以来、僕は何度もクラブで彼女と会った。
 特に約束を交わしたわけでもない。
 それなのに、そこへ行けば彼女がいる。
 まるで決められた運命のように、あるいは同じ夢を何度も見るように——僕たちは毎回、当然のように同じ場所で顔を合わせた。
 不思議なものだった。
 彼女と会うことが目的ではないはずなのに、気がつけば店の入り口をくぐる前から、僕は彼女の姿を探している。
 そして、カウンターの奥、フロアテーブルの片隅に彼女を見つけた瞬間、安堵するのだ。
 胸の奥に張り詰めていた、正体の分からない緊張がゆるむ。
 理由なんて分からなかった。ただ、そこに彼女がいることで、僕の中の何かが整う気がした。
 その日も、僕たちはいつものように腰掛けていた。
 テーブルの上で、僕の指がグラスの縁をなぞる。
 氷がゆっくりと溶け、カランと音を立てるたびに、心のどこかが現実に引き戻される。
 周囲では、酔っ払いたちが熱気に浮かされて騒ぎ、フロアの中央では男女がリズムに合わせて身体を揺らしている。
 カラフルなライトが回り、まるで夜の海の波のように、揺れ、流れ、溶け合っていた。
 人々の笑い声、音楽の重低音、氷がぶつかる微かな音——それらが入り混じる喧騒の中で、僕たちはいつもどおりの距離感でグラスを傾けていた。
 時折、酔いに任せて絡んでくる客もいたが、彼女は慣れた手つきで軽くいなす。
 まるで、それが当たり前のことかのように。
 彼女の指先がグラスの縁をなぞる。
 ふいに、彼女がぽつりと呟いた。
「何かさ……」
 カラリ、と氷が揺れる。
 細い指が、ゆっくりとグラスの側面を滑る。
 彼女はグラスの縁を唇に押し当てながら、視線を遠くに向けたまま言った。
「夏って、物悲しい気持ちになるよね?」
 唐突な言葉だった。
 不意を突かれて、僕は彼女を見つめる。
 その横顔は、どこか遠くを見つめるような、夢の中にいるような表情をしていた。
 瞳の奥には、琥珀色の光が揺れている。
 酔いのせいなのか、それとも何か別の理由なのか——僕はしばらく、彼女が見つめる先を追ってみた。
 けれど、彼女の視線の先には、ただ光と影が交差するだけの夜の風景が広がっているだけだった。
 あの目は、一体どこを見ているんだろう。
 僕には分からなかった。
 けれど、胸の奥に微かな疼きを感じた。
 まるで、その言葉が自分にも向けられているような気がして——
 僕はグラスを軽く傾け、冷えた液体を喉に流し込む。
 夏の夜の空気は、どこか生温く、少しだけ切なかった。
「それ、どちらかといえば冬に使われる言葉じゃない?」
 僕はグラスを傾けながら、少し笑うように言った。
 彼女は「うーん」と唇を尖らせ、考え込むような素振りを見せる。
 その仕草が妙に可愛らしく見えて、僕は思わず目を細めた。
 カウンターの向こうでは、バーテンダーが手際よくボトルを振っている。氷とガラスが触れ合う乾いた音が、低く響くジャズのリズムと混ざり合う。
 アルコールの匂いに、微かに柑橘の香りが交じる。甘く、けれど少し刺激的な空気が、夏の夜の熱気とともに広がっていた。
 彼女の指先が、グラスの縁をなぞる。
「だけど、私は……何か、夏の方が悲しくなるな」
 言葉とともに、彼女の視線が僅かに落ちる。
「何で悲しいの?」
 僕が問いかけると、彼女はグラスの中の琥珀色の液体を見つめたまま、しばらく沈黙した。
「……悲しいっていうより、寂しいって感じかな」
 店の外から、ふっと小さな破裂音が聞こえた。
 それは夏の夜を彩る花火の音だった。
 遠くの海辺か河原で、夜空に弾ける光の輪。きっと、誰かが歓声を上げているのだろう。
 瞬間、僕の頭の中にも、過去の夏の記憶がよぎる。
 蒸し暑い夜、浴衣の袖が触れ合う距離で並んだ少女の笑顔。線香花火の火玉がぽとりと落ちる瞬間の寂しさ。
 夏の記憶は、いつも鮮やかで、それでいて儚かった。
「夏ってさ、みんなが開放的になって、活気に溢れてるじゃん?」
 彼女はそう言うと、指でリズムを刻むようにテーブルを軽く叩く。
 軽やかな音が、小さく響く。
「でもね、そんな風にみんなが楽しそうにしているほど、私は何だか取り残された気がするんだよね」
