夜も更け、駅へと向かう道すがら、スマホで終電を調べた。
画面の中の数字を見つめるうちに、ふと気づく。
もう四日市まで帰るのは、無理だ。
葵は僕の顔を覗き込んで、「どうしたの?」と小さく尋ねた。
その声は、どこか眠たげで、少しだけ疲れているようにも聞こえた。
「四日市までの電車、もうないみたい」
「……そっか」
葵は特に驚いた様子もなく、ただ淡々とそう返した。
それがどこか寂しくて、僕は慌てて言葉を継いだ。
「まあ、仕方ないな。俺の母方のばあちゃんちが、尾鷲にあるんだよ。だから、今日はそこに行こうかなって」
尾鷲――長らく訪れていなかった場所。
祖母の家は小さな港町にあって、子どもの頃は毎年のように遊びに行っていた。
いつも笑顔で迎えてくれる祖母の姿を、ぼんやりと思い出す。
けれど、ここ数年は忙しくて、まったく顔を出せていなかった。
夜も遅いし、急に訪ねるのは現実的ではないかもしれない。
けれど、他に行くあてもない。
「確か、何軒かファミレスがあったはずなんだよ」
駅のホームで電車を降りながら、僕は思い出すように言った。
「とりあえず、そこで時間を潰そう。まあ、最悪、おばあちゃんちに泊めさせてもらおう」
そう言いながら、僕は内心少しだけ気まずさを感じていた。
でも、葵が少しでも安心してくれるなら、それでいいと思った。
「陽、その辺り、結構逞しいよね」
ふいに、葵がくすりと笑った。
それは、本当に久しぶりに見た、心からの笑顔だった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
どこか遠くに感じていた彼女の心が、ほんの少しだけ近づいた気がした。
「まあ、なんとかなるよ」
僕は肩をすくめ、軽く笑ってみせる。
夜の街灯が、僕たちの影を長く伸ばしていた。
どこか儚げで、どこか頼りない。
足元に揺れるその影を見つめながら、僕はぼんやりと思った。
潮の香りが、ゆっくりと夜の風に溶けていく。
遠く、見えない海の気配がする。
この香りを感じるたび、夏の終わりが近づいていることを思い知らされるようで、胸の奥がざわついた。
だけど、僕はまだ終わらせたくなかった。
この夏を。
この時間を。
そして、この想いを。
気づけば、僕は彼女の手を取っていた。
そっと、優しく。
驚かせないように、でも確かに。
「行こう」
短く言葉を紡ぐ。
彼女は、一瞬だけ驚いたように目を丸くした。
けれど、すぐにふっと力を抜くように、僕の手を握り返してくれた。
その温もりが、たまらなく嬉しかった。
たったそれだけのことなのに、胸の奥にふわりと温かいものが広がる。
言葉にするのは難しい。
でも、きっとこの瞬間こそが、僕が求めていたものだったんだと思う。
駅を出ると、潮の香りを含んだ生ぬるい風が頬を撫でた。
夜の帳が静かに街を包み込み、遠くで虫の声がかすかに響いている。
町はまるで深い眠りについているように静かで、僕たちだけがこの時間に取り残されたような気がした。
「覚えてる? この道」
歩き出した僕の隣で、葵がぽつりと呟いた。
「うん、なんとなくね」
子どもの頃、祖母の家に来るたびに通った道。
あの頃はもっと賑やかだった気がする。
古びた個人商店や、小さな駄菓子屋。
どこか懐かしい風景が、ぼんやりと記憶の中に浮かび上がる。
でも、今は違う。
店のいくつかはシャッターを下ろし、代わりに新しいコンビニやカフェができている。
懐かしいはずの町並みは、少しだけ形を変えていた。
それでも、不思議と落ち着くのは、この場所が僕の記憶の一部だからだろうか。
しばらく歩くと、少し先にぼんやりと浮かび上がる明かりが見えた。
遠くからでも分かる、ファミレスの灯り。
助かった――。
思わず安堵の息を漏らす。
明かりに照らされたガラスの向こうには、まだ数人の客が座っているのが見えた。
彼らもまた、僕たちと同じように、この夜に行き場を求めた人たちなのかもしれない。
