ひなたとあおいと、みどりの輪

 夜空には、いくつもの光の残像が消え残っている。
 さっきまであんなに輝いていた花火も、いまはもう、黒々とした闇のなかに溶けていこうとしていた。
 ふと、隣に目をやる。
 葵はじっと空を見上げていた。
 大きな花火が弾けるたび、夜空を彩る光が彼女の横顔を照らす。
 その目に映るのは、最後の花火か、それとも――。
「ねえ、陽……」
 ふいに呼ばれた。
 夜風にそよぐ葵の髪が、ふわりと揺れる。
 静かに流れ落ちる一筋の髪が、頬にかかるたびに、彼女は無意識にそれを払う。
 けれど、それが何度も繰り返されるのは、ただ風のせいだけではないような気がした。
「ん?」
 ゆっくりと顔を向ける。
 葵は僕をじっと見つめていた。
 夜空に咲いた光の残滓を映す瞳は、ゆらゆらと揺れている。
 まるで、水面に映る月のように、不確かで、それでも確かにそこに存在していた。
 長いまつ毛が静かに瞬き、柔らかな唇が、かすかに震える。
 彼女は何かを言おうとして、迷っているようだった。
 そして――「大好き」
 たった三文字の言葉が、夜の静寂を溶かすように響いた。
 風にさらわれてしまいそうなほど、かすかな声。
 それでも、確かに僕の胸の奥に届いた。
 その瞬間、心の中に何かが広がった。
 言葉にするには難しい、でも確かにそこにある感情。
 暖かくて、優しくて、だけど少しだけ切ない。
 まるで夏の終わりを惜しむような、そんな感覚だった。
 気づけば、僕の口からも自然に言葉がこぼれていた。
「……俺も、大好き」
 たったそれだけ。
 それなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
 誰かに「好き」と言われたのも、誰かに「好き」と伝えたのも、生まれて初めてだった。
 その事実に驚く暇もなく、僕はただ、その言葉がすんなりと出てきたことに、どこか不思議な感覚を覚えた。
 それほどまでに自然だった。
 心が妙に落ち着いていて、まるで最初からこうなることが決まっていたかのように。
 運命、なんて言葉を使うのは、少し気恥ずかしいけれど。
 でも、もしも運命というものが本当にあるのなら。
 この瞬間こそが、きっとそれなのだろうと思った。
 気がつけば、葵はそっと僕の手を握っていた。
 指先が触れた瞬間、彼女の手のぬくもりが、夜風の冷たさに溶け込んでいくようだった。
 ほんのりと温かい手。
 でも、指先は少しだけ冷たかった。
 この夜風のせいか、それとも――。
 そっと、彼女の手を握り返す。
 指を絡めることもなく、ただそっと、優しく包み込むように。
 それだけで、心が満たされていくような気がした。
「そろそろ、終わりだね」
 ふいに、スピーカーから花火大会のフィナーレを告げるアナウンスが流れた。
 その瞬間、観客席のあちこちから名残惜しそうな声が上がる。
 誰もが、この夏の夜が終わることを惜しんでいるようだった。
 僕はふと、幼い頃の記憶を思い出す。
 家族と一緒に見上げた、あの夏の夜。
 最後の花火が夜空を焦がすとき、僕の胸にはいつも、驚きと感動が入り混じる、なんとも言えない感情が広がった。
 嬉しいような、寂しいような、でも確かに心が震える、そんな感覚。
――あのときの僕は、今の僕と、何も変わっていないのかもしれない。
「これ、マジで凄いよ」
 思わず、ぽつりと呟く。
 隣にいた葵が、興味津々の顔で僕を見つめた。
 大きな瞳が、夜の闇のなかで、星のようにきらめく。
「えっ? めっちゃ気になる……!」
 彼女は期待に胸を膨らませるように、顔を上げた。
 その表情には、先ほどまでの翳りはもうない。
 ほんの少し前まで、涙をこぼしていたなんて、嘘みたいに。
 けれど、その頬にはまだ、涙の跡がうっすらと残っていた。
 きっと彼女自身、涙を拭ったことにも気づいていないのだろう。
 僕はその名残すらも、どこか愛おしく感じた。
 彼女はじっと夜空を見つめる。
 その視線の先には、黒く広がる海と、かすかに揺れる光。
 そして――今、この瞬間に咲く、最後の花火を待つ、静かな期待。
 そのときだった。
 空気を震わせるような低い音が響く。
 遠くの海上に、ぼんやりと灯る小さな火点。
 それが徐々に空へと昇り、闇の中でその存在を主張する。
 次の瞬間――。
 轟音とともに、巨大な光の花が夜空いっぱいに咲いた。
 熊野大花火大会名物、三尺玉海上自爆。
 まるで空そのものが割れるかのような轟音。
 黄金色の光が、波打つ海の上で一気に広がる。
 葵は、その光景に息をのんだ。
 打ち上げられた火の粉が、夜空に舞い散る。
 鮮やかな金色の閃光が、まるで星々が海に溶け込むように、ゆっくりと消えていく。
「わぁ……!」
 彼女の声が、花火の音にかき消されそうになりながらも、確かに僕の耳に届いた。
