有名アミューズメントパークほど健全ではない。かといって、完全に無法地帯というわけでもない。
 このクラブは、そんな微妙なバランスの上に成り立っていた。
 扉を開けた瞬間、外界とは異質な空気が全身を包み込んだ。湿った熱気、入り乱れる音、汗とアルコールの匂い。暗闇を切り裂くように、赤と青のライトが交互に明滅し、黒光りするフロアに反射する。その光の粒が踊るたび、無数の影が揺らぎ、現実と虚構の境界を曖昧にしていく。
 壁際のバーカウンターでは、グラスを傾ける大人たちが、くぐもった笑い声を響かせていた。静かなはずのその空間すら、まるで音楽の一部であるかのように、不規則なリズムで満たされている。シャンパングラスが触れ合う音、バーテンダーが氷を転がす音、誰かが低く囁く声。すべてが溶け合い、混ざり合い、そしてまた闇に飲み込まれていく。
 密集した人いきれの中を歩くたび、異なる香りが鼻をかすめた。甘く濃厚な香水、ほのかに漂う煙草の匂い、どこかでこぼれた酒のアルコール臭。それらが混ざり合いながら、時間と共に少しずつ発酵していくようだった。
 スピーカーからは、容赦のない重低音が響いている。規則的なビートが鼓膜を打ち、身体の奥にまで侵入してくる。心臓の鼓動と同調し、内側からも外側からも、絶え間なく世界を揺らし続ける。
 ここは、僕にとって唯一の逃げ場だった。
 夢のような空間。けれど、それは決して本物の夢ではない。あくまで、そう思わせてくれるだけのまやかしの時間。現実の枠組みをほんの少し歪ませ、苦しさを一瞬だけ忘れさせてくれる仮初めの楽園。
 それでも、僕にはこの場所が必要だった。
 つまらない日常に押しつぶされそうな僕にとって、ここにいる時間だけが、自分を保つための拠り所だった。音楽の波に身を委ね、ただリズムを刻むことで、頭の中を空っぽにできる。誰とも目を合わせず、名前も知らない人々の波に紛れ、静かに、けれど確かに自分の存在を滲ませる。
 流れている音楽の曲名も、アーティスト名も、僕にはわからない。それでも、選曲のセンスは悪くない。いや、むしろいい。
 胸の奥に響くビートが、何かを埋めてくれるような気がしていた。
 何を、とはわからない。
 ただ、ずっと欠けたままだった何かが、今だけは満たされている気がした。
 だけど、それは一時的な麻酔でしかない。
 朝になれば、現実は容赦なく戻ってくる。学校、家、無機質な教室の白い壁、味のしない食卓、寝るためだけの狭い部屋。誰にも期待されず、何者にもなれず、ただ時間だけが過ぎていく毎日。今日が昨日と違う証拠は何もないし、明日もきっと同じように終わる。
 だからこそ、僕はこの陳腐な非日常にすがるしかなかった。
 ここにいる間だけは、頭の中が空っぽになる。流れる音に身を任せ、ただリズムを刻み、汗と煙草と香水の入り混じった空気を吸い込む。そうすれば、何もかもどうでもよくなれる。学校のことも、家のことも、僕という存在がこの世界にとって無意味であるという事実も。
 だけど——。
「おい少年、君は未成年だろ! こんなところで何してるんだ?」
 突然、鋭い声が飛んできた。
 僕は反射的に踊るのをやめ、声のした方を振り返った。
 フロアの中心で光の粒とともに踊っていたはずの女性が、いつの間にかフロアテーブルの椅子に腰掛けていた。
 薄暗い空間の中でも、彼女の存在は妙にくっきりと浮かび上がって見えた。赤と青のライトが交互に彼女の肌を照らし、揺れる影がまるで幻のように彼女の輪郭を縁取っている。
 年齢は……おそらく僕より二つか三つ上。二十歳には届いていないだろうが、十代特有の幼さはもう抜けている。大人びた雰囲気があるのに、どこか無防備な空気をまとっていた。
