終業式の日になった。
電車に乗り込んで、いつもの通りドアの脇にあるスペースに立つ。
窓から外の景色を眺めている。青い空、白い雲。多彩な花木。いつもと変わらない光景がそこにはあった。
思わずため息が漏れた。
朝の輝きに感動している余裕はなく、昨日から煮え切らない考えごとが心の中に残っていた。
――杏ちゃんになんて言おうか。
わたしが心配していただけ。でも、彼女にもしっかりしてほしいだけ。
ノートひとつからこんなにも感情が生まれるなんて思いもしなかった。上手くまとまりきらない言葉たちをただただ羅列していく。消しゴムを持たないわたしたちは、それらを修正しようともせずに、新しいものを生み出しては、また書き込んでいってしまう。次第にノートの端から端まで黒く塗りつぶしていくんだ。
ボタンの掛け違いだけど、それだけでは言い表せ切れないなにかがそこにはあった。
電車が次の駅に入っていく。わたしは顔を上げて何気なくホームのようすを眺めていた。相変わらず乗り込む人が少ないなと思いながら、とある女子高生の姿に気づいた。
杏ちゃんだ!
でも、わたしが乗っている車両からはかなり遠いところだ。手を伸ばしてもとうてい届かない。満員電車の中をかき分けて行くわけにはいかない。
降りる駅で捕まえるしかなかった。
そしたら一気に謝ろう。その手しか考えられなかった。
次第に緊張してくる。ちゃんと言えるだろうか、許してもらえるだろうか。
そして、杏ちゃんはなにを考えているだろうか。彼女も同じように考えているのかな。さっきの駅でわたしのことに気づいたかな。
わたしの心は未だに迷子になっている。
やっと降りる駅に着いた。
神様に感謝しなきゃ。こうやって杏ちゃんと会うことができるんだから。
わたしはドアが開けられたと同時に急いで降りた。降りる人と乗り込む人が不秩序の流れを作り出す。その隙間を見つめては、まるで縫うように流れに乗り込んでいった。
どれくらい走っただろうか。階段の手前で見つけることができた。
「あ、杏ちゃんー!!」
大きく息を吸って、大きな声で呼びかける。
あたりの人たちがわたしのことを不審そうに見つめた。それでもわたしは構わなかった。
呼びかけられた彼女は、足を止めて振り返った。
......あ、なんて言おう。
瞳がぶつかり合う中、つい言葉を失ってしまう。
なんて言わなきゃいけないんだっけ。先ほどまで考えていたのに、なんてわたしは愚かなんだろう。
どれくらいそうしていただろう。
風が強く吹いている。色んな人たちの流れを切り裂いては、わたしたちだけしかいない空間を作り出す。
まるで静寂の中にいるみたいで、わたしは彼女のことに集中できる。
こちらを見つめている瞳が揺れた気がした。
ここで、同時で口を開くとは思わなかった。わたしたちは息ぴったりに言い合った。
「ごめん!!」
えっ! 思わずお互いの目をやる。そして吹き出すように笑い合った。
「さあ、学校行こうよ。未香」
「そうだね、杏ちゃん」
こんなにもあっさりと物事が進むなんて。わたしは驚きを隠せなかった。
わたしたちは並んで改札機を抜けた。
歩幅のテンポを合わせて、ふたり歩いて行く。なにから話そうか、どんなことを話題にしようか。きっと彼女も同じことを考えているに違いないんだ。
・・・
無事に終業式とホームルームを終えた教室は、和気あいあいとした雰囲気に包まれていた。
その中でやはり話題にあがるのは、まだ公開されていない三年生のクラス割についてだった。
「来年も同じクラスだったらいいな」
ほとんどの子が同じことを口にしている。彼ら彼女らのことを眺めているわたしも、どこか微笑んで見つめていた。
男子のグループがぞろぞろと席を立って教室を後にした。
彼らはこのあとゲームセンターとかカラオケとかに行くのだろう。わたしにはグループになってどこかで遊んだ経験がないから、とても羨ましかった。
ほんとうに勉強ばかりの人生。わたしが追いかけていた、きみのためだった。
彼らの中に歩の姿があったのに気づいた。
うろたえたわたしが慌てて席を立つ。来年も同じクラスになるとは限らない。違ってしまったら、また会えなくなってしまうのが怖いんだ。
こんなんじゃだめだ。きみに言いたいことがあるんだから......。
けれども、彼らの姿はもう見えなくなっていた。
どうしようと小さくつぶやくわたしの肩をたたく姿があった。杏ちゃんだった。
「......行きなって」
「......うん、ありがとう」
わたしは大きく頷くと、走って教室を出ていった。
