理屈では説明できない、心の揺れ。
焦がれるという言葉の意味を、初めて体感した。
そっと寄り添ってくれる歌詞と、優しくてどこか寂しいメロディ。
重たく響くベース、引っ張っていってくれるギター、掻き立てられるようなドラム。
それら全てをまとめるのは、唯一無二の歌声。
あの人が歌うと、どんな歌も彼色に染まってしまう。
強い光の中、顔を隠して歌う彼と自分の世界が交差することなどあり得ない思っていた。
だってそうじゃないか。
夜空で光る星と、見上げる僕らには果てしない距離がある。
遠くにあるからこそ、星は星として輝けるのだ。
だけどある日、とあるバンドの曲を聞いた瞬間、僕の心臓に彗星が突き刺さり、爆発した。
僕が知ってしまったのはーー
彗星の秘密
なんの変哲もない高校生活。
今日もマスクで顔を隠し、前髪は長めをキープする。
生活では困らないように、少しだけシースルー気味にするのがこだわりだ。
なるべく目立たないように、神経を張り巡らせた日常は、穏やか以外のなにものでもない。
偏差値の高さと引き換えに校則が緩い高校に、僕ーー三好由希はこの春めでたく入学出来た。
個性的な生徒が多く、自由な雰囲気は中学校までのきっちりとした空気とは違い、ほっとしている。
もう桜は散ってしまい、葉桜の季節になった。
入学式までは友人が作れるかどうか、不安を抱えていたけれど、なんとかクラスで話せる相手も出来た。
いくら自由な雰囲気といっても、僕には大きな悩みがあり、周囲に溶け込めない。
そんな僕には、誰にも明かせない趣味がある。
僕は、中学生の頃から『ほうき星』というバンドのライブに足繁く通っている。
今年に入ってからはようやく親の同伴なしで行けるようになったため、行ける日は必ずライブハウスに通うようにしている。
『ほうき星』はメジャーデビューしておらず、高校生メンバーで構成されたアマチュアバンドだ。
でも、マイナーながら世界観がしっかりしていて、自主制作曲のクオリティは高い。
SNSでも日に日に彼らについてのコメントや、ショート動画などが地味に増えていっている。
メンバー全員が高校生ということもあり、メディア露出が抑えられているけれど、彼らが卒業する頃にはメジャーデビューも夢ではないかもしれない。
ほうき星は、ギター、ドラム、ベース、ボーカルの四人組バンドだ。
それぞれ個性的なメンバーだが、ボーカルーー通称『うさたん』だけは顔の上半分が隠れる、うさぎのお面を被っている。
ちなみに三種類のカラーバリエーションがあり、その日の気分によって変えているらしい。
ピンク、水色、白の中で、僕がよく見るのはピンクだ。お気に入りなのかもしれない。
うさたん以外は顔出ししていて、なかなかの美形揃いだ。
ファンの中では『うさたんも相当なイケメンなんじゃないか』という意見と、『うさたんだけフツメンだから隠しているんじゃないか』という意見に派閥が分かれていてる。
僕は正直、うさたんの顔のことは考えないようにしている。
隠すのにはきっと理由があるからだ。
僕も常にマスクで顔を隠して生活している。
うさたんに惹かれるのは、彼と僕に共通点があるのも理由の一つだ。
大体アイドルではないのだから、顔面偏差値なんて気にする必要ない。
大切なのは、いかに心を揺さぶられる歌かどうかということだ。
ほうき星との出会いは、まさに運命だった。
真っ暗な部屋の中で、泣いていた日を思い出す。
ベッドでうずくまり、イヤホンをして、僕は音楽のサブスクを適当に垂れ流していた。
突然流れたほうき星の曲は、衝撃だった。
走り抜けるような爽快なメロディに、そっと寄り添ってくれる優しい歌詞。
悪夢を見そうな悪い一日の終わりだとしても、彼らの歌には一度聞けばあっという間に穏やかな夢へと変貌させるような力があると感じた。
好みのど真ん中。ドンピシャだった。
元々繊細な歌詞や雰囲気の曲が好きな僕だけど、彼らの歌には力強さもあり少しの寂しさも含まれている。
流れる星をたった一人で見上げているような心の震えが、そこには存在していた。
少し寂しいけど、圧倒的に美しい。
でも、それだけじゃない。
いつまでも聞いていたいと思うのは、うさたんの歌声が唯一無二だからだ。
彼の声は中性的で、初めはハスキーな女性が歌っているのだと勘違いした。
寒い冬の日の夜空のように透き通っていて、すっと心に入り込んでくる。
なのに激しい曲調では妖艶になり、心を掻き乱された。
穏やかに卒業まで過ごしたい僕の生きがいは、ほうき星を追いかけることだけだ。
もちろんほうき星は丸ごと好きだけど、うさたんは特別。突如爆誕した初めての最推しだ。
ライブで彼の姿を見るたび、また頑張れると思えた。
彼は華奢でスタイルがいい。
顔は見えなくてもアッシュブロンドに染まった髪は、少しだけ猫っ毛だと最近判明した。
長めの髪の毛をうさたんはいつも緩いハーフアップにまとめている。
現役高校生だというのだから、もしかしたら同級生かもしれないし先輩の可能性もある。
でも結局、年齢がいくつだろうとうさたんはうさたんなのだ。他の誰でもない。
誰にも邪魔されず、思う存分ほうき星のライブに通い続けるのがたった一つの夢だ。
その為に学校ではなるべく笑みを浮かべ、余計な興味関心を持たれないように過ごす毎日を繰り返す。
たまに退屈だと感じるけれど、そんな時はいつだって彼らの歌を思い出している。
親以外に打ち明けられない推し活が、僕を支えてくれていた。
学生時代にたくさん恋愛したいとか、思う存分遊びたいなどという欲求は僕には存在しない。
僕には、今もなお乗り越えられない、大きな壁がある。
それは、マスクを外せないこと。もっというと、顔を晒せないことだ。
だから校内に刺激など求めていなくて、ただ理想の生活を全うできれば満足だった。
なのに、変化は突然だった。
きっかけはたまたま拾ったキーホルダー。
ぼろぼろになった、あまり可愛くない顔をしたうさぎがこちらを見つめていた。
「ごめん、それ。俺の」
突然振ってきた声の主は、二年生の中で一番有名な先輩。
眠そうな瞳に、吸い込まれそうだった。
◆
彼はとても神様に愛されているんだと思う。
だって、あまりにも不平等だ。
僕が初めて彼を見た時の感想だ。
事の発端は放課後に忘れ物を取りに行くため、人気のない化学室を訪れた。
帰りのホームルーム時、筆記用具を忘れたことに気がついて渋々回収に来たのだ。
誰かに盗まれることもなく、無事回収出来て安堵する。
今日はほうき星のライブがあって、一刻も早く帰りたいのでそそくさと教室に戻ろうとした。
すると、足元に薄汚れたキーホルダーが落ちていることに気がついた。
しゃがんで、ひょいと拾い上げる。
「わ、なにこれ‥‥」
拾いあげると、ところどころ塗装が剥がれていてぼろぼろだった。
しかも絶妙にうさぎの顔が可愛くない。
あまり趣味が良いとは言えないが、誰かの大切なものかもしれないと思った。
せめて机の上に置いておいてあげようとした時、がらりと音を立てて教室の扉が開く。
そして、後ろから透き通った声がした。
「ごめん。それ、俺の」
驚いて振り返ると、そこには暴力的なまでの美形。
彼を知らない生徒は恐らくこの学校には存在しないだろう。
「えっ、宇佐美先輩‥‥?」
思わず声が漏れる。
宇佐美彗先輩は、別名ミステリアス王子と呼ばれている。
二年生の一軍に所属しながら、そのプライベートは謎に包まれている(らしい)。
確かに、ド陽キャたちに囲まれながらも、宇佐美先輩は静かに笑っている印象だ。
たまに二年生のクラスの前を移動教室で通り過ぎるけど、先輩が騒いでいるところは見たことがない。
騒ぐどころか、いつも集団の端にいる気がする。
一人でいても大勢でいてもやっぱり目がいくのはその美しい顔面だ。
眠たげに流れた瞳は色っぽく、睫毛は長くて影を落としている。つんと高い鼻に形のいい唇。口元の黒子がチャーポイントだと、同じクラスの女子たちが騒いでいた。
お洒落なアッシュブロンドの髪の毛は、偶然にもうさたんと同じ色で、流行色なのかもしれない。
先輩の顔面に引けを取らない上品なくすみカラーは、真似しようと思っても僕が染めれば髪の毛だけ浮いてしまうだろう。
先輩の恐ろしく整った顔面があってこそ、生かされる髪色だと思う。
先輩は校内の超有名人であり、校外にもファンクラブがあるんじゃないかとまで噂されるほどのイケメンなのだ。
そんな先輩が突然現れ、挙げ句の果てに声まで掛けられたら誰だって心臓が飛び出そうになる。
僕はヒュッと喉から変な音がした。
「あっ、す、すみません! 勝手に触っちゃって」
「なんで謝るの? 拾ってくれたんでしょ」
ふわりと宇佐美先輩の柔らかそうな髪が揺れる。
彼の明るい髪の毛は、夕陽が差し込んでいるからかきらきらと輝いていた。
陶器のような肌に薄い唇。瞳は甘く垂れているのに身長は高く、骨格までも美しい。
美形すぎて恐怖すら覚える人間を、僕は初めて間近で見た。
慌ててキーホルダーを差し出した僕に対して、先輩は小さく笑う。
その姿さえドラマのワンシーンのようだ。
骨ばった手がキーホルダーを受け取る。
「まさか先輩のだと思わなくて」
「そう。じゃあ下心があって拾ったわけじゃないんだ、優しいんだね」
確かに落ちていたキーホルダーが先輩のだと知っていれば誰もが拾うのかもしれない。
先輩は好かれやすいと自覚しているのに、鼻についたり嫌味には感じず、寧ろ好感すら覚える。
そろそろ離れないと緊張で倒れてしまいそうなので、適当に会話を切り上げて帰りたかった。
今日は金曜日で十九時にはライブが始まる。
なんとしても、その前に倒れるわけにはいかない。
「じゃあ、僕はこれで」
眠たげな瞳がじっと僕を捉えて離さない。
「‥‥うん、ありがとう。あ、待って。名前だけ教えて」
「へ?」と間抜けな声が溢れた。
今、ぼく、宇佐美先輩に名前を聞かれた?
なんで僕の名前なんか知りたいんだろう。
あ、でも先輩を待たせてる。早く答えなきゃ、
でも、あれ、どうしてだろう。
うまく声が出ない。
ぐるぐると思考だけが脳内を巡り、声が出ない。
先輩は不思議そうに僕の顔を覗き込み、ぱんっと目の前で手を叩いた。
「あっ、名前! 三好由希です!」
すると止まっていた時が動いたように声が出て、やっと名前を伝えられた。
にこりと先輩は微笑み「みよしゆきくんね。よし、覚えた」と復唱する。
いや、ちょっと待って。
今覚えたって聞こえたけど。
さらに混乱して、逃げるように教室へ戻った。
心臓が早鐘を立ててうるさい。
なんで先輩が名前を知りたかったのかなんて、僕には想像もつかない。
今分かることは、夢だったと忘れたいほどに全身が熱いこと。ただ、それだけ。
なんだろう、これ。こんな感情初めてだ。
ほうき星以外のライブ以外に、心臓が破裂しそうになったことなんて今までなかった。
雑にリュックを背負い、急いで帰宅する。
その間、何度も宇佐美先輩との会話がフラッシュバックして頭をぶんぶん振り続けた。
もう二度と先輩とは関わりたくない。
平穏な日常が、がらがらと崩れる音が聞こえた気がしたからだ。
◆
学校では思わぬアクシデントに見舞われたけれど、ライブハウスにはいつも通り時間に余裕を持って着いた。
今回はスタンディングでもかなりいい順番でチケットが取れたので、僕は今日のライブをとても楽しみにしていた。
ワンドリンク制なので、いつも通り水のペットボトルを買って中に入る。
服装にはこだわっていて、少しメイクもする。
今日はあまり時間がなくて、睫毛をビューラーであげてマスカラだけした。リップはじんわり広がるチェリーの香りがするティント。
本当はアイシャドウもしたかったし、クリームチークも乗せたかった。
重たい前髪はセンター分けにし、気分によって花やリボンの付いたピンも付けたりすることもある。
今日はラフに紺のパーカーと横のラインに控えめなフリルがついた水色のジーンズを組み合わせた。
統一感を意識して、パーカーの首元からも白いフリルを覗かせる。
足元はいつでも飛べるように白い厚底スニーカーだ。黒のウエストポーチと、ほうき星のオリジナルタオルを持てば戦闘服の着用が完了する。
正直、メンバーの目に映るかどうかは関係ない。
自信を持てる自分の姿で、精一杯推したい。
うさたんに出会わなければ、一生メイクなんてしなかっただろう。
とあるライブで観客が投げた『どんな人がタイプ?』という質問に、うさたんは『‥‥強いていうなら、何か努力してる人、とか』と答えていたのだ。
ライブに訪れる際、僕が出来る努力は足繁く通うことと容姿を整えることしか出来ない。
学校では絶対にマスクも外したくなければ、メイクなんて以ての外なのに、推しの発言ってとんでもないパワーだ。
今回はステージの正面を陣取れて、かなり出演者との距離が近い。
柵の向こう側に焦がれている彼らが登場するんだと思うと、始まる前から心臓がばくばく波打って呼吸が苦しくなった。
いくつかのバンドが対バン形式で出演するため、ずっとほうき星を眺めていられるわけではない。
でも、特等席から眺めるうさたんの姿を想像すると異様に喉が乾いた。
仄かにたかれているスモークが、まるで夢の中にいる気分にさせる。
ーー今日も全力でうさたんを推すと誓います。
ぐっと胸に手を当て、脳内で宣言した。
周りは友人や恋人同士で来ている人が多く、待っている時間は孤独だけどそんなことは関係ない。
何時間待とうと、誰ともこの趣味を共有できなくとも、ほうき星の歌があるから、僕は今を楽しく生きれている。
彼らが音楽を愛すように、僕も彼らを愛しているんだ。
いつか直接その思いの丈を伝えられたらーーと考える日もあるけれど、あまりにも非現実的だ。
デビューしていないアマチュアバンドなら、もしかしたらなにかの拍子で繋がれたりするのかもしれない。
でも、そんなことは望んでいない。
たった一人のファンとして、自分らしく応援出来れば満足だった。僕にとっては、その自分らしいがライブに通うことなのだ。
お年玉貯金ではそろそろチケット代を賄えなくなってきそうでも、だったらバイトを始めればいいんだとほうき星のためなら前向きになれる。
ただ歌に励まされるだけでなく、行動の原動力になるのだから、やっぱり音楽は素晴らしくて、ほうき星はもっと素晴らしくて尊い。
いかに彼らが尊いのか脳内でぐるぐる考えているとMCが登場し、一組目の演奏が始まった。
大体いつも同じバンドが出演しているため、普通にほうき星以外も楽しんで聴く。
だが、誰のどんな歌を聞いても震えるほど心は動かない。
彼らが、僕にとっての一等星だ。
登場するところから既にオーラが違う。
「続きまして、ほうき星!」
高らかに名前を呼ばれた彼らは、堂々とステージに上がる。
僕はようやくマスクを外して、彼らをうっとり眺めた。
いつも余計なこと話さず、うさたんはたった一言だけ同じことを口にする。
「今日も、ありがとう」
演奏開始の合図は、何度聞いてもシンプルで痺れる。
なにも変わったことは言っていないのに、彼の声に乗る言葉は全て特別になる。
じんわりと涙が浮かんだ。
今日は『炭酸水』という、個人的にとても好きな曲からライブは始まった。
__ぬるい毎日は炭酸が抜けた水のようで
__君の存在の大きさにあとから気がついたんだ
__ねえもう一度抱きしめて
__もう一度声をきかせて
__君は僕の愛しい刺激
失恋ソングなのにメロディは寧ろ早く駆け抜けてゆく。ほうき星の中の誰かが炭酸の抜けたような恋愛をすでにしたのだとしたら、とても大人びて感じる。
穏やかな毎日を望むのは、臆病者でもあるからだ。
心の柔い部分に、誰にも触れられたくない。
その気持ちが強くて、ほうき星のことさえも誰にも話せない。
__君のために走ったけど
__もう遅かったね
傷つく勇気など持ち合わせていない僕は、感動を分かち合えることはないのだ。
__さようなら僕の炭酸
__水の中で君を想う
ぬるま湯の現実が壊れないようにすることが精一杯だ。
__窒息するまで何度でも
いつか誰かとほうき星のライブに来ることがあるとしたら、それは酷く幸せだろう。
ライブ中にも関わらず、今日は歌の終わりのように虚しい気持ちになった。
どうかこの涙が、感動で溢れていると勘違いされますように。
最前列で嬉しかったのに、悲しいなんて最悪だ。
アクシデントを引きずっているのかもしれない。
思いもよらないことが起きると、すべての歯車が狂うらしい。
「俺、普段はあんまり話さないんだけどさ」
涙を服の裾で拭っていると、急にうさたんが話し始めた。
ライブ中自ら率先してトークするなど、初めてかもしれない。
ばっと顔を上げると、お面の中の瞳と目があった気がする。
いやいや、そんなまさか。
数百人も観客がいる会場の中で、目が合うはずない。
でも、思い違いだと冷静になりたいのに、いうことをきかない心臓は大きく鳴り続ける。たらりと汗が一筋、首筋に流れた。
「今日はちょっといいことあったから、少しだけ話させてよ」
うさたんの珍しくご機嫌な様子に、ほうき星のファンが一気に盛り上がる。バンドメンバーもうんうんと、嬉しそうに聞いている。
「俺ね、めっちゃ大切にしてるキーホルダーがあるの。それを無くしたって思って今日すごい焦ってさ、でも見つけてくれた子がいたんだよね」
一瞬、頭が真っ白になった。
うまく言葉を噛み砕いて咀嚼できない。
だって僕も今日、全く同じ体験をしている。
僕の周りだけ酸素が薄くなったかのように、息が苦しい。
今うさたんを視界に入れたら、確実に泣き崩れてしまう気がした。
「すげえ優しいなって、なんだか心があったかくなったって話でした。ーーだから今日は特別にこの曲も歌います」
すう、と彼が息を吸う音がクリアに聞こえた。
次の瞬間、うさたんが発したタイトルは僕が一番好きな曲。
そして、ほうき星が滅多にライブで披露しない幻の一曲だ。
「聞いてください、流星群」
アコースティックギターの音が聞こえて、視界が涙で滲んだ。
メンバー全員が座り、中央にいるうさたんだけが演奏して、歌う。
世界でたった一つの、うさたんが作詞作曲したこの歌がきっかけで僕はほうき星に惹かれた。
寂しい夜も、受験で心がボロボロになった日もいつだってこの歌が支えてくれたのだ。
かけがえのない一曲を、憧れの人が目の前で歌っている。
そしてそれは、自分の名前を覚えてくれた人。
ああ、きっとこれは都合のいい夢だ。
淡く光るライトに飲み込まれて、このまま意識を手放してしまいたい。
__流した涙の海を
__月の光で作られた道を渡ろう
__あの星に手が届くように僕が歌うよ
__でも覚えていて
__君が一番大切なんだ
ふわりと体が浮いたような感覚がした。
ああ、本当に美しい歌声だなあ。
やっぱり、大好き。
うさたんが歌い続ける姿を、ぼんやり見つめ続けた。彼が歌うことをやめる、その時まで。
それはとても短くて、長い時間だった。
ライブ終わり、僕は気がついたら部屋のベッドの上にいて、どう帰ってきたのかあまり覚えていない。
耳に残っているのは、流星群を歌う彼の透き通った甘い歌声。
あの後も何曲か歌ってくれたけれど、涙腺がぶっ壊れてしまって全然集中出来なかった。
暗い部屋の中で、全て夢だったんじゃないかと、また瞳を閉じた。
◆
次の日の朝、目が覚めると家で飼っている茶とらの猫、チャチャのお尻が目の前に広がっていた。
ぱしんぱしんと尻尾で軽く顔を叩いてくる。
早く起きろと不機嫌に主張されていた。
え、待って、本当に夢だった?