 彼女の肩にかかったミディアム丈のワンピースは、少し気だるげに肩が落ちている。布地は滑らかで、柔らかい光を受けてほのかに輝いていた。手には、半分ほど残ったカクテルグラス。淡いオレンジ色の液体が、カウンターのライトに照らされてゆらゆらと揺れている。
 頬はほんのりと上気し、目元にはわずかに赤みが差していた。
 彼女は、わかりやすいほどに酔っていた。
 けれど、その視線だけは酔いに霞むことなく、まっすぐ僕を射抜いていた。
 無視するべきだった。
 こんな出会いに意味はない。どうせ、今夜限りのものだ。彼女の言葉に応じたところで、何かが変わるわけでもない。むしろ、関わらないほうがいいに決まっている。
 それなのに——。
 その声に、僕はなぜか足を止めてしまった。
 どうしてだろう。
 彼女の声は、まるで僕の存在を見透かしているようだった。
 ここにいることを責めるでもなく、かといって同情するでもなく。ただ、僕という存在を見つけて、そこに向かって言葉を投げかけただけ。なのに、それだけで胸の奥がざわめいた。
 彼女の瞳の奥にあるものは何だろう。
 嘲笑か、興味か、それとも——。
 僕は、自分でも理解できないまま、彼女の前へと歩みを進めていた。
「俺よりは年上っぽいけど、あんたも未成年に見えるけど?」
 静かに問いかけると、彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。ほんの一瞬、動きが止まる。そして、すぐにニヤリと笑う。その表情には、どこか挑発的な色が混じっていた。
「おっ! 御名答。私もまだ十八だから未成年だな」
 そう言いながら、彼女は手元のグラスを軽く傾ける。淡いオレンジ色の液体が、グラスの内側をなめらかに伝い、ゆっくりと波打つ。照明の加減で、その揺らめきが妙に艶めかしく見えた。
 彼女は迷いのない動作で、それを一口飲む。
 その仕草は、妙に堂に入っていた。
 まるで長年飲み慣れているかのように、余裕のある手つき。しかし、それは本当に「慣れ」なのか? それとも——。
 アルコールに慣れているのではなく、そう演じることに慣れているだけなのではないか?
 そんな疑問が、ふと脳裏をかすめた。
 成人年齢が二十歳からと法律で定められていた当時、この年頃の三歳差はそれなりに大きな意味を持っていた。十代のうちは、ひとつ歳が違うだけで見える世界が変わる。中学生と高校生では、まるで別の生き物のように扱われることすらある。
 けれど、僕たちは未成年という同じカテゴリに属していた。
 そして、それだけでなく、条例や法律を平然と破りながら深夜徘徊と飲酒を繰り返す、ある種の同志でもあった。
 どこか似た者同士。
 それが、ほんの一瞬の会話の中で生まれた、奇妙な連帯感だった。
「それにしても……なんでそんなに酔っ払ってるんだよ?」
 彼女を見つめながら、ふと問いかける。
 彼女の頬は、ほんのりと紅潮していた。
 照明の光が、彼女の白い肌の上でかすかに揺れる。薄暗いクラブの中で、その赤みが余計に際立って見えた。まるで熱を持っているかのような頬。目元には、けだるげな光が宿っている。視線は定まらず、どこかぼんやりとしているのに、時折妙に鋭く僕を射抜く。
 息をするたびに、甘く揺らめくアルコールの香りが漂ってくる。
 微かに混じる柑橘系の香り。それがカクテル由来のものなのか、それとも彼女自身の香水なのかはわからなかった。
 彼女はふっと息を吐いた。
 ゆるく脚を組み直し、グラスを指先で転がすように弄ぶ。その仕草ひとつひとつが、どこか緩慢で、無防備で、そして——危うい。
 少し間を置いて、彼女は口を開いた。
「さあ? なんでだろうね」
 軽く笑いながら、彼女はグラスの中の液体をじっと見つめる。
 その横顔には、酔いのせいだけではない、別の何かが滲んでいた。
——この人は、なぜここにいるんだろう?
