数日後、指定された自宅を訪れることになった。
スーツを着るべきか、カジュアルな服装で行くべきか。
ノートパソコンは必要か、参考書はどんなものを持っていけばいいのか。
細かいことを考えながら、カバンに荷物を詰める。
それは、まるで受験前夜のような緊張感だった。
しかし、心の奥では、確かな熱が燃えていた。
これが、僕の新しい人生の第一歩になる。
指定された住所に向かうと、目の前にあったのは、年季の入った中華料理店だった。
道路に面した店先には、色褪せた赤い暖簾がかかっている。
暖簾の端は少しほつれ、長年の風雨にさらされてきたことを物語っていた。
ガラス戸越しに店内を覗くと、壁には油で少し黄ばんだメニュー表が貼られ、カウンターには使い込まれたおしぼりケースが並んでいる。
店の前には、年季の入った出前用のバイクが停められていた。
車体の一部は錆びつき、荷台のボックスには「中華料理 なかむら」と書かれたシールが貼られている。
シールの角が剥がれかけていて、時間の流れを感じさせた。
(ここで合ってるよな……?)
僕はスマホの画面を確認しながら、改めて住所を見比べる。
間違いない。ここだ。
家庭教師の体験授業で訪れる場所としては、正直、少し意外だった。
勝手なイメージかもしれないが、こういう場合、もう少し整った住宅街の一軒家や、マンションの一室を想像していた。
だが、目の前にあるのは、昔ながらの家族経営の飲食店。
店の横には、同じく年季の入った二階建ての住宅が併設されている。
恐らくここが、中村翠の家なのだろう。
僕は、少し迷いながらも、インターホンのボタンを押した。
「ピンポーン……」
チャイムの音が鳴り響き、その直後、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
しばらくすると、扉の向こうから、明るい女性の声が飛んでくる。
「はーい、すぐ開けますね!」
玄関の扉が勢いよく開き、現れたのは、エプロン姿の中年の女性だった。
額には汗が滲んでいて、明らかに忙しそうだ。
手には、注文伝票らしきメモが数枚握られている。
「こんにちは、森山先生ですね? うちの翠がお世話になります」
彼女はにこやかに言いながら、腕時計をちらりと確認する。
同時に、家の奥から恰幅の良い男性が出てきた。
恐らく、翠の父親だろう。
二人は軽く頷き合うと、何のためらいもなく外へ向かおうとする。
(え、待って……?)
僕は、目の前で繰り広げられる状況を飲み込めず、思わず声をかけた。
「……あの、もしかして、ご両親は今からお仕事ですか?」
女性は、靴をつっかけながら、悪びれる様子もなく答えた。
「ええ、すみませんねぇ。店のピークがちょうどこの時間なんで」
その言葉に、僕の中で違和感がふくらんでいく。
「じゃあ、体験授業の間は翠さんと二人きりということに?」
「そうなりますね。翠、よろしくね」
女性が奥に声をかけると、玄関の奥から、小柄な少女がひょこっと顔を出した。
彼女は、僕の想像よりもずっと華奢だった。
細い肩、小さな顔。
黒髪は肩口で切り揃えられ、ぱっちりした目が印象的だった。
「はーい、行ってらっしゃい」
彼女は軽い調子で手を振ると、あっさりとした態度でこちらを見る。
その様子に、僕はますます困惑した。
(え……この親、マジで何も気にしないのか……?)
両親は、何の躊躇もなく店の方へと歩き出していく。
後ろ姿を見送りながら、僕の中で、もやもやとした疑問が浮かんできた。
初対面の家庭教師を、何の疑いもなく娘と二人きりにするってどういうこと?
万が一、相手がおかしな人間だったらどうするつもりなんだ?
今の世の中、何が起こるかわからない。
家庭教師にまつわる事件なんて、いくらでもニュースになっている。
それなのに、この親はそんな可能性を少しも考えていないのか?