 その言葉は、不思議な余韻を持っていた。
 酔いのせいだけじゃない。そこには、彼女の中に長く根を張っている何かがある気がした。
 僕は彼女を見つめる。
 カラフルなライトが回る中で、彼女の横顔はどこか寂しげで、けれど、ひどく美しかった。
 彼女の瞳には、揺れる光が映っていた。
「……何か、分かる気がする」
 僕は小さく息を吐きながら、そう答えた。
 僕自身も、どこかで感じていた感覚。
 夏の夜の熱気の中に紛れる、形のない孤独。
 賑やかな場所にいるほど感じる、説明のつかない寂しさ。
 彼女は、そんなものを抱えながら生きているんだろうか。
 それとも、今この瞬間だけ、ふと心の奥を覗かせただけなのか。
 どちらにせよ——僕は、その言葉を忘れられない気がした。
 彼女の言葉は、まるで心の奥深くをそっと突かれたような感覚を残した。
 人と騒ぐほど、逆に孤独を感じることがある。
 誰かと肩を並べているのに、自分だけがまるで透明になってしまったような、そんな気分になる夜がある。
 クラブの喧騒は相変わらずだった。周囲では、酔いの回った男女が笑い声を上げ、グラスを打ち鳴らす音が響いていた。重低音のリズムに合わせて、ダンスフロアの人々が揺れている。
 そんな熱気の渦の中で、僕はふと、自分だけが別の時間に取り残されているような錯覚に陥った。
――彼女も、きっと同じなのだろう。
 僕は手の中のグラスをゆっくり回しながら、目の前の彼女を改めて見つめた。
 彼女の笑顔は、どこか儚げで、どこまでも掴みどころがなかった。
 長い睫毛の下で、夜の照明が揺れる瞳。
 テーブルに置かれた彼女の指先が、時折リズムを取るように小さく動く。
 まるで何かを確かめるような、あるいは、そのリズムの中に自分を閉じ込めようとするかのような仕草だった。
 それでも、僕はこの時間が心地よかった。
 言葉にならない感覚が、ゆっくりと胸の奥に染み込んでいく。
「おっ! 陽も分かってくれるのか。気が合うねえ」
 彼女がふいにグラスを片手に微笑む。
 その笑顔は明るいのに、どこか影を落としているように見えた。
 カラフルな照明が彼女の横顔を照らし、淡い光の揺らめきが彼女の瞳の奥に映る。
 刹那、光が射し込んだ水面のように、彼女の目が微かに揺れた気がした。
 何かを隠しているのか。
 あるいは、ただ酔いのせいで気のせいだったのかもしれない。
 僕は返す言葉を探したが、何を言えばいいのか分からなかった。
 だから、ただグラスの中の氷をかき混ぜるだけだった。
 カラカラと乾いた音が響く。
 そんな僕を見つめながら、彼女はふいに微笑んだまま身を乗り出してきた。
 少しだけ、僕との距離が縮まる。
 彼女の瞳が、すぐそこにあった。
 僕は息をのんだ。
 喧騒の中で、僕たちの間だけが妙に静かに思えた。
 夜の光が、彼女の唇の端をかすかに照らしていた。
 距離が、一気に縮まった。
 ほんの数センチ。
 彼女の顔が近づきすぎて、長いまつ毛が微かに揺れるのが見えた。
 息がかかるほどの距離。
 酒の甘ったるい香りと、彼女の香水の匂いが入り混じり、ふわりと鼻腔を刺激する。
 濃厚で、どこか妖艶な香り。
 心地よいとは言えないのに、不思議と離れがたくなるような香りだった。
 クラブの喧騒が遠のいていく。
 周囲の騒ぎ声や音楽が、まるで水の向こう側にあるように感じられた。
 今、この空間にいるのは、僕と彼女だけのような錯覚に陥る。
――酔っているのかもしれない。
 でも、そんなことはどうでもよかった。
 彼女の唇が微かに動いた。
「陽」
 僕の名前を呼ぶ声が、妙に耳に残る。
 鼓膜をくすぐるような、柔らかい響き。
「君が今まで見たもので、一番綺麗なものって何?」
 唐突な問いに、思わず息を飲む。
 彼女はただ僕を見つめていた。
 夜の照明が、彼女の横顔に淡い影を落とす。
「……急にどうしたの?」
 彼女はグラスを軽く揺らしながら、視線を落とした。
 グラスの中の氷が、カラカラと小さな音を立てる。
「なんか、綺麗なものが見たい気持ちになった」
「綺麗なもの、か……」
 僕はグラスを指でなぞりながら考える。
 綺麗なものなんて、すぐには思い浮かばない。
 夜空の星?