 その問いが、僕の胸の奥に静かに沈んでいった。
「ワンドリンクの酔い方じゃねーな」
 冗談めかして言うと、彼女はクスッと笑った。
 その笑いは、どこか掴みどころがなかった。ほんの一瞬だけ、楽しそうな色が浮かんだかと思えば、次の瞬間には何か別の感情に塗り替えられていく。
 指先でカクテルグラスの縁をなぞる。その細い指が、ゆっくりとガラスの表面をなでるたびに、微かな音が立った。まるで、音楽のように。
「ワンドリンクなんかで止まるほど、私は健全ではないのだよ」
 冗談めかした口調だった。しかし、その瞳の奥には、どこか虚無的な光が宿っていた。
 たった今、僕の目の前で微笑んでいるこの女性は、果たして本当にここに存在しているのだろうか——。
 そんな錯覚を覚えるほどに、その笑みは儚かった。
 別に彼女に興味を抱いたわけではない。ただ、立ちっぱなしも疲れるし、ここにいても邪魔にはならなそうだった。だから、彼女が座るテーブルの向かいの椅子に、何気なく腰を下ろした。
 すると、彼女はまるで子供のように嬉しそうに目を細めた。
 そして、グラスを軽く掲げてみせる。その仕草は、さながら祝杯のようだった。
「おっ! 可愛いお姉さんとお喋りしに来たのか?」
 そう言って、彼女は悪戯っぽくウインクする。
 僕は思わず肩をすくめた。
「自分で可愛いとか言っちゃうんだ?」
 思わず笑いがこぼれる。
 彼女は軽く口を尖らせながらも、肩をすくめてみせた。
「誰も言ってくれないから、自分で言うしかないだろう?」
 その言葉に嘘はないのかもしれない。
 彼女は、ごく自然な動作でグラスを口元に運ぶ。淡いオレンジ色の液体が、グラスの縁を滑るように傾き、わずかに彼女の唇を濡らす。
 仕草ひとつひとつが妙にこなれていて、僕はなんとなく笑いをこらえられなくなった。
「何それ? めっちゃ面白いじゃん!」
 その瞬間、彼女の表情がふっと変わった。
 少し驚いたように目を瞬かせ、それから、ほんの一瞬だけ視線を外す。
 まるで、何かを誤魔化すかのように。
 この人は、一体何者なんだろう?
 その疑問が、さざ波のように僕の胸の奥に広がっていった。
 彼女は今まで見てきたどの女の子とも違っていた。
 言葉にするのは難しい。だが、僕の中の何かが確かにそう感じていた。
 髪型や服装が特別奇抜なわけではない。話し方だって、どこか軽やかで、飄々としている。なのに、その笑顔の奥には、得体の知れない寂しさがちらついていた。
 まるで風に漂う煙のように、掴みどころがない。
 時折、楽しげな口調の合間に、ほんの一瞬だけ影が差す。それが気のせいではないと確信するたび、僕はますます彼女に惹きつけられていくのを感じた。
 この人は、一体何を抱えているんだろう?
 僕の視線の先で、彼女はグラスの縁を指でなぞりながら、じっとこちらを観察していた。まるで、僕の反応を確かめるかのように。その瞳は、ただの気まぐれとも思えないほど真剣だった。
 そして次の瞬間——
 彼女がふいに身を乗り出してきた。
 思わず息をのむ。
 テーブルを挟んでいたはずの距離が、一気に縮まる。
 アルコールの香りを帯びた甘い吐息が、頬をかすめた。わずかに湿ったその息遣いが、肌の温度をほんの少しだけ奪っていく。
 彼女は真っ直ぐに僕を見つめていた。
 こんなに誰かの視線を独占したのは、生まれて初めてかもしれない。
 彼女の瞳は、不思議な色をしていた。琥珀色の光がゆらゆらと揺れている。酔いのせいなのか、それとも——。
 じっと見つめられていると、まるで心の奥まで覗かれているような気がした。
 胸の奥がざわつく。
 このままでは、何かを見透かされてしまいそうだった。
 耐えきれずに視線を逸らそうとした、その瞬間——彼女がニッと笑った。
「あの……何?」
 彼女の視線があまりに真っ直ぐすぎて、思わずそう問いかけてしまった。
 その瞬間、彼女の瞳がさらに輝きを増し、唇が楽しげに弧を描く。
 まるで、待ってましたとでも言わんばかりの反応だった。
 彼女は肩を軽くすくめ、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「いやいや、ごめん。君って、百点満点の笑顔を持ってるんだね! 正直、驚いた」
「……何それ? 百点満点の笑顔って」
 僕は苦笑しながら問い返したが、彼女の表情は意外なほど真剣だった。
 冗談半分の言葉だと思ったのに、彼女は本気でそう思っているようだった。
「人ってさ、私も含めてだけど、色んなものを作ってしまうんだよね」
 彼女はグラスを指先でくるくると回しながら、独り言のように言葉を紡いだ。