24時間営業のその店は、まるで夜の迷子たちを受け入れる避難所のようだった。
自動ドアが開くと、ひんやりとした冷房の風が頬を撫でる。
ほんのりと漂うコーヒーの香り。
外の生ぬるい空気とは違う、心地よい静けさが広がっている。
僕たちは、空いている席を見つけて腰を下ろした。
メニューを開き、適当にサイドメニューとドリンクバーを注文する。
「ホットにしよっかな……」
彼女がドリンクバーの前で、小さく呟いた。 その声は、どこかためらいがちで、ふっと夜の静けさに溶けていくようだった。
「あれ、珍しいね。いつもはアイス派なのに」
彼女は、ほんの少し考えるように視線を落とし、それから微かに微笑んだ。
けれど、その笑顔にはどこか影が差している気がした。
「うん……なんとなく、落ち着きたくて」
そう言って、彼女はカップを取り、コーヒーサーバーのボタンを押す。
静かな店内に、ぽたぽたと滴るコーヒーの音が響いた。
その音を聞きながら、僕はぼんやりと彼女の横顔を見つめる。
――気のせいだろうか。
今日一日、彼女はずっと何かを気にしていたような気がする。
時折、遠くを見るような視線。
ふっと消える笑顔。
話している間も、心ここにあらずといった表情を浮かべる瞬間があった。
僕の考えすぎなのかもしれない。
でも、心のどこかで引っかかっていた。
カップに注がれたコーヒーから、ふわりと湯気が立ち上る。
彼女はそれを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと店の奥の席へと向かった。
僕も自分のカップを手に取り、彼女の後を追う。
席に戻ると、彼女は目の前のコーヒーを見つめたまま、そっと息を吹きかけた。
まるで、その湯気の向こうに、何か大切なものを探しているように。
「花火、めっちゃ良かったよね」
沈黙を破るように、僕はできるだけ明るい声を作る。
なんとなく、そうしなきゃいけない気がした。
「俺、久しぶりだったからさ、感激したよ」
彼女は少し驚いたように僕を見て、それからにっこりと微笑んだ。
「私も、あんなすごい花火初めて見た。本当に連れてきてくれてありがとう」
けれど、その笑顔はどこか上滑りしているように感じた。
形は笑顔なのに、そこに本当の喜びが宿っていないような気がする。
なんて言えばいいのだろう。
言葉にはならない違和感が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
「礼を言うのはこっちの方だよ」
僕はマドラーでストローを軽くかき混ぜながら、少し照れくさそうに言う。
「葵がいなきゃ、今年も来ることはなかったし……多分、来年も再来年も行くことはなかったと思う」
言葉にすると、自分でも妙な感覚に襲われた。
確かに、それは本心だった。
だけど、今この場で口にすると、なぜかひどく空々しく感じられた。
花火大会の最中、僕たちはもっと自然に言葉を交わしていたはずだ。
笑い合って、感動を共有して――。
でも、今は違う。
同じようなことを話しているのに、温度がない。
まるで、録音された会話をただ再生しているみたいだった。
気のせい、なのか?
それとも――。
葵は何も言わず、カップを持ち上げた。
コーヒーにそっと唇を寄せ、ひと口、ゆっくりと飲む。
僕は、それをただ黙って見つめていた。
僕が今、話しているのは本当に彼女なのか?
目の前に座る彼女の姿は、確かにそこにある。
けれど、言葉を交わすたびに、何かが少しずつこぼれ落ちていくような感覚に襲われる。
彼女の声は、僕の言葉は、どこか空っぽに思えた。
まるで、見えない壁を隔てて会話をしているみたいだ。
花火の下で感じたあの高揚感も、胸を熱くした想いも、
今ではすべて、指の隙間からするりと抜け落ちていく気がする。
本当に、あの時間は現実だったのか?
