今日も<カフェ・サクラ>は静かだった。
 その中でただひとつ、わたしがいるテーブルには会話の花が咲いていた。
「進路に迷うこと、たしかにあったわね」
 花蓮さんはわたしの言うことにひとつひとつ頷いている。合間に紅茶を飲んでいても今日はゆっくりだ。まあ、わたしが一方的に話すものだから、そうさせてしまっているわけだ。
 申し訳ないと思いつつ、わたしはまた口にした。
「わかりますか? もうどうすればいいか分からなくって、どうしようもなくって......」
 くすりと彼女が笑い出した。なにかおかしかったのだろうか。
「いいえ、そんなことはないのよ。でも、高校生の自分を見ているようで、なんだか楽しくって」
 そういうものだろうか。なんだか恐縮してしまう。
未香(みか)はどうしたいの?」
「どうしたいって言われても、なんていうか......」
 ほんとうにどうしようもない。だから、言葉を失ってしまう。
「せっかくきみは真面目に過ごしているのに、もったいないわね」
「分かるんですか」
 学校の生活なんて見ていないのに、わたしは放課後ここにお茶をしているだけなのに。
「見れば分かるわよ。まず、制服をきれいに着こなしている、礼儀正しいのも伝わってくる」
「そ、そんなことは......」
 つい萎縮してしまう。褒められると困る癖はほんとうに直したい。
「じゃあ、質問を変えようかしら。好きな教科はあるの?」
「現代文と英語です、あと美術のコースをとりました」
「それらを伸ばしたいって思ったことは?」
「......それが、一度もなくって」
 正直に答えるしかなかった。画用紙に描いたイラストも、ちょっとだけ描いた漫画も、その時々生まれただけの興味のかたちだ。それを仕事にしようなんて、たぶん歩に言ったのがはじめてだ。
「ほんとうにもったいないわね」
 思わず首を垂れる。心の中を繰り返し刺されている。
 でも、彼女は微笑んだままだった。
「やりたいことなんて変わっていくものなのに、今決めなさいと言われるのが辛いよね」
「ほんとうにそうですね......」
 テーブルの上に伏せる。そのままテーブルの上に置かれている造花のグラスを見つめた。
 ぐるぐると回った思考のまま、もう愚痴みたいに告げる。
「みんなはいいなあ、やりたいこと決まってて。親の仕事を継ぐとか小説家になりたいなんて......」
「......小説家?」
 ティーカップを持った花蓮さんの手が止まった。
 ちらりと見上げると、彼女のきれいに上がっている口角が目に映る。
 ふっと心がざわついた。彼女の口調は少し落ち着いたような感じだった。
 小説家というキーワードのどこが気になったのだろうか。納得も尊敬も感じられるような不思議な印象を感じた。それでいて、夢や憧れ、幸せをも思わせる。
 まるでアンニュイな雰囲気。
 まさか彼女が小説家なわけではないだろう。そう思いつつも、確かめずにはいられなかった。
「まさか、花蓮さん書いているの?」
 彼女はティーカップを持ったままわたしと視線を合わせた。
「そんなことはないわよ。興味はあったけどね、書いて食べていけるのはほんとうに大変なのよ」
重ねて告げられた。やっぱり大変なんだなあ。
「いいわね、そういう仕事は夢があって。夢を追うのは、学生にしかできないこと。うんと悩んでいるのも、ね」
 大学や専門学校は将来に直結していて、高校はスタートラインだ。だから、わたしはうんと悩むし、彼にはデビューしてほしいなって思うし。
 みんな、岐路に立っている。
 
 今さらだけど、ふと気になったことがあった。
 ちょっと聞いてみよう。きちんと身体を起こして姿勢を正して、尋ねてみた。
「......すみませんが、聞いても良いですか。花蓮さんはなにのお仕事をしていますか?」
 彼女もこちらの方を向いてくれた。わずかな沈黙が生まれる。
「なにもしていないの。なにもアドバイスできないでごめんね」
「そうだったんですね......」
 どんな仕事の話を聞けるのか期待していたのに、少し残念だった。
 あまり顔には出さないようにしていたけれど、花蓮さんはわたしの気持ちを汲んでくれたようだった。ティーカップを置いて、伏し目がちにして語ってくれた。
「小さい頃は親の仕事を手伝っていたの。小さな仕立て屋さんよ。私は鋏を使ってなにかをしていたわけじゃないけれど、ちょっとレジに立って色んなお客さんを見ているのが好きだったのよ」
 学生の頃から家を手伝っているなんて働き者だ。なんだかかっこいい。
「それでね、仕立てたお洋服はお客さんにどんな風に見えていただろうか、考えてみたりした。もちろん嬉しいとか楽しいとかっていう感情になるんだろうけど、どう表現してみようかっていうのは小説と似ているかもしれないわね」
 たしかに。花蓮さんはなかなかに文学的だ。桜の木の陰影に想いを馳せるところも、そう感じたりする。
「でもね、ほとんどのお客さんはまた来てくれたんだけど、中には来られない方もいた。もちろん自由なんだけど、私としてみたら少し寂しかった......」
たしかに、何着もオーダーメイドに訪れる客はいないだろう。
 客と店員が織りなすもの、それがご縁。もちろん、その間柄だけがつくるものじゃない。ここにだって、また教室にだってつながりがあるんだ。わたしたちにはその時期が迫っていた。
「4月になるとクラス替えよね。私だって内心怖がった。せっかく彼女と出会ったのに、別れてしまったらどうしよう。春になるとずっと願ってたのよ、こんどの学年でもいられますようにって」
「そうですね」
 わたしだって、怖くないといったら嘘になる。
 杏ちゃんはもちろん、歩といられるだろうか。わたしは彼を追っているのに、一緒にいたいと願っているのに、叶わなくなってしまったら嫌だ。
 花蓮さんが紅茶をひとくち飲んだ。ふっと、彼女の瞳が揺れた気がした。
「私は、怖い。今でも怖い」
「......なにがですか?」
 つい聞いてしまった。なんだか聞いてはいけない気がしたのに、わたしは踏み込んでしまった。
「......私の瞳に、なにも映らなくなるのが」
 どういうことだろうか。ああ、と一瞬だけ考えて理解する。
 花蓮さんはこの店員と親友になった。三年間ずっといられた。でも、みんなが希望を叶えられるわけにはいかないのだから。
 きっと、ご縁が途絶えてしまうのが怖いんだ。いつまでのこのカフェには来られないし、いつかは一人になってしまうし。
 そう思ったわたしは、ここで考えるのをやめた。もう少し歩み寄ってあげるべきだと知る由もなく、終わりにしてしまった。
 
 彼女の言いたいことは、泉のように深いのだから......。

 ・・・

 窓から見える色が、夕方という時間を教えてくれる。
 ここで、花蓮さんは席を立った。そして、伝票を手にした。ふたり分も。
「......え、わたしの分は自分で払いますって」
「いいのよ、話を聞いてくれただけで嬉しいから」
 慌てるわたしを気にせずに、彼女はレジへ歩いていく。
 
 ......あ。と少し歩いたところで、わたしの方を向いた。
「きみは知っているかしら......? 桜の木の下には、なにが眠っているの?」
 たしかに、モニュメントの木にも根元の周りは芝生みたいな加工がされている。
 
 なんだろう、眠るってことはどういうことだろうか。
 たとえば、木の根元で丸まって眠る犬みたいなものを想像する。でも、実際にそんなことをしたペットは見たことないし、もちろん人間だってしないし。
 わたしの知らない世界だった。
 興味深いという瞳を彼女に投げてみたけれど、()(れん)さんはなにも言わなかった。