きょろきょろと辺りを見回すと、机の上に昨晩のライブチケットとタオルが置いてある。
水のペットボトルは、ごろんと床に転がっていた。
夢では無かったと、それら全てが証明している。
一旦落ち着くため、若干不機嫌なチャチャを猫吸いして気分を落ち着かせた。
でも、混乱がおさまったわけではない。
急に脳がガチャガチャと音を立てて動き出した。
待て? つまりうさたんは宇佐美先輩で、宇佐美先輩はうさたんってこと?
アホほどシンプルなイコールの式が出来上がる。
シンプルかつ、圧倒的破壊力だ。
ああ、事実を知らなかった頃に戻りたい。
うさたん改め宇佐美先輩以外のメンバーは校内で見かけたことがないので、恐らく違う高校に通っているのだろう。
そしてなぜかたまたま同じ高校に通っていた最推しの、とても大切なキーホルダーをたまたま拾ってしまい、そしてたまたま(?)名前を覚えてもらったと‥‥。
「うーん、意味がわからないな」
にゃ、とチャチャが返事をした。
独り言が気持ち悪いといわれた気がする。
でも、止められない。
「まあでも名前覚えられただけだし、もう関わることもないでしょ」
ぐーっと背伸びをして日常を全うする。
普段通り大人しく過ごし、あっという間に休日は終わった。
でも、夜になると先輩のことを考えてしまってあまり眠れなかった。目を閉じるとライブの光景も浮かんで、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
月曜日の朝、登校すると仲の良いクラスメイトである池田くんに隈を指摘される。
バスケ部の彼はいつも少し声が大きい。
「はよ! 由希、隈酷くね? 休日遊びまくってたんだろ。いいなあ、俺も部活なかったら遊びて〜」
まずい、日常に支障が出始めている。
池田くんには「あはは、そんな感じかな」と誤魔化して笑った。
彼はどかっと前の席に座り、手紙を差し出してくる。
「‥‥えっと、なにこれ」
「日曜にさ、部活の先輩からいきなりお前に渡して欲しいって頼まれて。ラブレターですか?って聞いたんだけど、ファンレターらしいよっていわれた。由希ってファンとかいんの? すごくね?」
あっけらかんといわれても、もちろんファンなどいない。
怪しすぎる手紙を素直に受け取るところが、彼の良いところでもあり悪いところでもある。
おずおずと受け取ったが、どうしても開封して中身を確認する気にはなれなかった。
そのまま授業を受け何事もなかったかのように過ごした。
すると、数日後に池田くんから二通目を受け取ってしまう。
「げ」
「お前この前のやつ見てないだろ。なんか知らねえけど、先輩が差出人が拗ねてたっていってたから見るだけ見てあげろよ」
ずい、と渡されたので仕方なく受け取った。
一通目も二通目も綺麗な文字で『ゆきくんへ』とひらがなが書かれていて、差出人の名前はない。
呪いの手紙かな?? と、半分本気で思ってしまう。
仕方なく、昼休み早々お弁当を顔を隠しながら食べ終えて、図書室に向かった。
進学校ではあるけれど、ここはいつも閑散としている。
僕はたまに息が詰まると、図書館で休んでいた。
奥の本棚に寄りかかり、一通目の手紙を開ける。
取り出すと半分に折りたたまれていて、中身が確認できない。
覚悟を決めて開けると衝撃の内容が記されていた。
『ゆきくんへ
この前はキーホルダーを拾ってくれてありがとう。
もしかしたら誰かが持っていっちゃうんじゃないかって、不安で必死に探してたんだ。
昔からよくそういうことがあって、だから君が拾って机に置いてるところを見てびっくりした。
キーホルダーを拾ってくれたのが、君でよかった。
これもなにかの縁だと思うので、よかったら連絡先交換しませんか?
宇佐美彗』
あ、これ、やばいやつだ。
遠い目をして手紙を閉じた。
推しに手紙を貰い、連絡先を交換しようと持ちかけられるって次にどんな不幸が待ち構えているんだろう。
事故とかにあったりするんだろうか。
でも、そうじゃないと割に合わない。
ちゃっかりメッセージアプリのIDが同封されていた付箋に書かれていて、もっと危機管理能力を高めてほしいという気持ちでいっぱいになる。
どれほどの生徒がこのIDを知りたいのか、宇佐美先輩は知らないんだろうなあとぼんやり考えた。
ていうか、先輩は僕がほうき星のライブに通ってること知らない説あるよね、これ。
ほうき星のことについてはなにも触れられてないし。
じゃあ金曜日のライブに行った僕って、先輩改めうさたんから見たら、何故か流星群聞いて号泣してるファンってこと?
さあーっと顔を青ざめて、もう一通の手紙も勢いで開けた。
端的に言うとなんで連絡くれないの? と彼女のような内容がつらつらと書かれていた。
恐らく僕が連絡するまでこの手紙は途絶えないだろう。
スッとスマホを取り出し、ご丁寧に同封されていたIDを打ち込んで先輩のアカウントを追加する。
『宇佐美 彗』と本名がフルネームで記されており、いかにも誰かが撮ってくれたSNS映えしそうな写真がアイコンだった。
コーヒーカップを待つだけでかっこいいってずるい。推し相手にもはや悔しくなってくる。
チャチャに似ているというだけの理由で集めている猫のイラストスタンプで、こんにちわと送る。
すると、すぐに既読がついてスマホを落としそうになってしまった。
怖! なにこの先輩、怖い!
手が細かく震える。一通目で登録しなかったことを責められたら泣いてしまうかもしれない。
スタンプはガン無視され、代わりに短いメッセージが送られてきた。
『いま、どこ?』
脳内に無限の宇宙が広がる。
なに、この質問。
答えらどうなるの?
震える指で『図書室です』と送る。
送った瞬間、既読になっても返信はない。
え、なに、なんで既読無視?
頭にはてなが沢山浮かぶ。
じっとメッセージを見続けていると、後ろから声をかけられた。
「由希くん、みっけ」
「‥‥へ」
「アカウント追加してくれたのが嬉しすぎて、返事する前に向かってた」
急いで来てくれたのか、若干息が上がっている先輩。
目にかかりそうな前髪をさらりとかきあげて、柔らかく笑った。
太陽の光がカーテンの隙間から差し込んで、先輩に後光が差している。
「俺さ、君に伝えたいことがあるんだ」
視線を合わせるよう、先輩もしゃがむ。
「‥‥良ければ、俺と仲良くなってくれませんか」
緊張しているのか、少しだけ先輩の声が揺れていた。
ああ、神様。今は夢の続きでしょうか。
推しが自ら「仲良くなりませんか」だなんて、たまたまキーホルダーを拾っただけの僕には勿体無い言葉で。
だけど、だからといって断れるわけもなくて。
「‥‥よ、よろしくお願いします」
ぺこり、と僕は小さく頭を下げた。
「やった、うれしー」
ふにゃり。元々垂れ目な先輩の瞳が嬉しそうに細められる。
きゅうっと心臓が縮まって、胸に小さな痛みが走った。
「ねえ、もう手紙には書いちゃったけど、由希くんって呼んでいい?」
先輩はあざとく、こてんと首を傾げた。
「ど、どうぞ」
色々いっぱいで心臓が爆発しそうだ。
顔が燃えるように熱い。
先輩がうさたんだと知っているのは、僕だけ。
僕はあなたのファンで、先輩は僕の推しで。
春の終わりを告げる風が窓の隙間から入り込んで、先輩の明るい髪を撫でた。
「由希くん、これからよろしくね」
微笑んだ先輩を見て、穏やかで地味な日常が目まぐるしく変化する予感がした。
顔を守ってくれるマスクが息苦しい。
いつか緊張せず話せるようになるのだろうかと、僕はどこか他人事のように考えていた。
「あのさ仲良くなれたら、お願い一個聞いてくれない?」
一歩、先輩の距離が近づく。
ふわりと少し甘い香水が香った。
「お願い、ですか?」
さっと顔を逸らして聞き返すと、先輩の顔が僕の耳の横まで近づいた。
「うん。仲良くなれたら由希くんの顔、見せて」
◆
先輩と連絡先を交換して早くも一週間が経った。
メッセージをまめにするイメージが全く無かったけれど、予想より多くのメッセージが届く。
『今日の夕飯なんだった?』とか『猫が好きなの?』とかたわいもない会話だけど、相手が先輩だと思うと下手な返事は出来ないと毎度緊張しながら返信する。
先輩は大体返信が早くて、つい夜遅くまで話が続いてしまう。
『由希くんと話してると時間忘れて、つい長くなっちゃう。寝不足になってない?』
『大丈夫です。先輩こそ眠くないですか?』
『んー、眠いけど話したい。あーあ、由希くんが二年で同じクラスだったらもっと学校でも話せるのに。神様は意地悪だ』
『僕は先輩と同じ学校なだけでも十分嬉しいです』
『うわ、由希くんそれみんなに言わないでね。嬉しいの安売り禁止だよ』
『こんなこと言う相手、先輩しかいません』
朝、目が覚めるとメッセージを見返して思わず頬を緩めてしまう。
毎日朝は憂鬱で目覚めたくないと思う日のほうが多かったけれど、今は学校に行くのが楽しい。
話せなくても、移動教室や体育の時間に先輩とすれ違えたりするだけで胸が躍る。
でも、やっぱり話せないと寂しくてどんどん欲張りになっている僕がいた。
誰かと話したいと強く思うのは、初めてだった。
先輩のことがもっと知りたくて、僕のことも知って欲しい。
胸に芽吹いた感情にまだ名前はない。
だけど、いつか知る時がくるような気がした。
週末には、ほうき星のライブを控えている。
最近は、やり取りをしている相手がステージで歌ってるってどこの少女漫画なんだろうと、夢見たいな現実にツッコミを入れてしまいそうになる。
恐らく先輩は僕の素顔を知らないので、いつも通りお洒落をして行けばいいだけの話だ。
でも、この状況で「先輩が僕に気がついていないのなら、いつも通りライブ行っちゃお!」と割り切れるほど僕は肝が据わっていない。
冷静に考えて、泣くほど好きな歌を作った推しだよ?
ついでにその推しが同じ学校の王子と呼ばれる先輩だよ??
冷静を装えるわけない。僕の心臓には一本も毛が生えていないので、今回は泣く泣く行くのをやめようかと考えている。
だが、その考えを宇佐美先輩は簡単にぶち壊してきた。
「俺さ、バンド組んでるんだよね」
「‥‥え?」
今日の朝、突然先輩から『一緒にお昼食べよ』と連絡が来た。
もちろん断れるはずなく、言われるがままに屋上へ来るとベンチに二人並んで座ってお弁当を食べ始めた。
とにかく顔を見られたくないので、一口食べるごとにマスクを上げ下げしている。
食べづらくないのかと聞かれたけど、背に腹は変えられなかった。
大体、推しとご飯食べてる事実にビビり散らかしていたのに突然の爆弾発言。
箸を持つ手がカタカタ震えてきた。
「一応ボーカルやってる」
「え、えっと」
知ってますとは答えられず、ただただ困惑する。
ていうか一応じゃないし。全然ちゃんとボーカルしてるし!
先輩にとってボーカルって一応っていう認識だったんだ? とファンとしては喜ぶべきか微妙な裏話を知ってしまった。
「ギターも弾けるんだけど、それ以上かっこよくなったら許さないって取り上げられたんだよね」
な、なにそれ!
どのメンバーに言われたんですか?!
今すぐファンだと公言できたら、きらきらした瞳で僕は質問攻めするだろう。
ああ、もどかしい。もどかしいけれど、ファンだと悟られたくない。
「でさ、ここからが本題なんだけどね」
ごくんと喉を鳴らして、食べていた卵焼きを飲み込む。先輩は僕の顔を覗き込んだ。
「由希くん、俺たちのバンドのライブ来ない?」
「はい?」
「音楽とか好き? 好きじゃなくてもチケットあげるから、一回だけ来てみてよ。ハマるかもしれないじゃん」
待って。
チケットあげるから? ハマるかもしれない?
やっぱり先輩は、本気で僕がほうき星のファンだと気がついていないらしい。
純粋な瞳で見つめられ、嘘をつくしかない状況に良心が痛む。
「‥‥申し訳ないんですけど、音楽とかよく分からなくて。だから、もっと行きたがってる人にチケットはあげてください」
あまりにも真っ赤な嘘で胃がキリキリと痛む。ストレス過多で吐血しそうだ。
「そっかあ、残念だなあ」
先輩の瞳が酷く寂しそうに揺れた。
「ぐふっ」
「大丈夫? なんか詰まった?」
「いえ、あの、罪悪感で、いやなんでもないです」
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
あの宇佐美彗先輩を、僕なんかが困らせてしまっている。
今の状況を強火担の誰かに見られたら、背後から刺される気しかしない。
「一応お聞きしたいんですけど、なんで僕なんかをライブに誘ってくれるんですか‥‥?」
痛む胃を摩りながら質問する。
「初めて人のこと誘うから、正直自分でもよく分かんないんだけど、由希くんには俺の歌聞いて欲しいなって思ったんだよね」
「ごめんね、曖昧で」と先輩は耳に長い髪をかけて謝る。
今風に吹かれたら、さらさらと砂になって消えたい。
推しに理由も曖昧なまま、感情だけで歌を聞いて欲しいと思ってもらえる日が来るなんてーー。
心の中で、一筋の涙を流した。
自然と手が合わさって拝みそうになる。
「でも音楽興味なかったら楽しくないと思うし、俺も無理強いはしたくないから今の話は忘れて」
きゅううっと胸が痛んで、苦しい。
美しい顔面に憂いが漂うと、破壊力が凄い。
ああ、抗えない。
「‥‥行きます」
ぼそりと呟くと、ぱっと花が咲いたように目を見開いて宇佐美先輩が顔を上げる。
「来てくれるの?」
「い、一回だけなら」
「まじ? あ、チケットこれね。場所ちょっと駅から遠いんだけど大丈夫かな。帰りは遅くなるかもだし、少し待っててくれたら俺送るよ」
「ヒュッ」
「えっ、なんか胸押さえてる! 大丈夫?」
「ちょ、ちょっと持病が‥‥」
「由希くん体弱いの‥‥? 風とか当たって大丈夫? 空き教室に移動する?」
ライブに行くと言ったら急に先輩が饒舌になる。
ていうか、なんて? 送るよ?