僕なりに色々と調べたところ、慎重な家庭では、最初の授業には必ず保護者が同席するとのことだ。
中には、指導の様子をスマホで録音・録画する家庭もあるらしい。
それくらい、家庭教師というのは、ある意味「リスクのある存在」なのだ。
それなのに――。
彼らはまるで「知り合いの兄ちゃん」に預けるくらいの気軽さで、僕に娘を託した。
たった数回のメールと、電話で話しただけの相手に。
僕は、心の中でため息をついた。
(まぁ……俺は別に変なことはしないけどな)
翠は、僕の戸惑いをよそに、まるで何事もないかのように振る舞いながら、玄関の奥へと歩いていった。
「どうぞ、先生。こっちが勉強部屋です」
翠は、慣れた様子で僕を振り返り、廊下の一番奥にある部屋を指さした。まるで毎日こうして誰かを案内しているかのように、自然な仕草だった。
僕は、少しためらいながらも彼女の後について廊下を進む。足元の畳は年季が入っていて、わずかに沈み込む感覚がある。部屋の前まで来ると、翠はさっと障子を引き開けた。
「ここが勉強するところです」
中に入ると、シンプルな部屋だった。低めの勉強机に、小さな本棚。窓際には観葉植物が置かれている。奥の壁にはカレンダーが掛かっていて、予定の欄には丁寧な字で「期末テスト」と書かれていた。
「信用してくれてるのはありがたいけど……これは駄目だよな」
僕は思わず、独り言のように呟いた。
すると、翠が不思議そうにくるりと振り返る。
「何が駄目?」
きょとんとした表情で、首をかしげる。その仕草があまりにも無防備で、僕はますます不安になった。
「いや……初対面の大人の男と自分たちの娘を二人きりにしてしまう両親って、どうかと思わない?」
「んー……別に?」
翠は軽く肩をすくめる。
「もし俺が、おかしな人間だったらどうするんだよ」
僕は畳の上に正座しながら、まじめに問いかけた。しかし、翠は特に動揺する様子もなく、逆にじっと僕の顔を見つめてきた。
「おかしな人間か……」
一瞬、思案するように視線を泳がせたあと、翠はクスリと笑った。
「例えば、中学生のくせにクラブで酒を飲んだり、高校生の女の子を連れて熊野まで花火を見に行ったりするような人?」
――その瞬間、僕は固まった。
翠は、まっすぐ僕を見つめていた。
まるで、僕の過去をすべて知っているかのように――。
「……えっ?」
目の前の少女が口にした言葉を、僕はすぐに理解できなかった。
翠――この日、初めて出会ったはずの中学生の少女が、二十年以上前の僕の過去を知っている。
熊野の花火。
高校生の女の子。
クラブでの夜。
そんなはずはない。彼女が知っているはずがない。
僕は驚きのあまり、言葉を失ってしまった。
翠は、そんな僕を見て、ふわりと微笑んだ。
「久しぶり、陽。また会えたね!」
その声は、確かに翠のものだった。
けれど、僕の記憶の中に深く刻まれた、あの夏の日の声と、まったく同じ響きを持っていた。
背筋に冷たいものが走る。
目の前で起きていることが、現実的でないことは理解していた。
普通ならありえない。理屈では説明がつかない。
でも、僕の頭がそれを否定しようとするより早く、体は勝手に反応していた。
「……葵?」
その名を口にした瞬間、心臓が跳ねるように鼓動を打った。
まさか。
そんなことがあるはずがない。
でも、もしも――。
頭の中で無数の可能性が渦巻く。
錯覚だろうか。何かの勘違いだろうか。
それとも、僕はとうとう幻覚を見るほど疲れているのか。
だが、翠――いや、目の前の少女の瞳の奥に、僕が忘れるはずもない、あの光を見つけてしまった。
それは、夏の海辺で夕陽を背に笑っていた少女の眼差し。
僕の人生を大きく変えた、あの人の――。
「葵……!」
気がつけば、僕は目の前の少女を強く抱きしめていた。
細く、小さな肩に腕を回した瞬間、仄かに熱が伝わってくる。
柔らかな感触が、確かにこの世のものとして存在していた。
幻ではない。これは、確かな現実。
その証拠に、懐かしい匂いが鼻をかすめた。
潮風と、柑橘系の香りが混じった、夏の記憶の匂い。
胸の奥から、ずっと押し込めていた何かが溢れそうになる。
……違う。
これは、夢じゃない。
本当に――彼女がここにいる?