校門のあたりでみんなを見かけた。彼らがゆっくり歩いているのが幸いだった。
速度をあげたわたしは、勢いよく声をかけた。
「そこの男子、待ったあ!!」
何事かと彼らが足を止めた。佐倉じゃん。どうしたの。色んな声が聞こえる中、わたしは無我夢中で歩の手を取った。
「ちょっと歩を借りるねー!!」
にっこりと挨拶しながら、わたしは彼を奪っていく。慌てて彼も走り出す。
見事な強奪劇に、残った子たちは目を丸くしていた。
どうしてあのふたりは名前で呼び合ってるのかって声が聞こえた。恥ずかしかったけれど、ちょっと嬉しかった。
・・・
もう走れなかった。
路地に入ったところの公園に、わたしたちは腰を下ろした。
「もうだめ、走れない動けない」
うつむいて肩で息するわたしを、歩はため息交じりに見つめていた。
「どうしてこんなことをしたの?」
「......だって。もうみんなと行っちゃうから」
行っちゃうって、なにを? 彼はなんのことか分からずに目を丸くしている。
「......だって、このあとカラオケとか行くんでしょ」
「え? ......行くつもりなかったんだけど」
「......え?」
目を丸くした彼は、そのまま真顔になって、しばらくしたら笑い出した。
なんで笑うのだろう。つい困ってしまったわたしは、スマートフォンを見てほしいと促される。
「適当なところで別れるつもりだったんだ。放課後、ちょっと時間が欲しくてさ。......話したくて」
スマートフォンを開けると、そこには一件だけ歩からのメッセージが届いていた。いざ口にすると彼も恥ずかしいのだろう。そっぽを向いて顔を赤くしてしまった。
わたしも恥ずかしくなって、つい背けてしまった。
......走って追いかけたことなんて、ほんとうに無意味だったんだ。
妙なことで緊張するふたりを、そよ風が包んでいた。
どれくらいそうしていただろうか。
空に鳩が飛んでいるのを眺めていたわたしに、歩が話しはじめてくれた。
「未香って、ほんとうに無茶するよね」
「無茶ってなによ、無茶って」
彼と話していると、自然とラフな言い回しになる。花蓮さんとは違う、素の自分を出せる。飾らない自分を見せていられる。
「そりゃ分かるでしょ。走ってきて連れ去るなんて思いもしなかったし」
どうしようもなく話したかったから。わたしは頬を指でかいた。
「......それにさ、わざわざ通ってた私立を辞める人なんて探してもいないだろうし」
それはあんまり言わないでほしかった。いざ言われるとどう説明しようか困ってしまう。しかも、よりによって相手が彼だから。
幼いころのわたしは、自分自身に鞭を打った。いつも助けてくれるきみがいたから、わたしはひとりで頑張りたいと思うようになった。
鳩だっていつしか巣から離れていくから。自分だけで空を飛ぶようになるから。
やっと気持ちを整理できた。きちんと姿勢を正して、上目遣いにして話を聞かせよう。
「わたしはね、ずっときみを追いかけていたんだよ」
......僕を? なんのことだか分からないと表情で告げる。
「だって、休んでた日はいつもプリント持ってきてくれたじゃない」
「それは家が近くだしさ、困っている人を放っておけないでしょ」
彼は誰にだって優しい。今まで色んな子が助けられてきた。他に学校休んだ子もいれば、杏ちゃんだってそうだ。皆のことを見守っている姿を認めてあげるべきなんだ。
「それなのに、わたしだけを見てほしいとか頑張りを認めてほしいとか、そんなことばかり思っちゃって、ほんとうにごめんなさい」
頭を下げた。こんないやしい女の子は叱られるだろうか。またしても不安になってしまう。
歩はなにも言わなかった。
代わりに、肩に手を回してくる。少し抱きしめられる格好になって、わたしは顔を上げた。
「だいじょうぶ、未香は未香だから」
「......ありがとう」
彼は正面を向いたまま耳まで赤くしていた。誠実なわりにストレートでものを言うのが苦手で。だから、わたしが風邪をひいたときはどんな言葉がベストだったのか考えすぎて、メッセージを送れなかったのだろう。
きちんと本心だと伝わってくる。わたしのことを想ってくれてると分かる。
彼の肩に頭を乗せながら、わたしは思い出話を打ち明けた。
「ベッドの中でずっと死んじゃうって思ってた。ただ熱を出してただけなのに、大げさだったね。でも、きみのストーリーが心を癒してくれたの。だから明日も生きようって考えるようになったんだ」
「......ストーリーって、あの?」
そうだよ。わたしは小さく頷く。