推しに「送るよ」とか。だめだって、そんなの。
喉から変な声は漏れるわ、胸が高鳴りすぎて痛いわ、もうめちゃくちゃだ。
「あ、俺の上着貸そうか?」
先輩は羽織っている薄手のネイビーのカーディガンを脱ごうとしている。
無理無理無理、そんなの受け取ったら吐血する。最悪出血死する!
「大丈夫です! 体も弱くありません。それよりライブ日曜日ですよね。楽しみです、チケットありがとうございます」
丁重にチケットを預かり、さっとポケットに仕舞う。
おかしい動きはしていないはずだが、先輩の瞳が細められてなんだか疑われている。
「どうかしましたか?」
「うーん、俺も悩んでてさ」
えっと、主語。主語ください。なにに悩んでるって?
「でも少しずつ確信に変わりつつあるよ」
だから、なにがですか先輩。
「由希くん、ライブ楽しみにしててね。あ、ちなみに俺、うさぎのお面してるけど気にしないでね」
ぎゅっと先輩は俺の手を握って、はにかんだ。
「ぐふっ」
「え、むせてる。水飲んで‥‥!」
お面のことも知ってます、とは口が裂けても言えない。ぐっと唇を強く噛んだ。
青空の下、真実を話せない昼休みはとても長く感じた。
◆
時間が経つのはあっという間だ。
ついにライブ当日になってしまい、僕は自分の部屋で頭を抱えている。
いつもはさっぱりとした綺麗な部屋に保っているけれど、今日はベッドの上に服が散乱していた。
「なにを着ていけばいいんだ‥‥?」
いつものようにお洒落は出来ない。
だって僕は先輩の中で『今日初めてライブに来る後輩』なのだから。
うう〜っと頭を抱えていると、あと三十分で家を出なければいけないことに気がついた。
「やばい、遅れる‥‥!」
がっと手に取ったチャコールグレーのスエットの下に白いロンTを着て、少しだけTシャツを覗かせる。
下はシンプルにストレートジーンズを選んで、今日はノーメイク。
マスクと黒いキャップ、同じく黒のウエストポーチを掴んで、財布とワイヤレスイヤホンを入れた。
「今日ってタオル持っていけないよね‥‥?」
初めてライブに行くのに、タオルを持っているのは怪しすぎる。
物販がある日かどうか急いで確かめるが、残念ながら今日はない日だった。
泣く泣くタオルを諦めて、部屋を出る。
にゃあとチャチャが足元で鳴いた。
悲しい気持ちを彼女を撫でることで癒すと、紺のスニーカーを履いて家を出た。
いつもはバッチリお洒落をしてライブに向かうから、変な気分だ。
マスクが汚れないことだけがメリットだった。
鞄の中に入っているチケットが先輩から譲り受けたものだと思うと、途端に緊張がぶり返した。
最寄駅から地下鉄に乗り電車に揺られる。
時間にして、約三十分間。
僕は無心で、ひたすらサブスクに登録されているほうき星の曲を聞いた。
でも、目を閉じると先輩の顔が浮かんで、やっぱり鼓動が早まってしまう。
ライブ前だというのに、こんなに落ち着かない気持ちでいるのは初めてだ。
今までは大勢いるファンの中の一人として、一方的に観ていたけれど今日は違う。
先輩が観客の中から僕を見つけてくれる可能性がある。
ぶわりと体の中で熱が巻き起こり、心臓がさらに早鐘を打つ。
期待したくないのに、勝手に色々考えてしまう。
目があったらどうしよう。
手を振ってくれたらどうしよう。
ライブ後に送ってもらうのは、再度メッセージできっぱり断った。
しょんぼりした犬のスタンプと一緒に『じゃあ今度は学校から一緒に帰ろうね』と送られてきた。
一緒に帰れるならめちゃくちゃ嬉しいけど、どうしても平常心を保てる気がしなくて返事は濁した。
だって何回も通ったライブなのに、会場に着く前から心臓が飛び出そうなくらい緊張している。
ステージに立っているところを見たら、どうなっちゃうんだろうーー。
淡い期待と未知への不安が胸の中で渦巻く。
ライブに行きたいけれど、いつまでも電車に乗っていたい。
こんな感情、初めてだった。
◆
今日はあえて前の方に行かず、壁際で観ることにした。
ずらりと並ぶ後頭部が、視界を遮ってくれてほっと胸を撫で下ろした。
先輩のことをしっかり見たいけれど、隠れていたいジレンマに悩まされた。
ほうき星のタオルを持っていないため、普段より控えめに動いているのに、熱気が立ち込めて汗が流れた。
ハンドタオルで汗を拭っていると、ほうき星のメンバーがステージに登場する。
宇佐美先輩は一番最後に出てきた。
ーーあれ、今日はいつもと髪型が違う。
今日はハーフアップじゃなく、一つにきゅっとまとめていた。
「こんばんは、ほうき星です。今日はね、俺らのうさたん気合い入ってますよー」
ギターの櫂くんがマイクを握るとすぐに話し始めた。
櫂くんは一番人気のメンバーで、長めの黒髪をハーフアップにしている。
前髪はセンター分けで流し、両耳には多くのシルバーピアスが煌めいていて大人っぽい。
「なんか自分で話すことある?」
櫂くんがマイクを向けても、うさたんは小さく首を振るだけだった。
「そか、じゃあいつものよろしく」
マイクを受け取ると、薄く口を開く。
「ーー今日も、ありがとう」
歌い出す合図と共に、イントロが流れ出す。
普段と変わらない流れなのに、櫂くんの言葉が脳裏で反芻する。
ーー俺らのうさたん気合い入ってますよー。
ねえ、宇佐美先輩。少しだけ勘違いしてもいいですか。
どうか今歌っている曲が終わるまで、夢を見させてください。
あなたが気合の入っている理由に、ほんの少しでも僕の存在が含まれていますように。
バッグのショルダー部分をきつく握りしめて、目に焼きつけるように先輩だけを眺める。
やっぱり宇佐美先輩は、歌っている時が一番きらきらしていてかっこいい。
それはもう、涙が滲むくらいに。
◆
いざほうき星のステージが始まってしまえば、あっという間にライブは終わってしまった。
今日も最高だった。
ぞろぞろと外に出る流れに乗りながら、先輩へ送る感想文を考えて歩いていると服の裾を引かれて立ち止まる。
「あの、間違ってたらごめんなさい。三好くん、ですか?」
ミルクティー色に染まった、ふんわりとしたボブヘアーの女の子に声を掛けられる。
彼女の姿には見覚えがある、なんてものじゃない。
同じクラスの紗倉さんだと気がつくと、一気に高揚していた気分が降下した。
こんなところで、クラスメイトと鉢合わせるなんて‥‥!
一旦通行の邪魔にならないよう、会場の外に出て紗倉さんと端に寄る。
「急に話しかけて驚かせたよね!」
頬を桜色に染めて、彼女は大袈裟に手を振る。
「三好くんのこと見かけて、バンド好きなんだって思ったら居ても立っても居られなくて声かけちゃった、ごめんね」
柔らかく笑う彼女が、クラスメイトの男子から人気なのが分かった。
大きな瞳に、白くて柔らかそうな肌。
誰が見ても美少女なうえに、性格もいいなんてモテるに決まっている。
「びっくりしたけど、嫌とかではないから。そんなに謝らないで」
「ありがとう。三好くんって優しいんだね」
いや、ごく普通のこと言ってるだけです、とは言えず曖昧に微笑む。
紗倉さんは優しいのハードルが低すぎる気がした。
「私、ほうき星の追っかけしてるんだけど、三好くんはどのバンド観に来たの?」
「実は、僕もほうき星のライブを観に来たんだ」
「えっ偶然だね!」
大きな瞳をさらに大きく見開いて紗倉さんは笑顔を浮かべる。
神様のいたずらとさえ思ってしまう偶然だ。
「良ければ、この後ほうき星について語り合わない? 今までライブの感想言い合える相手いなくて、そういうの憧れてたんだ」
「実は僕も、誰とも話せなくて語り合ってみたかったんだ‥‥!」
ほうき星を知らない誰かに話すことは怖くても、元々ファンだった紗倉さん相手になら話せる気がした。
棚からぼたもちのように発覚した共通の趣味に舞い上がり、頭から先輩へ感想を送ることがすっかり抜け落ちる。
「じゃあ駅近の公園行こ! ファミレスもあるんだけど、多分今の時間混んでそうだから避けたほうがいいと思う」
「そうだね」
紗倉さんの隣を歩き出す。
彼女みたいに愛嬌がある性格だったら、宇佐美先輩ともっと砕けて話せるのだろうか。
ふんわり揺れる髪を視線で追うと、つきんと胸が痛んだ。
公園に着くと並んでベンチに座り、来る途中で買った缶ジュースで乾杯する。
僕はオレンジジュースで、紗倉さんはサイダーを買った。マスクを下にずらして一口飲んで、また戻した。
「ってかさ! 今日のうさたん、髪型違くなかった?!」
「うん、いつもハーフアップなのに今日はまとめてたね」
「気合い入ってるって櫂くんが言ってたし、うさたんの彼女でも来てたのかな?」
彼女というワードに反応して、ぶふっと咽せてしまう。
え、嘘でしょ。
彼女っていう可能性とかあるんだ。
今更になって宇佐美先輩のことを、全然知らないことに気がつく。
「待って、もしかして三好くんってうさたん推し?」
「その、もしかしてです」
「ええっ! ごめんね、彼女とかいるかいないのかも分かんないのに。私、那由多くん推しだから自分の立場になって考えてみたら複雑だ、ごめん!」
顔の前で手を合わせて紗倉さんは謝ってくれる。
やっぱり性格いいなあと感心してしまった。
「いやいや全然大丈夫だから、謝んないで! それより紗倉さんは那由多くん推しなんだ」
「うん、那由多くんがベース弾いてる世界に生まれて幸せって思うくらいには推してる」
「‥‥失礼だったら申し訳ないんだけど、リアコ勢なの?」
ちらりと目線を送って聞くと、紗倉さんの白い肌がみるみる赤く染まっていった。
耳にまで伝染している。
「いやいや!リアコなんて、そんな滅相もない。那由多くんのことはすごくかっこいいと思ってるけど、恋とかじゃないと思う。多分。あんまり人のことを好きになったことなくて、どこが境界線かっていうのも難しいんだけど」
「えっ、紗倉さんってすごくモテるイメージだからとっくに彼氏の一人や二人いるかと思ってた」
「三好くん、彼氏は二人同時にいたらだめなんだよ」
もっともな意見なのに、突っ込むところそこなんだ、と笑いが溢れた。
紗倉さんは話しやすくて、つい気が緩んでしまう。
「三好くん、笑うんだね。教室ではあんまり笑ってるところ見ないから新鮮」
「逆に紗倉さんは高嶺の花って感じで、もっと話しずらいかと思ってた」
「なにそれ、私全然そんな感じじゃないよ。三好くんこそ、実は君のこと密かに気になってる子、何人か知ってるよ」
「‥‥誰の話?」
急に話が見えなくなる。
気になってるって、僕のことを?
「自覚ないかもしれないけどすごい優しいってみんな言ってるよ。三好くんって教室のゴミを率先して捨てにいってくれたり、困ってる子にノート貸したりしてるじゃん。そういうことが出来るの当たり前じゃないし、私も尊敬してたんだ」
周囲から少しでも浮かないようにしていたことを、クラスメイトは優しいと思ってくれていたことに驚く。
「あんまり女子と話さないから今まで話せなかったけど、教室でもまたほうき星の話してもいいかな」
「もちろん。時間のある時にまた語り合おう」
「ありがとう、良ければ連絡先交換しない?」
スマホを差し出して、紗倉さんはQRコードを表示してくれる。
僕はこの日、生まれて初めて女子と連絡先を交換した。
「三好くん、また教室でね!」
ひらひら手を振って彼女は改札の中へ消えた。
紗倉さんを最寄り駅まで送り届けてから、自分が使う地下鉄の駅に移動する。
宇佐美先輩に誘われなかったら、彼女が僕に気がつくこともなかっただろう。
先輩と関わってから、日常がどんどん変化していく。
なんだか胸がいっぱいになってしまう。
家に帰ってお風呂を終えたらすごく眠くて、いつもより早めに眠った。
感想を伝えることを結局忘れていて、思い出したのは次の日の昼休み。
それは、新しい先輩の一面を知ってしまった日だった。
◆
遅刻ギリギリの時間まで眠ってしまって、髪も満足に整えられないまま登校してしまった。
変な寝癖がついて、いつもより前髪が薄くなってしまい落ち着かない。
なんだか視線を集めている気がして、午前中の授業中はグループワークでもずっと下を向いていた。
四限が始まる前に先輩から『今日もお昼一緒に食べよ』と誘いがあったので、終わるとすぐに約束していた第二棟の階段裏に向かった。
最近日差しが暑いため、屋上じゃなくこっちに待ち合わせ場所を変えたのだ。
二年生の教室のほうが近いからか、先輩は先に来ていて、到着した僕の顔を見て何度も瞬きしていた。
「えっ、可愛いね。寝癖ついてる」
「〜〜っ! 見なかった振りしてください」
「やだ、ちょっと目が見えてるのレアだ。もっと見たい」
せっかく階段の上にいたのに降りてきて、僕より背の高い先輩は上からまじまじ顔を眺めてくる。
「前から思ってたけど、睫毛長くない? 由希くんて目もぱっちり二重なんだね」
「ん? 前から?」
「あ、えーと、うん、まあ、そう。前から。ていうか前髪上げてもいい?」
「だ、だめです!」
ただでさえ目が見えかけている。前髪を上げられたら、完全に顔の上半分が見えてしまう。
「そっかあ、じゃあご飯食べよ」
気を遣わないように、わざと明るく言ってくれているのが伝わって胸が小さく痛んだ。
「ていうかさ、最近暑くなってきたよね。マスクしながらご飯食べるのきつくないの?」
先輩の一歩後ろを歩きながら、階段を登る。
痛いところをついてくる。
地球温暖化の影響か、梅雨入り前でも夏ような気温になってきて正直マスクをしていると暑い。
せめて昼休みだけでも外せると嬉しいけれど、一緒に食べるとどうしても外しきれない。
「あ、暑くないです」
せっかく先輩が聞いてくれたのに強がってしまう。
「こら、今嘘ついたでしょ。本当のことを言いなさい」
こんっと先輩は長い人差し指を曲げて、僕のおでこに軽く当てた。
「‥‥正直、暑いです」
「よし。正直に言えて偉いね」
優しく頭を撫でられ、手を引かれる。
「じゃあお互いが食べ終わるまで、背中を合わせて食べよ」
一番上の踊り場は行き止まりで、広々としたスペースが広がっている。
影になっているから空気がひんやりと気持ちいい。
先に座ると、先輩の背中がぴったりくっついてきた。
「一緒に食べるのに、背中合わせでいいんですか?」
「俺は由希くんに無理をさせるほうが嫌なの。ごめん、もっと早くからこうやって食べてあげればよかったね」
背中から先輩の体温が伝わってきて、どきどきする。
一緒に優しさも滲んでくる気がして、目頭が熱くなった。
「‥‥なんで、そんなに優しいんですか」
ぽろりと溢れた本音に対して、宇佐美先輩がふっと微笑んだ気がする。
「由希くんを甘やかしたいから、かなあ」
「なにそれ。意味分かんない」
「はは、今は分かんなくてもいいよ。でも、いつか伝わるといいな」
マスクを着けていても、先輩がこっちを向いていなくてよかった。
きっと、僕の顔は今真っ赤に染まっているはずだ。
ひりひりと頬が熱くて、鼓動が早まっている。
「あ、でもライブの感想もらえなかったのは正直悲しかったかも」
お弁当を食べながら話す先輩の声が一段低くなる。
「ライブの後すぐに感想送ろうとしたんですけど‥‥」
「けど?」
うぐ、と言葉に詰まる。
紗倉さんの話をするべきか少し悩んで、打ち明けることにした。
「実は、ライブ終わりにクラスメイトと偶然鉢合わせたんです。話して帰ったら送るの忘れちゃいました、ごめんなさい」
「クラスメイト?」
ぴくん。先輩の肩が跳ねた気がする。
「名前とどんな子か教えて。男の子? 女の子?」
「せ、先輩?」
「教えてくれないと振り返って顔見るよ」
さっきまで穏やかだったのに、声だけでも不機嫌だとはっきり伝わる。
圧力に負けて「女の子で、クラスの人気者です」と答えてしまった。
「ふうん。可愛いの?」
先輩が紗倉さんに興味を持っと、なぜか胸の中に黒い渦が巻く。
「多分、可愛いと思います。みんな可愛いって言ってるし」
「へえ、可愛いんだ。由希くんもその紗倉さん? を見て可愛いなあ、付き合いたいなあとか思う?」
突拍子もない質問に思わず咽せる。
「おっ思いません! 紗倉さんはきらきらしてて、僕なんかがそんな風に思っていい存在じゃないというか」
「うわ。俺ら今、想いがめちゃくちゃすれ違ってるよ。まあいいや、放課後由希くんのクラス行くね」
「え、なんでですか?」
「も〜、天然なのも可愛いけどさあ」
先輩が背中に体重を預けてくる。
さらさらな髪が耳にあたってくすぐったい。
「ちょっとは意識して欲しいなあって思ってるよ」
砂糖菓子みたいに甘い声が耳のすぐそばから聞こえてくる。
背中越しに心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと不安になった。
僕の中で先輩は特別で、意識もなにも話すようになる前からほうき星とうさたんのことばかり考えていた。
でも、ファンで先輩に伝えていないから意識して欲しいなんて言われちゃうのかな。