僕は夢を見ていただけじゃなかったのか?
カップをそっとテーブルに置く。
陶器の底が触れる音が、静かな店内に妙に大きく響いた。
反射的に彼女が顔を上げる。
「……陽?」
名前を呼ばれて、僕ははっとする。
顔を覗き込むようなその視線は、心配しているようでいて、どこか遠い。
「あ、ごめん。ちょっと考えごと」
取り繕うように言うと、彼女はほんのわずか間を置いてから、
「そっか」
と、短く呟いた。
それ以上は何も聞かず、またカップを持ち上げる。
白い湯気がふわりと立ち上り、やがて、ゆっくりと消えていった。
ガラスの向こうには、静かな夜が広がっている。
街灯が照らす歩道を、遅い時間にもかかわらず、数人の人影が行き交っている。
けれど、店内はまるで世界から切り離されたかのように静かだった。
――何か、大切なものがすり抜けていく気がする。
けれど、それが何なのか分からなかった。
指を伸ばせば、触れられそうなのに。
その実態が掴めないまま、時間だけがゆっくりと流れていく。
この嫌な感覚を払拭したくて、僕は無理にでも言葉を繋ごうとした。
話題なんてなんでもよかった。
花火の余韻。
学校のこと。
テレビで見たどうでもいいニュース。
とにかく、沈黙を作りたくなかった。
彼女が遠くへ行ってしまいそうで――いや、もうすでに遠くにいるのかもしれない。
彼女は決して僕の言葉を否定しているわけじゃない。
頷くし、相槌も打つし、時折、微笑みさえ浮かべる。
だけど、そこに心があるのかどうか分からなかった。
彼女の声は、まるでガラス越しに響いているみたいに遠い。
僕の言葉は、彼女に届いているのだろうか?
それとも、ただ宙に浮いて、どこかへ消えていくだけなのか。
会話が一方通行な感じがする。
まるで、すべての言葉が薄い膜に阻まれて、彼女の元へ届く前に、弾かれてしまうような感覚。
不安が、ゆっくりと心の奥に沈んでいく。
このままでは、何か大切なものを失ってしまう。
そんな予感が、頭の中にこびりついて離れなかった。
僕は彼女の瞳をそっと盗み見る。
時折、僕を見ているはずなのに、その目はどこか別の場所を見ているようだった。
まるで、僕の知らないどこか遠くの世界に心を置いてきてしまったみたいに。
言葉では繋がっているのに、心はどこにも届いていない。
そんな焦燥感が、胸の奥をじわりと締めつける。
僕は焦る。
どんな話題なら、彼女は本当に笑ってくれるだろう?
どんな言葉なら、あの花火の夜のように、心を通わせることができるだろう?
「そういえばさ、今日の屋台、めっちゃ美味しそうだったよな。りんご飴とか、食べたかったな」
言葉を投げかけながら、僕は彼女の表情を探るように視線を向ける。
「うん、確かに。美味しそうだったね」
彼女は微かに笑う。けれど、それはどこか薄い膜に覆われたような、輪郭のぼやけた笑顔だった。
「来年も行くなら、絶対食べような」
「……そうだね」
そうだね。
彼女は肯定してくれる。
でも、その声には体温が感じられなかった。
まるで録音された音声が再生されているみたいに、抑揚がなく、ただ機械的に返ってくる言葉。
なぜだろう。
なぜ、彼女はこんなにも遠くに感じるんだろう。
テーブルの上で指を組みながら、僕は彼女の横顔を盗み見る。
カップを持つ指は細く、慎重に縁をなぞるように動いていた。
けれど、その仕草さえ、どこか別の場所に意識を置いているように見えてしまう。
僕はどうすればいい?
この距離を埋める方法は?
彼女の心は、今どこにある?