抱きしめた腕に、少女の肩がふるりと震える。
次の瞬間、僕の胸の中で、小さく笑う声がした。
「絶対こうなると思ったから、誰もいない日に体験授業を入れたんだよ」
まるで、すべて計算済みだったかのような口ぶり。
腕の中で、彼女は悪戯っぽく微笑む。
「うちの両親、チョロいからさ。簡単に言いくるめられたよ」
その表情が、あの夏の日の彼女とぴったり重なった。
楽しそうに笑いながら、僕をからかうように視線を絡めてくる。
やっぱり――これは夢なんかじゃない。
目の前にいるのは、確かに彼女だった。
けれど、どうして?
なぜ、彼女が今ここにいる?
そして――翠は本当に翠なのか?
それとも、葵なのか?
僕の中で、現実と記憶が混ざり合い、ひどく曖昧になっていくのを感じた。
目の前にいるのは、確かに翠という名前の少女だ。
けれど、その瞳の奥に宿るものは、あの夏に出会った葵のものと寸分違わない。
それが錯覚なのか、それとも――。
「まさか輪廻転生なんて存在すると思わなかったからさ、さよならって言っちゃったよ。ごめんね」
少女の言葉が、静かに僕の耳に届く。
その瞬間、胸の奥に眠っていた感情が、じわじわと溶け出していった。
信じられない。
でも、信じない理由もなかった。
――あの日、僕は確かに彼女を失った。
葵の死を知ったときの、あの衝撃。
喪失感。
悲しみ。
それらが、決して作り物ではなかったことに間違いはない。
彼女は、あの夏の終わりに、僕の前から突然いなくなった。
だからこそ、僕は何度も問い続けた。
なぜ、彼女が死ななければならなかったのか。
なぜ、僕は何も知らされなかったのか。
なぜ、最後にもう一度会うことができなかったのか。
けれど今、目の前にいる翠は、まるで当然のようにその続きを語っている。
あたかも、彼女の人生が途切れることなく続いていたかのように――。
「ごめんね」
たったその一言が、胸に深く突き刺さる。
葵が死んだと知ったとき、僕の心の奥底にずっと残り続けていた疑問。
その答えを、彼女は今になって口にした。
僕はただ黙って、目の前の少女にしがみついていた。
彼女の温もりを感じながら、どうしようもなく涙が込み上げてくる。
細い肩を抱きしめる腕が、震えているのが自分でも分かった。
心の奥に押し込めていた悲しみが、堰を切ったように溢れ出しそうになる。
葵に伝えられなかった言葉が、今になって喉の奥に詰まって出てこない。
それでも、何かを言わなければ。
何を言えばいい?
「どうして?」と聞くべきなのか。
「本当に葵なのか?」と問いただすべきなのか。
それとも、ただ「会いたかった」と泣けばいいのか――。
答えが出ないまま、僕の腕の中で、翠が小さく微笑んだ。
「絶対、陽は教育者になると思ってたんだよ」
耳元で、彼女が囁く。
懐かしい、でもどこかくすぐったいような声。
「塾か家庭教師のどっちかかな? って思って、名前で検索かけてたりずっとしてたんだけどさ……ようやく見つけた」
まるで、ずっと探し続けていた宝物をようやく見つけた子供のように。
翠の声はどこか楽しげで、けれど同時に、愛しさが滲んでいた。
ずっと探していた――?
