夏が終わり、新学期が始まっても、僕の時間は八月十七日のまま止まっていた。
 黒板に書かれる数式。
 チョークの先がこすれる乾いた音。
 教室に響く教師の単調な声。
 昼休みに響くクラスメイトの笑い声。
 誰かが机を引く音、購買のパンを巡ってじゃんけんする声。
 どれもこれも、かつての僕にとっては「いつも通りの風景」だった。
 疑うこともなく、違和感を抱くこともなく、ただ当たり前のものとして受け入れていた。
 それなのに、今はすべてが無機質に感じられた。
 まるで、モノクロの世界に放り込まれたようだった。

***

 教室の窓の外には、もう蝉の声はなかった。
 代わりに吹き抜ける風は冷たく、空はどこまでも高く透き通っていた。
「秋」――そんなものが訪れることさえ、僕は考えていなかった。
 彼女と過ごした夏が、まるで昨日のことのように思えてならなかったから。
 今、目の前にある季節の移ろいが信じられなかった。
 時計の針は進み、カレンダーはめくられ、季節は確かに巡っているのに――。
 僕の中だけは、何も変わらないまま。
 時間に取り残されてしまったのは、僕だけだった。

***

 黒板に目を向ける。
 数学の教師が、xとyの絡み合う数式を滑らかに書き進めていた。
 けれど、その記号の羅列は、まるで別の言語のようで、何を意味しているのかさえ理解できなかった。
 僕はただ、空っぽのノートにペンを走らせるふりをするだけだった。
 ぼんやりと黒板を眺めながら、考える。
――彼女がいた夏のほうが、夢だったんじゃないか?
 潮風に吹かれながら見た、熊野の夜空。
 三尺玉の光の残像。
 打ち上がる花火の音にかき消されそうなほど小さな「大好き」という言葉。
 電車の中で、最後に聞いた「さよなら」。
 もしすべてが夢だったのなら、どれほどよかっただろう。
 そうすれば、こんなにも苦しくなることはなかったのに。

***

 彼女はいない。
 それはもう、どうしようもない事実だった。
 なのに、彼女の面影はどこにでもあった。
 誰かの笑い声が、ふと彼女の声に聞こえることがあった。
 窓の外に広がる空に、熊野で見た花火の幻影を重ねることがあった。
「おーい、聞いてるか?」
 肩を叩かれて、僕はハッと顔を上げる。
 隣の席の友人が、不思議そうに僕を見つめていた。
「……ああ」
 適当に相槌を打つ。
「なんかボーッとしてたな。大丈夫か?」
「平気だよ」
 嘘だった。
 何をしていても、どこにいても、僕の頭の中には彼女がいた。
 それはまるで、耳の奥にこびりついたノイズのようだった。
 消したくても消えない、夏の残響。

***

 彼女がいなくなってから、僕はクラブに行かなくなった。
 あそこに行けば、彼女に会えると信じていた。
 何度も通い、何度も彼女を探した。
 けれど、どれだけ待っても、彼女はもう現れなかった。
 それに気づいた時、僕はもう足を運ぶのをやめた。
 あの場所は、もう僕にとって意味を持たなかった。
 そこに響く音楽も、フロアの熱気も、僕を満たすものではなかった。
 だから、行かなくなった。
 でも、だからといって、彼女の不在を受け入れられたわけじゃなかった。

***

 何の変哲もない放課後。
 窓の外に広がる、夕焼けに染まる街。
 教室の片隅に一人座り、ただ、時間が過ぎていくのを待っていた。
 何もする気になれなかった。
 心が置き去りにされたまま、身体だけがそこにあるような感覚。
 ふと、ペンを握りしめる。
――もし、もう一度彼女に会えたら、僕は何を言えばいいのだろう?
 その答えが出ないまま、僕はただ、時間に取り残され続けた。

***

 残暑も薄らぎ、空気がひんやりとし始めた十月の初め。
 日が落ちるのが早くなり、夕暮れはすぐに夜の闇へと溶けていく。
 学校帰りの道を、僕はぼんやりと歩いていた。
 自分がどこへ向かっているのかすら、よく分からなかった。
 目の前には、いつもと変わらない風景。
 見慣れた住宅街の並び、コンビニの灯り、行き交う車のヘッドライト。
 けれど、それらはどこか遠くの景色のように思えた。
 足元には、風に吹かれて転がる枯葉。
 夏の間、青々としていた木々は色を変え、その葉を次々と落としていく。
 カサ、と小さな音を立てて、枯葉がアスファルトの上を転がった。
 それはまるで、季節の変わり目に取り残された僕の心そのもののようだった。
 秋の気配を感じる風が、首元のシャツをひらりと揺らす。
 ひんやりとした空気が肌を撫で、かすかに夏の記憶を吹き飛ばそうとする。
 でも、それはまだ僕の中にしがみついていた。
――夏は、もう遠い過去のはずなのに。
 僕の時間だけは、いまだに八月十七日のままで止まったままだった。

***

 ふと、足を止める。
 目の前には横断歩道。
 赤信号を示す灯りが、街灯の下でぼんやりと揺れていた。
 信号が変わるのを待ちながら、何の気なしに空を見上げた。
 夜の帳が下りかけた空には、うっすらと細い月が浮かんでいた。
 その隣には、かすかに光る星。
――夏の夜空にも、こんな星があったっけ。
 そう思った瞬間、記憶の底から浮かび上がってくるものがあった。
 手を伸ばせば届きそうなほど、近くにあったはずなのに。
 信号が青に変わる。
 だけど、僕はすぐには歩き出せなかった。
 あの夏の記憶が、僕の足を止めていた。