 夕焼け?
 あるいは、子供の頃に見た景色――。
 ふと、脳裏に焼き付いている光景が浮かんだ。
「あっ、それなら熊野の花火かな」
「花火?」
 彼女が首を傾げる。
「うん。母方のおばあちゃんが尾鷲に住んでるんだ。子どもの頃、何度か夏に遊びに行ってさ。そのとき見た熊野の花火が、たぶん今までで一番綺麗だったと思う」
 目を閉じれば、今でも思い出せる。
 夜空いっぱいに広がる鮮やかな光。
 炸裂音が、鼓膜を震わせる。
 腹の底まで響く轟音。
 それなのに、不思議と心は静かだった。
 目の前に広がる景色に、ただただ圧倒されていた。
 波打ち際に映る花火の残像。
 揺れる水面に、儚く消えていく光。
 あのときの僕は、ただ無邪気に美しさに心を奪われていた。
 言葉もなく、じっと空を見上げることしかできなかった。
――あんなにも心を揺さぶられた光景は、後にも先にもない。
 気づけば、僕はずっとグラスを握ったままだった。
 琥珀色の液体が揺れ、氷がカランと小さな音を立てる。
 対面の彼女は、じっと僕の話に耳を傾けていた。
 そして、ふいに小さく微笑んだ。
「子どもの頃って……陽、今も子どもじゃん!」
 唐突に放たれた言葉に、僕は思わず顔をしかめた。
 くすくすと笑う彼女の声が、店内の音楽に溶けていく。
 柔らかく、けれどどこか悪戯っぽい響き。
 彼女の目は、どこか楽しげに細められていた。
 まるで、小さな秘密を見つけた子どものように。
――ちくしょう。
 無性に恥ずかしくなった僕は、グラスを置き、少し乱暴に次の言葉を紡いだ。
「うるせーな! もっと小さかった頃ってことだよ!」
 我ながら子どもっぽい言い訳だと思った。
 けれど、それを認めるのも悔しくて、グラスを指で無意味になぞる。
 彼女は僕のそんな様子を見て、さらにクスクスと笑った。
 グラスを軽く傾けると、透き通った氷がカランと鳴る。
「ごめんごめん。分かってるよ」
 口ではそう言いながらも、彼女の瞳は好奇心に満ちていた。
 完全に楽しんでいる顔。
 僕の話の続きを、心待ちにしているような表情。
――逃げ場はない。
 僕は小さく息を吐き、仕方なくグラスを持ち上げた。
 氷がぶつかる音が、静かに夜の空気に溶けていった。
「……何歳ぐらいの時に見たの?」
 彼女がそう尋ねた瞬間、僕の頭の中に、幼い頃の記憶がぼんやりと浮かんだ。
 潮の香りが混じる、湿った夏の風。
 浴衣の裾を引っ張ってはしゃぐ子どもたちの笑い声。
 屋台の甘い綿菓子の匂い。
 そして――夜空を焦がすほどの、大輪の花火。
 深い闇に、赤や青、黄金の閃光が咲いては散る。
 炸裂するたび、胸に響く轟音。
 海の上に映る、色とりどりの光の残像が、波に揺れて儚く滲む。
 その美しさに、僕は息を呑んだ。
 まるで、世界そのものが光に包まれたような感覚だった。
 小さな体で、大きな空を見上げ、ただただその景色に圧倒されていた。
――あれは、まるで夢のようだった。
 目の前のグラスに浮かぶ氷をぼんやりと見つめながら、僕は記憶を手繰るように口を開いた。
「親が言うには、生まれてすぐと、三歳くらいのときにも行ったらしいんだけど……その頃の記憶はなくてさ」
 彼女は静かに頷きながら、グラスの縁に指を滑らせる。
 カラン、と小さな音が響いた。
「俺の中で初めて見たのは、小一か小二の夏だったと思う」
 彼女はグラスを持つ指先で、テーブルを軽くトントンと叩いた。
 そのリズムは、どこか遠い記憶の中の花火の音に似ていた。
 夜空に弾ける閃光の残響。
 彼女もまた、音の中に思い出を探しているのだろうか。
「なるほど!」
 彼女は小さく頷き、いたずらっぽく笑った。
「幼き日の陽少年は、いたく感動したと?」
 その言い回しに、僕は思わず肩をすくめる。
「うん、そんな感じ」
 素直に認めると、彼女は満足げに微笑んだ。
 グラスを揺らし、氷が淡く音を立てる。
 店内の空気はゆるやかに流れ、静かな音楽が遠く響いていた。
「……あれは、本当に綺麗だったんだよ」
 自分でも驚くほど素直な言葉が、口をついて出た。