「僕なりに、先輩のことずっと意識してます」
「‥‥それ、わざとやってないよね。由希くんはあざといなあ」
「あ、あざとくないです。先輩こそ自分の顔の良さ分かってて、わざと見つめてきますよね」
「ふふ、バレてた。色々鈍いのにそういうのは分かるんだ」
なんだか今日の先輩は意地悪だ。
今すぐ振り向いて、睨んでやりたくなる。
マスクを着けて振り向くと、先輩の顔がすぐそこにあった。
「わ、本当に目おっきいね。俺の顔が由希くんの瞳に映り込んでる」
伸びてきた手がマスクの紐に触れる。
一際大きく心臓が跳ねた。
「まだ外せないの分かってるけど、いつか顔、見せてくれる?」
手を振り解けるわけもなく、小さく頷くのが精一杯だった。
「‥‥やべー、めっちゃ気合い入った。由希くん天才だね」
「天才のハードル低すぎますよ」
「いいの。可愛い子のためなら頑張れるってこと」
「か、可愛くなんか」
僕が離れようとすると、先輩は手首を掴んで距離を取れないようにする。
「誰がなんと言おうと、由希くんは可愛いよ」
いつも通り穏やかな雰囲気なのに、瞳の奥がぎらぎらしていて背中に電流が走った。
なにこれ、知らない。
息が熱くてマスクの中に籠る。
先輩は優しいって分かってるのに、なんだかちょっぴり怖い。
まるでじっくり骨まで食べられてしまうような、そんな気がした。
「あんまそういう顔されると、俺も困るんだけど」
先輩の顔がまた耳の横に寄ってきた。
「俺以外にその顔、見せないでね」
水分量が増した声が耳の奥まで響いてこだまする。
「約束だよ」
骨ばった先輩小指に僕の小指が絡め取られ、きゅっと結ばれる。
視線が交わって、ぱっと目を逸らした。
これ以上見つめ続けたら心臓がおかしくなりそうだ。
「はは、可愛いね」
宝物を扱うように、優しく先輩が頭を撫でてくれる。
僕は今がいつまでも続いて欲しいと願って、ぎゅっと目を瞑った。
◆
昼休みのことを思い出すと、先輩が目の前にいなくても心臓が早鐘を打つ。
午後の授業は上の空で受けて、気がついたら放課後になっていた。
今週は掃除当番だったので、ゴミ捨てから帰ってくると教室の前がざわざわしていた。
人の輪の中心には宇佐美先輩がいる。
ばちっと目があって「由希くん」と呼ばれる。
周囲から「知り合いなの?」という目で見られる中、先輩に駆け寄る。
「紗倉さんってどの子?」
先輩に耳打ちされて、ちらりと紗倉さんに視線を送る。先輩は紗倉さんを見に来たんだ、と胸の中何もやもやした。
それに、背中に周りからの好奇の視線がずぶずぶ刺さって痛い。
「あ、分かった。ありがとね」
紗倉さんを認識した先輩は気が済んだようで「じゃあね」と手を振って帰っていた。
あまりの自由人ぶりに僕はぽかんと口を開けて先輩の背中が小さくなるのを見送った。
僕に紗倉さんが駆け寄ってきて「びっくりした、三好くんって宇佐美先輩と仲良いの?」と聞いてくる。
改めて仲がいいのかと聞かれると、悪くはないと思う。
でも僕たちは友達じゃないし、部活の先輩と後輩でもない。
名前のつけられない曖昧な関係なのだと、改めて自覚した。
「それが僕にも分かんなくて、逆に聞きたいんだけど宇佐美先輩と僕って仲良いのかな‥‥?」
放心状態で紗倉さんに聞くと困ったような笑みを浮かべさせてしまった。
先輩は、たまになにを考えているか分からない時がある。
その距離がもどかしくて、寂しい。
もっと先輩のことを知りたいのに、踏み込めない線引きがいくつも存在している。
なのに、甘い言葉や思いもよらない行動で僕の気持ちを翻弄してくるんだ。
移ろいやすい夏の空にみたいに、先輩は掴めない。
通り雨のように気分が変わってしまったらどうしようかと、たまに不安になる。
窓の外にはもくもくと入道雲が登っており、夏休みが近づいていた。
◆
あっという間に期末テストが終わり、夏休み直前になった。
テスト期間前後は一緒にお昼を過ごせなかったので、二週間ぶりに先輩とゆっくり会えて嬉しい。
相変わらず階段の踊り場に集合して、背中合わせでご飯を食べる。
「なんかさあ、由希くんと話すようになってから一学期あっという間だったよ」
「僕もこんなすぐ夏休みなんだって驚いてます」
小窓から夏の強い日差しが差し込み、肌に当たるとじりじりと仄かに痛む。
桜が咲く前には、まさか自分がうさたん及び宇佐美先輩と親しくなるなんて夢にも思わなかった。
毎日のメッセージも、お昼の時間もなんだか夢のようでふわふわしている。
「由希くんはもう夏休み計画の立ってる?」
「はい。今年の夏はバイトを始めようと思います」
がたん、とスマホが床に落ちた音がして肩が跳ねた。
「バイト‥‥? え、どこで。なに屋さん?」
僕みたいなぼけっとしたやつがバイトを始めることがさぞかし不安なのか、先輩の声が揺れている。
「カフェです。この前面接に行ってきました」
「カフェ? 『お帰りなさいませご主人様』とかフリフリの衣装着て言うやつじゃないよね?」
「いや、僕メイド志望じゃないので。普通に制服着て働きます」
「制服あるんだ、楽しみ。あとでお店のURL送っておいてね」
メイドカフェを否定すると、分かりやすく機嫌が良くなって先輩の声が弾む。
「えっあの、まさか来てくれるんですか?」
さらりと「楽しみ」なんて言われて、期待してしまう。
「もちろん行くに決まってるじゃん。ちなみにそこのカフェって、一枚千円くらいで店員さんと一緒にチェキ撮れたりする?」
「だからメイドカフェでもコンセプトカフェでもない普通のカフェなんですよ」
「ああ、そうだったね。すぐ願望に切り替わっちゃう。気をつけないと」
「願望‥‥?」
聞かなかったことにして「先輩は夏休み計画順調ですか?」と質問する。
「うん、なかなか忙しくなりそう。バイトもあるし、秋のコンテストに向けて結構練習入ってるんだ」
「先輩、バイトしてたんですか?」
「音楽スタジオの受付してるよ。休みの日はバイト前に練習出来たりして便利なんだよね」
「さすがバンドマンですね‥‥! かっこいいです」
「誘われたからしてるだけなんだけど、俺もしかして今日のために今まで働いてきたのかも‥‥あ、気にしないでまた本音が溢れちゃっただけだから」
お弁当を食べ終わり先輩のほうを向く。
すると自然に手が合わさって、指と指が絡み合う。
「夏休みさ、お互い忙しいかもしれないけど時間合わせて会いたいな」
「夏祭りとか、海とかですか?」
「んー別に場所はどこでもいいんだけど、由希くんに会いたいんだよね。夏の間、ちゃんと会えないのは由希くん不足だから」
きゅっと握る手に力が込められる。
熱が直に伝わってきて、顔を上げられない。
「‥‥僕も、先輩に会いたいです」
小さな声で本音を溢した。
「やった。今日の夜電話するから、どこ行きたいか一緒に考えよ」
小さな約束が増えていくたび、心の中にあるコップに幸せが溜まってゆく。
今まで、電話はしたことがない。
午後の授業も掃除の時間も、頭の片隅に通話の約束が浮かび落ち着かなかった。
家に帰って早めにご飯とお風呂を済ませて、そわそわしながらベッドの上で先輩からの連絡を待った。
八時過ぎに『電話かけてもいい?』と連絡が来て、猫のスタンプで大丈夫ですと返事する。
すぐに電話の通知音が鳴って、ぺしゃんこになったボールを潰すように深呼吸してから、電話に出た。
「由希くんこんばんは。遅くなってごめんね」
「全然大丈夫です。電話かけてくれてありがとうございます」
「‥‥なんか、電話だと声がすぐ近くで聞こえてくすぐったいね」
タオルケットを握り、僕は頬を緩ませる。
「そうですね。先輩は今お家ですか?」
「ううん、バイト終わりでまだ家着いてない。帰ってからにしようかと思ったけど、早く話したくて我慢できなかった」
「外暑くないですか?」
「昼よりは全然マシだから大丈夫だよ。あ、でもバイクとか通ってうるさかったらごめんね」
「電話出来るのが嬉しいので、気にならないです」
目の前に先輩がいないと、普段より積極的に話せる。夜に先輩と話しているという特別感が、背中を押してくれているのかもしれない。
「なんか、学校から帰って来たのにもう学校に行きたいや」
「先輩、そんなに勉強好きなんですか?」
「残念ながらはずれ。学校に行けば、由希くんに会えるでしょ」
先輩の声が耳元で響いて、甘い余韻を引きずる。
「〜〜〜っ。先輩は、ずるいです」
「ごめんね、まだまだ子供だから意地悪したくなっちゃう年頃みたい」
「僕、夏休みが嫌だなんて思ったことないんです。寧ろ学校に行かなくて済むから、救済期間というか」
「うん」
「でも、今年は初めて夏休みが嫌だなあって感じました」
「ねえ、ほんとにさあ。由希くんは無自覚かもしれないけど案外小悪魔気質だよね。はあ、もう話逸れちゃって全然なにするか決まんないや」
頬を掻いて「そうですね」と笑う。
「由希くんはなにしたい?」
「んーこういうのって昼休みに話したように、普通海とか夏祭りなんでしょうけど‥‥」
今日だけは我儘になってもいいのかな。
とくん、とくん、と鼓動は速度を上げるけど、先輩なら笑いながら「いいよ」って言ってくれる気がした。
「僕、先輩が歌ってるところみたいです。だから、一緒にカラオケ行きませんか?」
言い切ると、吐いた息が熱い。
電話越しに笑いながら、先輩が息を「ふはっ」と吐いた呼吸が聞こえた。
「カラオケいいね。行こ!」
明るい声で了承してくれて、ほっと肩の荷が降りる。
先輩とカラオケに行けるなんて夢みたいだ。
正直、海も夏祭りもその場にいる先輩が見たいけれど僕自身が耐えられない気がする。
毎日毎日照りつけてくる太陽の下、顔を晒せない僕は酷く弱虫に感じている。
劣等感の波が引いては寄せるを繰り返していた。
本当は堂々と並んで先輩と歩きたい。人目を気にせず、先輩の隣に立ちたい。
マスクが僕の行動範囲を狭め、自身を全て奪い去ってゆく。
でも、まだ僕は過去を乗り越えられなくて、ほうき星のライブに行く時しか素顔を晒せないんだ。
「由希くん?」
先輩と話していたのに、考え事をしていて意識が飛んでいた。
名前を呼ばれて、ハッとする。
「あ、ごめんなさい。僕考え事してて」
「いいよ。行く場所も決まったし、あとはメッセージで日程決めよっか」
「はい‥‥」
もっと話したいけれど、一度過去のことを思い出すと気を取られてきっと上手く話せないだろう。
残念に思いつつ電話を切ろうとしたとき、先輩がなにかを感じ取ったのかまた口を開いた。
「前にいつか顔見せてって言ったけどさ、実は俺も怖いものがあってお面を被って歌ってるんだ。幼い頃の思い出なのに、未だに俺を縛り続ける記憶があって、俺はそれが凄く嫌なの」
先輩の話を大人しく聞き続ける。
どうして急に過去の話なんてしてくれるんだろう。
「由希くんはバイトを始めたり、工夫して一緒にご飯食べてくれたりして、そういうのがなんか、うまく言えないんだけど強くなろうとしてるんだなって思って、実は憧れてた。俺も君と話していると変わりたいし、変わらなきゃって思うんだ」
真剣な声が聞こえてきて、涙を抑えながら相槌だけ返す。僕が先輩の憧れなんて、夢みたいだ。
「今すぐには変われないけど、俺も頑張るから。だから、もう少しだけ時間ちょうだいーー変われた時、君に話したいことがある」
涙は決壊寸前で止められた。
きっと、まだ泣くのは早い。
「‥‥はい、先輩が話してくれるのをずっと待ってます。でも僕も変わりたいから、その時まで頑張ります」
「やっぱり由希くんはかっこいいね。‥‥ねえ、今部屋の電気消して、外見てみて」
不思議に思いながらも電気を消して、窓から空を眺める。
「すごい、流れ星だ‥‥っ」
「今日はペルセウス座流星群が綺麗に見えるって知って、どうしても由希くんに見せたかったんだ。ま、隣で見れたら完璧だったけどね」
ああ、だめだ。今すぐ先輩に会いに行きたい。
僕も先輩の隣で、流れ星を眺めたかった。
「来年は、先輩の隣で見たいです」
夜空をかける星々を眺めながら、今伝えられる一番想いのこもった言葉を声に出す。
「はは、なにそれ。最高じゃん」
少し掠れた先輩の声に釣られ、僕もそっと微笑んだ。
「来年は一緒に見るの、約束ね」
空に向かって小指を差し出し、先輩が握ってくれたようにきゅっと曲げる。
「はい、約束です」
きっと、今年の素敵な夏になる。
そんな予感がした。
◆
夏休みに入ってすぐ始まったバイトは、個人経営のカフェスタッフだ。
基本時にシフトが入っている時は、店長の美和子さんと僕の二人でお店を回す。
主に僕がホールスタッフで、美和子さんが調理担当。
お店で出すスイーツや飲み物は全て美和子さんのオリジナルレシピらしく、常連のお客さんが多い。
店内はナチュラルな雰囲気に統一されていて、机や椅子は木で作られている。
アイボリーでこっくりとした色味の壁には、植物の写真が額縁に入って飾られていたり、フェイクグリーンも飾られている。
誰がきてもほっと落ち着ける空間を作りたかったと話す美和子さんの人柄にぴったりな、素敵なカフェだ。
正直、面接の時に事情があってマスクを外せないと伝えた時は落ちる気しかしなかったけれど、その時も美和子さんは理由をきちんと聞いてくれて、めでたく採用となった。
制服は白の開襟シャツに黒のスラックス、肩からかける焦茶色のエプロンを合わせて清潔感のある服装となっている。緩い学校の制服とは違い、きっちりとした制服を着ると気分がしゃっきりして、やる気が入る。
今後も全力でほうき星とうさたんを推すために、僕は稼がねばならない。
でも精神的にしんどい職場では、働くどころか過去の古傷が悪化してさらにマスクを外せなくなるんじゃないかと恐れていたので、このカフェで働けることになって本当に良かった。
人気店なこともあり、時間帯によっては混んだりもするけれど自分が少しずつ変われていると実感できて嬉しいと思うこともある。
僕はバイトと勉強に明け暮れ、先輩もバイトと練習で忙しいけれどメッセージだけは毎日続いている。
たまに時間が取れると電話して、その日にあったことを話すときもある。
でも、やっぱり会話を重ねれば重ねるほど先輩に会いたくなってしまう。
夏休みなのに学校に行きたいなんて思うのは初めてだ。
先輩も同じようなことを日々言っていて、聞くたびに走って駆けつけたくなる衝動を抑えていた。
カラオケはなかなか予定が合わず、八月の後半に行くことに決まった。
それまでほうき星のライブは一回あるけれど、ファンではなく僕個人として先輩と会いたいのだ。
一応カフェのURLは送ったけれど、先輩は忙しくて来れないかもと半分諦めて働いている。
今日は思ったより客数が少なく、バックヤードで備品の補充をしていると美和子さんに呼ばれた。
「三好くん、作業中ごめんね。今来たお客さんで、とんでもないイケメン二人組が三好くんのこと呼んでて、接客出れる?」
「え、とんでもないイケメンですか?」
「うん。綺麗系な子が『三好由希くんっていらっしゃいますか』って」
綺麗系。僕のことをくん呼びするイケメン。
まさかと思い、慌てて表に出る。
「宇佐美先輩‥‥! と、櫂くん‥‥?!」
「由希くん、こんにちは」
奥の席に私服姿の先輩とギターケースを持った櫂くんが向かい合って座っていた。
先輩は黒のタンクトップの上に透ける素材の白シャツを羽織っており、胸元には華奢なシルバーネックレスを合わせている。
ライブでもないのに髪の毛を一つに縛っていて、美しい首元からしっかりとした鎖骨まであらわになっていた。
少々露出しすぎな気もして、どきどきしてしまう。
櫂くんはネイビーの開襟シャツを着ていて、二人ともきらきらしたオーラに包まれている。
眩しすぎるため目を細めると、櫂くんに話しかけられた。
「あれ、俺のことも知ってるんだ」
まずい。ほうき星のライブには一回しか行っていない設定だ。
いきなり『櫂くん』などと呼んで馴れ馴れしすぎた。慌てて顔を青ざめる。
助け舟を求めて宇佐美先輩に視線を送ると、察してくれたのかフォローしてくれた。
「この前、ライブ来てもらったもんね」
「ああ、だから知ってるのか。てっきりファンかと思った」
ファンという単語に心臓が跳ねる。
マスクをしているのにも関わらず、必死に作り笑いを浮かべてメニューを差し出した。
「今日のおすすめはトロピカルパンケーキとスイカパフェですが、お二人はどうされますか?」
「やばい、接客モードの由希くん初々しくて可愛い。動画撮っていい?」
「痛客やめろ。せっかくだから俺はおすすめのスイカパフェにしようかな。彗はどうすんの」
彗という呼び方に、胸の奥が焦げるような違和感が走る。
「俺も由希くんがおすすめしてくれたトロピカルパンケーキにする」
「かしこまりました」
伝票を書き写していると、櫂くんの視線が刺さって思わず顔を上げる。
きりっとした瞳で眼圧の強い櫂くんに見つめられると胃がきりきり痛む。
「てかさあ、君ってーー」
