鳩が飛んでいる。
 頭上を過ぎ去っていく姿に気づいたわたしは、足を止めて顔を上げた。
 雲ひとつない青い空に一羽だけという光景にしばし目をやる。鳩は太陽に照らされて、優雅とも健気ともとれる雰囲気をだしていた。
 両手を天にかかげてみる。空に向かって手を開いて、そしたら、親指と人差し指をつかって大きな長方形を作ってみる。その枠の中に鳩を収めてみた。
 ......なんだか代わり映えしないな。
 カメラレンズを通してみても、筆やペンを走らせてみても。あまりにも単調で、題材としてはいまいち印象が薄い気がした。
 いや、こういうありきたりなのがいいんだという人がいるかもしれない。でも、わたしとしてはいまいち実感できなかった。鳩なんて昨日も見たと思うし、毎日同じような景色を楽しむ感性がよく分からないし。
 小さい頃はよく考えていたと思うけれど、いつの間にか忘れてしまった。
 そんな人がいたとしたら、ちょっと会ってみたいなと思う。
 
 もう鳩の姿は見えなくなっていた。
 わたしはそっと問いかける、きみはなんのために飛んでいるんだろう。

 ・・・

「......おはよー」
 教室の扉を開けるなり、わたしは声をかけた。
 近くにいた子がわたしの声に答えてくれる。別に教室に入ったタイミングで挨拶をする人はいないと思う。ただなんとなく、自分がそうしようかなって思っているだけで。
 わたしがマフラーを外していると、こちらに向けている視線に気づいた。クラスメイトの(あん)ちゃんだ。
 なんだろう、またいつものような頼みごとだろうか。
未香(みか)、ごめん!」
 彼女は顔の前で手を合わせて、わたしに向かって上目遣いの瞳を浮かべる。
 やっぱりかあ。心の中に言葉を封じ込めて、彼女が次に言いそうな言葉をかけてみる。
「で、どの教科なの。数学? 英語?」
「数学だよう......」
 わかった、とわたしは鞄からノートを出してきた。はいどうぞと差し出すと、彼女は勢いよくノートを開いて自分の回答を写しだした。
 わたしは杏ちゃんの様子をそっと見つめる。焦ってノートを写すくらいなら昨日のうちに宿題をやっておけばいいのにと思いつつも、彼女には言わないでおく。
 うつむいてる彼女の姿を上からながめる感じになった。
 いつも毛先を広げて整えているヘアスタイルが目についた。癖のある毛並みとか言ってたっけ。あくまで校則の範囲内で染めているのもなんだか彼女らしい。ただ単純なショートカットなわたしとはだいぶちがう。
 彼女が書き上げるのを待ちつつ、窓の方を向いてみる。
 ここから見える校庭はうっすらと雪が積もっていた。今日のあたたかい陽気に包まれて、午後には溶けてしまうだろう。
 ちょうどトラックでは陸上部がスタートの練習をしていた。活気のある声は朝方にはあまり聞こえないけれど、放課後になるとこちらまでよく届く。
 盛んな運動部の様子を見ていると、朝も放課後も毎日がんばっているなあと感心してしまう。
 ようやく杏ちゃんがノートを書き終えた。また顔の前に手を合わせて謝ってきた。
「いやあ、ほんとごめん! 今度スタバおごるから」
「いいって気にしなくて」
 彼女は顔を横に振りながら言った。
未香(みか)っていつもがんばってるよね。毎日ちゃんと宿題をやっててさ」
「そんなことないよ」
 ほんとうに言葉の通りなのに。困っているから助けてあげるんだ。彼女は宿題を忘れることは多々あるものの、悪気がある訳じゃない。成績だって無事進級できるくらいに不自由はない。
 彼女に手を振って自分の席に戻っていく。
 これが、いつもの光景。

 ・・・

 学校から帰るころにはもう雪は溶けていた。
 やっぱりかと思いつつ、ちょっとだけ感じる汗が季節を教えてくれる。
 数日間続いていた寒波は、ニュースでしきりに今季最大で最後の......なとどうたっていた。さらには降雪にともなう計画的な電車の運休や高速道路の通行止めを繰り返し放送していた。かと思ったら、実際に降った量は騒ぐほどでもなかった。
 昔雪国で生活していた家族はニュースが騒ぎすぎだと言うし、杏ちゃんは雪が積もったら学校休みになるのにって駄々をこねるし。
 そんな感じで始まった今日は朝こそ冷え込んでいたものの、学校に着くころには打って変わっての気温だった。朝のニュースでは寒暖差で体調を崩さないようになどと報じていて、季節の難しさを感じる。
 数日ごとに寒いのも温かいのも繰り返す。そうしてようやく春を迎える。
 これもいつもの光景。
 
 わたしが歩くたびにマフラーがゆれる。
 そのリズムは一定で、まるでメトロノームのように寸分の狂いもない。えんじ色のマフラーは単体で見たら少し派手かもしれないけれど、紺色のブレザーに合わせるととても映えるように見える。
 とくべつこの色が好きなわけじゃない。それに、ファッションも良く分からない。前に杏ちゃんに連れられて洋服やアクセサリーのお店に行ったことがあったけれど、けっきょくなにも買わずじまいだった。
 もうちょっと勉強しなよ、きみはオシャレすると見違えるって。
 彼女に言われたことを思い出す。ほんとうにそうだろうか、まだメイクだって知らないのに。
 マフラーの揺れがぴたりと止まった。わたしが足を止めたからなんだけど、ふとしたことを思い出したからだ。
 ......今日の宿題なんだっけ。
 しょうもないこと。こんなことで足を止めてしまうなんて。けれども、必要なことだった。しばし考えこんだあとで、また数学のほかにも現代文の宿題が出てたなと思い出した。
 数学の先生は反復して問題を解くことが大事だって言っていた。その意見は納得できたとしても、さまざまな教科でもひっきりなしに宿題や課題が出てくる一方だから、内心疲れてしまっている。
 みんな言われたことをこなすだけで精一杯。
 なんのために勉強するのかまったくわからない。
 クラスメイトのみんなはわたしのことを褒めるけれど、自分が困ってしまうからやるだけだった。
 わたしはいつも必死に背伸びしている。もし踏み台から足を滑らせたら、高いところにあるものが取れなかったら。どの教科にしたって勉強してないとすぐに成績は真っ暗の中に落ちてしまう。
 そしたらお母さんになんて顔向けしようか。
 どうしてこの学校を選んだのか、また問われてしまう。それだけはいやだった。
 せっかく、自分で選んだのに......。
 
 "彼"だったらどうするんだろう。
 今度機会があったら聞いてみたいと思った。