歩の小さい頃は、今以上に物静かだった。いつも本を読んでばかり。次第になにかノートに書くようになっていた。その内容を、わたしだけが知っている。
「ノートに短いお話を書く人なんて、ほかにいないよ」
完成度なんてとても低くて、起承転結なんてまったくできていなかった。それでも、わたしはいつも楽しく彼が作ってくる"小説"をベッドの上で聞いていた。
最初は絵本や紙芝居だったのに、いつの頃から"今日はぼくが書いてきたんだよ"って自信満々に言うようになっていた。色んな作品に触れると書きたくなるのはほんとうなのかもしれない。
ハガキに描いたイラストは、お礼のプレゼントだった。
聞かせてもらったお話をイメージしたもの。印象に残ったシーンだったり、表紙絵を描いたりしていた。ひとつの作品にひとつのイラストを。その思いがわたしをどんどん活発な子ににしていく。
それが、おんぶにだっこだと気づいてしまったから。
一度は彼のいないところで頑張ろうと思った。でも、いいことなんてひとつもなかった。
中学校ではまったく馴染めなかった。絵が好きだから入ってみた美術部も日々の勉強たちも、環境が悪いとこんなにも重くのしかかってしまう。
きみと一緒にいたい。
ただの押し通したわがままだった。心の穴を埋められるなら、画力の高いデッサンも可愛い制服も必要なかった。
無邪気に過ごせるなら、わたしはそれだけで良かったんだ。
歩もわたしの思い出話に、ひとつの話を添えてくれる。
「実はあのカード、全部仕舞ってあるよ。ちゃんと保管してるんだ」
「えっ......」
思わず顔を上げて、彼のことを見上げる。手を口に添えたまま、驚きの顔を隠せない。
「未香だけが小説を楽しみにしてくれたから。だからこれからも書いていきたいと思う」
「わたしだってありがとう。素敵な話を読ませてくれて」
わたしたちは違うところはあれど、創作を愛する者同士。一緒に歩んでいきたいと思う。
これまでも、そしてこれからも。
わたしの描きたいものは歩の言葉の中にあるんだ......。
花蓮さんに感謝しよう。
大切なものに気づかせてくれたから。恋心が芽生えたから。
そして、将来の夢を見つけられたから。
前を見つめたまま、わたしは口にする。あの日生まれた嘘が、いつしか結晶となっていた。
「ねえ、わたし決めたんだ。大学に行くの」
「そうなんだ。もっと絵の勉強をするんだと思ってたよ」
「それもいいかと思ったけどね、わたしの絵を推してくれる人と出会ったから」
だから、わたしは自分の絵を自分で推していきたい。技法じゃなくて、自分の感性を磨いていきたいと思うから。個性を認めることが人生を彩り豊かにさせてくれるって教えてくれたから。
歩の瞳をしっかりと見つめる。
きらめく彼の瞳に、きみの夢は揺るがないんだと実感する。だから、わたしは重ねてひとつの約束を交わそう。
「きみが書いた小説に、わたしが挿絵を描くの。約束だよ」
仕事を探しながら、イラストを描けていけたらいいなって考えるようになった。
花蓮さんのお子さんは助けられなかった。けれども、助けようと活動する姿は称賛に値するだろう。追いかける夢だって、きっと同じだから。
わたしたちが普段からしている選択は、ただの偶然なのかもしれない。それでも、お互いの夢を叶えて巡り合うとき、運命になるんだと信じてる。
いつかそんな間柄になれたらいいな。
「ねえ、まだ時間はあるかな?」
もっと話がしたいという歩の提案に、わたしはもちろんと頷いて返す。
これから、<カフェ・サクラ>に案内しよう。
電車に乗り込んで、いつもの通りドアの脇にあるスペースに立つ。
窓から外の景色を眺めている。青い空、白い雲。多彩な花木。いつもと変わらない光景がそこにはあった。
思わずため息が漏れた。
朝の輝きに感動している余裕はなく、昨日から煮え切らない考えごとが心の中に残っていた。
――杏ちゃんになんて言おうか。
わたしが心配していただけ。でも、彼女にもしっかりしてほしいだけ。
ノートひとつからこんなにも感情が生まれるなんて思いもしなかった。上手くまとまりきらない言葉たちをただただ羅列していく。消しゴムを持たないわたしたちは、それらを修正しようともせずに、新しいものを生み出しては、また書き込んでいってしまう。次第にノートの端から端まで黒く塗りつぶしていくんだ。
ボタンの掛け違いだけど、それだけでは言い表せ切れないなにかがそこにはあった。
電車が次の駅に入っていく。わたしは顔を上げて何気なくホームのようすを眺めていた。相変わらず乗り込む人が少ないなと思いながら、とある女子高生の姿に気づいた。
杏ちゃんだ!