言葉を重ねるほど、彼女が遠ざかる気がする。
それなのに、僕は言葉を紡ぐのをやめられなかった。
まるで、水面に落ちる雨粒のように。
ぽつり、ぽつりと投げかける僕の言葉は、波紋を広げることなく、静かに吸い込まれていく。
何の反応もなく、ただ沈んでいく。
それでも、僕は言い続けるしかなかった。
彼女がまた僕のそばに戻ってきてくれるんじゃないかと、そんな儚い希望にすがるように。
どこかに突破口があるはずだと信じて、僕はひたすら言葉を投げ続けた。
夏祭りの思い出。
学校の些細な出来事。
ニュースで見たどうでもいい話題。
彼女が笑ってくれる瞬間を探して、何度も、何度も、言葉を紡ぐ。
でも、彼女の笑顔はもう、さっきまでとは違っていた。
いや――違う。
本当は、最初からずっと、僕の知らない彼女だったんじゃないか。
そう思うと、怖くなった。
このままでは、気づいてしまう。
この違和感の正体に。
でも、それを認めたら終わってしまう気がして。
だから、僕は必死に話し続けた。
まるで、自分の声で不安をかき消そうとするように。
けれど、その努力は、まるで深い海の底で溺れるみたいに、もがけばもがくほど、苦しさだけが増していく。
気がつけば、カップの中のコーヒーはすっかり冷めていた。
彼女も、僕も、それを口にすることなく、ただ手の中に抱えたまま時間を過ごしていた。
気まずいわけじゃない。
居心地が悪いわけでもない。
だけど、この沈黙は、あまりにも重かった。
どれくらいの時間、僕は空回りし続けていたんだろう。
ふと、窓の外を見る。
夜が、白み始めていた。
静まり返った街が、少しずつ光を取り戻していく。
ビルの影がわずかに滲み、ゆっくりと形を変えながら、朝の訪れを告げていた。
時計を見ると、もうすぐ始発の時間だった。
ずっと話し続けていたはずなのに――。
何を話していたのか、ほとんど覚えていない。
心が空っぽになったみたいに、ただ、虚無だけが残っていた。
画面の中の数字を見つめるうちに、ふと気づく。
もう四日市まで帰るのは、無理だ。
葵は僕の顔を覗き込んで、「どうしたの?」と小さく尋ねた。
その声は、どこか眠たげで、少しだけ疲れているようにも聞こえた。
「四日市までの電車、もうないみたい」
「……そっか」
葵は特に驚いた様子もなく、ただ淡々とそう返した。
それがどこか寂しくて、僕は慌てて言葉を継いだ。
「まあ、仕方ないな。俺の母方のばあちゃんちが、尾鷲にあるんだよ。だから、今日はそこに行こうかなって」
尾鷲――長らく訪れていなかった場所。
祖母の家は小さな港町にあって、子どもの頃は毎年のように遊びに行っていた。
いつも笑顔で迎えてくれる祖母の姿を、ぼんやりと思い出す。
けれど、ここ数年は忙しくて、まったく顔を出せていなかった。
夜も遅いし、急に訪ねるのは現実的ではないかもしれない。
けれど、他に行くあてもない。
「確か、何軒かファミレスがあったはずなんだよ」
駅のホームで電車を降りながら、僕は思い出すように言った。
「とりあえず、そこで時間を潰そう。まあ、最悪、おばあちゃんちに泊めさせてもらおう」
そう言いながら、僕は内心少しだけ気まずさを感じていた。
でも、葵が少しでも安心してくれるなら、それでいいと思った。
「陽、その辺り、結構逞しいよね」
ふいに、葵がくすりと笑った。
それは、本当に久しぶりに見た、心からの笑顔だった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
どこか遠くに感じていた彼女の心が、ほんの少しだけ近づいた気がした。
「まあ、なんとかなるよ」
僕は肩をすくめ、軽く笑ってみせる。
夜の街灯が、僕たちの影を長く伸ばしていた。
どこか儚げで、どこか頼りない。