「櫂」
なにか話そうとした櫂くんを、先輩がきつく睨む。
「由希くん、気にしないで」
先輩はにっこり微笑んでくれたけど、明確に線引きをされた気がする。
僕の知らない二人だけの話があるんだと、疎外感に苛まれた。
軽く会釈をしてカウンター内に戻る。
厨房にいる美和子さんにメニューを伝えて、出来上がるまで洗った食器を拭きながら先輩たちにチラチラと視線を送った。
二人は真剣な表情をして話しているかと思えば、時折微笑んで端から見ても仲の良さが伝わってくる。
来てくれて嬉しいのに、もやもやが止まらない。
櫂くんと話す先輩は、僕の前よりラフでよく笑う。
ダスターを持つ手に自然と力が入ってしまった。
「三好くん、オーダーの品出来たから配膳お願いね」
「はい」
若干緊張しながら先輩たちの卓へ持っていく。
宇佐美先輩があまりにもじっくり見てくるから、手が震えてしまった。
「俺のために、由希くんが持ってきてくれたんだね‥‥! 感動」
「いや俺のも運んでくれてっから。由希くんありがとうね」
「いえ、ではごゆっくりお過ごしくださいませ」
会釈して下がろうとすると櫂くんに腕を掴まれる。
「由希くんって休憩ないの? 奢るから時間あるなら一緒にお茶しようよ」
「え?」
にっこりと櫂くんは笑っているけど、有無を言わせない圧を感じる。
「櫂、由希くんの仕事の邪魔すんなよ」
「散々じろじろ見てるお前にだけは言われたくない、クソ痛客め。彗から話聞いてて前々から話したいと思ってたんだよ、だめ?」
「いや、でも‥‥」
ちらりと美和子さんに視線と送ると、笑顔でグッジョブのポーズを取っている。
「今お客さん少ないし、由希くん休憩取っていいよ!」
「お、ラッキー。じゃあ由希くん、俺の隣座りなよ」
「は?! なんでお前の隣なんだよ、普通俺の隣だろ」
「彗はいつも由希くん独占してるだろ。俺も仲良くなりてえの」
「はぁぁあ? なんで櫂が由希くんと仲良くなる必要あんだよ」
猛獣のように鋭い目つきで、宇佐美先輩が櫂くんを睨むけれど本人は全く気にしていない。
「由希くんなに飲む?」
メニュー表を差し出した櫂くんに聞かれる。
「えっと、じゃあアイスティーにします。でも、奢りは申し訳ないので大丈夫です」
「いいの、後輩なんだから先輩に甘えときな。すみません、アイスティーを一つお願いします」
美和子さんに注文してくれた櫂くんの横に座らされる。
目の前には宇佐美先輩がいて、横には櫂くんがいて。
ほうき星のファンとしては震えてしまう絵面に、脳が思考停止する。
なに、この豪華なメンツ。
絶対にファンであることは明かせない緊張感に襲われた。
アイスティーを届けてくれた美和子さんは、なぜか僕に向かってウインクしてきた。
「すみません、ご馳走様です」
「ん、どうぞ」
一瞬だけマスクを下げて、ひとくち飲むとまた上にあげる。
「すげえ徹底して顔隠してんね。逆に意地でも見たくなってくるわ」
「絶対由希くんに手出すなよ」
「はいはい。由希くんもうるさいセコムがいて大変だね。彗ってさ極端だからめんどくさいときとかあるでしょ。あと意外と子供っぽいし」
「いえ、特にそう感じることはないです」
「まじか。相当猫被ってんだなお前」
不機嫌にパンケーキを食べる先輩は、明らかに余計なことを言うなと言わんばかりの高圧的な表情をしている。
「お前らと由希くんへの対応が一緒なわけないだろ」
「由希くん見ろ。こいつの本性だ。一見優しそうな雰囲気に騙されるな」
「‥‥櫂、後で覚えてろよ」
軽快なにやり取りに「ふはっ」と笑いが込み上げてきた。
「先輩たち、仲良いんですね」
「由希くんがそう思うなら仲良いかも」
「おいこら、脳みそ溶け男黙れ。まあでも、なるほどな」
肘に手をついて、櫂くんが顔をまじまじ覗き込んでくる。
「正直、彗の話は半信半疑だったけど俺も確信したわ」
「へ?」
「由希くん可愛いなって思ったってこと。あと、ここすげえ雰囲気いいし、通おうかな」
「あ? 櫂じゃなくて俺が通う」
先輩が僕と櫂くんの間の隙間でぶんぶん手を振って、距離を取らせようとする。
「いやいや、先輩たちコンテストの練習でお忙しいんですよね?!」
「それなりに忙しいけど、彗の悔しそうな顔見るためなら何度でも来るよ」
「性悪め、由希くんに近づくな!」
「残念でしたあ、隣に座ってるので肩も抱けまーす。由希くん一緒に写真撮ろうよ」
「えっいいんですか?」
「もちろん。彗、俺のスマホ渡すからそっちから写真撮って」
「絶対嫌ですけど? お前が俺と由希くんの写真撮れよ」
先輩と櫂くんが言い争っていると美和子さんがカウンター内から「私撮るよ!」と手を上げて、結局僕を真ん中に三人で撮ることになった。
「櫂、由希くんに近寄りすぎんなよ」
「うるせえ限界セコム。余計なこと言わず笑ってろ」
両サイドからはまだ小競り合いの声が聞こえるけれど、せめて目だけは見えるように前髪を分けて笑顔を浮かべた。
「それじゃあ撮るよ〜! はい、チーズ!」
櫂くんのスマホで撮った写真を連絡先交換と共に送ってもらい、すぐお気に入りにした。
「由希くんと写真撮れたから、この後の練習めっちゃ頑張れそう。ありがとね」
先輩も隣でなにやらスマホの操作をしながら、にこにこしている。
「見て〜、由希くんと俺の写真待ち受けにした!」
「はっ?! 俺見切れてんじゃん!」
先輩は画面に入り切らない櫂くんを容赦なく見切り、僕と先輩の二人で撮ったかのように待ち受け画像に設定した。
櫂くんが先輩を子供っぽいと言った理由が分かった気がする。
二人にバレないようにそっと嬉しさを噛み締めて、そろそろ休憩が終わるので立ち上がった。
「俺らも出ないとスタジオ練遅れるわ」
「くそ〜、あと二時間ここにいたい」
「お前がいないと練習になんねんだよ。駄々こねてないで行くぞ我儘歌姫」
「げぇ、お前に歌姫とか言われても微塵も嬉しくない」
がやがや騒ぎながらも、先輩たちは立ち上がって会計を済ませる。
「櫂くんご馳走様でした」
「ん、いいよ。またライブ来てね」
くしゃりと櫂くんが僕の頭を優しく撫でた。
「櫂てめえ! 由希くんに触んなっ!」
「あんなんだけど、彗のことよろしくなーー困ったことがあったら相談してね」
後半だけ僕にしか聞こえないように、櫂くんは耳元で囁いた。
先輩と関わるうえで困ることなんてないような気がするけれど、櫂くんなりの優しさだと思って素直に受け取る。
「由希くんまたね」
先輩も櫂くんの後に頭を撫でてから、二人はお店を後にした。
「三好くんには素敵な先輩がいるんだね」
食器を洗っていると、嬉しそうに美和子さんに言われた。
「はい」
少しくすぐったくて、はにかんで返事をした。
◆
先輩は有言実行で、週に一回くらいのペースでカフェに来てくれた。
一人の時もあれば、一度ほうき星のメンバー全員と来てくれたこともあって、その時は流石に配膳する手が震えた。
豪華メンバーを前にカチコチに緊張した僕を、初対面のベース担当那由多くんとドラム担当の大地くんが心配してくれて、櫂くんと先輩はまたわちゃわちゃ言い争っていた。
忙しくも充実した夏休みは気がついたら後半に突入していて、今日は先輩とカラオケに行く日だ。
集合は十三時なのに、八時には目が覚めてしまった。
ゆっくり服を悩んで、白地に紺のラインが入ったポロシャツと明るい水色のデニムを合わせた。
足元も水色のスニーカーで合わせ、もちろんマスクは忘れない。でも前髪は片方に流して、目が見えるように勇気を出した。
水色と白のビーズで作られた小ぶりなイヤリングをして、肩から黒のショルダーバッグをかける。
暑いので日傘をさして待ち合わせ場所に向かうと、もう先輩は到着していた。
駅前の時計塔は待ち合わせの定番スポットで、人通りも多い。
先輩のことを通りかかる人たちはみんなちらちらと見て、中にはこそこそ話す人もいる。
でも、僕はそんな周囲の反応に納得した。
今日の先輩はビジュアルが爆発している。
緩いハーフアップは大人っぽいし、固定するためにシルバーのペアピンをランダムに付けているのもお洒落だ。
耳と首元にはよく見るピアスとネックレスをつけていて、今日は薄い布の素材の大ぶりなチェックシャツを羽織っている。
緩く着こなしているため、白いタンクトップとシャツの隙間から肩がはだけている。
太めの白いパンツも涼しげな黒い格子状のサンダルも先輩が着用すると洗練された雰囲気になり、とてもお洒落だ。
肩から似ているような黒い小ぶりなショルダーバッグをかけているのに、僕とは全く雰囲気が違う。
先輩の隣に並んだら、中学生と見間違われそうで不安になった。
先輩は有線の白いイヤフォンで音楽を聴きながら待っていて、周囲の視線に気がついていない。
僕が目の前まで行くと、ぱっと花が咲いたように笑った。
「おはよう。私服めっちゃ可愛いね」
「お待たせしてすみません。先輩は‥‥すごくかっこよくて、学校の時より緊張します」
「由希くんにかっこいいって思ってもらえるよう、お洒落してきた甲斐があったわ。後で一緒に写真撮ろうね」
歩き出した先輩の一歩後ろを歩く。
先輩は僕の歩くスピードに合わせて、歩く速度を緩めた。
「俺の隣、緊張する?」
「本音を言うと、少しだけします」
視線が先輩に集まって、僕が隣にいてもいいのかなってつい考えてしまう。
「そっかあ、じゃあいいこと教えてあげる。俺はね、どんなに人がたくさんいても由希くんのことしか見えてないから安心して。で、由希くんも俺のことだけ考えて」
ーーそしたら、周りの視線なんてどうでもいいでしょ?
照りつける太陽にも負けない笑顔で先輩は自信満々に言う。
先輩の明るさに引っ張られて、丸まっていた背中が伸びる。
カラオケまで少し歩いたはずなのに、先輩と話していると気がついたら店の目の前まで来ていた。
受付は先輩がしてくれた。
ドリンクバーで僕はメロンソーダ、先輩はウーロン茶をコップに入れて部屋に入る。
とても狭い部屋で二人分の座るスペースと目の前に大きなモニターがあった。
「狭い部屋とか今まで嫌だったけど、今日は悪くないね」
上機嫌の先輩が、ぽんと隣に座るよう椅子を軽く叩く。
「失礼します‥‥!」
「はは、なにそれ。俺のファンみたい」
時折先輩は全て知っているんじゃないかと思うような発言をする。
今も意地悪な顔でにやにやしている。
平常心を装って座った。
「先に由希くん歌う?」
「いえ、僕は今日先輩の歌を聞きに来たので」
さっと受付で借りたタンバリンを取り出すと、先輩は破顔した。
「ちょ、それ本当に使うつもりだったんだ」
「カラオケとかあんまり来たことないですけど、盛り上げる方法調べてきたので任せてください」
「キメ顔やめて。面白すぎて歌ってるとき笑っちゃうから」
ひとしきり笑った後に「リクエストある?」と聞いてくれた。
本当はほうき星メドレーを頼みたいけど、登録されていないので流行りの曲を何曲か選んでリクエストする。
「お、由希くんもレオニズ聴くんだ」
その中のレオニズというバンドの曲に、先輩が反応する。
実はいつかのMCで最近ハマっている曲の話題が出た時に、うさたんが『レオニズ』という邦ロックのバンドを聴いていてると知って僕も聴くようになった。
うさたんが紹介していた曲以外も聴くくらいハマり、ほうき星以外ならレオニズのライブに行きたいと思うほど今ではお気に入りのバンドだ。
「歌詞とメロディの爽やかさが好きなんです」
「めっちゃ共感。俺、実はレオニズのボーカルに憧れてバンド始めたんだよね」
「そうなんですか?!」
「そうなんです。歌は昔からよく歌ってたけど、バンド始めるきっかけはレオニズなの。これ、あんま外に出してない極秘情報ね」
人差し指を立てて「内緒だよ」と先輩は悪戯に笑った。
「じゃあ最初はリクエストしてくれたレオニズの曲にしようかな」
慣れた手つきで曲を入れて、マイクを持つ。
狭いカラオケの一室にいるのに、先輩の雰囲気が変わってまるで至近距離でうさたんの一人ライブを眺めているような気分になった。
近くにいる分息の音が聞こえて、表情もお面をしていないからはっきりと見える。
先輩は時折こちらをちらちらと見ながら、いつもより少し掠れた声で歌った。
僕はタンバリンを振る暇もなく、先輩の歌に耳と目を奪われて聴き入ってしまう。
薄暗い部屋の中と先輩を、画面が切り替わるたび灯りが忙しなく照らして眩しい。
目の前で起こっている現実なのに、夢の中にいるような不思議な気持ちになる。
今、僕は先輩の歌を独り占めしている。
その事実が体に染み渡り、涙となって迫り上がってきた。
泣いてしまったら感動したと誤魔化しても大袈裟に捉えられてしまうだろう。
必死に涙を抑えながら、先輩の歌を聴いた。
一曲歌い終わると、先輩が先ほどより距離を詰めた。
二曲目、三曲目と歌い続ける。
五曲目を終えると先輩は休憩と言って、ウーロン茶に口をつけた。
僕は放心状態で、無意識に先輩の口元の黒子を目で追った。
ことりとコップを机の上に置くと、黒いソファが軋んだ音がして、先輩の顔が近づく。
両手でそっと僕の顔を包み、瞳を覗き込んできた。
「すごいね、黒目が大きいから画面の光を反射して目の中に星が入ってるみたい」
「せ、先輩‥‥」
「由希くんはいつも、きらきらした目で俺のこと見てるよね」
「いつも」という言葉に違和感がある。
先輩はなにを隠しているんだろう。
既にヒントは散りばめられている気がするのに、答えには全く辿り着けない。
「由希くんの瞳が俺にとって特別なんだって、君は知らないでしょ」
ぱ、と離れて、宇佐美先輩は少し下手くそな笑顔を浮かべる。
今なにも言わなかったら、先輩との距離は縮まらないままだと咄嗟に感じた。
先輩に時折漂う寂しさの正体はなんだろう。
僕が先輩に言えることなんて、少ししかないけれど。
でも、それでも。
先輩には、笑っていて欲しい。
恐る恐る手を伸ばして、先輩の服の裾を引く。
「僕にとって先輩が特別だってことも、知ってください」
「‥‥これからすることは、今日が終わったら忘れてね」
先輩の長い睫毛に囲まれた瞳と視線が交差する。
彼がそっと瞳を閉じたのに合わせて僕も目を瞑った。
マスク越しに、先輩が頬にキスを落とした。
「ごめん、ずっと我慢しなきゃって思ってるのに、どうしても我慢出来なかった」
「‥‥大丈夫です。だって、今日が終わったら忘れるから」
僕も先輩の頬に、マスクをしたままそっとキスをした。
宇佐美先輩は僕の手首を優しく掴んで、そのまま手を握る。
「これは、出来上がるまで話さないようにしようと思ってたんだけどさ」
どくん、どくん、と心臓が大きく波打って耳障りだ。
「俺、今曲を作ってるんだ。流星群以来の作詞作曲だから全然上手くいかないんだけど、また向き合ってみようかなって思って。由希くん、作ってる曲が形になったら今度うちに来てよ。感想聞かせて」
頭が、真っ白になった。
僕はほうき星が大好きで、ほうき星のライブに行くことが生き甲斐だ。
でも、ライブより先に新曲を聴いてしまったら踏み込んじゃいけない領域の一線を超えてしまう気がした。
気持ちの悪い汗がたらりと背中を伝った。
僕なんかがほうき星の、それどころかうさたんが作る記念すべき二曲目をファンのみんなより先に聞いていいのだろうか。
僕だって、ずっとそちら側なのに。
僕だけが幸せになるようで、怖い。
すっと頭が冷えて足元が急にぐらぐら崩れていく気がした。
先輩はまだ、僕がほうき星のファンだと知らない。多分恐らく、きっと、知らない。
だからまだ引き返せる。
このまま眩い星を眺める側として生きていける。
そう、思うのに。
ーーどうして僕は、すぐに断れないんだろう。
ずっと知らないふりをしてきた感情がむくむく芽を出して、成長は止まることを知らない。
考えたくなかった。知りたくなかった。
先輩と話せるだけで奇跡で、うさたんとは別人だと割り切りたかった。
でも、もう無理だ。苦しい、認めてしまいたい。
夏が僕を急かして、狭いこの空間が欲張りにする。
「先輩の作る歌、聴きたいです」
神様、僕はいつか地獄に堕ちてしまうのでしょうか。
まるで、存在を否定されたあの日のように。
「ありがとう。由希くんに聞いてもらえるって思ったら、すげえやる気出た。頑張るね」
もしそうなら、いつか堕ちるその日まで、まだこのまま砂糖菓子のように甘い夢を見続けさせてください。
僕は、夢の中に浸っていたい。
先輩と関わるたびに、底なしの沼にゆっくりと落ちていくような気分になる。
彼の甘い笑顔が、僕の思考を奪ってなにも考えられなくなるのだ。
先輩以外、優先するものなんてない。
ああ、どうしようもなく不織布一枚がもどかしい。
「次はなにが聴きたい?」
僕はいつまで自分を隠し通せるんだろう。
きっと限界は、すぐそこまで迫っている。
先輩の笑顔を独り占めしたいだなんて、救いようのない願いだ。
◆
僕は数曲しか歌わず、ほとんど先輩に歌ってもらって店を出た。
