車の微かな振動が足元に伝わる中、ふと漏らした僕の言葉に、彼女はぴたりと動きを止めた。
「……あのさぁ」
 彼女は呆れたように肩をすくめると、少し頬を膨らませた。
「私のこと、アル中女だと思ってる?」
 その言い方がどこか拗ねたようで、思わず笑いそうになる。
「いや、そういうわけじゃ……」
「ちゃんとTPOぐらい弁えますから! 花火大会の前から酔っ払ってたら、せっかくの景色が台無しになるでしょ?」
 腕を組んで得意げに言う彼女の表情には、どこか誇らしげな色があった。
 確かに、彼女の言うとおりだ。
 熊野の花火大会は、一年に一度の特別な日。あの広い夜空に大輪の花が咲く瞬間を、酔いに霞んだ視界で見るなんてもったいない。
 僕はそんな彼女を見つめながら、ふっと口元を緩めた。
「意外としっかりしてるんだなって、感心してたんだよ」
「……あっ、そういうことか」
 一瞬、彼女の表情がきょとんとした後、ふわっと優しい笑顔が広がる。
 その仕草が、なんだか妙に幼く見えて、胸の奥がくすぐったくなる。
「陽ってさ、言葉足らずって言われない?」
「……恥ずかしながら、めっちゃ言われる」
 正直に答えると、彼女は突然、楽しそうに笑い出した。
「アハハ、やっぱり! でもいいよ、私だけ分かってあげるから」
 無邪気にそう言った彼女の声は、まるで夏の風みたいに軽やかで、心地よく耳に響いた。
 だけど——「私だけ分かってあげる」
 その言葉が、思っていたよりもずっと深く、僕の胸に染み込んでくる。
 何気ない一言のはずなのに、どうしてだろう。
 これまで、僕の周りにいた人たちは、僕の欠点を指摘し、矯正しようとする者ばかりだった。
 言葉足らずなところがあるなら、もっとちゃんと説明しろと怒られたし、他人に誤解を与えるなら直すべきだと指導された。
 小さな頃から、親にも教師にもそう言われ続けてきた。友人たちにだって、呆れたように指摘されたことがある。何を考えているのか分からない、もっとはっきり言えと。
 だから、僕はなるべく相手に分かりやすいように話そうと努力してきたつもりだった。でも、そうすればするほど、自分の言葉はどこかぎこちなくなり、伝えたいことが伝わらないまま終わることも少なくなかった。
——そんな僕に、彼女はこう言った。
「でもいいよ、私だけ分かってあげるから」
 それは、これまで誰にも言われたことのない言葉だった。
 直さなくていいと言ってくれた。
 そのままでいいと言ってくれた。
 それが、どうしようもなく嬉しかった。
 胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。言葉にならない感情が、ゆっくりと満ちていく。
 僕はふっと息を吐き、窓の外へと目を向けた。
 車窓には、青々とした田園風景が広がっている。遠くには緩やかな丘陵が連なり、その向こうにうっすらと海が見えた。陽の光が水面に反射して、きらきらと輝いている。
 気がつけば、車内には少しずつ乗客が増え始めていた。スーツ姿のサラリーマン、部活帰りの高校生、家族連れ。さまざまな人々が乗り降りしていくなかで、僕たちの間に流れる空気だけは、どこか違うもののように感じた。
 僕はそっと横目で彼女を見る。
 彼女は無邪気な笑顔を浮かべながら、じっと外の景色を眺めていた。車窓に映るその横顔は、どこか幼く、けれど大人びてもいて、不思議な魅力を放っている。
 そんな彼女と、僕は少しだけ、距離が近づいた気がしていた。