これは、今から二十年以上前の話だ。
 あの頃、夜の街にはまだ平成の色が濃く残っていた。ネオンはくすんだ桃色や紫をぼんやりと揺らめかせ、湿ったアスファルトの上で霞のように滲んでいた。街灯の下には、酔いどれた大人たちが肩を寄せ合いながら笑い声を響かせ、時折、ガラス瓶が転がる音が混じる。タクシーのクラクション、遠ざかるパトカーのサイレン、路地裏で響く喧嘩の怒号。
 煙草の匂いは、風に乗ってどこからともなく漂ってきた。フィルター越しの甘い香りもあれば、紙巻きの強烈な刺激臭もあった。それらが入り混じるこの街では、吐き出された煙さえも夜の一部だった。
 耳を澄ませば、どこかのバーから安っぽいシンセサイザーの音が漏れ聞こえる。一定のリズムを刻むドラムマシンの音と、やたらと派手な電子音が、夜の空気を不規則に震わせていた。
 そんな時代だった。
 十五歳の僕は、当然のようにその世界に紛れ込んでいた。
 今ほど法律も厳しくなく、大人たちの目も緩やかだった時代。だからこそ、僕は年齢を偽ることなく、堂々とクラブの扉を押し開けることができた。
 そこは、いわゆるキャバクラやスナックのような、お姉さんたちが密に接客する場所ではなかった。代わりに、重低音のビートが体の芯を揺さぶり、誰もが思い思いのリズムで身体を預ける空間だった。
 音楽が支配する場所。
 その世界に足を踏み入れた瞬間、外の空気とは全く異なる温度を感じた。クラブの内部は、ほんの少し湿り気を帯びた熱気に包まれていた。誰かの汗の匂いと、ミント系の香水の香り、微かに混じるアルコールの甘い蒸気。そこには、大人と子供の境界線など存在しなかった。
 手続きは簡単だった。
 入り口の受付で金を払い、手の甲に黒いスタンプを押される。それだけで、この夜の通行手形が手に入る。スタンプのインクがまだ湿っているのを感じながら、僕はそのまま奥へと歩を進めた。
 バーカウンターの奥には、色とりどりのボトルがずらりと並んでいる。青や緑、琥珀色に輝く液体が、薄暗い照明の中でほのかに光を反射していた。グラスがぶつかる音、カクテルをシェイクするリズミカルな振動。
 照明がゆっくりと回転し、壁に映る光の模様が刻一刻と形を変えていく。
 受付でもらった入場特典のドリンクチケットを手に、僕はバーテンダーの前に立つ。
「何にする?」
 カウンターの向こうから、無造作に投げかけられた言葉。
 選択肢は二つ。
 ノンアルコールか、アルコールか。
――そんなの、決まっていた。
 僕は迷わず、後者を選んだ。
 バーテンダーは一瞬、僕の顔をじっと見た。だが、それ以上の詮索はせず、手慣れた動作でボトルの口を傾ける。透明なグラスに注がれる琥珀色の液体。氷が軽く跳ね、グラスの内側で小さく鳴る音。
 僕はそっとグラスを手に取り、唇をつけた。
 苦い。
 けれど、それ以上に舌に広がる熱が心地よかった。喉を滑り落ちる感覚。胃の奥へと染み込んでいく感覚。
 じわりと、体の芯が温まる。
 これが、大人の味か。
 まだ幼い舌には早すぎる味なのは分かっていた。だけど、僕はその苦さを知ることに、どこか誇らしさを感じていた。
 十五歳の僕は、何も知らなかったくせに、大人の世界を知ったつもりになっていた。
 グラスを持ったまま、ふとフロアを見渡す。
 音楽に身を委ねて踊る人々の群れ。その中に、自分の居場所を探すように、僕は静かに歩を進めた。
 その夜の記憶は、今も鮮明に焼き付いている。
――そんな夜に、彼女は現れた。
 その姿を最初に目にした瞬間、心の奥底が微かに揺れた。まるで水面に投げ込まれた小石のように、静かに、けれど確実に波紋が広がっていく。
 知っている。
 そう思った。だが、どこで会ったのか、そもそも本当に会ったことがあるのか、その確信までは持てなかった。ただ、一度視界に捉えたら、どうしても目を離すことができなかった。
 彼女は、フロアの中心にいた。
 回転するミラーボールの光を浴びながら、宙に散らばる無数の粒の中で踊っていた。派手な装飾もなければ、露出の多い服を着ているわけでもない。それなのに、異様なほど目を引いた。
 周囲の人々は、ただ音楽に身を委ねるように踊っている。彼女もまた、その波の中にいるはずなのに、まるで違う場所に立っているかのようだった。
 その動きは、まるで風を纏うようにしなやかだった。手の先、足の先、全ての動作が流れるように滑らかで、なおかつ一つ一つの所作が確固たる意志を持っているように見えた。踏み込む足には迷いがなく、振り上げる腕は、音の波を切り裂くように鮮やかだった。
 そして何より、彼女の周囲だけ、まるで時間の流れが違っているような感覚があった。重力すら彼女には作用していないのではないかと錯覚するほど、軽やかに、けれど確かにこの空間を支配していた。
 僕は、気づけば彼女の方へと足を向けていた。
 まるで、引き寄せられるように。
 人混みを縫うように歩きながら、鼓動の高鳴りを感じていた。けれど、それは不安や緊張といったものではなかった。ただ、妙に落ち着かない感覚。心の奥に残る、何かを思い出しそうな感触――。
 どこかで、この光景を知っている。
 そう思った。
 そして、彼女が僕に気づいた。
 まるで僕がここへ来ることを知っていたかのような視線だった。偶然目が合ったのではなく、最初から僕がそこに立つことが決まっていたかのように。
 胸の奥が、不思議なほど静かにざわめいた。
 彼女は踊る動きを止めずに、ゆっくりと僕の方へ近づいてきた。
 光の粒が舞う中で、彼女が微笑む。
「……君、未成年でしょ?」
 耳元で囁かれるような声だった。決して責めるような口調ではなく、むしろどこか懐かしさを孕んだ優しい響きだった。
 僕は言葉を返せなかった。ただ、目の前の少女の表情をじっと見つめることしかできなかった。
――知っている。
 どこかで、この笑顔を知っている。
 けれど、記憶の糸をたぐり寄せようとするほど、意識の奥へと沈んでいってしまう。
 彼女は僕の反応を楽しむように、小さく笑った。
 その夜、僕は彼女と出会った。
 そして彼女は、僕に猛烈な記憶だけを刻み込み、忽然と姿を消した――。