すっかり外が暗くなっていて、夏の夜のぬるい風が僕たちの頬を撫でた。
駅まで遠回りして、河川敷を話しながら歩く。
「次は会えるのはニ学期かな」
「ですね。でも先輩はすぐ修学旅行に行っちゃいますよね」
「そうなんだよねえ。由希くんと同じ学年だったら良かったのに。ていうか同じクラスが良かった。そしたら俺、意地でも修学旅行の班一緒になるよ」
「絶対楽しいですね。沖縄でしたっけ、宇佐美先輩は海も似合いそうですし、水族館も似合いそうです」
「ああ。水族館、ね」
先輩の表情に憂いが滲む。
「俺さ、好きな人と水族館に行くのが夢なんだよね。子供っぽいでしょ」
はっきり「好きな人」という言葉が出て、思わず顔が引き攣った。
先輩は誰か好きな人がいるんだろうか。
「そう、なんですね。全然子供っぽくないと思いますし、素敵です」
「ありがと。俺の母さんと父さんが唯一デートした場所なんだって。だから昔から憧れてたんだ。なんかこう、幸せの場所、みたいなイメージがあんの。俺の中だとね」
風が先輩の髪を撫でて、あまり表情が見えない。
決して後ろ向きな話題じゃないのに、どうして先輩は酷く悲しそうに見えるんだろう。
「‥‥正直、今は水族館行きたくないんだよね。なんか楽しめる気しないというか、色々考えちゃいそうで怖いんだ」
「修学旅行前ナイーブとかあるのかな?」と無理して先輩が笑うから、居ても立っても居られなくて、思わず僕は後ろから先輩に抱きついた。
驚いた先輩が振り返ろうとする。
「絶対に、振り向かないでください」
ぴたりと先輩の動きが止まる。
「僕、あんまり面白いこと言えないですけど、話を聞くことならいくらでも出来るので、もし何か嫌なことがあったら電話してください」
どん底まで気持ちが落ちていた時、先輩の歌が僕を救ってくれた。
だから少しでも、先輩の気持ちが軽くなるなら僕は何時だって電話に出る。
沖縄には会いにいけなくても、先輩のことを想っている。
僕に出来ることはなんだってしたい。
先輩が、僕を求めてくれるのなら。
「‥‥由希くんってさ、俺と話してても絶対顔の話しないよね。なんでなのかなって思ってたんだけど、今聞いてもいい?」
斜め上からの質問が飛んできて、咄嗟に答えられない。
先輩の顔が綺麗だと思うのは、夜空を照らす星々を美しいと思うのと同じくらい当たり前で。
だから、つまり。
「えっと綺麗とか思うのが当たり前すぎて、わざわざ話題に出しませんでした‥‥」
全くオブラートに包まず、剥き出しで伝える。
先輩の体がぷるぷる震えて、やがて「ぶはっ」と息を吹き出した。
「由希くんて俺の顔、綺麗だと思ってたんだ。興味ないのかなってずっと勘違いしてたよ」
「え、いや! 先輩の顔を綺麗だって思わない人っているんですか?」
「あはは、やめて、お腹痛い!‥‥はあ‥‥分かんないけど、そんなみんなが綺麗だって思うとは限らないよ。嫌いだって面と向かって言われたこともあるしね」
さっきまで笑っていたのに、また先輩を青が包む。
衝撃だった。先輩の顔を面と向かって嫌いだなんて言える相手は、さそがし顔の造形が整っているんだろう。
もしくは先輩の美しさに嫉妬したんだろうか、と色々勘繰ってしまう。
「ぶっちゃけ、俺はこの顔で生きてきて得してきたことのほうが多いと思う。でも、嫌なこともたくさんあった。物を勝手に盗まれたり、あることないこと勝手に噂されて反感買ったり。俺は、自分の顔を父さんにかけられた呪いだと思ってんだよね」
呪い。その言葉の重さにぎゅっとつままれたみたいに心が痛む。
「で、呪いを和らげてくれるのがこのキーホルダー」
先輩は、パンツのポケットから鍵と一緒についているうさぎのキーホルダーを取り出した。
僕が拾ったそれは相変わらずぼろぼろで、でもだからこそ大切な物なのだと伝わってくる。
「俺、これだけはどうしても失くしたくないし、誰にも触らせたくないんだ。自分にとって一番大切で、かけがえのない宝物でさ。だから由希くんが拾っても盗まないでくれて、本当に心から感謝してるのね」
振り向いた先輩が頬を手で包み、額を僕のおでこにこつんと合わせた。
「‥‥沖縄からも、電話するね。由希くんを連れて行けるのが一番だけど、そうもいかないからビデオ通話がいいな」
「慣れてないから下手くそかもしれないですけど、頑張ります」
「ふふ、いいよ慣れなくて。だから、俺とだけして」
「先輩以外とする予定なんてありません」
僕が答えると、先輩は僕を長い腕の中に閉じ込めて「由希くんには敵わないなあ」とまた笑った。
「抱きしめたことも、今日が終わったら忘れてね」
返事をしたくなかったけれど僕はぐっとその気持ちを飲み込んで「はい」と答えた。
本当は忘れたくない。
頬にキスをされたことも、抱きしめられたことも忘れられるはずがない。
だけど、先輩が忘れてねって言うのなら僕は必死に忘れた振りをするだろう。
「まだ弱虫で、ごめん」
先輩があんまりにも切なそうに謝るから、僕は黙って先輩の背中に手を回すしかなかった。
先輩にバレないよう、そっと一筋の涙を流す。
神様、苦しいよ。
先輩が悲しそうにしていて苦しい。
自分の気持ちを正直に話せなくて苦しい。
自分に自信が無くて、苦しい。
僕だって、先輩の抱えている辛さを半分背負える強さが欲しい。
でも、顔を隠している間はずっと弱虫のままなんだ。
今まで生きてきた中で、一番強くなりたいと思った。
夏が終わって秋になれば、僕は少しでも強くなれるのかな。
ーーどうしたら僕は変われるんだろう。
先輩の腕の中で、そっと目を閉じた。
◆
夏休み明け、二年生はすぐ沖縄に行ってしまった。今日は修学旅行二日目だ。
校舎の中に先輩がいないと思うと、ぽっかり心の中に穴が空いてしまったように寂しい。
気がつくと溜息が溢れていて、紗倉さんに指摘された。
「三好くんまた溜息吐いてるよ。なにかあった?」
自然と彼女は僕の前の席に腰掛け、話を聞いてくれようとする。
とはいえ、先輩がいないから寂しいなどと真実を伝えられるはずもなく「夏休みが終わって悲しいんだよね」と適当に答えた。
「分かる〜。もう一回やり直したいよね」
「紗倉さんは充実してそうだもんね」
「ええ、その言い方だと三好くんは充実してなかったみたい。溜息溢すくらい夏休みが恋しいんでしょ?」
戻って欲しいかと言われると、確かに学校外で先輩と会える機会が多かったのは嬉しかった。
でも、自分自身の弱さも痛感してしまって戻りたくはないかもしれない。
数秒前に真っ赤な嘘をついてしまったことを、素直に謝った。
「ごめん、やっぱり夏休みは終わって良かったかも」
「なにそれ、三好くん気難しいね」
特に気にする様子もなく、紗倉さんはからりと笑った。
「ていうか、秋はコンテストに出る影響なのかほうき星ライブないじゃん! そっちのほうが私はショックだよ〜」
「あっ、そう言われると確かに‥‥!」
「コンテストは頑張って欲しいけど、ライブもして欲しい! ファンとしては応援しなきゃって思うのに、全くないと寂しいのが本音だよね」
正直紗倉さんの意見に同意すぎて、首を大きく縦に振る。
コンテストは一般客も入れるらしいけど、正直行くか迷っていた。
優勝は、ほうき星にとって大切なメジャーデビューへの一歩だ。
優勝チームしたチームには、冬の前に行われる野外フェスの参加権が与えられる。
本人たちにデビューしたいという意思が確実にあるかどうかは定かではないけれど、参加するということはもっと活躍の場を広げたいという気持ちはあるんだと思う。
もし優勝したら、僕は素直に喜べるのか不安だった。
ほうき星は本当に才能に溢れているバンドでセンスも光っている。だからこそ、一度注目を集めればたちまち人気に火が着くだろう。
それこそ先輩がお面を外せば、大きな話題になるのは間違いない。
視覚は五感の中でも特に大きな情報源だ。
たとえ意識したくなくても、先輩の麗しいビジュアルは確実に目を引くに違いない。
ほうき星が、そしてうさたんが今より人気になることは遠くへ行ってしまいそうで怖かった。
忙しくなれば、先輩は僕を忘れてしまうんじゃないかと後ろ向きな考えになってしまう。
「そうだよね。応援しなきゃ、だよね」
紗倉さんは下を向いた僕を不思議そうに見つめた。少し視線を泳がせた後、彼女は意を決した顔で僕のほうを向いた。
「‥‥前からずっと聞き入れたかったんだけど、三好くんって好きな人いる?」
心臓が大きく跳ねる。
好きな人。
刹那、頭にはたった一人の顔が浮かんだ。
夜空をかける、尾を引く星のような彼の顔だ。
「急にごめんね。ま、前にも話したと思うんだけど、三好くんって女子から人気でさ。でもミステリアスっていうか、全然自分のこと話さないから気になってる子も多いんだ。あの、でも、答えたくなかったら、大丈夫だからーー」
「いるよ、好きな人」
紗倉さんの柔らかい声を切り裂く、鋭い声。
自分でも思ったより大きな声量で驚いた。
ああ、そうか。
僕、好きな人がいるんだ。
声に出してようやく認められた。
「そっか。三好くん、好きな人いるんだ」
一瞬気まずそうに眉を下げた紗倉さんだけど、きりっと表情を戻した。
「それだけでも、知れてよかった。ありがとう」
立ち上がった彼女の髪が揺れる。
「コンテスト、ほうき星の応援行こうね」
きょとんとして、数回瞬きしてから僕は笑った。
「うん、一緒に行こう」
紗倉さんの力強い声に、迷いが一瞬で断ち切れた。
あのライブの日、彼女が僕を見つけてくれて心から良かったと思う。
僕一人じゃ、きっとコンテストには行けなかった。
「紗倉さん、ありがとう」
何気ない質問も、コンテストの誘いも、そして僕を見つけて声をかけてくれたことも。
今までのこと全部を込めて、ありがとうと伝えた。
ほうき星のことを打ち明けられる紗倉さんと、ちゃんと友達になりたい。
前髪を分けて、きちんと視線を合わせる。
ぽっと頬を桃色に染めた彼女は、はにかんで自分の席に戻った。
ポケットの中に入れていたスマホが震えて、もうすぐ授業が始まりそうだけど急いでメッセージを確認した。
『今日の夜、八時くらいに電話かけてもいい?』
ーー三好くんって、好きな人いる?
好きだと自覚すると、メッセージ一つで心が満たされて舞い上がってしまうらしい。
マスクをしていて良かった。
きっと今の僕は、口元がにやけてしまってとても人に見せられる顔じゃない。
『はい、楽しみです』
すぐに返信して、スマホをポケットの中にしまった。
顔が熱い。なんなら耳まで熱い。
心臓が早く動きすぎて、息だって苦しい。
先輩の声が聞きたくて、たまらない。
◆
ビデオ通話ということは、もちろん顔も映るわけで。僕はお風呂を上がって髪を乾かし、化粧水で保湿した肌にまた新しいマスクを身につけて先輩からの連絡を待つ。
ベッドの上で寝転がりながら、夏休みに先輩と撮った写真を眺める。耳にはワイヤレスイヤホンをして、サブスクでほうき星の曲を再生する。
途中でチャチャが部屋に入ってきて、僕の隣に寝転がった。
「チャチャ、先輩のこと好きになっちゃったよお」
気持ち良さげに寝ているチャチャの背中に顔を埋めると、やめろの代わりに「にゃあ」とチャチャは短く鳴いた。
どうやら僕の話を聞いてくれる気はないらしい。
僕は溜息をついてからまたスマホを眺める。
すると、画面に先輩からのメッセージが表示された。
『遅くなってごめん、今大丈夫?』
八時を少し過ぎた頃で、謝るほど遅れてはいない。
律儀だなあと思いつつ『大丈夫です』と返事をした。
『ありがとう。かけるね』
すぐに先輩からの着信が画面に表示されて、軽く髪を直してから通話ボタンをタップする。
パッと画面が切り替わり、先輩の顔が映った。
「わ、部屋着の由希くんだ」
「先輩は体操着なんですね」
「そ。買ったTシャツ着ようと思ったんだけど、早く電話したくて着替えるのやめた」
先輩は白地に黒の糸で宇佐美と刺繍された半袖と紺色の長ズボンに白のラインが入った体操着を着ていてる。
半袖を着ていることで、先輩の白い肌がいつもより多く露出されていてドキドキする。
意外と着痩せするタイプのようで、細いながらもしっかりと筋肉がついているらしい。
「由希くんは、どんな一日だった?」
有線の白いイヤホンをしながら先輩はベッドに腰掛けている。
部屋には他の人がいないのか、自由にくつろいでいるように見えた。
今日のことを思い出し、また顔が熱くなってきた。
「今日は、特に普通の一日で‥‥あ、でも紗倉さんと先輩たちが出るコンテストの応援に行こうって約束しました」
「噂の紗倉さんね。ふうん、仲良いんだ」
「クラスメイトの中では仲がいいほうだと思います」
「あーあーいいなあ。沖縄来てんのに、同じクラスのほうが羨ましくなってる俺の気持ち分かる? 海も星もすっげえ綺麗だけど、今すぐ帰って由希くんとクラスメイトになれるならそっちのほうがいいや」
背中の後ろに置いてたクッションを前に持ってきて、先輩は不貞腐れたように顔を埋めている。
さらさらの髪が崩れて、櫛で梳かしてあげたい衝動に駆られる。
「先輩は今日なにしたんですか?」
宥めるように、ありったけの優しさを込めた声で聞いた。
「今日はね琉球ガラスのコップ作って、それで‥‥水族館に、行ってきたよ。でも館内にはあんまりいられなくて、外で海眺めてた。後で海の写真送るね。吸い込まれるみたいに青くて綺麗だったんだ」
「そうだったんですね。写真楽しみです」
「そうだ、星! ベランダに出たら画面に映るかな」
先輩はベッドから降りて部屋の電気を消した。
引き戸を開ける音がして、画面が外カメラの映像に切り替わる。
画面いっぱいに満点の星空が映った。
「わ‥‥!」
さすが最新のスマホだ。細かい光までしっかり映り、まるで僕も沖縄にいるような気分になった。
僕も部屋の明かりを落として、画面を眺める。
「すげえ綺麗だよね。昨日の夜初めて見て、由希くんに絶対見せたいって思ったんだ」
沖縄にいても僕のことを考えてくれているだと思うと、きゅううっと胸が締め付けられる。
一度好きだと自覚すると、どんどん膨らんで止められない。
「俺ね、決めたことがあるんだ」
相変わらず画面には星空が映っていて、先輩の声だけ聞こえてくる。
「さっきコンテスト来てくれるって言ってたじゃん。俺も由希くんのこと、誘おうかと思ってたけど実はずっと悩んでたんだ」
悩んでいたということは、少なからず僕に来て欲しくないという気持ちがあったということだ。
慌てて僕は「行かないほうがいいですか?」と聞いてしまった。
「いや、来て欲しい。寧ろ由希くんだけは、絶対観にきてーー俺、決めたから。もう過去に怯えるのは、やめるって」
急に画面が切り替わり、僕は慌てて顔を隠す。
「なんで顔隠すの、見せてよ」
「だめです。今だけは、絶対だめ」
だって、今見られたら瞳の淵に涙が溜まっていることが先輩にバレてしまう。
「由希くん、コンテストが終わったら新曲聞きに来てね。約束」
ぐいっと涙をタオルケットで拭って、僕は画面に向かって小指を差し出した。
「はい、約束です」
先輩が過去を乗り越えて変わろうとしている。
置いていかれないように、僕も必死に着いていきたい。
僕にとっての宇佐美先輩は夜空を照らす、『ほうき星』だから。
先輩も眉を下げて、静かに口角をあげた。
骨ばった小指を画面に映して、小さく曲げる。
「うん、約束」
今僕たちがいる場所はとても遠く離れているけれど、心は一つだ。
「うわ! 部屋暗えっ。宇佐美なんで電気消してんの?!」
扉が開く音がして、賑やかな声が聞こえてきた。
「やば、同室のやつらが帰ってきた。ごめん、切るね」
「はい、おやすみなさい」
「ん、おやすみ」
先輩が微笑んだ映像を最後に、ブツっと電話が切れて通話終了の画面が表示される。
ツー、ツー、と虚しい電子音が響き、電気をつけるとそのままベッドに倒れ込んだ。
胸の上にスマホを置いて天井を見つめていると、チャチャがお腹の上に乗ってくる。
「うっ、チャチャ、もっと優しく乗ってよお」
チャチャは僕のことなど気にせず、丸くなって満足げに目を閉じた。
彼女を撫でながら、先輩との会話を思い出す。
先輩の声がまだ耳に残っている。
きっと今頃同室のクラスメイトと、僕と話していた様子とは全く違う雰囲気で楽しんでいるんだろうな。
先輩は僕を前にすると、元々垂れ目の瞳がさらに優しく細まる。
僕は先輩の優しさに甘えてばかりで、過去から逃げていた。
だけど、もう変わらなきゃ。
チャチャを撫でていた手でマスクを外す。
そっと彼女を下ろして、折りたたみ式の鏡を開けて、自分の顔を見つめた。
「先輩は、僕の顔を見ても気持ち悪いって思わないかな‥‥」
今でもありありと思い出せる過去の記憶が、未だに僕の心臓を簡単に捻り潰そうとしてくる。
でももう、負けたくない。
僕も、決めた。
きつく拳を握って、深く息を吐く。
僕は、コンテストの日に弱虫を卒業する。