そんなの、僕の方こそだ。
忘れたくても、忘れられなかった。
あの夏の日。
彼女が笑った、あの瞬間を。
青空の下、ふと目が合って、胸が高鳴ったあの感覚を。
熊野の夜空を彩る花火の下、横に立つ彼女のはにかんだ横顔を。
思い出すたび、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
手を伸ばしても届かない遠い記憶の中で、彼女はずっと微笑んでいる。
声をかけても、振り向いてくれることはない。
それでも僕は、何度も記憶の中の彼女に語りかけていた。
「もし、もう一度会えたら……」
そんなことばかり考えていた。
けれど、もう彼女はいない。
僕の手の届かない場所へと消えてしまった。
そう思っていたのに――。
目の前の少女が、静かに微笑んでいる。
翠という名前を持つ彼女が、どこか懐かしそうに僕を見つめている。
その瞳の奥に映るのは、あの夏の日の残像。
僕が何度も思い出し、決して忘れられなかった彼女の面影。
心臓が、強く脈打つのを感じた。
それは、かつて彼女と初めて出会ったときと同じ、あの鼓動だった。
震える声で、ようやく言葉を紡ぐ。
「……つい最近、プロ家庭教師として独立したんだよ」
言葉にすることで、ようやく自分自身の今が確かなものになる気がした。
過去に囚われていた僕が、ようやく前に進み始めた証のような気がして。
翠――いや、葵は、優しく微笑んだ。
「そっか、良かった」
その声は、確かに葵のものだった。
長い時間を経ても変わることのない、僕の心を揺さぶる声。
「これでまた、一緒にいられるね」
その一言が、僕の胸の奥にすとんと落ちた。
懐かしくて、でも新しくて。
ずっと探していたものが、ようやく手の中に戻ってきたような感覚だった。
ああ、そうか。
僕たちは、あの夏の日の続きを生きるんだ。
彼女が死んでしまったことで途切れてしまった物語は、こうしてまた始まりを迎えた。
僕が何度も願い続けた「もしもう一度会えたら」という願いが、今、叶っている。
これは、僕と彼女の物語だ。
葵は翠として、今も僕と一緒にいる。
生まれ変わったとしても、違う名前を持っていたとしても、彼女は彼女のままだ。
僕の大切な、忘れられなかった人。
僕にとって、忘れられない恋になるはずだった。
だけど今、それは「忘れる必要のない恋」になった。
これからも僕は、彼女とともにたくさんの物語を紡いでいく。
家庭教師として、彼女を導きながら――いや、もしかしたら導かれながら。
あの夏の日の続きを、二人で一緒に。
スーツを着るべきか、カジュアルな服装で行くべきか。
ノートパソコンは必要か、参考書はどんなものを持っていけばいいのか。
細かいことを考えながら、カバンに荷物を詰める。
それは、まるで受験前夜のような緊張感だった。
しかし、心の奥では、確かな熱が燃えていた。
これが、僕の新しい人生の第一歩になる。
指定された住所に向かうと、目の前にあったのは、年季の入った中華料理店だった。
道路に面した店先には、色褪せた赤い暖簾がかかっている。
暖簾の端は少しほつれ、長年の風雨にさらされてきたことを物語っていた。
ガラス戸越しに店内を覗くと、壁には油で少し黄ばんだメニュー表が貼られ、カウンターには使い込まれたおしぼりケースが並んでいる。
店の前には、年季の入った出前用のバイクが停められていた。
車体の一部は錆びつき、荷台のボックスには「中華料理 なかむら」と書かれたシールが貼られている。
シールの角が剥がれかけていて、時間の流れを感じさせた。
(ここで合ってるよな……?)
僕はスマホの画面を確認しながら、改めて住所を見比べる。
間違いない。ここだ。
家庭教師の体験授業で訪れる場所としては、正直、少し意外だった。
勝手なイメージかもしれないが、こういう場合、もう少し整った住宅街の一軒家や、マンションの一室を想像していた。
だが、目の前にあるのは、昔ながらの家族経営の飲食店。
店の横には、同じく年季の入った二階建ての住宅が併設されている。
恐らくここが、中村翠の家なのだろう。
僕は、少し迷いながらも、インターホンのボタンを押した。
「ピンポーン……」
チャイムの音が鳴り響き、その直後、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
しばらくすると、扉の向こうから、明るい女性の声が飛んでくる。
「はーい、すぐ開けますね!」
玄関の扉が勢いよく開き、現れたのは、エプロン姿の中年の女性だった。
額には汗が滲んでいて、明らかに忙しそうだ。
手には、注文伝票らしきメモが数枚握られている。
「こんにちは、森山先生ですね? うちの翠がお世話になります」
彼女はにこやかに言いながら、腕時計をちらりと確認する。
同時に、家の奥から恰幅の良い男性が出てきた。
恐らく、翠の父親だろう。
二人は軽く頷き合うと、何のためらいもなく外へ向かおうとする。
(え、待って……?)
