花蓮さんは素敵な女性だな、つくづく実感する。
 はじめて見た人だったら、もの静かな人物という印象を受けるだろう。けれでも、会話をしてみると、誠実な感じがするものだ。色んなものを見て聞いて、積んできた経験をもとに、人生の先輩としてアドバイスを送ってくれる。
 そればかりではないと思う。もとから持っている彼女の人となりが素晴らしいんだ。
 
 そんな彼女の姿を太陽の光が照らしている。
 先日まで降っていた雨はきれいさっぱりと上がり、多くの木々に露を残しては光っていた。
 このカフェでも例外はなく、窓から強い日差しがたくさん降り注いでいる。桜の木はいつもより彩り鮮やかな光景を作っていた。
 その木の根元で、花蓮さんは椅子に腰かけている。パールの宝石を思わせる亜麻色の髪。きめ細かに光る白い肌。どこをとっても美しかった。
 わたしはクロッキー帳と彼女の姿を交互に見やる。そして、じっとしていてくださいと声をかけた。
 
 週末である今日、花蓮さんの肖像画を描いている。

 ・・・

 仲直りした証、なのかもしれない。
 そもそもわたしたちがケンカをしたかどうかは微妙なところだけど、仲がより深くなったのは事実だと思う。祝福のお祝いとして、花蓮さんから絵を描いてほしいと頼んできた。
 ちなみに、店内は貸切という扱いにしてくれていて、ドアには閉店を示す札がかかっている。
 静かな室内に鉛筆を走らせる音だけが響く。その小気味いいリズムはとても気持ちよくて、まるで鼻歌でも歌っているみたい。
 ふんふーんって、ついわたしも口からこぼしていた。
「なにか楽しそうね」
 彼女の声かけに、わたしは顔を上げずに答えた。
「ひさしぶりだなって思って」
「へえ、なにかしらね」
 こう重ねてくる彼女だけど、もしかしたらわたしが言いたいことを少しは察しているのかもしれない。ふと思う。
「こうやって描くのが。中学生の頃はデッサンばかりでしたし、肖像画を描くなんて思ってなくて......」
「そうね」
 彼女は小さく頷く。そして続きを話してくれた。
「画家の多くだって、たとえ油絵だけをやっていたわけじゃない。私の部屋にはだまし絵のジグソーパズルを飾っていたりするけど、その人物だって最初は映画のポスターをやって腕を磨いていたわ」
 へえ、思わずこちらが頷いた。
「だから、きみが小さい頃から思い描いていた夢があったとしても、これから変わっていくのよ」
 オリンピック選手なんて夢に一筋なんだろうな、わたしはふと思う。そんなことが血となり肉となるのは一握りの人間だけなのかもしれない。
「じゃあ、今考えてることは、無駄だってことなんですか?」
 多くの子が疑問に思っていることだろう。たとえば、彼は小説家としてデビューできないのかもしれない。それは悲しいことだ。
「ちがうよ、未香(みか)。たくさんやりたいことを夢見ていいんだよ。色んなことを見て聞いて、その中で最後にひとつ、決めてほしい」
「......でも、わたし。来年の講座をやっと決めたばかりですし」
「将来のために、必要なことも必要じゃないことだってある。だから、たとえ大人になったって人生を立ち止まったりするんだ。その時に色んな経験したなって思えればそれでいい」
 進路指導室のことを思い出していた。
 小説を書くのは難しい。だから歩は大学に行くよう勧められたんだっけ。
 彼もその気で、色んなパンフレットを開いては閉じていた。そういえば、あの中に専門学校のものはひとつもなかった気がする。
 あれは、彼なりに多種多様な経験をしたいからっていう現れなのかもしれない。
 それに、このカフェだってもしかしたら大学を卒業してすぐに開店したわけじゃないかもしれない。
 わたしは、夢をあきらめないみんなの姿に羨望の気持ちでいっぱいだった。
 花蓮さんは、またひとつ頷いて語ってくれた。
「......だから、今やりたいことだけで十分だよ。だから私は応援したくなるの」
「うん、ありがとう」
 わたしも頷きを返す頃には下書きができていた。

