こんなところがあったんだ......。
とある店舗の前で、わたしは足を止めた。
先ほど交差点で見かけた女性に興味を持った。一目だけ見よう、その一心で追いかけていたものの、見失ってしまった。その代わりとはいってはなんだけど、この場所に興味を奪われてしまった。
建物をまじまじと見上げて全体像を視界に収める。
茶色の外観はどこか木造を思わせるレトロさ。通りに面する壁は全面ガラス窓じゃないけれど太陽によってとても明るく照らされている。ドアだけは一面がすりガラスになっていてほどよく上品さを引き立てていた。
こじんまりとしていながらも、どこか落ち着く空間。見ただけなのに、なんとなく分かるような。
<カフェ・サクラ>
ドアにかかったプレートがそう教えてくれる。
長方形の板には店名が彫刻されていて、右隅にも桜の花びらが彫られていた。可愛げながらも品のある名前に引き寄せられる。それに、わたしの苗字と同じ名前なんて、なんとなくおもしろい。
もう心の中は手招きされていた。いらっしゃいって、呼ばれていた。
お誘いを受けたわたしはドアを開いた。
・・・
「うわぁ......」
店内に足を踏み入れたわたしは、すぐさま見えた光景に感嘆のため息をもらした。
わたしの瞳に映るのは、大きな桜の木だった。
背丈より高い桜の木は満開の花びらを抱えて誇らしげ。その姿をオレンジ色の電球が照らしていた。
......どうやって咲いているんだろう。
静かな店内にはピアノの曲がうっすらと流れている。それがまた素敵で、落ち着く空間だなともう実感できる。
「......さま、お客さま」
ずっと声をかけられていたのに、まったく気付かなかった。思わず背伸びをして返事をしてしまう。
「は、はいっ」
「ふふっ、お好きな席へどうぞ」
白のブラウスに黒のパンプスを着た店員がこちらを見て手招きしていた。濃紺のエプロンを身に付けている姿は、立派に仕事をこなす誠実さも物腰柔らかな女性らしさも感じさせた。
「ああ、すみませんっ」
わたしは目についたテーブル席に駆け足で向かった。
店員が持ってきたメニューを開いてみる。コーヒーはブレンドしかないものの、紅茶はアールグレイやダージリンなどたくさんの種類があった。そしてパンケーキ。とてもシンプルな飲み物たちが並んでいる。
よく駅前にあるチェーン店に置かれているお洒落なフラペチーノはなかった。その方が、なんだかこの店らしいだろう。
「......あの桜の木ってどうなっているのですか?」
アールグレイを頼んだわたしは、思わず店員に訊いた。メニューを脇にかかえた彼女は目を丸くして、手を口に添えてくすくすと笑い出した。
「すみません、あまり質問される方がいなかったので、つい」
ついってなんだ、ついって。なんだか拍子抜けしてしまう。
「もちろんこの木は実際に生えているものはありません。モニュメントです」
「モニュ......」
質問したこちらが恥ずかしくなった。思わず口がすぼんでしまう。
「じゃあ、テーブルにあるこれは?」
「造花です」
どのテーブルの上にも透明なグラスが置かれていた。小さなキャンドルランプになっていて、桜の枝が一輪刺さっている。よく見たら作り物だとわかるのに。
恥ずかしさを上塗りしてしまった。考えればわかるじゃないか。
了解しましたと、店員はカウンターに戻っていった。
この席に座ると、店内の中が一望できる。
すべてのテーブルから桜の木が見える配置になっているみたいだ。くすみのある白い床と茶色のテーブルは桜の色を引き立てるような色合いになっていて、それらを天井の梁にある照明が照らしていた。
それぞれがきちんと調和して、美しさのある店内が形作られていた。
なるほど、まるでひとつの箱庭。
夢中になってあちらこちらに瞳を泳がしていた。どこもかしこもきれいだ。ほかの席に座っているわずかな人は静かに座っていて、この風景に馴染んでいる。
そう思っていたのに、ある一点を見つめた途端に、それらは霞んでしまった。
カウンター席に人がいる。わたしが交差点で見かけた女性だった。
亜麻色の長い髪も、ティーカップに添えている指先も、つい見つめてしまう。店内の光景なんて透き通ってしまうような、彼女だけがくっきりと見える雰囲気を感じてしまう。
そこにわたしが注文した飲み物が届けられる。カップから立つ湯気もまるで踊っているようだった。