 その瞬間――彼女の表情が、ぱっと明るくなった。
 まるで夜空に咲いた花火のように。
 きらめく光を宿した瞳で、僕をじっと見つめる。
「また見に行きたいな……」
 そう呟いた僕の声が、グラスの向こうで微かに揺れた。
「行っちゃう?」
 唐突に飛び出した言葉に、僕は思わず目を瞬かせた。
「えっ?」
 彼女は身を乗り出し、グラスを軽く揺らしながら微笑んだ。
 唇の端が楽しげに弧を描き、いたずらを仕掛ける子どものような輝きが、彼女の瞳の奥でゆらめく。
「私と一緒に見に行っちゃう? 熊野の花火!」
 無邪気な誘いだった。
 それでいて、どこか挑発的にも思えた。
 彼女の長い髪がさらりと揺れ、微かに甘い香りが鼻をかすめる。
 ジャスミンのような、どこか夜に似合う香り。
 僕は一瞬、言葉を失った。
「えっ? でも、どうやって?」
 戸惑いながら問い返すと、彼女は肩をすくめ、当然のように答えた。
「そんなの電車で行けばいいでしょ? 熊野って確か三重県のめっちゃ南の方だよね?」
 そのあまりに単純な答えに、僕は言葉を詰まらせた。
 そうだ。電車があるじゃないか。
 僕は子どもの頃、親の車でしか熊野に行ったことがなかった。
 だから、そこへ行く手段なんて、まともに考えたことすらなかった。
「……あっ、そっか。電車か」
「逆に何があるのよ?」
 彼女は不思議そうに首をかしげる。
 それから、ふっと何かを思い出したように、僕をまっすぐ見つめた。
「私、十八だけど免許持ってないし、陽にいたっては……」
 言葉を途中で区切り、一拍の間。
 彼女は、あっけらかんとした口調で言い放った。
「中学生じゃん!」
 その一言が、なぜか胸の奥に引っかかった。
 確かに、僕はまだ十五だ。
 彼女とは三歳の年齢差がある。
 だけど、それをあえて強調するような彼女の言い方が、妙に気に障った。
 まるで、自分は大人で、僕はまだ子ども――そんな線を引かれたような気がした。
「高校生も中学生も、同じ子どもじゃん!」
 思わず語気を強めてしまった。
 店内には柔らかなBGMが流れ、まばらに響く客たちの話し声が混ざり合っている。
 僕の声は、その雑音の波にすぐに紛れてしまった。
 でも、僕の中では、意外なほど強く響いていた。
 彼女の言葉に、なぜこんなに反応してしまうのか、自分でもよく分からなかった。
 ただ、心の奥に小さく沈殿していた何かが、静かにかき乱されるような感覚があった。
 彼女は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。
 そして、すぐに目を細めて微笑む。
「あっ、もしかして怒った? ごめんごめん」
 けれど、その口調はまるで悪びれていない。
 まるで、小さな子どもをあやすみたいな言い方だった。
 その余裕のある態度が、さらに僕を苛立たせる。
 彼女にとって、僕はやっぱり「子ども」なのか。
 それともただの気まぐれで、からかっているだけなのか。
 僕が何か言い返そうとしたその時、彼女はすっと身を乗り出した。
「ねっ、一緒に電車で熊野行こ?」
 柔らかな声だった。
 けれど、その声音には、どこか抗えない力があった。
 彼女はテーブルに肘をつきながら、じっと僕の顔を覗き込んでくる。
 距離が近い。
 彼女の髪から微かに甘い香りがした。
 僕は、返事をしなかった。
 けれど、彼女の言葉を拒む気にもなれなかった。
――いや、本当は、拒めなかったのかもしれない。
 普通なら、こういう誘いには慎重になるべきなんだろう。
 最近出会ったばかりの年上の女の子と、遠出なんて。
 ましてや、熊野の花火大会は夜に開催される。
 終わったあと、どうやって帰るのか、泊まりの予定を考えるべきなのか、そういう現実的な問題もあるはずだった。
 でも、不思議と迷いはなかった。
 理屈ではなく、直感的に分かってしまったのだ。
 彼女の笑顔の奥に、何か別のものが隠れていることを。
 それは、ほんの一瞬だけ見えた。
 儚さ。
 不安定な光。
 打ち上げられた花火が、消える直前に見せる最後の輝きのような、そんな光が。