杏ちゃんの言っていることはほんとうだと思う。
 でも、わたしの心は晴れなかった。晩ごはんはなかなか喉を通らず、湯船の中でたくさん泣いた。
 スマートフォンにはメッセージが一通も届いていなかった。わたしから送ろうと考えるも、はばかられてしまった。送った方がいいと分かっているのにできなかった。
 もちろん頭の中では付き合っていないと理解しているのに、どうして心はつれない素振りをしてしまうのだろう。もうなにもかもがよく分からなくなっていた。
 彼女への謝罪も彼への不信感も。そしてわたし自身の感情も。すべてがごちゃ混ぜになっている。
 寝たら少しは気が休まるだろうか。でも明日学校で会ったらなんて言おう。顔を背けるだけの関係になってしまったらいやだ。すでに重い雰囲気がわたしにのしかかる。
 それでも、寝ないと明日の朝日はやってこない。仕方なく目をつぶって、またまっくらだと実感する。
 
 もう死ぬことはないだろう。それでもなにか癒してほしかった。
 
 眠りにつく直前、わたしの耳元でなにか声が聞こえてくる気がした。
 まるで、幻聴が鳴るような。
 明るくて抑揚があって、それでいてはっきりと聞き取れる声。花蓮さんだろうか? いや、彼女はもっと深みのある声をする。
 その声は少年のような感じがした。聞いているわたしは次第に安心に包まれていく。恐怖が少しずつ薄れていく。
 そうだよね、きみの声が聞こえることがいちばん嬉しいんだ。

 ・・・

 次の日の朝。
 杏ちゃんとは廊下ですれ違った。お互いになにも言わず、瞳をそらしただけ。
 ただ、それだけだった。
 
 ホームルームでは来週行われる終業式のスケジュールについて話をしている。
 でも、わたしはどの説明も耳に入ってこない。何時までに学校に来れば間に合うか、ただそれだけしかインプットしなかった。
 窓の外では青い空に雲が流れていく。何気ない光景をずっと眺めていた。上の空なんて言葉を思いつきながら、ああわたしのことだと実感する。
 杏ちゃんはなにを言いたかったんだろう。わたしはどんな言葉をかけてあげたらよかったんだろう。
 けっきょく、ランチはひとりで食べた。お弁当箱を仕舞いながら、また改めて空を見上げてみる。ずっとしまい込んでいる考え事を鳩に聞いても、なにも答えてくれなかった。
 
 代わりに口を聞いてくれたのは、歩だった。
 中庭で食べてきたのだろうか、片手にコンビニの袋をぶら下げている。見上げるわたしに、彼はひとつ提案をするのだった。
「......なに?」
「......今日さ、一緒に帰ろうか」

 ・・・

 放課後、わたしたちは教室を後にした。
 何人かのクラスメイトが物珍しさにこちらを見てくるものだから、少し気恥ずかしい。隣を歩く人物の顔をちらりと覗くと、やはり頬を赤く染めていた。
 彼らの中に杏ちゃんの視線もあった。しかしながら、彼女の瞳だけは揺れていた。
 
 やはり学校の外は開放的、なんだと思う。
 あの教室での空気はいたたまれなかった。視線が刺さって痛いし、わたしたちの関係を面白がっていたし。ほんとうに止めてほしかった。
 けれども、外を歩くと次第に落ち着いていくものだ。
 そうして、ひとつの疑問が生まれる。幼なじみだということを誰かに話しただろうか。気になりだしたら仕方ないので、ちょっと尋ねてみた。
「ねえ、わたしたちのことって誰かに言ったことあったっけ?」
「幼なじみってこと?」
「そう。例えば杏ちゃんとかに」
 話してないなと彼が告げる。そういえばわたしも説明したことがなかった。
 それでも、どの話題のことを尋ねているか分かるなんて、歩はすごいと思った。やはり彼とわたしは通じ合うものがあるかもしれない。わたしは嬉しかった。心が舞い上がっていた。勝手に一人で。彼の言葉が打ち消すまで、ずっと。
「それって、なにも必要ないと思うよ。きっと」
 歩がこちらを向いて語り掛ける。
 どういうことだろうか。たった一言でわたしの気持ちは沈んでしまった。
 お互いにしばし顔を見つめたまま。彼の表情は少し真剣だった。
 
 わたしたちは、また歩きだした。今度は無言で。

 ・・・

 電車を降りて、駅前のカフェに入った。
 人ごみが多い時間帯にもかかわらず、いちばん隅の席が空いていた。
 ずっとわたしは緊張していた。真剣な彼の表情を見てしまって、なにか言いたいことがあるんだと直感したから。なにを言われるんだろうとしばし考えては、あの話題しかないだろうとすぐに気づく。
 わたしは責められるのだろう。きっとそうだ。わたしと杏ちゃんはまだ仲直りをしていない。歩は彼女の肩を持った。だからわたしのことを悪者だと告げたい。
 それでも仕方のないことなのかもしれない。
 
