先輩は晴れ男なのかもしれない。
水族館に行く今日も、空には雲一つ浮かんでいなかった。
だけど、僕たちは江ノ島に来ているのに海を眺めるわけでもなく、ましてや食べ歩きをするわけでもなく、真っ直ぐ水族館にやってきた。
普段は見た目に反して口数の多い先輩だけど、今日は静かだ。
時折、展示の魚を見てぽつぽつと感想を溢す。
それでも、表情は硬い。
僕はあえて自分から発言はせず、相槌だけ打った。
先輩はずっと何か考え事をしている。
確かにこの状態で沖縄の水族館は楽しめないだろうと、先輩の横顔を見て感じた。
「‥‥今度さ、母さんに新しい子供が生まれるんだ」
大水槽の前は小さな子供たちが占領している。
僕たちは、後ろでぼんやりと揺らめく青の世界を眺めていた。
先輩が口にした話題は、未成年の僕たちが受け止めるにはあまりにも重たい。
水槽の光が顔に当たっているのに、先輩の瞳は真っ暗だった。
「父さんにも新しい家庭があって、結局俺はどこへも行けないみたい。不思議だよね、家族なのに。‥‥水槽の魚たちと一緒だ。自由に見えて、全く自由じゃない。俺は、父さんにも、母さんにも捨てられちゃった」
彼の両親が唯一デートしたという水族館は、家族連れやカップルの笑みで溢れている。
なのに、先輩だけが寂しさに包まれて、身動きがとれなくなっていた。
僕は拳をきつく握りしめ、秘めていた想いを打ち明ける。
「‥‥僕がマスクを取れなかったのは、小学生の頃に「女顔で気持ち悪い」ってクラス中からいじめられたからです。それから、僕は深く傷ついて顔を隠せるマスクに依存しました。でも、いくら顔を隠せても、心の傷が癒えるわけじゃない。僕が前を向けたのは、彗くんの歌と出会えたからです」
先輩の手を僕から握り、彼の頬にもう片方の手を当てて口づけをした。
「‥‥由希、」
「彗くんには僕がいて、ファンがいて、メンバーがいて、音楽があります。彗くんの歌は、きっと僕だけじゃなくてたくさんの人の心に星を宿してきたって、僕は信じてます。これから活躍の場が大きくなればなるほど、星の数は増えて、いつかは天の川にだってなるかもしれません。だからどうか、まるで自分に価値がないみたいに言わないでください。暗闇にばかり目を向けないでください。僕が、彗くんの隣にいます」
水分量を増した先輩の瞳に、光が戻る。
青い光が映り込んで、目の前の水槽のように美しくゆらめいていた。
「僕も彗くんのように誰かを癒せる人になりたいーーだから、決めました。僕は将来、公認心理師になります」
手を握る強さを増し、僕は真っ直ぐ先輩を見つめる。
僕はずっと、将来どこを目指せばいいか分からなかった。
でも、先輩が多くの人を笑顔にしている姿を見て、僕もそうなりたいと強く感じた。
誰かの役に立ちたい。
誰かの暗闇を癒せる人になりたい。
僕も先輩のように、誰かを笑顔にしたい。
決して楽な道じゃないだろう。
でも僕はもう心に決めた。
弱虫だった僕が、今度は誰かを支える番だ。
先輩は一筋の涙を、陶器のような肌に滑らせて僕を抱きしめた。
「‥‥今、もう一回由希に惚れ直した。ねえ、もう一回キスしてもいい?」
「‥‥はい」
僕たちは青い光に包まれて、そっと唇を合わせた。
もう先輩は、寂しさを纏ってはいなかった。
◆
水族館を出た後は、神社までの坂を登って食べ歩きをした。
少し泣いてお腹が減ったのか、先輩は目についたものを全部食べているじゃないかという勢いで買っては食べるを繰り返した。
細い体のどこに食べ物が詰め込まれているんだろうと、僕はまじまじ先輩を見つめていた。
「ん?」
青い肉まんを食べた後に、先輩は親指をぺろりと舐めた。
些細な仕草も先輩がすると、ドラマのワンシーンのように見える。
今日も絶好調に道を行き来する女の子たちの視線を掻っ攫っていた。
「あ、由希、口元についてるよ」
「えーー」
ちゅっ、と軽いリップ音がして、唇の端にキスを落とした。
きゃっと周りにいた女性たちから小さな悲鳴が上がる。
水族館はみんなが水槽に夢中だったから良かったけど、ここじゃ目立ちすぎる。
僕は顔を赤らめて、ぐいぐい先輩の背中を押した。
「もうっ! 目立ちますから!」
「はは、照れてんの? かーわい。写真撮っていい?」
「だめですし、反省してください!」
「ええ、だって今キスしたかったんだもん」
「キスとか言うな! ていうか、今絶対何もついてなかったですよね」
「さあ、それはどうだろう」
普段のひょうきんさが戻って、僕はほっと胸を撫で下ろす。
口元といえば、今更はっと気がついた。
「そういえば、うさたんの時って口元の黒子無かったような‥‥」
「あ、今更気がついた? 俺、うさたんの時はね、黒子をコンシーラーで消してたの。お面すると目立つからさ」
通りで学校で初めて話した時、先輩がうさたんだと気がつかなかったわけだ。
単に僕が鈍いだけかもしれないが、本気で髪色もお揃いだと信じ込んでいた。
「逆にどうやって僕がライブに来てるって気がついたんですか?」
「んー、ほぼ直感。なんか雰囲気が同じな気がした」
「怖っ」
「俺は由希の限界オタクだからね。マスクで顔隠してても、判別するのなんて朝飯前だよ」
「嘘くさい、インチキっぽい、信憑性がない、の三点セットですよ」
「全然信頼されてなくて笑える〜」
あははと先輩は爽やかに笑うだけだ。
先ほどはセンチメンタルになっていたが、元々先輩は決してメンタルが弱いほうではない。
普通に負けず嫌いだし、なにより余裕がある。
自分自身に自信を持っていることは、先輩の強みだ。
坂のてっぺんまで来て、僕たちはエスカレーターを利用するかどうか迷った。
先輩は顎に手を当てて数秒考えた後に「課金しよう」と決断した。
先輩の判断は正しかった。課金万歳だ。
日が暮れる前に上から海を眺めることができた。
夕陽が半分海に沈み、オレンジと青が混ざり合っている。
「綺麗ですね」
僕は手すりに寄りかかり、遠くを見つめた。
「うん」と答えた先輩のほうから、カシャリと写真を撮る音が聞こえる。
「撮るなら、一緒に撮りましょうよ」
「えへ。海を眺める由希がすっごく綺麗で、思わず撮っちゃった」
波の音が聞こえて、潮風が頬を撫でる。
胸いっぱいに空気を吸い込んで、僕は横に立っている先輩にぴったりとくっついた。
「由希からくっつくの珍しいね」
「なんだか甘えたくなって」
「水族館で将来のこと話してくれた由希はかっこよかったけど、甘えてくれる由希も可愛くて好きだよ」
「僕も、先輩の全部が好きです」
ゆっくり沈んでゆく夕陽を眺めて、僕はきっと大丈夫だと思った。
僕たちは、これからどんどん変わっていける。
何度落ち込んでも、必ず朝日が昇るから。
夜は星を眺めて、朝を待とう。