スマホを手に取って、紗倉さんのアカウントを選んでメッセージを打ち込む。
『コンテストの日、話したいことがあるんだ』
すぐに既読はつかない。
僕はスマホの電源を落として、部屋の明かりをまた消した。
◆
修学旅行から帰ってきた先輩は、約束していなかったのにお土産を買ってきてくれた。
定番の紅芋タルトやちんすこうだけでなく、水族館で買ったと思われる白いアザラシのふわふわとしたキーホルダーも袋に入っていた。
まん丸な黒目が特徴的で、愛らしい。
「あ、これ由希くんに似てると思って買ってきたんだ」
先輩から僕はこんなに愛らしい姿に見えているんだ‥‥と、内心思いつつ「ありがとうございます」とお礼を述べた。
「僕も来年修学旅行に行ったら、先輩にたくさんお土産買ってきますね」
「ありがとう。楽しみにしてるね」
昼休みに会っても一緒にご飯は食べず、僕の頭を優しく撫でて先輩は教室に帰って行った。
コンテストまで気を張っていて、そればっかり考えちゃうからあんまり会わないでおきたいとのことらしい。
きっと先輩は集中するとオンとオフが上手く切り替えられないタイプで、そのくらいコンテストはほうき星にとって大切な一大イベントなのだと察した。
僕も今はあまり先輩と会いたくない。
甘やかされたら、決意が揺らいでしまう気がして怖かった。
先輩からお土産を受け取って教室に帰ると池田くんに「お、ここ座れよ」と自身の前の席を指さされる。
池田くんの前に座ると、彼はお弁当を広げている途中だった。僕は先輩に会う前に、誰かに顔を見られないよう一人で階段の踊り場でさっと昼食を済ませた。
「最近、昼休みもよく教室にいるよな」
「うん、ちょっとね」
「そか。まあ相変わらず、ずっとマスクしてるけど、それでも前より明るくなったよな。なんか変化あったん?」
お弁当を食べながら、池田くんはさっぱりとした雰囲気で話し続ける。
「んー、そうだなあ」
僕はお土産をぎゅっと抱きかかえて「好きな人ができた」と正直に答えた。
「え?!」
池田くんは驚いて、箸を止める。
「てかそれよく見たら袋に沖縄って書いてあるし、二年生からのお土産じゃん。え、好きな人って先輩?」
「さあどうでしょう」
「なんだよ、友達だろ。いつか教えろよな」
幼稚かもしれない。でも、友達という響きにじんと胸があたたかくなった。
「いつかでいいの?」
「だって濁すってことは今言いたくないんだろ? 無理に聞いて由希が嫌な思いするほうが嫌だもん」
池田くんは爽やかなルックスと竹を割ったようなさっぱりとした性格で、男女共に人気がある。
みんなが彼のことを好きになる理由が、とても良く分かった。
「ありがとう。話せるようになったら話すから、その時は話聞いてくれる?」
「もちろん。俺が部活休みの時、放課後遊び行こうぜ」
彼は僕がずっとマスクをしていても、入学当初から「そういう性格なんだ」と受け入れてくれて、分け隔てなく接してくれる。
それがどんなにありがたいことか、きっと彼は知らないだろう。
「なになに、なんの話?」
紗倉さんが寄ってきて、僕の隣に腰掛けた。
二学期に入ってから彼女と距離が近づいた気がする。
気がつけば毎日なにかしら話す仲になっていた。
「今度放課後遊びに行こうって話しててさ」
僕の代わりに池田くんが説明してくれる。
「二人で行くの? いいなあ、楽しそう!」
「紗倉さんも一緒に行く? 俺は別に構わないけど」
ちらりと池田くんが僕を見る。
由希は? と声に出さずとも聞かれている。
「うん、僕も紗倉さんがいたほうが楽しいと思う」
「え! いいの? 二人がいいなら、私も遊びに行きたい!」
「よっしゃ、決まりな。とはいえ秋大会が終わるまでは忙しいから、文化祭の後とかになっちゃうけどいいかな」
「うん、もちろん。みんなの都合が良い時に行こう」
「文化祭といえば、うちのクラスなにやるか来週アンケート取るらしいよ。どうせなら一番目立つお店したいね!」
紗倉さんのきらきらとした、陽キャオーラに思わず目を細める。屈託のない笑顔が眩しい。
「だな。やるなら目立ちまくって賞取りたいな!」
池田くんと紗倉さんが盛り上がっている様子を眺めながら、僕は脳裏に先輩の顔を浮かべていた。
コンテストまで、あと二週間。
当日が一秒でも早く来ることを願った。
◆
コンテスト当日まではもっと長く感じるかと思ったけれど、想像より早く時間が過ぎた。
一週間前から先輩とは連絡も取ってない。
寂しいけれど今は我慢して応援する時だと自分を納得させて、僕はひたすらほうき星の曲を聴き込んでいた。
紗倉さんとも出演する他のバンドの情報を共有したり、服装の話をして当日までの時間を過ごした。
コンテストは今日の十一時から始まる。
紗倉さんとは最寄駅に十時半に集まる予定だ。
今日も今日とて早く目が覚めて、完璧な姿で応援するべく気合を入れてお洒落をする。
九月はまだ熱く、先輩の真似をして水色のシースルーのシャツに僕は白いTシャツを合わせた。
動きやすいように黒のスラックスと紺のスニーカーを選び、今日もライブ同様に黒のウエストポーチを持っていくことにした。
メイクは淡いピンクのアイシャドウをベースに、ブラウンピンクでグラデーションを作り、跳ね上げアイラインで引き締める。
リップは長時間取れないように韓国ブランドのティントにして、色はチェリーピンクだ。
上からラメの入ったグロスを重ねる。
いつもはマスクをするから、グロスは塗れなかったけれど、今日は家を出る前につけた。
僕は今日、マスクを付けないと決めたのだ。
それも会場だけではなく、家を出る前からだ。
これが、僕の弱虫を卒業する方法だった。
小学生の頃からつけ始めたマスクに依存して、いつからか顔の一部となったそれを着けないで外出するのは正直とても怖い。
でも、僕はマスクをしたままだといつまでも変われないままだ。
家を出る前に顔を見たお母さんに「マスク忘れてるわよ」と心配そうに言われた。
僕は靴を履いて立ち上がると、振り返ってお母さんに宣言する。
「僕、もうマスクは卒業する。もう顔を隠して生活したくないんだ」
お母さんは口元を押さえ、信じられないと言わんばかりに目を見開いた。
「それじゃあ、行ってきます」
緊張でドアの取っ手を握る手が震えた。
でも、負けたくない。
しゃんと背を伸ばして街を歩く。
休日の地下鉄は人が多くて目眩がするけれど、なんとか平常心を保ってコンテスト会場の最寄り駅まで電車に乗って行く。
少し早めに着いて、改札を出たすぐ横で紗倉さんを待っていると、知らない二人組の女の人に話しかけられた。
「あの、お兄さんすごく綺麗だなあって思って、良ければこのあと時間ありますか?」
見た目が派手なほうのお姉さんが僕に話しかける。
「ごめんなさい、人を待ってるので」
ドラマなどで見た浅い知識で答えるけれど、あまりにも顔をじろじろと見られて、冷や汗が滲んできた。
どうしよう、呼吸が苦しい。
目眩がするけれど、必死に笑顔を保つ。
「彼女ですかあ?」
もう一人が諦めず質問してきて「そうです」と嘘をついてしまった。
諦めたお姉さんたちが立ち去ると、紗倉さんから『今着いたけど、三好くんどこにいる?』と連絡が入っていた。
『改札を出てすぐ左にいるよ』と返信し、少し待つと今度は電話がかかってきた。
「遅れてごめんね! なかなか三好くん見つけられなくて、服何色?」
「ううん、ゆっくりで大丈夫だよ。今日はね水色のシャツ着てる」
「おっけー水色ね! って、え‥‥? 水色って‥‥」
ぱっと顔を上げると、対角線上にスマホを耳に寄せたまま固まっている紗倉さんがいた。
僕は彼女に向かってまっすぐ歩き出す。
「三好くん、だよね‥‥?」
スマホと同じ声が、目をまん丸に見開いた紗倉さんの口から聞こえてくる。
「驚いた、よね」
「う、うん、だってマスクがーー」
「今日から着けるのやめたんだ。あと、紗倉さんに話したいことがあって、聞いてくれる?」
駅の雑踏も気にならないほど、心臓が大きく跳ねて鼓動が身体中に鳴り響く。
紗倉さんは小さく頷いた。
「実は僕、ずっと前からほうき星のファンなんだ」
隠していた僕を全て晒す始めの一言は、先輩とビデオ通話した日から決めていた。
「今まで、隠しててごめん」
僕が低く頭を下げると、紗倉さんは僕の肩にそっと手を添えた。
「打ち明けてくれて、ありがとう。会場向かいながら、色々聞かせて」
包み込むような柔らかい声に顔を上げて、僕はこくりと頷いた。
それから会場に向かう間もMCが登場するまでの間も、ほうき星の好きな曲の話や宇佐美先輩との出会いの話もした。
紗倉さんは時折驚き、笑い、僕の話を一切否定せず聞き続けてくれた。
僕は先輩以外の人と、初めてきちんと心が通った気がした。
◆
コンテストが始まると、僕らはほうき星以外のバンドもかなりレベルが高いことに驚いた。
参加者はみんな本気でバンドに取り組んでいる高校生なんだ、と圧倒される。
ほうき星は参加する中だと認知度が高いグループで、出演順は最後から数えて三つ目だ。
途中、昼食を食べるために抜けて、またライブハウスに戻る。
少し僕が離れると紗倉さんはすぐ男の人に声をかけられていて、改めて彼女の容姿は人の目を引くのだと実感した。
客観的に見て、紗倉さんはとても可愛いと思う。
でも、それ以上の感情は持てない。
僕の心をかき乱すのは、たった一人だけだ。
休憩から戻ってしばらく他のステージを見続けたら、ようやくほうき星の出番が回ってきた。
一つ前の出演者が捌けると、急に鼓動が速まる。
「ついにほうき星の出番だね」
紗倉さんも緊張した面持ちで、まっすぐステージを見つめている。
「‥‥紗倉さん、手握っていいかな」
は、は、と吐く息が途切れ途切れになって、皮膚はひんやりとしているのに体の中が熱い。
「へっ?」
目を白黒させている紗倉さんは、顔を赤く染めて小さく頷いた。
ぎゅっと彼女の手を握って、メンバーが出てくるのを待つ。一秒が、一分に感じた。
「続きまして、儚い雰囲気で話題のイケメン揃い、ほうき星!」
櫂くんを先頭に、那由多くん、大地くんとステージに上がる。
「あれ‥‥?」
先輩が、裾から出てこない。
櫂くんがチューニングよりも先に、マイクを握って口を開いた。
「初めましての方も俺らのファンの方もこんにちは、ほうき星です。皆さん、ファンの方は特にどうしてボーカルのうさたんが出てこないんだろうと思っていますよね。実は、特別な事情があります。俺らの大切なボーカルであり、幼馴染のうさたんにとって、今日は門出です。どうか、新しい姿の彼を応援してください」
櫂くんの挨拶を合図に、先輩がステージに上がった。会場が割れそうなほど大きな歓声に包まれる。
彼の端正な顔を覆うものは、なにもない。
「うそ‥‥っ、宇佐美先輩‥‥?!」
紗倉さんは空いている手で口を覆う。
「初めまして、うさたんこと宇佐美彗です。僕は今日、弱虫の殻を破るために僕自身でこのステージに立ちます。だからーー今日まで、ありがとう」
刹那、力強いドラムとベースの音が響き、櫂くんのギターが追いかける。
各バンド、ステージで披露できるのは一曲のみだ。
僕は手を握る強さが増し、息を呑んだ。
彼らは大勝負の舞台で『流星群』のアレンジバージョンを披露することにしたのだ。
元々はうさたんが作ったアコースティックギターだけで弾く、優しくて軽やかな曲調が特徴的な曲だけど、今日は会場の静寂を破る荒々しさを全面に押し出している。
まるで、先輩の意思表示だと感じた。
先輩は今、目の前で戦っている。
恐れを声で、音で破り、恐怖に打ち勝とうとしているんだ。
ほうき星を知った日の思い出が蘇る。
今もなお消えない心の傷を負った日、僕は真っ暗な部屋で彼の歌声に出会った。
適当にサブスクの音楽を流しながら、声を押し殺して絶望していた日。
突如耳に入ってきたのは、暗闇を照らす星のような透き通る声。
爽やかさの中に憂いを含むその声は、僕の真っ暗な心を駆け抜けていった。
耳を通って、心臓に、彗星が流れ込んできたのだ。
今もなお、その光は胸の中で僕を照らしてくれている。
先輩の歌が、僕を救ってくれた。
__流した涙の海を
__月の光で作られた道を渡ろう
僕の流した涙を、先輩の歌声が月の道にしてくれた。
__あの星に手が届くように僕が歌うよ
先輩の歌があったから、僕は前を向くことが出来た。
__でも覚えていて
ぴた、と歌声が止まる。
先輩がすっと腕を上げて、閉じていた瞳を開いた。
僕に向かってまっすぐ、人差し指が伸びる。
__君が一番大切なんだ
目の前で、星が弾けた。
涙で滲んだ視界を、強いライトの光が覆う。
「三好くん‥‥っ」
勢いよく、紗倉さんがこちらを振り向いた。
「どうしよう、涙が止まんないや」
愛おしさが堰を切って溢れ、あたたかな涙となってぼろぼろ溢れる。
僕はどうしようもなく、先輩のことが好きだ。
この世界の、誰よりも。
僕はほうき星の出番が終わっても、泣き続けた。
いくら声を殺しても、涙は止まることを知らない。
先輩と出会って、憧れという言葉の意味を知った。愛おしいという言葉に触れた。
出来ることなら今すぐ彼の胸に飛び込みたい。
頭の中が先輩のことでいっぱいになる。
気がついたら結果発表の時間になっていて、MCの男性が高らかに一位の名前を発表した。
「優勝グループはーー期待の新星、ほうき星!」
◆
一気に会場の外へ出ようとする人の波に乗って、僕たちも外へ流れ着いた。
まだ紗倉さんと手を繋いだままだったことを思い出して、慌てて離す。
「わ、ごめん! 手、繋いだままだった」
「ううん、それよりさっきのってーー」
紗倉さんの声を遮って、僕の肩に誰かの手が触れた。
「ごめん、由希くん俺にちょうだい」
先輩が人混みの中を掻き分けて、気がついたら僕の後ろにいた。
走ってきたのか息が切れている。
「彗! お前どこいくんだよ! これから色々話あんのに!」
会場の裏口から櫂くんが飛び出てきて、一気に僕たちに視線が集まる。
「櫂! ごめん、今日だけ許して! 由希くん、行こう」
「先輩‥‥?!」
「ったくお前は! 今日だけだからな!」
宇佐美先輩に手を引かれ、走り出す。
櫂くんの声が段々と小さくなっていく。
いつの間にか空は曇天に変わっていて、雨が降り出した。
最寄駅と反対側に走り出した先輩に手を引かれ、利用したことのない駅へ飛び込む。
濡れたことも気にせず、来た電車にわけもわからないまま乗り込んで三駅が過ぎた。
先輩は車内でも絶対に僕の手を離さない。
たとえ改札で離れても、また無言で手を繋ぐ。
僕はその力強さに驚きながらも爆発寸前の心臓を抑えながら先輩のことを盗み見する。
電車内の席は空いておらず、多くの人々が端に寄っている僕たちに注目している。
濡れたイケメンが乗ってきただけで目を引くのに、僕と手を繋いでいるのだ。
好奇の視線がずぶずぶ突き刺さるけど、先輩は全く気にしていないようだった。
五つ目の知らない駅名が車内アナウンスで流れると「ここで降りるよ」とだけ言われる。
降りて改札を通ると、先輩はまた離れた手を繋いだ。
「雨が強いから、もう一回走れる?」
「はい‥‥っ」
「ん、いい子だね」
鞄の中に折り畳み傘が入っていたけれど、僕は
先輩にそれを教えなかった。
駅の目の前の公園を抜けて、住宅街を駆ける。
先輩に合わせて走るのは大変だけど、自然と笑みが溢れていた。
今、僕は強く先輩に求められている。
そう思うと、心臓が強く軋み、脳が痺れるような感覚がした。
先輩は「宇佐美」と立派な表札に書かれている家の前で止まる。
「ここ、俺の家なんだ」
ポケットから鍵を取り出すと、雨でうさぎのキーホルダーが濡れた。
先輩が玄関のドアを開けると、中に腕を引かれて吸い込まれた。
ばたん、とドアが閉まる前に先輩にきつく抱きしめられる。
「由希くんのことが、好きだ」
先輩の香水が彼の香りに混じって鼻を抜ける。
雨で濡れたシャツが身体に張り付いて気持ち悪いのに、先輩の体温も一緒に伝わってきて離れたくない。
「ずっと、伝えたかった。抱きしめたかった。俺、どうしようもなく君のことが好きなんだ」
先輩の声が震えている。
顔を上げると、室内にいるはずなのにまた雨が降ってきた。
先輩が泣いているのだと理解するまでに数秒かかる。
そして、つられて僕もまた涙が溢れてきた。
せっかくちゃんとメイクしてきたのに、涙と雨でぐちゃぐちゃだ。
でも、僕の胸は先輩への愛おしさで溢れている。
見た目なんか、関係ない。
「‥‥僕も、先輩のことが好きです」
短い言葉にありったけの気持ちを詰め込んだ。
先輩の華奢だけど大きな手が僕の頬に触れる。
「俺と付き合ってください」
僕は背伸びをして、先輩の唇に自らのそれを重ねた。
潤んだ先輩の瞳に、僕の顔が映り込む。
先輩はまた僕を抱きしめると「俺、キーホルダーを拾ってもらう前から君の顔を知ってたんだ」と溢した。
「え‥‥?」
思わず声が漏れる。
先輩が、僕の顔を知っていた?