ああ、彼女の姿を見れてよかった。
はるか昔、この世でいちばん美しいものは人体の身体だったという。美しい造形美を残したくて彫刻がたくさん造られてきた。それらは美術の教科書やレプリカとして今に至るまで語り継げられている。
わたしはもう夢中になっていた。
鞄からクロッキー帳と筆箱を取り出すと、急いで白紙のページを開いた。彼女の姿を残しておきたい。えもいわれぬ美しさだから、その一心で鉛筆を走らせる。
カウンター席と女性のレイアウトをざっとまとめ上げた。ラフはこれくらいでいいだろう。さあ、輪郭を描いていこう......。
しかしながら、これ以上描きだすことはできなかった。
女性がこちらを向いた。
しばしこちらを見つめている。わたしと目が合ってしまった。
彼女は人差し指をそっと口元に添えて"しずかに"と念を押していた。
まるで、雷に打たれたよう。
わたしはつい硬直してしまった。なにもできずに彼女の方を向いたまま。
女性が席を立った。
そのままこちらに向けて歩いてくる。ああ、どうしよう。これは怒られる流れしか感じない。慌ててテーブルの上を片付けようとするも、鞄にしまい込むまで間に合わなかった。
しかしながら、向かいの席に座った彼女はなにも言わなかった。
......あれ、目元が笑っている。
どういうことだろうか。しばしそのまま見つめ合ってしまった。
ようやく彼女が口を開いた。わたしに話しかけてくる声は小声ながらもよく透き通っていて、はっきりと聞き取れた。
「となり、いいかしら?」
「ええ、......どうぞ」
「いい子ね。でもここは静かなにしなきゃいけないところよ」
ああ、ごめんなさいと頭を下げる。そして、顔を上げるところでクロッキー帳に気づいた。出しっぱなしだし、女性を描いたページが開かれていたし。
我に返ったわたしは硬直してなにもできなかった。こんなにも静かな店内でわたしひとり声を上げて、おまけに絵を描こうとしていた。
気恥ずかしさと申し訳なさが同居してしまった。
慌てて片付けようとするも、ちょっと待ってという声に遮られた。
「ちょっと待ってくれないかしら、見せてくれない?」
仕方ないと、おずおずと差し出す。
クロッキー帳をめくる彼女をわたしは見つめる。これはやはり怒られる流れなのだろう。もうそれしか考えられなくて、肩をすぼめる。次第にテーブルの上を見つめてしまう。
おそるおそる、ちらりと視線を上げる。あれ、なにかがおかしい。
女性の表情はもっとやわらかくなっていた。先ほどよりもずっと。
ふふっと声を漏らした彼女がわたしの視線に気づく。こちらを見て微笑んでくれた。
「上手ね」
「あ、ありがとうございます......」
褒められると思っていなかったから、正直どうすればいいのかわからない。さっきから萎縮しまくりで、明らかに調子を崩していた。それでも、お礼の気持ちを込めてこちらも頭を下げた。
「それで、なんで私を描こうと思ったの?」
やはり訊かれてしまった。彼女の瞳はまっすぐに、けれども楽しそうにこちらを見つめていた。
貴女のことがきれいだったから、絵画のように残したかったから。こう答えてしまって良いのだろうか。下手したらナンパみたいな台詞だ。わたしは彼女を口説こうとしているみたい。いやいや、ぜったいに違う。
「え、えーっと......」
しどろもどろになる。あたりが静寂に包まれたみたいで、うっすらと流れているピアノのBGMがわたしの思考をじゃまする。ああ、なにか言わなきゃ......。
「まあ、良いわ」
ふっと胸をなでおろす。
「いつかモデルになってあげてもいいけど、またの機会にね」
「......そ、そうですね」
わたしはまだ緊張で心に汗が流れている。なんだかすみませんと、また頭を下げた。
「いい子ね、あなた名前はなにていうのかしら?」
「佐倉 未香です」
「私は花蓮よ。よろしくね」
はい、とお互いに会釈をする。
それから、彼女は静かに紅茶を飲みだした。
時折窓の方を向くようすをわたしは静かに見つめていた。肩にかかる亜麻色の髪も、少し長く見えるまつ毛も、きれいだった。もうクロッキー帳を開くことはあきらめたけれど、ほんとうに絵になる人だとつくづく思う。
――彼女の美しさを表現する言葉が見つけられない。ああ、いつまでも見ていたい。