僕は、目の前で繰り広げられる状況を飲み込めず、思わず声をかけた。
「……あの、もしかして、ご両親は今からお仕事ですか?」
女性は、靴をつっかけながら、悪びれる様子もなく答えた。
「ええ、すみませんねぇ。店のピークがちょうどこの時間なんで」
その言葉に、僕の中で違和感がふくらんでいく。
「じゃあ、体験授業の間は翠さんと二人きりということに?」
「そうなりますね。翠、よろしくね」
女性が奥に声をかけると、玄関の奥から、小柄な少女がひょこっと顔を出した。
彼女は、僕の想像よりもずっと華奢だった。
細い肩、小さな顔。
黒髪は肩口で切り揃えられ、ぱっちりした目が印象的だった。
「はーい、行ってらっしゃい」
彼女は軽い調子で手を振ると、あっさりとした態度でこちらを見る。
その様子に、僕はますます困惑した。
(え……この親、マジで何も気にしないのか……?)
両親は、何の躊躇もなく店の方へと歩き出していく。
後ろ姿を見送りながら、僕の中で、もやもやとした疑問が浮かんできた。
初対面の家庭教師を、何の疑いもなく娘と二人きりにするってどういうこと?
万が一、相手がおかしな人間だったらどうするつもりなんだ?
今の世の中、何が起こるかわからない。
家庭教師にまつわる事件なんて、いくらでもニュースになっている。
それなのに、この親はそんな可能性を少しも考えていないのか?
僕なりに色々と調べたところ、慎重な家庭では、最初の授業には必ず保護者が同席するとのことだ。
中には、指導の様子をスマホで録音・録画する家庭もあるらしい。
それくらい、家庭教師というのは、ある意味「リスクのある存在」なのだ。
それなのに――。
彼らはまるで「知り合いの兄ちゃん」に預けるくらいの気軽さで、僕に娘を託した。
たった数回のメールと、電話で話しただけの相手に。
僕は、心の中でため息をついた。
(まぁ……俺は別に変なことはしないけどな)
翠は、僕の戸惑いをよそに、まるで何事もないかのように振る舞いながら、玄関の奥へと歩いていった。
「どうぞ、先生。こっちが勉強部屋です」
翠は、慣れた様子で僕を振り返り、廊下の一番奥にある部屋を指さした。まるで毎日こうして誰かを案内しているかのように、自然な仕草だった。
僕は、少しためらいながらも彼女の後について廊下を進む。足元の畳は年季が入っていて、わずかに沈み込む感覚がある。部屋の前まで来ると、翠はさっと障子を引き開けた。
「ここが勉強するところです」
中に入ると、シンプルな部屋だった。低めの勉強机に、小さな本棚。窓際には観葉植物が置かれている。奥の壁にはカレンダーが掛かっていて、予定の欄には丁寧な字で「期末テスト」と書かれていた。
「信用してくれてるのはありがたいけど……これは駄目だよな」
僕は思わず、独り言のように呟いた。
すると、翠が不思議そうにくるりと振り返る。
「何が駄目?」
きょとんとした表情で、首をかしげる。その仕草があまりにも無防備で、僕はますます不安になった。
「いや……初対面の大人の男と自分たちの娘を二人きりにしてしまう両親って、どうかと思わない?」
「んー……別に?」
翠は軽く肩をすくめる。
「もし俺が、おかしな人間だったらどうするんだよ」
僕は畳の上に正座しながら、まじめに問いかけた。しかし、翠は特に動揺する様子もなく、逆にじっと僕の顔を見つめてきた。
「おかしな人間か……」
一瞬、思案するように視線を泳がせたあと、翠はクスリと笑った。
「例えば、中学生のくせにクラブで酒を飲んだり、高校生の女の子を連れて熊野まで花火を見に行ったりするような人?」
――その瞬間、僕は固まった。
翠は、まっすぐ僕を見つめていた。
まるで、僕の過去をすべて知っているかのように――。
「……えっ?」
目の前の少女が口にした言葉を、僕はすぐに理解できなかった。
翠――この日、初めて出会ったはずの中学生の少女が、二十年以上前の僕の過去を知っている。
熊野の花火。
高校生の女の子。
クラブでの夜。
そんなはずはない。彼女が知っているはずがない。