***

 その時だった。
「おーい、陽だろ?」
 突然、背後から声をかけられた。
 ハッとして振り返る。
 そこに立っていたのは、クラブのオーナーだった。
 クラブでは何度も顔を合わせていたけれど、街中で会うのは初めてだった。
 オーナーは変わらずラフな格好で、片手にはコンビニのビニール袋をぶら下げている。
 どうやら仕事帰りらしい。
「最近、来てくれてないじゃん!」
 オーナーは軽い調子で言ったが、僕は一瞬、言葉に詰まった。
――行けるわけがなかった。
 あそこは、彼女がいた場所だった。
 彼女が笑い、歌い、踊っていた場所。
 彼女の声が響いていたフロア。
 彼女のシルエットが照明に浮かび上がっていたステージ。
 彼女が僕の手を引いて、こっそり抜け出した裏口の通路。
 すべてが、彼女の存在と結びついていた。
 だから、もう行けなかった。
 なのに、どうして今さらそんなことを聞くんだろう。
「……ああ、すみません。受験勉強で忙しくて……」
 口から出た言葉は、どこか他人事のようだった。
 本当は、勉強なんてろくに手につかず、ただただ日々をやり過ごしていただけだったのに。
 オーナーは「ああ、そうか」と頷いた。
「そっか、受験生か。そりゃ大変だよな。でも良かったよ――」
 オーナーは言葉を切ると、少し間を置いてから続けた。
「葵のことで落ち込んでるんじゃなくて」
 その名前を聞いた瞬間、時間が止まったような気がした。

***

 葵。
 その名前が、あまりにも自然にオーナーの口からこぼれた。
 空気が凍りつく。
 心臓が、嫌な鼓動を打つ。
「……えっ?」
 口から漏れた声は、驚くほどかすれていた。
 まるで、喉が一瞬で砂漠になったみたいに、乾ききっていた。
 オーナーは、そんな僕には気づかないまま、言葉を続ける。
「葵もさ、あんなに若いのに可哀想にな」
 可哀想?
 その単語が、胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
 さっきまで秋風に舞っていた落ち葉が、突然地面に張りついたみたいに、世界が急に重たくなった。
「……えっ?」
 声にならない声が喉の奥からこぼれる。
 なぜ、過去形なのか。
 なぜ、「可哀想」なんて言うのか。
 それは――どういう意味なんだ?

***

「えっ……? 葵に何かあったんですか?」
 尋ねる声は、自分のものとは思えないほど震えていた。
 風が吹く。
 落ち葉が舞い上がり、冷たい空気が首筋を撫でる。
 けれど、その寒さすら感じられなかった。
 オーナーの表情が、ふと曇る。
「えっ? お前、知らねーの?」
 困惑したように、オーナーは眉をひそめた。
「仲良かったから、てっきり知ってるもんだと……」
 仲良かった。
 そうだ、僕たちは、仲が良かった。
 彼女の歌声が響くクラブで、何度も時間を共にした。
 あの夏、僕達は熊野まで行って、一緒に花火を見た。丸一日以上、一緒にいた。
 別れ際に「ありがとう」と「さよなら」を言われた。
……だけど、それからは?
 思い返してみる。
 でも、何も出てこない。
 僕は、葵の何を知っていた?
 オーナーが言い終わるよりも早く、僕は喉の奥から言葉を押し出した。
「……何があったんですか?」
 声が裏返る。
 胸の奥から、何かがこみ上げてくる。
 答えを知るのが怖かった。
 だけど、それ以上に、何も知らないままでいるのが怖かった。

***

 冷たい秋風が吹き抜ける。
 オーナーは、一瞬だけ僕を見つめた。
 その視線には、何かを言いづらそうな迷いがあった。
 それでも、ゆっくりと口を開く。
「……死んだんだよ、葵。」
 秋風の中に、静かな声が溶けていく。
「もう二、三週間前になるかな」
 最初は、意味がわからなかった。
「えっ……?」
 足元のアスファルトが、ぐにゃりと歪んだ気がした。
「葵が……死んだ?」
 言葉が、喉に詰まる。
 死んだ?
 それは、どういうことだ?
 彼女が――?
 あの葵が?

***

 オーナーは、遠い世界の出来事を語るように、淡々と続ける。
「クラブに来てる連中も何人かは通夜に行ったみたいだけど……お前は呼ばれてなかったんだな」
 通夜。
 その言葉が、まるで遠い異国の言葉のように響く。
 過去形で語られる彼女の存在。
 つい一、二ヶ月前まで確かにいたはずの人間が、もうどこにもいない――そんな現実が、頭のどこにも収まらなかった。
 喉の奥が乾ききっているのに、胃の底からせり上がるような吐き気を感じる。
 食道が逆流するように、何かがこみ上げてくる。
「嘘ですよね……?」
 そう言おうとした。
 けれど、喉がひどくひりついて、声にならなかった。
 オーナーはまだ何かを言っていた。
 気遣うような言葉。
 慰めの言葉。
――でも、僕の耳には何も届かなかった。

***

 再び風が吹いた。
 冷えた空気が、無防備な首筋を撫でる。心なしか、先程の風よりも一層冷たく感じる。
 乾いた枯葉が、無情に舞い上がり、足元でくるくると転がった。
 まるで、彼女がこの世界に存在していたことすら、風が掻き消していくみたいだった。
 僕の世界から、音が消えていた。
 オーナーが最後に言った、「また店に顔出せよ」という言葉に、僕は「はい」と気のない返事をした。
 それが、精一杯だった。
 口の中がひどく苦かった。
 息を吸うたび、心の奥に鈍い痛みが広がった。
 そして――葵が死んだという事実以外、僕の記憶からすべてが消えた。