 ホットコーヒーを一口飲んだ歩がこちらを見た。
 彼の表情は相変わらず真剣な眼差しだけど、心なしか幾分と緩んでいるようにも見えた。きっと、わたしだからこそ気づく要素。
 てっきり叱られるんだと思っていた。だから、こんな感じになるなんて戸惑ってしまう。
「珍しいって言ってたよ」
 きっと杏ちゃんが歩に打ち明けた話だろう。だからこそ、もっと詳しく聞きたい。彼女と仲直りをする接点を見つけたい。わたしはまっすぐに目線を合わせて話の続きを待った。
「珍しいって、なにが?」
「きみが勉強について、そう強く言っているのが珍しい。それに、驚いてた」
 ......驚いてた。彼女にしてみたらきっとそうなんだろうな。ほんとうに悪いことをしたなと思っている。
「......まあ、本人にはショックもあったけど、自分でも反省したいって言ってたんだ」
「そうなんだ。なんて、言ってたの?」
「私は未香(みか)みたいには頑張れない」
 うつむいてしまった。わたしは頑張るのが当然だと思っていた。それは、過去の経験から、この学校に入ったから。必死に勉強しなければいけないと思い込んでいた。
 杏ちゃんだって必死にこなしているんだ。それなのに、自分のことが当然だと言わんばかり。無理に押しつけてしまったんだ。
「家のことも大変だけど、少しずつなんとかしたいって言ってるからさ、支えてあげられたらいいね」
 そうだね。気の利く彼のことだ、考えていることも口にすることもとても優しい。
 
 ここではじめて紅茶を飲んだ。しかしすでに冷めてしまっていて、注文した時からだいぶ色も変わってしまっていた。
 <カフェ・サクラ>で飲むのとは品種が違うだけなのかもしれない。もしくはずっと飲んでいなかったから茶葉の渋みがたくさん出てしまったのかもしれない。
 口に含んだ苦みが、わたしの質問を目覚めさせるなんて思いもしなかった。
「......ねえ、杏ちゃんのことを支えてあげるのって、歩じゃないといけないの?」
「誰が考えても、そうじゃないかな」
 わたしの問に、歩は怪訝そうな表情でこちらを見る。
 彼の回答は少なくとも、あの日のことを指していた。それなのに、わたしの心は狭いものだから、彼女を全体的にサポートするものとして考えてしまうんだ。
 こんな曲解が起きているなんて、自分自身でも気づくことはなかった。
 まあ、未香(みか)は宿題をしっかりやってるからね。彼の言葉が、わたしをまたしても暗い闇へと突き落とす。
 彼も杏ちゃんも、わたしが頑張っているとは理解している。
 でも、褒めてくれているのかな。明日になったらまたノートを見せないといけないかな。よくクラスの子はわたしにせがんでくる。みんな同じような言葉で、宿題を写させてって。
 いつしかその言葉がわたしの呪縛になっていた。わたしは人一倍勉強するようになっていた。
 みんなそうなんだ。わたしが"宿題をこなすのが当然だと"思っているから。
 
 それは目の前の人物だってそうだった。
 どうして、無視されるんだろう。
 
 気がついたら、わたしの感情が言葉になって漏れ出していた。
「......ねえ、どうしてなの?」
未香(みか)、どうした?」
 震えているわたしの身体を、口元を見た歩が心配して声をかけてくれる。
 どうしたのという返しを聞いたかどうか、わたしは食い気味に早口で答えてしまっていた。
「毎日頑張っているのに、どうしてなの......。どうして、頑張ったって言ってくれないの?」
未香(みか)、どういうこと......?」
「どういうこともなにもないわよ! それに、......なんできみは置いていくの?」
「別に置いていったことはないけど」
「わたしはいつだってきみを......」
 ここで、瞳に溜まる水滴に気づいた。歩が気づいたかは分からないけれど、もうわたしのことを見てほしくなかった。頬を流れる涙も、必死に勉強を追い込んでいた姿も。
 
 力任せにテーブルに手をついて立ち上がる。そのまま店内を後にしてしまった。
 呼び止める声は聞こえていたのに、理解しようとしていなかった。
 
 わたしはいつだってきみを追いかけていた。
 それも、たった今日までだった。歩が振り向いてくれないなら、わたしから走るのを止めてしまおう。
 
 空にはきれいな夕焼けが見えていた。
 全体的にオレンジ色なんだけど、ところどころにちがう色が見えている。
 わたしはほとんど黒色が支配しているように思えた。でも、歩はまだオレンジ色を指さすかもしれない。
 見た目の感じる色が違うみたいに、わたしたちは違っているんだ。

 ・・・

 そんな悲しい顔をしないのよ。
 <カフェ・サクラ>の店内で花蓮さんが声をかける。
「ボタンの掛け違いなんでしょう? きっとだいじょうぶだよ」
 彼女はそう言って、わたしのことを抱きしめてくれる。身体を包み込むあたたかさが、わたしの想いを目覚めさせていた。
「ありがとうございます。わたし、歩のことを彼氏だったらいいなと思ってたんです」
 わたし自身がつぶやいた台詞が、わたし自身を目覚めさせた。――恋を、しているんだ。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
 花蓮さんの瞳は、楽しそうに笑っていた。