でも、わたしが乗っている車両からはかなり遠いところだ。手を伸ばしてもとうてい届かない。満員電車の中をかき分けて行くわけにはいかない。
降りる駅で捕まえるしかなかった。
そしたら一気に謝ろう。その手しか考えられなかった。
次第に緊張してくる。ちゃんと言えるだろうか、許してもらえるだろうか。
そして、杏ちゃんはなにを考えているだろうか。彼女も同じように考えているのかな。さっきの駅でわたしのことに気づいたかな。
わたしの心は未だに迷子になっている。
やっと降りる駅に着いた。
神様に感謝しなきゃ。こうやって杏ちゃんと会うことができるんだから。
わたしはドアが開けられたと同時に急いで降りた。降りる人と乗り込む人が不秩序の流れを作り出す。その隙間を見つめては、まるで縫うように流れに乗り込んでいった。
どれくらい走っただろうか。階段の手前で見つけることができた。
「あ、杏ちゃんー!!」
大きく息を吸って、大きな声で呼びかける。
あたりの人たちがわたしのことを不審そうに見つめた。それでもわたしは構わなかった。
呼びかけられた彼女は、足を止めて振り返った。
......あ、なんて言おう。
瞳がぶつかり合う中、つい言葉を失ってしまう。
なんて言わなきゃいけないんだっけ。先ほどまで考えていたのに、なんてわたしは愚かなんだろう。
どれくらいそうしていただろう。
風が強く吹いている。色んな人たちの流れを切り裂いては、わたしたちだけしかいない空間を作り出す。
まるで静寂の中にいるみたいで、わたしは彼女のことに集中できる。
こちらを見つめている瞳が揺れた気がした。
ここで、同時で口を開くとは思わなかった。わたしたちは息ぴったりに言い合った。
「ごめん!!」
えっ! 思わずお互いの目をやる。そして吹き出すように笑い合った。
「さあ、学校行こうよ。未香」
「そうだね、杏ちゃん」
こんなにもあっさりと物事が進むなんて。わたしは驚きを隠せなかった。
わたしたちは並んで改札機を抜けた。
歩幅のテンポを合わせて、ふたり歩いて行く。なにから話そうか、どんなことを話題にしようか。きっと彼女も同じことを考えているに違いないんだ。
・・・
無事に終業式とホームルームを終えた教室は、和気あいあいとした雰囲気に包まれていた。
その中でやはり話題にあがるのは、まだ公開されていない三年生のクラス割についてだった。
「来年も同じクラスだったらいいな」
ほとんどの子が同じことを口にしている。彼ら彼女らのことを眺めているわたしも、どこか微笑んで見つめていた。
男子のグループがぞろぞろと席を立って教室を後にした。
彼らはこのあとゲームセンターとかカラオケとかに行くのだろう。わたしにはグループになってどこかで遊んだ経験がないから、とても羨ましかった。
ほんとうに勉強ばかりの人生。わたしが追いかけていた、きみのためだった。
彼らの中に歩の姿があったのに気づいた。
うろたえたわたしが慌てて席を立つ。来年も同じクラスになるとは限らない。違ってしまったら、また会えなくなってしまうのが怖いんだ。
こんなんじゃだめだ。きみに言いたいことがあるんだから......。
けれども、彼らの姿はもう見えなくなっていた。
どうしようと小さくつぶやくわたしの肩をたたく姿があった。杏ちゃんだった。
「......行きなって」
「......うん、ありがとう」
わたしは大きく頷くと、走って教室を出ていった。
校門のあたりでみんなを見かけた。彼らがゆっくり歩いているのが幸いだった。
速度をあげたわたしは、勢いよく声をかけた。
「そこの男子、待ったあ!!」
何事かと彼らが足を止めた。佐倉じゃん。どうしたの。色んな声が聞こえる中、わたしは無我夢中で歩の手を取った。
「ちょっと歩を借りるねー!!」
にっこりと挨拶しながら、わたしは彼を奪っていく。慌てて彼も走り出す。
