ひなたとあおいと、みどりの輪

 帰りの電車は、行きと同じように揺れているはずだった。
 なのに、まるで違う時間を生きているみたいだった。
 同じ線路を辿っているはずなのに、景色が色を失って見えた。
 ぼんやりとした光が車窓を流れ、夜明け前の街はまだ静寂の中にあった。
 いつもの雰囲気を取り戻したくて、僕はどうにか会話を続けようとする。
「今日、楽しかったな」
「うん」
 彼女の返事は、あまりにも短かった。
 ただの相槌――それ以上の何かを求めるのが、いけないことのようにさえ感じる。
「また一緒に行こうな」
「……うん」
 どこか、迷うような間があった。
 僕の言葉を受け止めているのか、それともただ、流しているだけなのか。
「次はどこ行きたい?」
「……そうだね」
 考えているようにも思えた。
 でも、その言葉に続きはなかった。
 まるで、話を終わらせるためだけに口を開いたみたいに。
 窓に映る僕たちの姿は、どこか歪んでいた。
 疲れた顔をした僕と、無表情の彼女。
 車内は人もまばらで、僕たちの会話は空間に溶け込むように消えていく。
 ふと、彼女の指先が視界に入る。
 膝の上で揃えられた両手は、ほんの少しだけ力がこもっていた。
 白く細い指先が、かすかに震えている。
 本当は何かを言いたいんじゃないか。
 僕の言葉に対して、ただ気のない肯定文を返すだけの彼女。
 そのくせ、指先だけが感情をこらえているみたいに見えた。
 僕の家の最寄り駅が近づく。
 その間も、彼女の態度が変わることはなかった。
――もう何を話せばいいのか、分からなかった。
 諦めたくないのに、どうしても手が届かない。
 彼女が遠い。どんどん遠ざかっていく。
 今日一日ずっと隣にいたのに、まるでずっと独りだったみたいに感じる。
 僕の知っている彼女は、本当にすぐそばにいるのか?
 そんな考えが頭をよぎった、そのときだった。
「陽!」
 びくっとするほど強い声だった。
 久しぶりに、彼女の声をはっきりと聞いた気がした。
 驚いて顔を上げると、彼女がこちらをまっすぐ見ていた。
「何?」
 反射的に返事をする。
 彼女の目が揺れる。
 何かを伝えようとしている――そんな気がした。
 その一瞬、僕は希望を抱いた。
 まだ、何か話せることがあるんじゃないか。
 まだ、僕は彼女の隣にいられるんじゃないか。
 でも。
「ありがとう。さよなら」
「えっ……」
 電車のドアが閉まる。
 無機質なガラスが、僕と彼女の間に境界線を引いた。
 電車がゆっくりと動き出す。
 彼女の姿が、少しずつ遠ざかる。
 ガラス越しに、彼女は微笑んでいた。
 でも、それはどこかぎこちなくて、まるで寂しさを隠すための笑顔のようにも見えた。
 僕は、呆然と立ち尽くす。
 いつもなら、別れ際に「またね」と言ってくれる彼女が――「さよなら」
 その言葉を選んだ。
 その瞬間、言いようのない不安が、僕の胸を締め付けた。
 これは、ただの別れの挨拶じゃない。
 まるで、何かを終わらせるための言葉のように聞こえた。
 彼女は、もう決めていたんじゃないか。
 今日、この日を区切りにすると。
 僕は立ち尽くしながら、彼女の姿が完全に見えなくなるまで、ドアの向こうを見つめ続けた。

***

 当時、中学生が携帯電話を持つのは、まだ一般的ではなかった。
 少なくとも、僕の周りではそうだった。
 彼女が携帯を持っている様子もなかったし、僕自身、それほど必要性を感じていなかった。
 連絡を取る手段がないことに、不安を覚えることもなかった。
 だって、会いたければ、クラブに行けばいい。
 彼女はそこにいるはずだ。
 僕は、そんなふうに考えていた。
 何の根拠もない、幼稚な自信。
 どこかに「いつまでも続くもの」なんて存在しないのに。
 そんな当たり前のことにすら気づかず、僕は彼女の連絡先を聞くことを怠った。
 それが、どれほど脆く、危ういものだったのか――あの時の僕は、まだ知らなかった。

***

 それから、僕は何度もあのクラブに足を運んだ。
 金曜の夜、土曜の夜、時には日曜まで。
 彼女がそこにいるのが当たり前だった。
 だから、何事もなかったかのように現れるんじゃないかと、無邪気に期待していた。
 でも――どんなに待っても、彼女は現れなかった。
 照明が点滅するフロアで、僕は何度も彼女の姿を探した。
 人混みの中、視線を走らせる。
 バーカウンター、DJブースのそば、スピーカーの前――彼女がいつもいた場所を、ひとつずつ確認していく。
 それでも、どこにもいなかった。
 人が溢れるフロアの中で、彼女の不在だけが際立っていた。
 あの日以来、彼女は忽然と姿を消してしまった。

***

 彼女のいないクラブは、ひどく味気なかった。
 暗闇にぼんやりと浮かぶネオンライト。
 スピーカーから流れる、耳をつんざくようなビート。
 人の熱気と汗の匂いが入り混じるフロア。
 すべてが以前と変わらないはずなのに、まるで別の場所のように感じた。
 彼女がいた頃のクラブは、どこか暖かかった。
 音楽に合わせて体を揺らす彼女の姿。
 ふと振り向いたときに目が合って、微笑み合う瞬間。
 カウンターに並んで座り、くだらない話をしていた時間。
 そのすべてが、たったひと月前の出来事とは思えないほど、遠くに感じた。
 気がつけば、僕はただの観客になっていた。
 周囲の人間は楽しそうに踊り、酔いに身を任せ、互いに触れ合っている。
 でも、その輪の中に入る気にはなれなかった。
 彼女がいたときには、こんな感覚を抱いたことはなかったのに。
 ふと、グラスを傾けながら考える。
 もしかしたら、彼女は最初から、僕とは違う世界の人間だったんじゃないか。
 あの光の中に溶け込んでいた彼女。
 僕が何度も手を伸ばしたのに、結局、何も掴めなかった存在。
 そんなことを考えてしまうほど、彼女のいないクラブは冷たく、空虚だった。

***

 何度目かの訪問で、ふと気がついた。
――僕は、ここにいる意味がない。
 彼女がいないのに、なぜここにいるのだろう。
 音楽に身を委ねても、アルコールで気を紛らわせようとしても、まったく満たされない。
 結局、僕がこの場所に求めていたのは、彼女の存在だった。
 彼女と過ごした時間が、このクラブの全てだったんだ。
 それがない今、ここにいる理由なんて、どこにもなかった。
 最後にもう一度だけ、フロアを見渡してみる。
 赤や青のライトが瞬く空間で、人々は変わらず踊り続けている。
 彼女が消えたことなんて、誰も気にしていない。
 そのことが、たまらなく悔しかった。
 彼女がいなくなって、世界が少し変わった気がしたのは、きっと僕だけなのだろう。
 僕は、手の中のグラスを見つめた。
 氷がカランと音を立てた。
 溶けて薄まった酒は、味気なく、ただ冷たかった。
 それはまるで、彼女のいないこの場所そのものみたいだった。