足元に揺れるその影を見つめながら、僕はぼんやりと思った。
潮の香りが、ゆっくりと夜の風に溶けていく。
遠く、見えない海の気配がする。
この香りを感じるたび、夏の終わりが近づいていることを思い知らされるようで、胸の奥がざわついた。
だけど、僕はまだ終わらせたくなかった。
この夏を。
この時間を。
そして、この想いを。
気づけば、僕は彼女の手を取っていた。
そっと、優しく。
驚かせないように、でも確かに。
「行こう」
短く言葉を紡ぐ。
彼女は、一瞬だけ驚いたように目を丸くした。
けれど、すぐにふっと力を抜くように、僕の手を握り返してくれた。
その温もりが、たまらなく嬉しかった。
たったそれだけのことなのに、胸の奥にふわりと温かいものが広がる。
言葉にするのは難しい。
でも、きっとこの瞬間こそが、僕が求めていたものだったんだと思う。
駅を出ると、潮の香りを含んだ生ぬるい風が頬を撫でた。
夜の帳が静かに街を包み込み、遠くで虫の声がかすかに響いている。
町はまるで深い眠りについているように静かで、僕たちだけがこの時間に取り残されたような気がした。
「覚えてる? この道」
歩き出した僕の隣で、葵がぽつりと呟いた。
「うん、なんとなくね」
子どもの頃、祖母の家に来るたびに通った道。
あの頃はもっと賑やかだった気がする。
古びた個人商店や、小さな駄菓子屋。
どこか懐かしい風景が、ぼんやりと記憶の中に浮かび上がる。
でも、今は違う。
店のいくつかはシャッターを下ろし、代わりに新しいコンビニやカフェができている。
懐かしいはずの町並みは、少しだけ形を変えていた。
それでも、不思議と落ち着くのは、この場所が僕の記憶の一部だからだろうか。
しばらく歩くと、少し先にぼんやりと浮かび上がる明かりが見えた。
遠くからでも分かる、ファミレスの灯り。
助かった――。
思わず安堵の息を漏らす。
明かりに照らされたガラスの向こうには、まだ数人の客が座っているのが見えた。
彼らもまた、僕たちと同じように、この夜に行き場を求めた人たちなのかもしれない。
24時間営業のその店は、まるで夜の迷子たちを受け入れる避難所のようだった。
自動ドアが開くと、ひんやりとした冷房の風が頬を撫でる。
ほんのりと漂うコーヒーの香り。
外の生ぬるい空気とは違う、心地よい静けさが広がっている。
僕たちは、空いている席を見つけて腰を下ろした。
メニューを開き、適当にサイドメニューとドリンクバーを注文する。
「ホットにしよっかな……」
彼女がドリンクバーの前で、小さく呟いた。 その声は、どこかためらいがちで、ふっと夜の静けさに溶けていくようだった。
「あれ、珍しいね。いつもはアイス派なのに」
彼女は、ほんの少し考えるように視線を落とし、それから微かに微笑んだ。
けれど、その笑顔にはどこか影が差している気がした。
「うん……なんとなく、落ち着きたくて」
そう言って、彼女はカップを取り、コーヒーサーバーのボタンを押す。
静かな店内に、ぽたぽたと滴るコーヒーの音が響いた。
その音を聞きながら、僕はぼんやりと彼女の横顔を見つめる。
――気のせいだろうか。
今日一日、彼女はずっと何かを気にしていたような気がする。
時折、遠くを見るような視線。
ふっと消える笑顔。
話している間も、心ここにあらずといった表情を浮かべる瞬間があった。
僕の考えすぎなのかもしれない。
でも、心のどこかで引っかかっていた。
カップに注がれたコーヒーから、ふわりと湯気が立ち上る。
彼女はそれを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと店の奥の席へと向かった。
僕も自分のカップを手に取り、彼女の後を追う。
席に戻ると、彼女は目の前のコーヒーを見つめたまま、そっと息を吹きかけた。