見事な強奪劇に、残った子たちは目を丸くしていた。
どうしてあのふたりは名前で呼び合ってるのかって声が聞こえた。恥ずかしかったけれど、ちょっと嬉しかった。
・・・
もう走れなかった。
路地に入ったところの公園に、わたしたちは腰を下ろした。
「もうだめ、走れない動けない」
うつむいて肩で息するわたしを、歩はため息交じりに見つめていた。
「どうしてこんなことをしたの?」
「......だって。もうみんなと行っちゃうから」
行っちゃうって、なにを? 彼はなんのことか分からずに目を丸くしている。
「......だって、このあとカラオケとか行くんでしょ」
「え? ......行くつもりなかったんだけど」
「......え?」
目を丸くした彼は、そのまま真顔になって、しばらくしたら笑い出した。
なんで笑うのだろう。つい困ってしまったわたしは、スマートフォンを見てほしいと促される。
「適当なところで別れるつもりだったんだ。放課後、ちょっと時間が欲しくてさ。......話したくて」
スマートフォンを開けると、そこには一件だけ歩からのメッセージが届いていた。いざ口にすると彼も恥ずかしいのだろう。そっぽを向いて顔を赤くしてしまった。
わたしも恥ずかしくなって、つい背けてしまった。
......走って追いかけたことなんて、ほんとうに無意味だったんだ。
妙なことで緊張するふたりを、そよ風が包んでいた。
どれくらいそうしていただろうか。
空に鳩が飛んでいるのを眺めていたわたしに、歩が話しはじめてくれた。
「未香って、ほんとうに無茶するよね」
「無茶ってなによ、無茶って」
彼と話していると、自然とラフな言い回しになる。花蓮さんとは違う、素の自分を出せる。飾らない自分を見せていられる。
「そりゃ分かるでしょ。走ってきて連れ去るなんて思いもしなかったし」
どうしようもなく話したかったから。わたしは頬を指でかいた。
「......それにさ、わざわざ通ってた私立を辞める人なんて探してもいないだろうし」
それはあんまり言わないでほしかった。いざ言われるとどう説明しようか困ってしまう。しかも、よりによって相手が彼だから。
幼いころのわたしは、自分自身に鞭を打った。いつも助けてくれるきみがいたから、わたしはひとりで頑張りたいと思うようになった。
鳩だっていつしか巣から離れていくから。自分だけで空を飛ぶようになるから。
やっと気持ちを整理できた。きちんと姿勢を正して、上目遣いにして話を聞かせよう。
「わたしはね、ずっときみを追いかけていたんだよ」
......僕を? なんのことだか分からないと表情で告げる。
「だって、休んでた日はいつもプリント持ってきてくれたじゃない」
「それは家が近くだしさ、困っている人を放っておけないでしょ」
彼は誰にだって優しい。今まで色んな子が助けられてきた。他に学校休んだ子もいれば、杏ちゃんだってそうだ。皆のことを見守っている姿を認めてあげるべきなんだ。
「それなのに、わたしだけを見てほしいとか頑張りを認めてほしいとか、そんなことばかり思っちゃって、ほんとうにごめんなさい」
頭を下げた。こんないやしい女の子は叱られるだろうか。またしても不安になってしまう。
歩はなにも言わなかった。
代わりに、肩に手を回してくる。少し抱きしめられる格好になって、わたしは顔を上げた。
「だいじょうぶ、未香は未香だから」
「......ありがとう」
彼は正面を向いたまま耳まで赤くしていた。誠実なわりにストレートでものを言うのが苦手で。だから、わたしが風邪をひいたときはどんな言葉がベストだったのか考えすぎて、メッセージを送れなかったのだろう。
きちんと本心だと伝わってくる。わたしのことを想ってくれてると分かる。
彼の肩に頭を乗せながら、わたしは思い出話を打ち明けた。