これが、貴女との出会い。
とある店舗の前で、わたしは足を止めた。
先ほど交差点で見かけた女性に興味を持った。一目だけ見よう、その一心で追いかけていたものの、見失ってしまった。その代わりとはいってはなんだけど、この場所に興味を奪われてしまった。
建物をまじまじと見上げて全体像を視界に収める。
茶色の外観はどこか木造を思わせるレトロさ。通りに面する壁は全面ガラス窓じゃないけれど太陽によってとても明るく照らされている。ドアだけは一面がすりガラスになっていてほどよく上品さを引き立てていた。
こじんまりとしていながらも、どこか落ち着く空間。見ただけなのに、なんとなく分かるような。
<カフェ・サクラ>
ドアにかかったプレートがそう教えてくれる。
長方形の板には店名が彫刻されていて、右隅にも桜の花びらが彫られていた。可愛げながらも品のある名前に引き寄せられる。それに、わたしの苗字と同じ名前なんて、なんとなくおもしろい。
もう心の中は手招きされていた。いらっしゃいって、呼ばれていた。
お誘いを受けたわたしはドアを開いた。
・・・
「うわぁ......」
店内に足を踏み入れたわたしは、すぐさま見えた光景に感嘆のため息をもらした。
わたしの瞳に映るのは、大きな桜の木だった。
背丈より高い桜の木は満開の花びらを抱えて誇らしげ。その姿をオレンジ色の電球が照らしていた。
......どうやって咲いているんだろう。
静かな店内にはピアノの曲がうっすらと流れている。それがまた素敵で、落ち着く空間だなともう実感できる。
「......さま、お客さま」
ずっと声をかけられていたのに、まったく気付かなかった。思わず背伸びをして返事をしてしまう。
「は、はいっ」
「ふふっ、お好きな席へどうぞ」
白のブラウスに黒のパンプスを着た店員がこちらを見て手招きしていた。濃紺のエプロンを身に付けている姿は、立派に仕事をこなす誠実さも物腰柔らかな女性らしさも感じさせた。
「ああ、すみませんっ」
わたしは目についたテーブル席に駆け足で向かった。
店員が持ってきたメニューを開いてみる。コーヒーはブレンドしかないものの、紅茶はアールグレイやダージリンなどたくさんの種類があった。そしてパンケーキ。とてもシンプルな飲み物たちが並んでいる。
よく駅前にあるチェーン店に置かれているお洒落なフラペチーノはなかった。その方が、なんだかこの店らしいだろう。
「......あの桜の木ってどうなっているのですか?」
アールグレイを頼んだわたしは、思わず店員に訊いた。メニューを脇にかかえた彼女は目を丸くして、手を口に添えてくすくすと笑い出した。
「すみません、あまり質問される方がいなかったので、つい」
ついってなんだ、ついって。なんだか拍子抜けしてしまう。
「もちろんこの木は実際に生えているものはありません。モニュメントです」
「モニュ......」
質問したこちらが恥ずかしくなった。思わず口がすぼんでしまう。
「じゃあ、テーブルにあるこれは?」
「造花です」
どのテーブルの上にも透明なグラスが置かれていた。小さなキャンドルランプになっていて、桜の枝が一輪刺さっている。よく見たら作り物だとわかるのに。
恥ずかしさを上塗りしてしまった。考えればわかるじゃないか。
了解しましたと、店員はカウンターに戻っていった。
この席に座ると、店内の中が一望できる。
すべてのテーブルから桜の木が見える配置になっているみたいだ。くすみのある白い床と茶色のテーブルは桜の色を引き立てるような色合いになっていて、それらを天井の梁にある照明が照らしていた。
それぞれがきちんと調和して、美しさのある店内が形作られていた。
なるほど、まるでひとつの箱庭。
夢中になってあちらこちらに瞳を泳がしていた。どこもかしこもきれいだ。ほかの席に座っているわずかな人は静かに座っていて、この風景に馴染んでいる。
そう思っていたのに、ある一点を見つめた途端に、それらは霞んでしまった。
カウンター席に人がいる。わたしが交差点で見かけた女性だった。
亜麻色の長い髪も、ティーカップに添えている指先も、つい見つめてしまう。店内の光景なんて透き通ってしまうような、彼女だけがくっきりと見える雰囲気を感じてしまう。
そこにわたしが注文した飲み物が届けられる。カップから立つ湯気もまるで踊っているようだった。