僕は驚きのあまり、言葉を失ってしまった。
翠は、そんな僕を見て、ふわりと微笑んだ。
「久しぶり、陽。また会えたね!」
その声は、確かに翠のものだった。
けれど、僕の記憶の中に深く刻まれた、あの夏の日の声と、まったく同じ響きを持っていた。
背筋に冷たいものが走る。
目の前で起きていることが、現実的でないことは理解していた。
普通ならありえない。理屈では説明がつかない。
でも、僕の頭がそれを否定しようとするより早く、体は勝手に反応していた。
「……葵?」
その名を口にした瞬間、心臓が跳ねるように鼓動を打った。
まさか。
そんなことがあるはずがない。
でも、もしも――。
頭の中で無数の可能性が渦巻く。
錯覚だろうか。何かの勘違いだろうか。
それとも、僕はとうとう幻覚を見るほど疲れているのか。
だが、翠――いや、目の前の少女の瞳の奥に、僕が忘れるはずもない、あの光を見つけてしまった。
それは、夏の海辺で夕陽を背に笑っていた少女の眼差し。
僕の人生を大きく変えた、あの人の――。
「葵……!」
気がつけば、僕は目の前の少女を強く抱きしめていた。
細く、小さな肩に腕を回した瞬間、仄かに熱が伝わってくる。
柔らかな感触が、確かにこの世のものとして存在していた。
幻ではない。これは、確かな現実。
その証拠に、懐かしい匂いが鼻をかすめた。
潮風と、柑橘系の香りが混じった、夏の記憶の匂い。
胸の奥から、ずっと押し込めていた何かが溢れそうになる。
……違う。
これは、夢じゃない。
本当に――彼女がここにいる?
抱きしめた腕に、少女の肩がふるりと震える。
次の瞬間、僕の胸の中で、小さく笑う声がした。
「絶対こうなると思ったから、誰もいない日に体験授業を入れたんだよ」
まるで、すべて計算済みだったかのような口ぶり。
腕の中で、彼女は悪戯っぽく微笑む。
「うちの両親、チョロいからさ。簡単に言いくるめられたよ」
その表情が、あの夏の日の彼女とぴったり重なった。
楽しそうに笑いながら、僕をからかうように視線を絡めてくる。
やっぱり――これは夢なんかじゃない。
目の前にいるのは、確かに彼女だった。
けれど、どうして?
なぜ、彼女が今ここにいる?
そして――翠は本当に翠なのか?
それとも、葵なのか?
僕の中で、現実と記憶が混ざり合い、ひどく曖昧になっていくのを感じた。
目の前にいるのは、確かに翠という名前の少女だ。
けれど、その瞳の奥に宿るものは、あの夏に出会った葵のものと寸分違わない。
それが錯覚なのか、それとも――。
「まさか輪廻転生なんて存在すると思わなかったからさ、さよならって言っちゃったよ。ごめんね」
少女の言葉が、静かに僕の耳に届く。
その瞬間、胸の奥に眠っていた感情が、じわじわと溶け出していった。
信じられない。
でも、信じない理由もなかった。
――あの日、僕は確かに彼女を失った。
葵の死を知ったときの、あの衝撃。
喪失感。
悲しみ。
それらが、決して作り物ではなかったことに間違いはない。
彼女は、あの夏の終わりに、僕の前から突然いなくなった。
だからこそ、僕は何度も問い続けた。
なぜ、彼女が死ななければならなかったのか。
なぜ、僕は何も知らされなかったのか。
なぜ、最後にもう一度会うことができなかったのか。
けれど今、目の前にいる翠は、まるで当然のようにその続きを語っている。
あたかも、彼女の人生が途切れることなく続いていたかのように――。
「ごめんね」
たったその一言が、胸に深く突き刺さる。
葵が死んだと知ったとき、僕の心の奥底にずっと残り続けていた疑問。
その答えを、彼女は今になって口にした。
僕はただ黙って、目の前の少女にしがみついていた。
彼女の温もりを感じながら、どうしようもなく涙が込み上げてくる。
細い肩を抱きしめる腕が、震えているのが自分でも分かった。
心の奥に押し込めていた悲しみが、堰を切ったように溢れ出しそうになる。
葵に伝えられなかった言葉が、今になって喉の奥に詰まって出てこない。
それでも、何かを言わなければ。
何を言えばいい?