まるで、その湯気の向こうに、何か大切なものを探しているように。
「花火、めっちゃ良かったよね」
沈黙を破るように、僕はできるだけ明るい声を作る。
なんとなく、そうしなきゃいけない気がした。
「俺、久しぶりだったからさ、感激したよ」
彼女は少し驚いたように僕を見て、それからにっこりと微笑んだ。
「私も、あんなすごい花火初めて見た。本当に連れてきてくれてありがとう」
けれど、その笑顔はどこか上滑りしているように感じた。
形は笑顔なのに、そこに本当の喜びが宿っていないような気がする。
なんて言えばいいのだろう。
言葉にはならない違和感が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
「礼を言うのはこっちの方だよ」
僕はマドラーでストローを軽くかき混ぜながら、少し照れくさそうに言う。
「葵がいなきゃ、今年も来ることはなかったし……多分、来年も再来年も行くことはなかったと思う」
言葉にすると、自分でも妙な感覚に襲われた。
確かに、それは本心だった。
だけど、今この場で口にすると、なぜかひどく空々しく感じられた。
花火大会の最中、僕たちはもっと自然に言葉を交わしていたはずだ。
笑い合って、感動を共有して――。
でも、今は違う。
同じようなことを話しているのに、温度がない。
まるで、録音された会話をただ再生しているみたいだった。
気のせい、なのか?
それとも――。
葵は何も言わず、カップを持ち上げた。
コーヒーにそっと唇を寄せ、ひと口、ゆっくりと飲む。
僕は、それをただ黙って見つめていた。
僕が今、話しているのは本当に彼女なのか?
目の前に座る彼女の姿は、確かにそこにある。
けれど、言葉を交わすたびに、何かが少しずつこぼれ落ちていくような感覚に襲われる。
彼女の声は、僕の言葉は、どこか空っぽに思えた。
まるで、見えない壁を隔てて会話をしているみたいだ。
花火の下で感じたあの高揚感も、胸を熱くした想いも、
今ではすべて、指の隙間からするりと抜け落ちていく気がする。
本当に、あの時間は現実だったのか?
僕は夢を見ていただけじゃなかったのか?
カップをそっとテーブルに置く。
陶器の底が触れる音が、静かな店内に妙に大きく響いた。
反射的に彼女が顔を上げる。
「……陽?」
名前を呼ばれて、僕ははっとする。
顔を覗き込むようなその視線は、心配しているようでいて、どこか遠い。
「あ、ごめん。ちょっと考えごと」
取り繕うように言うと、彼女はほんのわずか間を置いてから、
「そっか」
と、短く呟いた。
それ以上は何も聞かず、またカップを持ち上げる。
白い湯気がふわりと立ち上り、やがて、ゆっくりと消えていった。
ガラスの向こうには、静かな夜が広がっている。
街灯が照らす歩道を、遅い時間にもかかわらず、数人の人影が行き交っている。
けれど、店内はまるで世界から切り離されたかのように静かだった。
――何か、大切なものがすり抜けていく気がする。
けれど、それが何なのか分からなかった。
指を伸ばせば、触れられそうなのに。
その実態が掴めないまま、時間だけがゆっくりと流れていく。
この嫌な感覚を払拭したくて、僕は無理にでも言葉を繋ごうとした。
話題なんてなんでもよかった。
花火の余韻。
学校のこと。
テレビで見たどうでもいいニュース。
とにかく、沈黙を作りたくなかった。
彼女が遠くへ行ってしまいそうで――いや、もうすでに遠くにいるのかもしれない。
彼女は決して僕の言葉を否定しているわけじゃない。
頷くし、相槌も打つし、時折、微笑みさえ浮かべる。
だけど、そこに心があるのかどうか分からなかった。
彼女の声は、まるでガラス越しに響いているみたいに遠い。
僕の言葉は、彼女に届いているのだろうか?