「ベッドの中でずっと死んじゃうって思ってた。ただ熱を出してただけなのに、大げさだったね。でも、きみのストーリーが心を癒してくれたの。だから明日も生きようって考えるようになったんだ」
「......ストーリーって、あの?」
そうだよ。わたしは小さく頷く。
歩の小さい頃は、今以上に物静かだった。いつも本を読んでばかり。次第になにかノートに書くようになっていた。その内容を、わたしだけが知っている。
「ノートに短いお話を書く人なんて、ほかにいないよ」
完成度なんてとても低くて、起承転結なんてまったくできていなかった。それでも、わたしはいつも楽しく彼が作ってくる"小説"をベッドの上で聞いていた。
最初は絵本や紙芝居だったのに、いつの頃から"今日はぼくが書いてきたんだよ"って自信満々に言うようになっていた。色んな作品に触れると書きたくなるのはほんとうなのかもしれない。
ハガキに描いたイラストは、お礼のプレゼントだった。
聞かせてもらったお話をイメージしたもの。印象に残ったシーンだったり、表紙絵を描いたりしていた。ひとつの作品にひとつのイラストを。その思いがわたしをどんどん活発な子ににしていく。
それが、おんぶにだっこだと気づいてしまったから。
一度は彼のいないところで頑張ろうと思った。でも、いいことなんてひとつもなかった。
中学校ではまったく馴染めなかった。絵が好きだから入ってみた美術部も日々の勉強たちも、環境が悪いとこんなにも重くのしかかってしまう。
きみと一緒にいたい。
ただの押し通したわがままだった。心の穴を埋められるなら、画力の高いデッサンも可愛い制服も必要なかった。
無邪気に過ごせるなら、わたしはそれだけで良かったんだ。
歩もわたしの思い出話に、ひとつの話を添えてくれる。
「実はあのカード、全部仕舞ってあるよ。ちゃんと保管してるんだ」
「えっ......」
思わず顔を上げて、彼のことを見上げる。手を口に添えたまま、驚きの顔を隠せない。
「未香だけが小説を楽しみにしてくれたから。だからこれからも書いていきたいと思う」
「わたしだってありがとう。素敵な話を読ませてくれて」
わたしたちは違うところはあれど、創作を愛する者同士。一緒に歩んでいきたいと思う。
これまでも、そしてこれからも。
わたしの描きたいものは歩の言葉の中にあるんだ......。
花蓮さんに感謝しよう。
大切なものに気づかせてくれたから。恋心が芽生えたから。
そして、将来の夢を見つけられたから。
前を見つめたまま、わたしは口にする。あの日生まれた嘘が、いつしか結晶となっていた。
「ねえ、わたし決めたんだ。大学に行くの」
「そうなんだ。もっと絵の勉強をするんだと思ってたよ」
「それもいいかと思ったけどね、わたしの絵を推してくれる人と出会ったから」
だから、わたしは自分の絵を自分で推していきたい。技法じゃなくて、自分の感性を磨いていきたいと思うから。個性を認めることが人生を彩り豊かにさせてくれるって教えてくれたから。
歩の瞳をしっかりと見つめる。
きらめく彼の瞳に、きみの夢は揺るがないんだと実感する。だから、わたしは重ねてひとつの約束を交わそう。
「きみが書いた小説に、わたしが挿絵を描くの。約束だよ」
仕事を探しながら、イラストを描けていけたらいいなって考えるようになった。
花蓮さんのお子さんは助けられなかった。けれども、助けようと活動する姿は称賛に値するだろう。追いかける夢だって、きっと同じだから。
わたしたちが普段からしている選択は、ただの偶然なのかもしれない。それでも、お互いの夢を叶えて巡り合うとき、運命になるんだと信じてる。
いつかそんな間柄になれたらいいな。
「ねえ、まだ時間はあるかな?」
もっと話がしたいという歩の提案に、わたしはもちろんと頷いて返す。
これから、<カフェ・サクラ>に案内しよう。