「どうして?」と聞くべきなのか。
「本当に葵なのか?」と問いただすべきなのか。
それとも、ただ「会いたかった」と泣けばいいのか――。
答えが出ないまま、僕の腕の中で、翠が小さく微笑んだ。
「絶対、陽は教育者になると思ってたんだよ」
耳元で、彼女が囁く。
懐かしい、でもどこかくすぐったいような声。
「塾か家庭教師のどっちかかな? って思って、名前で検索かけてたりずっとしてたんだけどさ……ようやく見つけた」
まるで、ずっと探し続けていた宝物をようやく見つけた子供のように。
翠の声はどこか楽しげで、けれど同時に、愛しさが滲んでいた。
ずっと探していた――?
そんなの、僕の方こそだ。
忘れたくても、忘れられなかった。
あの夏の日。
彼女が笑った、あの瞬間を。
青空の下、ふと目が合って、胸が高鳴ったあの感覚を。
熊野の夜空を彩る花火の下、横に立つ彼女のはにかんだ横顔を。
思い出すたび、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
手を伸ばしても届かない遠い記憶の中で、彼女はずっと微笑んでいる。
声をかけても、振り向いてくれることはない。
それでも僕は、何度も記憶の中の彼女に語りかけていた。
「もし、もう一度会えたら……」
そんなことばかり考えていた。
けれど、もう彼女はいない。
僕の手の届かない場所へと消えてしまった。
そう思っていたのに――。
目の前の少女が、静かに微笑んでいる。
翠という名前を持つ彼女が、どこか懐かしそうに僕を見つめている。
その瞳の奥に映るのは、あの夏の日の残像。
僕が何度も思い出し、決して忘れられなかった彼女の面影。
心臓が、強く脈打つのを感じた。
それは、かつて彼女と初めて出会ったときと同じ、あの鼓動だった。
震える声で、ようやく言葉を紡ぐ。
「……つい最近、プロ家庭教師として独立したんだよ」
言葉にすることで、ようやく自分自身の今が確かなものになる気がした。
過去に囚われていた僕が、ようやく前に進み始めた証のような気がして。
翠――いや、葵は、優しく微笑んだ。
「そっか、良かった」
その声は、確かに葵のものだった。
長い時間を経ても変わることのない、僕の心を揺さぶる声。
「これでまた、一緒にいられるね」
その一言が、僕の胸の奥にすとんと落ちた。
懐かしくて、でも新しくて。
ずっと探していたものが、ようやく手の中に戻ってきたような感覚だった。
ああ、そうか。
僕たちは、あの夏の日の続きを生きるんだ。
彼女が死んでしまったことで途切れてしまった物語は、こうしてまた始まりを迎えた。
僕が何度も願い続けた「もしもう一度会えたら」という願いが、今、叶っている。
これは、僕と彼女の物語だ。
葵は翠として、今も僕と一緒にいる。
生まれ変わったとしても、違う名前を持っていたとしても、彼女は彼女のままだ。
僕の大切な、忘れられなかった人。
僕にとって、忘れられない恋になるはずだった。
だけど今、それは「忘れる必要のない恋」になった。
これからも僕は、彼女とともにたくさんの物語を紡いでいく。
家庭教師として、彼女を導きながら――いや、もしかしたら導かれながら。
あの夏の日の続きを、二人で一緒に。