うまく言葉を飲み込めない。
「でも、まずはシャワー浴びて体あっためよ。その後、全てを打ち明けるよ」
先輩はすっと離れ、僕を脱衣所に案内する。
頭が回らないまま言われた通りにシャワーを浴びて、先輩の服を借りた。
全身が先輩の香りに包まれて、ほっと安心する。
二階にある部屋に案内されて、先輩がシャワーから上がるのを待つ。
ぼんやりしながらタオルで頭を拭いている。
僕は今、先輩の部屋にいて、でもここはうさたんの部屋でもあって、そしてうさたんは先輩で、先輩が僕の恋人になって。
一度に多くのことが起こりすぎて逆に夢だったのではないかと不安になる。
なのに、目に飛び込んでくる景色が僕に現実を思い知らせる。
だって僕は木で作られたシンプルな勉強机も、数冊の小説と音楽やファッションの雑誌が並べられた本棚も、立て掛けられているアコースティックギターも知らない。
先輩の部屋はとても簡素で、あまり生活感がない。壁にお気に入りと思われるシャツが数枚掛けられているけれど、その横には押し入れがありきっと他のものは全て収納されているのだろう。
驚いたのは床がフローリングではなく、畳なことだ。家の外観も古民家風で歴史を感じた。
先輩のベッドは畳の上にすのこを敷き、その上にマットレスを乗せたいわゆるローベッドだった。ベッドシーツは青系で統一されていて、清潔な印象だ。
学校でミステリアス王子と呼ばれていた理由が分かる。
きっと、誰も先輩の深いところまで知らないのだろうと思った。
部屋を眺めていると扉が開いて、スエットに着替えた先輩が入ってきた。
髪の毛が濡れて伸びている。よく乾かしていないのか、髪の毛の先端に滴が滴っていた。
あまりの色っぽさに、僕は思わず目を逸らす。
「由希くん、目逸らさないでよ」
先輩はベッドの上に座り、僕を後ろから抱きしめる。
「君が俺の部屋にいるなんて、夢みたいだ」
先輩は僕の首元に顔を埋め、深く息を吸った。
濡れている髪が首筋に当たってくすぐったい。
「僕だって、混乱中です」
「ごめんね、そうだよね」
ふっと笑った先輩が押し入れの中からドライヤーを取り出して、僕の髪を乾かしてくれる。
優しい手つきとあたたかさに緊張がほぐれ、意識が微睡んできた。
「眠そうだね」
ふっと微笑んだ先輩の顔を視界の端で捉えると、次の瞬間にはまた唇が重なっていた。
ちゅ、とリップ音が静かな部屋に響く。
「君のことを好きな男の前なのに、無防備すぎない?」
意地悪に笑った先輩の顔を見て、落ち着いていた心臓がまた早鐘を打ち始めた。
ぐるりと先輩のほうを向いて、彼の首元に腕を回す。
今度は一度きりで離れず、僕たちは何度も口付けを繰り返した。
「先輩、いつから僕のこと好きだったんですか」
ようやく唇を離すと、先輩の隣に座って聞いた。
「由希くんがキーホルダーを拾ってくれる前から、だよ」
先輩が僕の手を絡め取って、握る。
「ずっと君に秘密を打ち明けたかった。でも、幻滅されるのが怖くて、言えなかったんだ」
僕はぎゅっと握り返して「幻滅なんてしません」と力強く答えた。
「ありがとう。ーーこれから、俺の両親の話をするね」
先輩が生まれた頃、既にご両親は離婚していたらしい。開口一番に、感情を失った顔で先輩はそう告げた。
「だから俺は父さんの顔なんて知らないんだけどさ、どうやら俺はとても父さんに似ているらしく、成長を増すごとに母さんの当たりが強くなっていったんだよね」
時に声を荒げて、物を投げられることもあったらしい。それは離婚した理由が、先輩のお父さんが不倫して他の女の人と子供を作ったからだと話してくれた。
「我が父親ながら最低だと思うよ。でも、結局母さんも同じことをして宇佐美の家を出ていった。母さんが残してくれたのは、小さい時に買ってくれたあのキーホルダーだけ。すげえぼろぼろだけど、俺にとっては宝物なんだ。で、俺は今じいちゃんとばあちゃんと三人暮らしってわけ」
「あれ、お二人って今日は‥‥」
「それがなんと今、温泉旅行中です。だから正真正銘、今は二人きりだよ」
家が静まり返っていたのは誰もいなかったからだと今更になって気づく。
先輩は話を続けた。
「まあ単純に最低な母親だって憎めれば楽なんだけど、実際そういうわけもいかなくてさ。俺が歌を始めたのは母さんの影響なんだ。俺の母さんはピアノの先生でさ、よく教室で演奏しながら歌ってくれて、いつからか俺も一緒に歌うようになった」
先輩の瞳に憂いが漂う。光を失い、真っ黒な目でぽつり、ぽつりと話し続ける。
「母さんはいつも俺の歌声を綺麗ねって褒めてくれたんだ。俺にとって歌は母さんに喜んでもらえる一番の方法で、でも俺自身があの人を深く傷つける存在になってしまった。だから母さんが出ていった後も、いつか歌っているところを見て欲しくてバンドを始めたけど、顔は怖くて出せなかった。また母さんを傷つけて、自分の存在を否定されるのが、俺はずっと怖かったんだ。でも、歌うたびに思い出すのは母さんの悲痛な顔で、俺は歌うことすら辞めようと思うようになった。そんな時、由希くんに出会ったんだ」
先輩は僕の目を見つめ、そっと微笑んだ。
「君はいつも、きらきらした目で俺のことを見てるよね。由希くんが初めてライブに来てくれた日から、俺は君のことを知ってた。こんな俺の歌を聴いて、泣きそうになってる君を一目見た時から、多分君のことが好きだった。君がいてくれたから、俺はほうき星のボーカルを続けられたんだ」
告げられた真実は、想像を遥かに超えていてうまく言葉を紡げない。はくはくと息が溢れるのに、声が出ないのだ。
「ーー由希くん。君は俺にとって、暗闇を照らす星なんだ」
ああ、もうだめだ。また視界が滲んでしまう。
僕を救ってくれた人が、僕に救われたと言ってくれる。
奇跡なんて一度も信じたことがなかったけれど、今だけは信じてもいいのかな。
「僕も‥‥っ、僕も、先輩の歌に救われたんです。容姿のことでいじめられた時、先輩の歌を聴いて前を向けた。先輩の歌がなかったら、僕はきっと今も暗闇の中にいました。先輩も、僕にとってかけがえのない光で、星なんです」
子供のように声を上げて泣いてしまう。
先輩の長い腕が伸びてきて、僕を包み込んでくれる。
「なにそれ。運命じゃん」
「‥‥っ、運命だって、思っていいんですか?」
先輩は僕の濡れた頬にキスを落として「思ってよ、運命だって」と水分量の増した瞳を細めて言った。
こんな広い世界の中で、僕と先輩が結ばれる確率は一体どれほど低いのだろう。
今、彼の隣にいる事実こそが、奇跡で、運命だ。
知ってしまったのは、僕にとっての、彗星の秘密。
先輩の、秘密。
隠していた弱さを乗り越えて、僕たちはようやく結ばれた。
窓の隙間から夜空が見えて、一縷の流れ星が駆けていく。先輩は僕をきつく抱きしめて、耳元で囁いた。
「もう離してあげられないや、ごめんね」
僕は先輩の首元に腕を回して答える。
「絶対に、離さないでください」
◆
すっかり雨は上がって、空には星が瞬いている。
先輩は服を乾かしてくれて家まで送ってくれた。
送ってくれる間も、ずっと手を握って離さなかった。
そして、家の前まで着くと両親が家にいるか聞かれる。
「お父さんは単身赴任中なので、お母さんだけいます」
「そっか。じゃあ由希くんのお母さんに付き合ったって報告していい?」
「えっ?!」
先輩はインターホンを鳴らし、お母さんが出てくる。何度か一緒にライブに行っているが、お母さんは先輩がうさたんとは露も知らない。
「初めまして。今日から由希くんとお付き合いさせていただくことになりました、宇佐美彗です。ほうき星というバンドのボーカルをしてます」
「えっ、う、うさたん?!」
さすが僕のお母さんで、すぐにうさたんが先輩だと理解したようだ。
頬を赤く染めて先輩を見つめている。
「はい、うさたんです」
先輩がはにかむと「ゆっ、由希をよろしくお願いします‥‥!」と頭を下げた。
僕の彼氏というより、うさたんの印象の方が強いのだろう。
「こちらこそよろしくお願いします。‥‥絶対、由希くんのこと幸せにします」
先輩は頭を下げてから顔を上げると、さらりととんでもないことを口にする。
お母さんは僕と先輩を交互に何度も見て、言葉を失っていた。
「先輩! 嬉しいですけど、刺激が強いです!」
「え〜でも、本音なんだからなあ」
少しお母さんと話してから、先輩は颯爽と帰っていった。
小さく背中を見つめてから家に入ると、お母さんは「宇佐美くん、素敵な子ね」と先輩を褒めてくれる。
僕も口角を上げて「うん」と微笑んだ。
次の日、緊張しながらも僕はマスクを外して登校した。登校中もじろじろ見られたけど、教室の扉を開けるとさらに視線が集中する。
「由希、おっはよーって、え?! 顔出してる!」
後ろから元気よく池田くんに挨拶され、振り返ると彼は元々大きな目をさらに飛び出そうなくらい丸く見開いた。
「おはよう、今日からマスクはやめたんだ」
「そうなんだ! お前、顔可愛いからマスクないほうがいいな!」
太陽のように、にかっと笑って池田くんは教室に入った。何食わぬ顔で他のクラスメイトに挨拶している。
一気に不安が晴れて、僕も教室に入った。
彼の分け隔てない態度に、また僕は救われたのだ。
自分の席に着くと、後から来た紗倉さんが顔を赤らめて僕のそばにやってきた。
「三好くんおはよう! ちょっといいかな?!」
そういえば、彼女と会うのは目の前から先輩に連れ去られて以来だ。
「おはよう」と挨拶すると紗倉さんに腕を引かれ、廊下に出た。壁際によって、並んで話す。
「えっと、どこから聞けばいいのか分かんないだけど、宇佐美先輩がうさたんなんだよね?」
「う、うん」
「で、三好くんと宇佐美先輩の関係は?」
「恋人同士に、なりました」
紗倉さんは手で顔を覆い「‥‥少女漫画じゃん‥‥」と小さな声で呟いた。
「えっと、これには色々訳があって」
「いい! 大丈夫! あとは池田くん含め三人で遊んだ時に聞くね! とにかくおめでとう!」
「ありがとう!」
彼女につられて、つい大きな声が出た。
二人で顔を見合わせて、ぷっと吹き出す。
「コンテストの日に言えなかったけど、三好くんてめっちゃ可愛い顔してたんだね。びっくりした」
「さっき池田くんにも可愛い顔してるんだなって言われたよ」
「みんな思ってると思うなあ。ていうか、密かに噂になってたし。目とか君、くりくりじゃん!」
「僕は紗倉さんもすごく可愛いと思うんだけどなあ」
窓のへりに腕を乗せて、外を眺める。
朝日と共に爽やかな風が入り込んできて、僕の頬を撫でた。
「三好くん、ほんとそういうところだよ。良くない!」
彼女はまた顔を手のひらで覆って、耳を赤く染めている。
「えっ、可愛い人に素直に可愛いって言っちゃだめなの‥‥?!」
「だめじゃない! けど、良くない! あんな素敵な恋人がいて、まだモテようとしてる?!」
「し、してないよ!」
慌てて両手を振ると「半分冗談だよ」と彼女は悪戯に微笑んだ。
「でも、もう顔隠してないんだから軽率な発言は控えるようにね」
ふんっと、腕組みをして紗倉さんは仁王立ちになる。
その姿が面白くて面白くて、また僕は目を細め、口角を上げた。
「ありがとう、気をつけるよ」
「うん。三好くんとはこれからもほうき星応援隊として、そして友達としても付き合っていきたいからよろしくね」
「あ! ほうき星といえばコンテストの『流星群』さーー」
僕たちの話はまだまだ尽きない。
朝礼が始まるまで、ほうき星についての話題に花を咲かせた。
昼休みは久しぶりに先輩と一緒に過ごせることになった。もう顔を隠す必要がないので、屋上に向かう。
先に先輩は到着していて、ベンチの上に寝転んでいた。
「先輩、遅れてすみません」
寝顔までも美しい先輩は、眠ってしまっているのか僕が到着しても目を開けない。
しゃがんで、先輩の耳元に顔を寄せる。
「宇佐美先輩?」
ちょんと頬を人差し指で突いてみても、人形のように眠っている。
寝顔を写真に収めたい衝動を抑え、僕は密かに憧れていたことを実行する。
「‥‥彗くん」
ずっと、先輩の名前を読んでみたかった。
初めて話した日から、なんて美しい名前なのだろうと焦がれていたのだ。
すると、さっきまでぴくりとも動かなかった先輩が薄ら目を開けた、にやりと片方の口角を上げた。
「おはよう、由希くん」
「なっ、先輩、起きてたんですか‥‥?!」
「ううん、寝てたよ。だから由希くんがこっそり俺の名前を呼んでたことなんて知らないし」
「起きてるじゃないですか!」
ぽん、ぽんと先輩は起き上がって、隣に座るようベンチを軽く叩く。
僕は途端に顔が熱くなって、少し距離を取って隣に座った。
「あ〜〜〜、尊すぎる。胸が締め付けられて痛い。こういうのなんて言うんだっけ」
先輩は顎に手を当ててなにやら難しい顔をしている。
「あっ思い出した。限界オタクだ!」
晴れ晴れとした顔で僕のほうを向き「俺、彼氏兼由希くんの限界オタクってことで、よろしくね」と平然に言い放つ。
「いや、よろしくね、にこっじゃないです」
「ん?」
「わああ、爽やかに微笑まないでください! 全ての言動を許したくなる!」
「じゃあ俺、由希くん公認の限界オタクってことでいいかな」
「よくないです! もはや彼氏より僕のオタクである意識のほうが強くないですか?!」
空いていた距離を一気に先輩が詰めて、ちゅっと触れるだけのキスをした。
「まさか、彼氏の座は絶対誰にもあげないよ。俺がどんだけ君と付き合いたかったと思ってんの」
美しい僕の彗星は、簡単に心をかき乱してくる。
でも僕は、きっと一生この人に勝てないだろう。
「そうだ、新曲なんだけど録音してきたから一緒に聞かない? 今度家に来るまで感想聞けないの、俺もう待てないや」
先輩はポケットからスマホと有線のイヤホンを取り出して、半分僕に渡してくれる。
「聞きたいです!」
「由希くんならそう言ってくれると思った。タイトルはねーー」
ざあ、と風が吹いて僕たちの髪を揺らす。
先輩が耳に髪をかけながら、僕の耳元で呟いた。
「星芒を辿って、だよ」