ああ、彼女の姿を見れてよかった。
はるか昔、この世でいちばん美しいものは人体の身体だったという。美しい造形美を残したくて彫刻がたくさん造られてきた。それらは美術の教科書やレプリカとして今に至るまで語り継げられている。
わたしはもう夢中になっていた。
鞄からクロッキー帳と筆箱を取り出すと、急いで白紙のページを開いた。彼女の姿を残しておきたい。えもいわれぬ美しさだから、その一心で鉛筆を走らせる。
カウンター席と女性のレイアウトをざっとまとめ上げた。ラフはこれくらいでいいだろう。さあ、輪郭を描いていこう......。
しかしながら、これ以上描きだすことはできなかった。
女性がこちらを向いた。
しばしこちらを見つめている。わたしと目が合ってしまった。
彼女は人差し指をそっと口元に添えて"しずかに"と念を押していた。
まるで、雷に打たれたよう。
わたしはつい硬直してしまった。なにもできずに彼女の方を向いたまま。
女性が席を立った。
そのままこちらに向けて歩いてくる。ああ、どうしよう。これは怒られる流れしか感じない。慌ててテーブルの上を片付けようとするも、鞄にしまい込むまで間に合わなかった。
しかしながら、向かいの席に座った彼女はなにも言わなかった。
......あれ、目元が笑っている。
どういうことだろうか。しばしそのまま見つめ合ってしまった。
ようやく彼女が口を開いた。わたしに話しかけてくる声は小声ながらもよく透き通っていて、はっきりと聞き取れた。
「となり、いいかしら?」
「ええ、......どうぞ」
「いい子ね。でもここは静かなにしなきゃいけないところよ」
ああ、ごめんなさいと頭を下げる。そして、顔を上げるところでクロッキー帳に気づいた。出しっぱなしだし、女性を描いたページが開かれていたし。
我に返ったわたしは硬直してなにもできなかった。こんなにも静かな店内でわたしひとり声を上げて、おまけに絵を描こうとしていた。
気恥ずかしさと申し訳なさが同居してしまった。
慌てて片付けようとするも、ちょっと待ってという声に遮られた。
「ちょっと待ってくれないかしら、見せてくれない?」
仕方ないと、おずおずと差し出す。
クロッキー帳をめくる彼女をわたしは見つめる。これはやはり怒られる流れなのだろう。もうそれしか考えられなくて、肩をすぼめる。次第にテーブルの上を見つめてしまう。
おそるおそる、ちらりと視線を上げる。あれ、なにかがおかしい。
女性の表情はもっとやわらかくなっていた。先ほどよりもずっと。
ふふっと声を漏らした彼女がわたしの視線に気づく。こちらを見て微笑んでくれた。
「上手ね」
「あ、ありがとうございます......」
褒められると思っていなかったから、正直どうすればいいのかわからない。さっきから萎縮しまくりで、明らかに調子を崩していた。それでも、お礼の気持ちを込めてこちらも頭を下げた。
「それで、なんで私を描こうと思ったの?」
やはり訊かれてしまった。彼女の瞳はまっすぐに、けれども楽しそうにこちらを見つめていた。
貴女のことがきれいだったから、絵画のように残したかったから。こう答えてしまって良いのだろうか。下手したらナンパみたいな台詞だ。わたしは彼女を口説こうとしているみたい。いやいや、ぜったいに違う。
「え、えーっと......」
しどろもどろになる。あたりが静寂に包まれたみたいで、うっすらと流れているピアノのBGMがわたしの思考をじゃまする。ああ、なにか言わなきゃ......。
「まあ、良いわ」
ふっと胸をなでおろす。
「いつかモデルになってあげてもいいけど、またの機会にね」
「......そ、そうですね」
わたしはまだ緊張で心に汗が流れている。なんだかすみませんと、また頭を下げた。
「いい子ね、あなた名前はなにていうのかしら?」
「佐倉 未香です」
「私は花蓮よ。よろしくね」
はい、とお互いに会釈をする。
それから、彼女は静かに紅茶を飲みだした。
時折窓の方を向くようすをわたしは静かに見つめていた。肩にかかる亜麻色の髪も、少し長く見えるまつ毛も、きれいだった。もうクロッキー帳を開くことはあきらめたけれど、ほんとうに絵になる人だとつくづく思う。
――彼女の美しさを表現する言葉が見つけられない。ああ、いつまでも見ていたい。
これが、貴女との出会い。