 その声はどこか遠くを見つめるような響きを持っていて、フロアの喧騒から切り離された静寂が、僕たちの間にだけ広がるような錯覚を覚えた。
「言葉も、態度も、笑顔も——きっと生まれたばかりの頃は、みんなが持ってたものなのに、年を重ねるごとに失ってしまうんだよね。でも、君は失ってない。だから驚いた」
 彼女の指先がグラスの縁をなぞるたび、淡いオレンジ色の液体が静かに揺れる。
 その仕草が、まるで過ぎ去った何かを惜しむかのようで——。
 僕はなんとなく、彼女の言いたいことが分かるような、分からないような、不思議な感覚に陥った。
 彼女が語る「失うもの」について、僕は考える。
 笑顔。
 そんなもの、僕は無意識に浮かべているだけで、特別なものだとは思っていなかった。
 でも——彼女にとっては、そうじゃないのかもしれない。
 過去に何かがあって、彼女はそれを「作る」ことしかできなくなってしまったのかもしれない。
「……何か褒めてくれてるっぽいから、ありがとうなんだけど」
 照れくさくなって、ついそう言ってしまう。
 僕は手元のグラスを軽く傾けた。氷がカラン、と涼しげな音を立てる。
 それに紛れるように、静かに息をついた。
「でも、正直よく分からないな。俺は、あんたが面白かったから笑っただけだよ」
 それが僕の率直な気持ちだった。
 彼女の言う「作られた笑顔」とか「失うもの」とか、そういうことはよく分からないけれど、少なくとも今の僕は、ただ純粋に、彼女が面白かったから笑った。
 ただ、それだけのことだった。
 その言葉を聞いた瞬間——彼女は一瞬、驚いたように目を見開いた。
 長いまつ毛がかすかに揺れる。
 何かを言いかけたようにも見えたが、その言葉は結局、形にはならなかった。
 代わりに——次の瞬間、彼女は破顔した。
 楽しそうに、心の底から。
 作られたものではない、純粋な笑顔で。
 僕は、その顔を見た瞬間、ふと気づく。
 もしかすると、彼女自身が——ずっと、本物の笑顔を探していたのかもしれない、と。
「……ははっ、そっか!」
 彼女は笑顔のままそう言った。
 先ほどまでの気怠げな雰囲気とは打って変わって、まるで無邪気な子供のような笑顔だった。
 その変化に、僕は少し戸惑う。
 けれど、不思議と目を逸らすことができなかった。
 彼女は楽しそうにグラスを揺らし、オレンジ色の液体が小さく波打つのを眺めていた。
 カクテルの表面が微かに光を反射し、彼女の横顔を照らす。
 その横顔は、さっきまでの虚無を孕んだ眼差しとは違い、まるで長い夢から覚めたばかりのようだった。
 だが——その笑顔の奥には、まだ何かが隠れているような気がしてならない。
「葵!」
 突然、彼女が言葉を放った。
 その声は、まるで夜の静寂を切り裂くように響いた。
「えっ?」
 思わず聞き返してしまう。
「私の名前!」
 彼女は自分の胸を指さし、誇らしげに笑った。
 その仕草はどこか子供っぽく、それでいて妙に堂々としている。
「君の名前は?」
「えっと……陽だけど……」
 突然の問いかけに、少し間を置いて答える。
 すると、彼女は勢いよくテーブルを叩いた。
 カラン、とグラスの氷が揺れる音が店内に響く。
「よしっ! じゃあ陽って呼ぶね!」
 彼女は、僕を見つめてにっこりと笑った。
 その笑顔は、どこか危うい。
 けれど、それでいて抗いがたい魅力を持っていた。
 彼女のペースに、僕はいつの間にか飲み込まれていた。
 会話の主導権は、常に彼女が握っていた。
 言葉の端々には独特のリズムがあり、予測できないテンポで話が展開していく。
 気がつけば、店内に鳴り響く音楽よりも、彼女の放つ音——言葉や、時折漏れる笑い声に耳を傾けていた。
 グラスの中の氷がゆっくりと溶けていく。
 夜が深まるにつれ、店内の照明はどこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 赤、青、紫——不規則に変化する照明の光が、葵の横顔を照らす。
 その表情は、笑顔のままなのに、なぜか儚く見えた。
 ほんの少しでも触れたら、指の隙間からこぼれ落ちてしまいそうな——そんな気がした。
「私のことも葵って呼んで!」
 葵は嬉しそうに笑う。
 まるで、それが何よりも大事なことかのように。
「……呼べたらね」
 その瞬間、彼女の瞳が微かに揺れたように見えた。
 ほんの一瞬だけ——。
 それは、誰にも気づかれたくない感情が滲んだような、そんな表情だった。
 でも、すぐに彼女はまた笑顔を浮かべる。
 まるで何事もなかったかのように。
——これが、彼女との最初の出会いだった。