配られたプリントに目をやる。
 一枚ちらりとめくって、心の中で小さなため息をついた。ずらりと書かれているのは教科の一覧で、ざっと流し読みして終わらせてしまった。
 教室の中を見渡してみる。ほとんどの生徒がプリントに目を落としていて、先生の説明を確認しながらこれからの授業を意識しているみたいだった。
 その中でわたしはどうしても現実感が湧かなかった。
 
 それでさあ、ととなりを歩く人物から声が響く。
 一緒に廊下を歩いている杏ちゃんはあれらこれらと好きに話す。先ほどは昨晩放送されていたドラマの話をしていたのに、今は彼女が好きなアーティストの話題になっていた。たしかそのドラマの主題歌を歌っているとか言っていたっけ。
 ふたりで話すときは、いつも会話は彼女から。わたしはよく話を聞く立場だった。
 それでも悪いことじゃない。和気あいあいとする雰囲気は好きだし、純粋に人の話を聞くのが好き。それに、他人がどう思っているのか聞くのが楽しいと思っているから。
「それにしてもさ、なんだか多くない? あくび」
「ああ、そうだねえ」
 杏ちゃんが口に手を当てて答える。
「午後はあったかいからすぐ眠くなってさ、なんだか午後って苦手なの......」
 そういうものだろうか。花粉症じゃないからよく分からない。
 彼女が小さなくしゃみをした。
未香(みか)は午後とか平気なの? ぜったい眠くなるじゃん」
「そんなことないよ」
 あんまり午後に眠くなるなんて思ったことはなかった。みんなが思う辛さが分からない。けれども、わたしは昼下がりの時間帯はなんだか苦手だ。
 今日もそんな話が続くと思っていた。
 ここで、杏ちゃんは新しい話を繰り出した。わたしの方をしっかりと向いて、少しだけ真剣な表情になっていた。
「それで、三年生になったらどうするの?」
 その質問が心をわしづかみにする。
 もう二年生の生活は終わりを迎えようとしている。春を迎えたら進級してクラス替えがあって、また新しい授業がはじまる。
 三年生の授業になると多くの科目が選択式になって、より本人の進路に合わせた時間割を作ることができる。先ほど配られたプリントが科目の一覧だった。
 わたしもみんなも好きな科目を多く並べたっていいし、なんなら苦手なものを選ぶ必要だってないんだ。
 だからといって、なにも考えられなかった。少しだけ無言が続く。困り果ててしまったわたしは、仕方なく質問を返す。
「それで、杏ちゃんは将来どうするの?」
「私? 私は親の仕事継ぐかなあ。アイドルとか歌手なんて言ったら怒られたことあったし」
「そっか、それは大変だね」
 彼女の家は自営業をしている。相づちを打つわたしに、彼女は大きくうなづいて返す。
 それでも、こちらを向く瞳はまだこちらを向いたままだ。興味深いよって伝えてくる。
「わたしはまだ、なにも思いつかないなあ」
 杏ちゃんのテレパシーを受け取ったわたしは正直に返した。進級したってとくに選びたい授業だってないし、将来やりたいことだって見つけられないし。
未香(みか)はもったいないよ。せっかく真面目にがんばっているのに、絵だって上手いのに」
「そんなことないって」
 慌てて手を振って答える。褒めてもらっているのに否定するなんてもったいないけれど、仕方なかった。
 わたしは、どこへ向かえばいいんだろう......。
 
 ふっとため息が漏れる。
 進級したらクラスが離れてしまうかもしれない。
 もしかしたら、彼女にノートを見せるのもあと少しなのだろう。自分の面倒がひとつ解消されるなんてことは考えもしなかった。ちょっとした寂しさ。
 校舎から見える景色もこの歩いている道も、あと少し。そしたら、来年の今ごろは卒業なんだな。気が早いなと苦笑するけれど、ぜったいの事実。
 式にはおめかしするのかな? 会場では泣くのかな? 今から考えたってどうしようもないことを並べてみる。けれども、大事なことはひとつだけ。
 ――彼に、なにを伝えようか。
 小さい頃にはよく話し相手になってくれた。どんな話をしてくれるのか楽しみに待っていた。そして、一度は離れたけど、また再会した。
 そんな彼に、わたしはなにを返せるだろう。手紙を書くかどうかはさておき、きちんと言葉をしたためておきたい。感謝を伝えておきたい。
 わたしは、ちゃんとできるだろうか。
 
 じゃあねと杏ちゃんと別れた。

 ・・・

 ......あ。
 歩いていると、とある人物がコンビニから出てきたところだった。
森野(もりの) (あゆむ)だ。クラスメイトの男子で、わたしがいつも言っている"彼"。
「あ、買い物してたんだね」
「あ、ひとりなんだ」
 さっきまで杏ちゃんと一緒だったよと説明すると、わたしは彼の隣を歩き出す。
 静かな街並みに、コツコツと歩く音だけが響く。彼の足取りは彼女と比べて少しペースが速い。それでも、わたしは自然と合わせられる。
 
 小さい頃からそうしてきたから。
 また高校生になっても、そうしているから。
 
 わたしたちをつなぐ言葉は、幼なじみ。
 小学校ではほとんどを同じクラスで過ごした。中学生の頃に一度は離れたものの、こうして再会した。
 幼い頃はわたしの方が背が高かったのに、今は見上げて話すようになってしまって、月日を感じてしまう。それでも、ふたりだけの時にお互いに下の名前で呼ぶのも、成り行きで一緒に帰るのも、まったく変わっていなかった。
 
 駅に入ると、もうすでに電車が行ってしまった。
 仕方なくホームのベンチに座る。午後の時間帯にやってくる客はおらず、静寂だけがわたしたちを包み込んでいた。
「ねえ、(あゆむ)は三年生になったらどうするの?」
「なにも考えられないなあ。未香(みか)は?」
 わたしも。軽く首を振って返答に変える。
 しばらく無言が続いてしまう。それでもかまわなかった。ほんとうは会話のひとつでも拾い上げて、広げていった方が良いのが分かっているのに、そんな気分にはならなかった。
 少し寄りかかるようにして、となりの人物の肩に頭を乗せた。
 
 ただきみと一緒にいたくて。
 ただわたしの瞳にきみを写していたくて。
 
 今はそれだけを考えていた。
 進級したらどうなるか分からないから、伝わる体温で少しの寂しさを溶かしてほしかった。

 ・・・

 歩と別れて帰っているところ、ちょっとした風がまたマフラーを揺らした。
 日差しはあたたかいのに、風の冷たさがまだ残っている。これも春の陽気だな。
 つい鼻が動く。なんだか香りがするような気がしたから。まるで、この季節に咲く花のよう。
 見ると、通りの先にある交差点を横切る人物がいた。
 女性だった。
 まるで花束がそのまま人の姿になったよう。
 不思議な錯覚を覚えたわたしは、ちょっとついて行ってみようと歩き出した。一目見るだけだと自分に言い聞かせる。けれども、好奇心が胸の奥で鳴っていた。