それとも、ただ宙に浮いて、どこかへ消えていくだけなのか。
会話が一方通行な感じがする。
まるで、すべての言葉が薄い膜に阻まれて、彼女の元へ届く前に、弾かれてしまうような感覚。
不安が、ゆっくりと心の奥に沈んでいく。
このままでは、何か大切なものを失ってしまう。
そんな予感が、頭の中にこびりついて離れなかった。
僕は彼女の瞳をそっと盗み見る。
時折、僕を見ているはずなのに、その目はどこか別の場所を見ているようだった。
まるで、僕の知らないどこか遠くの世界に心を置いてきてしまったみたいに。
言葉では繋がっているのに、心はどこにも届いていない。
そんな焦燥感が、胸の奥をじわりと締めつける。
僕は焦る。
どんな話題なら、彼女は本当に笑ってくれるだろう?
どんな言葉なら、あの花火の夜のように、心を通わせることができるだろう?
「そういえばさ、今日の屋台、めっちゃ美味しそうだったよな。りんご飴とか、食べたかったな」
言葉を投げかけながら、僕は彼女の表情を探るように視線を向ける。
「うん、確かに。美味しそうだったね」
彼女は微かに笑う。けれど、それはどこか薄い膜に覆われたような、輪郭のぼやけた笑顔だった。
「来年も行くなら、絶対食べような」
「……そうだね」
そうだね。
彼女は肯定してくれる。
でも、その声には体温が感じられなかった。
まるで録音された音声が再生されているみたいに、抑揚がなく、ただ機械的に返ってくる言葉。
なぜだろう。
なぜ、彼女はこんなにも遠くに感じるんだろう。
テーブルの上で指を組みながら、僕は彼女の横顔を盗み見る。
カップを持つ指は細く、慎重に縁をなぞるように動いていた。
けれど、その仕草さえ、どこか別の場所に意識を置いているように見えてしまう。
僕はどうすればいい?
この距離を埋める方法は?
彼女の心は、今どこにある?
言葉を重ねるほど、彼女が遠ざかる気がする。
それなのに、僕は言葉を紡ぐのをやめられなかった。
まるで、水面に落ちる雨粒のように。
ぽつり、ぽつりと投げかける僕の言葉は、波紋を広げることなく、静かに吸い込まれていく。
何の反応もなく、ただ沈んでいく。
それでも、僕は言い続けるしかなかった。
彼女がまた僕のそばに戻ってきてくれるんじゃないかと、そんな儚い希望にすがるように。
どこかに突破口があるはずだと信じて、僕はひたすら言葉を投げ続けた。
夏祭りの思い出。
学校の些細な出来事。
ニュースで見たどうでもいい話題。
彼女が笑ってくれる瞬間を探して、何度も、何度も、言葉を紡ぐ。
でも、彼女の笑顔はもう、さっきまでとは違っていた。
いや――違う。
本当は、最初からずっと、僕の知らない彼女だったんじゃないか。
そう思うと、怖くなった。
このままでは、気づいてしまう。
この違和感の正体に。
でも、それを認めたら終わってしまう気がして。
だから、僕は必死に話し続けた。
まるで、自分の声で不安をかき消そうとするように。
けれど、その努力は、まるで深い海の底で溺れるみたいに、もがけばもがくほど、苦しさだけが増していく。
気がつけば、カップの中のコーヒーはすっかり冷めていた。
彼女も、僕も、それを口にすることなく、ただ手の中に抱えたまま時間を過ごしていた。
気まずいわけじゃない。
居心地が悪いわけでもない。
だけど、この沈黙は、あまりにも重かった。
どれくらいの時間、僕は空回りし続けていたんだろう。
ふと、窓の外を見る。
夜が、白み始めていた。
静まり返った街が、少しずつ光を取り戻していく。
ビルの影がわずかに滲み、ゆっくりと形を変えながら、朝の訪れを告げていた。
時計を見ると、もうすぐ始発の時間だった。
ずっと話し続けていたはずなのに――。
何を話していたのか、ほとんど覚えていない。
心が空っぽになったみたいに、ただ、虚無だけが残っていた。