 その横顔には、驚きと感動の入り混じった、心からの笑顔があった。
 胸が、ぎゅっと締めつけられる。
 この顔を、僕はずっと覚えていたいと思った。
 今だけの一瞬ではなく、この夏の終わりを象徴するような、特別な表情として。
 彼女の頬に映る光が、花火とともに揺れる。
 唇がわずかに開き、その隙間から零れる息が、夜風に溶けていく。
 言葉にできない何かが、そこには確かに存在していた。
 この一瞬に、僕たちの想いがすべて詰まっているような気がした。
――ああ、よかった。
 この夏、葵と一緒にここに来られて、本当に、よかった。
 僕は静かに、そう思った。
 花火は、やがてその命を燃やし尽くし、静かに夜の闇へと溶けていった。
 黄金色の残像が、瞼の裏にゆっくりと滲む。
 耳にはまだ、さっきまでの轟音の余韻が残っているはずなのに、不思議と世界は静まり返っていた。
 潮騒の音だけが、夜の空気に溶け込む。
「これで、終わりだね」
 僕はぽつりと呟いた。
 その言葉は、自分の口から出たものなのに、どこか遠くで響いているように感じる。
 葵は横で、小さく頷いた。
 さっきまで花火を見つめていた瞳が、ゆっくりと伏せられる。
 そして、ぽつりぽつりと、言葉を紡ぎはじめた。
「ありがとう、陽……本当に、ありがとう」
「一緒に来てくれて、ありがとう」
「こんなに綺麗な花火を、一緒に見てくれて、ありがとう」
「私のことを、大好きって言ってくれて……ありがとう」
 一つひとつの言葉が、夜の海風に乗って、僕の胸の奥へと染み込んでいく。
 彼女はまっすぐ僕を見つめていた。
 月明かりに照らされたその瞳は、どこまでも澄んでいて、けれど、どこか寂しげだった。
 僕は、何も言えなかった。
 彼女の言葉が、優しすぎて、切なすぎて、ただ黙って聞くことしかできなかった。
 夜風が吹く。
 潮の香りが鼻をかすめる。
 波の音が寄せては返し、一定のリズムで静寂を揺らしている。
 ふと気づく。
 葵の肩が、ほんの少し震えていた。
 その小さな震えは、寒さのせいではなく――。
 僕の胸の奥に、じんわりと広がるものがあった。
 何かを言いたいのに、言葉が出てこない。
 ただ、確信していることがある。
――僕はきっと、この夜のことを、一生忘れない。
 そんな予感がした。
「陽、ありがとう。本当に、ありがとう」
 もう一度、彼女はそう言った。
 静かな夜の海風に乗って、その声はやさしく、穏やかに響いた。
 けれど――その言葉には、何か決意のようなものが滲んでいた。
「これで私は、何も思い残すことはないよ」
 その瞬間、僕の心の奥が、ざわりと揺れた。
「……何、思い残すことって?」
 自分でも驚くほど、声が強張っていた。
 葵は、ほんの一瞬、目を見開いた。
 でも、すぐに柔らかく微笑む。
 その微笑みが、ひどく儚く感じた。
「これから、いろいろと一緒に探そうよ。もっと綺麗なものをさ」
 花火の余韻が残る夜空を見上げながら、僕はできるだけ明るい声でそう言った。
 この沈んだ空気を変えたくて、どうにか葵を引き止めたくて。
「……うん。そうだね」
 葵は小さく頷いた。
 でも、その返事には、どこか熱がなかった。
 彼女の視線は、僕ではなく、どこか遠くを彷徨っていた。
 そのとき、僕は気づいてしまった。
 本当は、彼女は何かを諦めかけているんじゃないかって。
 それが何なのかは分からない。
 でも、彼女の心が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
 夜風が吹く。
 葵の髪がふわりと揺れる。
 彼女は微かに目を細めて、そのまま夜空を見上げた。
 花火はもう消えて、そこには静寂だけが残っている。
 僕は、そんな彼女の表情を見ていたくなかった。
 あまりにも静かで、あまりにも遠い。
 まるで心の奥底にあるものを、必死に隠そうとしているみたいだった。
 だから、「また来年も来ようね」とか「次はどこに行く?」とか、取り繕うように言葉を紡いだ。
 楽しい未来の話をしていれば、きっと彼女も笑ってくれる。
 そう思っていた。
 けれど、そのたびに返ってくるのは、短く、温度のない肯定文だけだった。
「……うん。そうだね」
 たったそれだけの言葉なのに、妙に重く響いた。
 波の音が静かに満ち引きするなかで、彼女の声だけが乾いた空気に吸い込まれていく。
 僕の言葉を、ただ優しく否定しないためだけの返事。
 そんな気がして、胸の奥がひどくざわついた。
 本当に、また来年も来るつもりで言ってくれたのか。
 本当に、次の行き先を楽しみにしてくれているのか。
 彼女の心の中が、僕には分からなかった。
 いや――分かってしまいそうで、怖かったのかもしれない。
 それでも、夜の時間は止まってくれない。
 どこかへ行かなくてはならない。
 僕たちの、今日という時間の終わりが、すぐそこまで迫っている。