 ・・・

 この店内の中に作られているのは、いつくしむべきやさしさ。
 あたたかい感覚に包まれて、だいぶリラックスしている。わたしは昔のことを話しだしていた。
「小さい頃から、わたしは絵を描くことが好きでした。気がついたらクレヨンと画用紙を手に取っていたと親が言ってました」
 花蓮さんはなにも言わない。背筋を伸ばしたまま、話を聞く姿勢を作っている。
「それが次第に漫画や塗り絵の下絵を模写するようになって、次第に色鉛筆で絵を描くようになりました」
「そうだったの。......じゃあ、ほとんど自己流といってよいのかしら?」
「そうかもしれませんね」
 今は道具を鉛筆から持ち替えている。
 下絵の上に色鉛筆でなぞっていくスタイルは、おそらくわたしだけだろう。もし将来にイラストの世界に飛び込んでみたら、少しはいるかもしれないけれど、そしたら技術で勝負するものだと思っている。
「小さい頃はほんとうにわたしの好きに描いているだけでした。それがデッサンをするようになると、なにか違和感を感じてしまって」
「そう、それで今は美術部に入っていないんだ」
「最初はだいぶ迷いましたけど、今はこれが正解なのかなって思っています」
 彼女の相づちに、わたしは頷いて返した。
「今思うと、ほんとうに無邪気に描いていったのって小学生までだったなって。近くの公園でよく風景を描いてました。昼過ぎに行っても夕方に行っても、表情が変わってて面白いなって思ってて」
 弱い身体と相談しながらだったから、毎日描きに行くことは大変だった。ずっと晴れる日を楽しみにしていた。
 今ではだいぶ忘れてしまったけど、空の色でだいぶ印象が変わっていたんだっけ。
 
 もうひとつ思い出したことがあった。
 わたしは小さい頃に、イラストをたくさん描いていたっけ。家にだれも使わないハガキくらいの大きさの紙があって、それをまとめてもらっては、色んなことを描いていた。
 その題材は、わたしが見たもの、聞いたもの。
 ベッドの上での楽しさを共感したくって、それが唯一の贈り物だったんだ......。
 
 多彩なグラデーションが描けるから、わたしはやはり色鉛筆画が好きだな。

 ・・・

 やっと完成した肖像画を、花蓮さんに渡した。
「ねえ、未香(みか)。もしかしたら、きみは自分のスタイルを磨くべきかもしれない」
 ......え、なんでだろう。油絵みたいな例えを出したのは、色んな絵を描いた方がいいというアドバイスをしてくれたと思っていた。
「そんなの、考えもしませんでした」
「この画風は、この絵は。きみにしか描けないんだから」
「そ、そんなことはないですって......」
 ......でも、でも。わたしより上手な画家はたくさんいると思うのに。腕を磨くから美術の学校があると思うのに。わたしは慌ててそっぽを向いた。
 ひと呼吸おいて、花蓮さんが素敵な一言を添えてくれるとは思わなかった。
「だって、この絵は私より何倍も美人よ」
 その言葉を聞いたわたしは、つい真顔になって、そして吹き出すようにして笑い出した。
 ああ、こらえるものをがまんできない。
 桜の木を見上げる。照れ隠しのつもりだったのに、もうだめだった。
 ......頬をひとすじのうれし涙が流れていった。

 カフェの前で花蓮さんと手を振った。
 美しい女性をを描いた肖像画はバインダーに挟んで、今は彼女に腕の中に収められている。その姿を見ていると、ああ今日は来てよかったなと思う。
「じゃあね。今日はありがとう未香(みか)
 花蓮さんがわたしの名前を呼ぶときの声色が好きだ。
 恋とも愛とも言い表せそうな言い方が優しくて、だからわたしは安心したような、あたたかい海で漂っているような気持ちにさせてくれる。
 その関係がずっと続けばいいなと思っている。
「わたしこそありがとうございます。だから、花蓮さん。ずっと生きていてください」
 声をかけられた彼女はずっと目を丸くしている。
「見てれば分かります。あなたの腕の傷をもうこれ以上傷つけないでください」
 真剣な眼差しに、彼女も折れたようだったのね。
「......気づいていたのね」
「ええ。気がついたのは、今日だったのですが。貴方には何かあると思っていました。それが川での出来事を話した日から、もしかしたらと思って......」
 彼女の物静かな雰囲気が気になって考えていたことがある。
 最初は話を聞く立場だからと考えていたけれど、そうじゃなかった。人生の幸せのあとで見えてしまう影に、気づいてしまったから。影踏みされたら動けなかったから。
 まっくらが彼女を支配していたんだ。
「貴女のお子さんは、今も生きています。心の中で」
 だから、わたしが照らしてあげていたらいいな。

 ・・・

 わたしは、わたしのやりたいことを見つけていた。
 それはわたしに贈られたプレゼントへのお返し。
 
 幼い頃の楽しみを、なんで忘れてしまったんだろう......。